天使に恋をしたら・・・ ...angel

 

 

離婚しよう - 2001年10月31日(水)

ドクターと話せない。

わたしはバカだ。何度も電話して、電話して、いてくれないのに、しつこく電話して。
またメッセージ残した。「もう泣かないから、電話して。話したいの。電話してください」って。よけいに嫌われちゃうよ。そんなこと言って。

わたし、知ってる。この間、電話かけてきてた女の子。ドクターは楽しそうに話してた。今の病院で知り合った人なんだ。仕事の話してた。それから、ハロウィーンパーティの話も。「僕にとって、ここでの最後のハロウィーンになるから」って、そんなこと言ってた。会ってるのかな。その人と。一緒にパーティに行ってるのかな。

ずっと前、わたしに話してくれた。ここで毎年やってるハロウィーンの大きなパレードのこと。2回目に会ったときだったかなあ。わたし、連れてって欲しいと思ってた。連れてってくれると思ってた。連れてってくれたら、黒猫になろうって考えてた。ドクターは何になるのかなって。何が似合うかなって。ずっと先のことだったのに、今日がハロウィーン。

男はひとりで考える時間が必要らしい。女は話をしながら解決したいけど、男にはそれが出来ないらしい。教えてくれた人がいた。きっとドクターは今、考えてるんだって。わたしが隠してたことなんかなんでもない、わたしそのものが好きなんだ、バックグラウンドなんか関係ないんだって、きっとドクターはそのことに気づくよって。

わかんない。それほどわたしはドクターにとって、大きな存在じゃなかったかもしれない。わかんない。でも、あの時もあの時もあの時もあの時も、ちゃんとドクターの想いが伝わった。わたしを好きでいてくれた。大切に思ってくれてた。

待ってればいいの? 待ってなくちゃいけないの? 今はいくら話がしたくても、聞いてくれないの? 


「何がそんなに怖いの?」って聞いてた。思い出した。「自分が悪いことしてること?」って笑いながら言った。あのとき意味がわからなかった。「あなたが離れて行っちゃうのが怖い」。わたしはそう答えた。そのあとだ。「こんな関係はよくないよ」ってドクターが言ったのは。悪いことってなに? 何か誤解してる? 隠してたことなんかじゃないって言ってたと思う。離婚してることなんか関係ないって言ってたと思う。わからない。なんで、わからないの? ただの友だちでいようって言われただけで、わたしったら気が動転しちゃって、ちゃんと話が聞けなかったんだ。

待ってたら、どんどん離れて行っちゃうよ。その前にちゃんと話したいよ。もう気持ちが戻らなくても、大切に思ってくれなくても、わたし、何もかも話したい。謝りたい。どれだけドクターの存在がわたしにとって大切だったか、わかって欲しい。今じゃなきゃだめ。違うの? 間違ってるの?


あの日、帰ってからあの人に電話したあと、夫から電話があった。クリスマスにここに来たいって言った。わたしは少し黙ってから、だめだよって言った。「もう会いたくないの? 何かあったの? 元気がない。僕に言えないところで何かあったんだね。やっぱり離婚したほうがいい? そう思ってるの?」。途切れ途切れの会話の中で、夫はそう言ってた。「今は何も考えられない」って答えた。だけど、多分夫には伝わった。

離婚しよう。ドクターのためじゃない。自分のために。違う自分になるなんて、何の意味があるんだろう。自分を誤魔化して、なんで幸せになれるんだろう。自分をいつわって、どうやって人を幸せになんかできるだろう。

離婚しよう。もう、誤魔化さないで生きよう。誰にもにせもののわたしなんか、もう見せないでいよう。時間がかかるかもしれないけど、どこにいたって、誰といたって、ありのままで生きられるようになろう。


はじめからやり直したい。はじめてドクターとデートした日から、やり直したい。はじめから、全部ほんとの自分でいたい。

出来ないから、そんなこと出来ないから、せめてもっと遠くに行っちゃう前に、ほんとのわたしを知ってほしい。もう意味がなくても、いい。

だめなの? 今は待たなくちゃいけないの? 待てないよ。待てないよ。どうしたらいいの?




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許して欲しい - 2001年10月30日(火)

明日電話してって言ったくせに、ドクターはかけてもいなかった。何度かけても、いなかった。メッセージを入れたけど、かけてくれなかった。

もう、ほんとにおしまいなんだ。

信じられないよ。昨日会う前に病院から電話したときも、アパートに着いたときも、
あんなに優しかったのに。いつものドクターだったのに。幸せだったのに。

昨日の一日が無くなればいい。
ううん。泣かなきゃよかったんだ。
ううん。「泣かないで」って言われたときに、
いつものわたしみたいにちゃんと笑えばよかったんだ。
ううん。ちゃんと笑っておしゃべりしたのに、
あげたハロウィーンのカードを破らなきゃよかったんだ。
ううん。言いたいこと聞かせてって言われたときに、
全部言えばよかったんだ。
ううん。・・・。

だめだよ。もう遅いよ。戻れないよ。戻りたいよ。戻りたい。

もう、泣かないから、
ちゃんとずっと明るいわたしでいるから、
もう、好きになり過ぎないから、
全部話すから、
今までのこと、みんな謝るから、

もとのドクターに戻って。
戻って。
戻って。
戻って。


昨日、うちに帰ってあの人に電話した。いないことわかってたけど、「お願いだから電話ちょうだい」ってメッセージ入れた。あの人はかけてくれた。
「どうしたの? 何かあった?」
「怒らないで聞いて。」
「うん。何?」
「あたし、ドクターにふられちゃった。」
あの人は少し笑った。わたしも笑った。泣きながら笑った。
「嬉しいんでしょ。」
「ちょっとね。」

「好きだよ。僕がよしよししたげる。」

もう平気になれると思った。あの人が大好きで、大好きで、大好きで、苦しくったってあの人のことだけ愛していようって思った。

病院でも平気だった。患者さん診て、いつもとおんなじに元気になれた。仕事しながら、今日帰ったら電話して、笑いながら言うんだって決めてた。自分の歳も、前にも結婚してたことも、今もほんとはまだ結婚してることも。なんで言うんだろうっても思ったけど、正直になりたかった。ただそれだけ。もうドクターはそんなことどうでもいいのかもしれない。だけど、許して欲しいから。言えなかったこと、許してほしい。それだけ。それだけ。


わたし、それでも期待してた。全部話して、そしたらドクターは笑って許してくれて、何もなかったみたいにまた会ってくれて、アパートからセントラルパークまでいつかみたいに手を繋いで歩いて、葉っぱの雨の中で抱きしめてくれて、あんなに素敵だった時間をまたくれて。あんなに、あんなに素敵だった時間をまた一緒に過ごせて・・・。だけど今度は、ここでは誰も知らないわたしのことちゃんと知ってくれてて、それでも好きでいてくれて。もう先のことなんか考えないから、7月までの半分だけのガールフレンドでいさせてくれて。


そうだった。半分だけのガールフレンドに徹しなきゃって思ってたんだった。なのに、わたし恋人気取りでいたよ。半分だけって自分に言い聞かせながらも、ドクターが要らない愛を勝手に押しつけてた。



ごめんなさい。
ドクターの想いを大事にしなかった。

ごめんなさい。
ごめんなさい。
謝りたい。
許して欲しい。

もう、ごめんなさいも言えないの?





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ふられた - 2001年10月29日(月)

一緒にあの公園に行きたかった。金色に光る葉っぱが舞い落ちる下を、手を繋いで歩きたかった。そして写真をいっぱい撮りたかった。もう一緒に落ち葉の季節を過ごすことはないだろうから、写真にいっぱい残したかった。

発端はわたしのデジカメ。

アパートに着いたら、いつもみたいに抱きしめて迎えてくれた。ずっと会ってなかった分、長いこと長いこと抱きしめてくれた。「ねえ、デジタルカメラ持ってきたんだよ」。バッグから取り出してドクターに見せた。ドクターはわたしのデジカメを手にしてはしゃいだ。これってすごいいいやつ? 何枚保存出来るの? レンズがめちゃくちゃ汚れてるじゃん、掃除してあげるよ。だめだなあ、ちゃんとケアしなきゃ。こういうのはね、手入れをちゃんとしなきゃいけないんだよ。僕も欲しいんだけどさ、高いからなあ。5、600ドルするんだよね、普通ので。

「そうだよ。これ、700ドルくらいかなあ、ドルに直したら」。
「もらったって言ってたよね。誰に?」
「・・・。友だち。」
「・・・日本のボーイフレンド?」
「ボーイフレンドじゃないってば。それにその人じゃないよ、くれたのは。」
「じゃあ、誰? 普通、友だちがそんな高価なものプレゼントしないだろ? おかしいよ。誰?」

ドクターが急に真顔になって聞く。お父さんって誤魔化したけど、ダメだった。怖かったけど、問い詰められて答えた。「別れた夫。」

「・・・きみ、離婚してるの?」
「・・・うん。」

夫が去年のクリスマスにくれた。何かプレセント欲しい?って聞かれて、冗談で「デジカメ」って言ったら、ほんとにくれた。ドクターにもっとほんとのことは言えなかった。「別れた夫」って言っちゃった。離婚してるって言っちゃった。

だけど、問題はそれじゃなかった。わたしが隠してたこと。怖くて泣いた。ちゃんと離婚さえしてないことをまだ隠してるのも怖かった。ずっと怖かった。ずっと逃げてた。怖くて言えなかった。自分はひどい女だと思いながら、言えなかった。言ってそれを受け入れてくれるとは思えなかったから。言ったらドクターが離れてしまうと思ったから。

もうひとつあった。歳のこと。ドクターはわたしの歳を知らない。何度も聞かれて、答えないでいた。冗談にしてからかったり、かまかけて聞き出そうとしたり、そんなことが何度もあったけど、ジョークをいいことに笑ってかわしてた。「僕はきみに正直にしかなれない」。そう言って、別れた恋人のことも女ともだちのことも、ドクターはみんな話してくれたのに。ドクターが誠実で、そんなふうに言いながらわたしにもそれを求めてるのもわかってたのに。

あの人のことは、ドクターは知ってた。好きな人がいて、でもその人がほかの人と結婚しちゃうこと。だけど、こんなに愛してることも、苦しんでたことも、それでドクターに飛びついことも、それでも大好きで、電話で話をしてることも、そんなことは言えなかった。利用してる? 自分でそう認めることも、ドクターにそう思われることも、怖かった。

ずっとずっとこころに重たくのしかかってた自分の不誠実さと、ずるさと、罪悪感に、押しつぶされそうだった。だったら何もかも言えばよかったのに、まだ怖かった。怖くて、ただ怖くて、泣いた。ドクターはそれでも抱きしめてくれた。「泣かないで。きみが泣くことないよ。悪かった。誰だってそんなこと人に簡単には言えやしないよ。僕が聞いたのが悪かった」。着ていたTシャツで涙を拭いてくれた。ずっと拭いてくれた。

そこまで受け入れてくれたのに、自己嫌悪が拭えなかった。ドクターは抱いてくれた。だけどいつもと違うような気がした。それが痛くて、また泣いた。

言えなかった理由はほかにもあった。わたしはここで、別の人間になりたかった。誰も結婚してるなんて知らない。年齢さえ、友だちにも同僚にも言ってない。年齢を言わないのはただそんな歳に見えないからで、言っていちいち驚かれるのにうんざりしてたから。あの人のことも、仲のいい友だち何人かが少しだけ知ってるだけで、話したからと言って苦しさが減ったわけじゃなかった。

ただ、別の、なんにも悩みなんかない無邪気で明るいわたしをずっと装っていたかった。違う自分でいられることで、楽になれた。ドクターにもそうだった。初めからステディな関係を求められてたら、きっとドクターにだけは言ってた。ほんとはありのままのわたしを受け入れて欲しかった。だけど、期限付きで制限付きのガールフレンドでしかいられなくて、シリアスな関係は欲しくないって言ったドクターに、なにもかもぶつけることは出来なかった。出来なかった。どこまで正直になっていいのかも、わからなかった。

泣いてばかりいるわたしにうんざりしたんだ。それだってわかってた。重たい関係なんかドクターは要らない。明るくて、一緒にいて楽しくて、だけど抱きたいくらいには愛しくて、そんなわたしをドクターは好きでいてくれた。この前泣いちゃったときに、もう絶対こんなうじうじはやめようって決めたのに。

「もう、こんな関係はやめよう。普通の友だちでいよう。」
氷みたいな声が聞こえた。

いやだ。いや。どうしてドクターまでそんなこと言うの? 胸が引き裂かれた。

なんで? なんで? 結婚してたこと隠してたから? 歳も言わないから? だって怖かったの。あなたが離れて行っちゃうのが、怖かったの。わかってる。離れて行くなんて、そんな関係じゃない。なんにも約束したわけじゃない。だけど、なんで? なんでそんなこと言うの?

「不自然だよ。おかしいよ。僕はきみのこと何も知らない。歳さえ知らない。何も言ってくれない。こんな関係、普通じゃない。」

ほんとは話したいの。ずっとあなたに悪いって思ってた。ほんとは話したかった。ただ、怖かった。全部話すよ。だから、聞いて。

「今は聞きたくない」「どうして?」「僕は疲れてる。昨日も寝てないし、今は疲れてる。今日は帰りなよ」「いやだ。帰れない。行けない」「行ける。行かなきゃダメ。今度聞くから」。「今度」なんかないって思った。「・・・今度っていつ?」「・・・。明日。明日うちに帰ったら電話して」。

床に座り込んでたわたしは、泣きながら、立ってるドクターのシャツを掴んで名前を呼んだ。何度も呼んだ。捨てられたのにしがみついて離れようとしない、みじめで醜くて引き際を知らないバカな女だった。ドクターは冷たい顔をしてた。それでも抱き起こしてくれた。そしてキスしてくれようとした。

わたしはドクターのくちびるから逃れて、抱きついて泣いた。「もうきっと会ってくれない」。ドクターは抱きしめてくれながら言った。「会うよ」。友だちとして? 友だちなんか、いらないよ。いらないよ。もう、たくさんだよ。好きになっちゃったのに。「会うよ。約束するよ。僕がきみにうそをついたことがある?」。そう、わたしはうそばかりついてたの。


ドアに立って、ドクターは促した。優しいキスをしてくれた。とてもとても優しくて、長いキスだった。最後のキスみたいだった。ほんとに最後みたいだった。「もうキスもしてくれないの?」「わからない、今は」。

押し出されるように、アパートをあとにして、わたしは歩けなかった。

ふられちゃった。バチがあたった。失った。もう、元に戻れない。取り戻せない。



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天使の音楽 - 2001年10月28日(日)

久しぶりに聴かせてくれたあの人の曲は、
とてもとても、とても素敵だった。

「これからこれにメロディーをのせるんだ」って、
わたし、あれがメロディーだと思ってたのに。

自信のある曲だって言ってた。
「この前の曲も、そう言ってたじゃん」。
ちょっとからかった。
「いや、もう今回のはアレを越える」。

わかってるよ。
ひとつずつ、前より素敵なのが出来ていく。

わかってるよ。
だって、ほんとに素敵だった。

いつも、全然違うんだよね。
それで、聴くたびにわたしは驚くの。

「ほんと? ほんとにいいと思ってくれる?」。
あんなに自信たっぷりに聴かせてくれたくせに、
あの人は子どもみたいにわたしに確かめる。

大好きだよ。
あなたの曲が。
あんなに素敵な曲を創るあなたが。

あなたが曲を創り続ける限り、
わたしはあなたへの愛を止められない。

そしてあなたは創り続ける。
だからわたしは愛し続ける。

あの人の曲は、あの人そのもの。
わたしの中の、あの人そのまま。
どんな言葉より、どんな吐息より、
それはわたしのあの人。

ずっとわたしのこころの奥に生き続ける
わたしだけのあの人。

わたしだけにしか愛せないあなた。



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サマータイムの最後の日 - 2001年10月27日(土)

窓から見える駐車場の木のてっぺんが真っ赤に染まってる。青い空と白い雲と赤い葉っぱのコントラストがあったかそうなお昼近く。急いでシャワーを浴びて、出かける用意をした。

外はツーンと寒かった。ヒーターの入っているお部屋にいると、外まであったかそうに見えるんだ。いつもそれで失敗。ニットのロングコートの下の、半袖の腕がスースーした。

初めてここにアパート探しに来たときに、1週間泊まった街。あのホテルはオーナーが変わって、名前も外観も変わっちゃったけど、ひとりぼっちのわたしをいっぱい助けてくれたところ。ちっちゃいけど、おしゃれなお店がたくさんあって、今でもときどき行きたくなる街。今日、髪を切りに行った。

予約したとき、前にカットしてもらったオジサンの名前を忘れちゃって、容貌を説明したけど不安だった。行ったらちゃんとオジサンが迎えてくれた。フランクって名前だった。

「ずいぶん来なかったね。前いつだっけ?」ってフランクおじさんは聞く。そうやって覚えてるふりするんだなあって思いながら、「えっと、5月」って答える。「そうそう、卒業式の日だったね」。へえ、ちゃんと覚えてるんだ。インターンの卒業式の朝だった。あの人がアメリカに来てて、前の晩に電話でおめでとうって言ってくれた。あれから半年も放っておいた髪。「今日はどうするの?」「長さはこのままにしておきたいの。少しだけトリムしてほしい。それでもっといっぱいレイヤーが欲しい」。ドクターのご要望通り、長い髪はとっておく。前はイロイロ注文つけて、切ってくれてる間も、こういうのがいいの、こういうのはイヤなの、ってごちゃごちゃ口出ししたけど、フランクおじさんは「ハイハイ、わかってますよ」って笑いながら予想以上の髪にしてくれた。だから今日は何も言わない。はさみを器用に滑らせて、シャギーなレイヤーを思いっきり入れてくれる。「ソレ好き」「僕も好き」。おかしくって笑う。ここで自分に合った美容師さんに出会うのは難しいのに、フランクおじさんはこんな髪をきれいに見せてくれるほど腕がいい。「素敵になったよ」「ありがとう」。ドクターはなんて言うかなって思いながら、久しぶりの街を歩いた。

バルクフードのお店で、パタックスのカレーペーストの瓶を見つけた。マンゴのチャツネと乾燥コリアンダーも一緒に買った。


秋色に染まった景色を走る車の中で「Let me be your hero」が流れてきて、胸がいっぱいになった。いっぺんにいろんなことを思い出した。あの人のあの言葉もドクターのあの言葉も。 Who is my hero? Who would be my hero?  それはあの人じゃない。ドクターは? Please be my hero. Please....  このまま7月が来ないで。ずっとそばにいて欲しいよ。胸がいっぱいなのに、いろんな思いがまだあとからあとから溢れてきて、溺れそうになる。なつかしい街のせい? 秋色の景色のせい? 甘いメロディーのせい? 切ない歌詞のせい? あの人への想いが苦しい。苦しくて息が出来ないほどなのに、ドクターの可笑しい言葉を思い出して、くすくす笑う。笑ってるのに涙が出る。


今日でサマータイムはおしまい。
時計を1時間戻して、もとの時間になる。おもしろいね。なんでこんなことなら、誰も何も抵抗せずに、反対せずに、疑問も持たずに、当たり前のようにみんなで一緒に出来るんだろうね。みんながひとりずつ時計を戻して、時間を変えちゃうんだよ。

ドクターは1時間余分に寝られるね。オーバーナイトが今日じゃなくてよかったね。だって、そうなら1時間余分に仕事しなくちゃいけない。

あの人との時差がまた1時間増える。あの人がまた遠ざかる。



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罪の意識 - 2001年10月26日(金)

「今度、日曜日に電話するね」って昨日あの人が言った。
金曜日の夜は? 土曜日は? 
「彼女と会うの?」
「会わないよ。」
「うそつかなくていいんだよ。」
「うそなんかつかないよ。」
「彼女のところに泊まるの?」
「泊まらないって。そんなこと最近してない。」
「・・・だって、明日の夜も土曜日も電話出来ないんでしょ?」
「そんな心配しないの。ほんとに会わないって。仕事なんだから。」

試したかったの。知ったらやっぱりまだ苦しくなるかなって。
うそつかなくていいんだって。そう思いながら、うそじゃないって信じてる。よかったって思ってる。自分はあの人に内緒でドクターに抱かれるくせにね。

早くコレを乗り越えたいよ。彼女のこと考えても苦しくならない時が来て欲しい。


「明日電話するよ」。
おととい病院からかけてきてくれたドクターは、少ししか話せなかったからそう言ってくれた。ずっと待ってたけど、電話は鳴らなかった。きっとかけてくれたんだ。またあの人と話してるとき。ずっと待ってて、気がついたらもうドクターは寝てる時間。こっちからもかけられなかった。


今日病院でアナウンスがあった。監査は92%でパスしました、って。前回は97%だったらしいけど、誰もそんなの気にしてない。去年、おんなじシティの病院で、パスしなかったところもあったらしい。アナウンスを聞いて、みんなで拍手した。嬉しかった。一週間の監査が終わって、病院中がほっとしてる。わたしは月曜日から、ICU の病棟二つを持たされる。精神病棟と刑務所病棟はもうお終い。好きだったのにな。ドクターと一緒に仕事した B5 は、このままずっと担当でいられますように。

朝ナースステーションに行くときに、ドクターがいたらいいのにな、ってときどき思う。「どうしたの? なんでいるの?」って聞いたら、「今日一日だけこの病院のローテーションが入ったんだ」ってドクターが笑いながら言って。「言ってくれなかったじゃん」「驚かそうと思ってさ。お昼一緒に食べに行こうか?」「うん、行く! 前連れてってくれたとこがいい!」。なんて、空想癖に浸るわたし。


月曜日、会える。言い訳考えて、一日だけ勤務時間を変えてもらった。オーバーナイト明けで午前中にはドクターは仕事が終わる。

アパートのドアを開けてくれる瞬間が好き。抱きしめてくれる。わたしはドクターの胸で、大きく息を吸う。そして息を止めてドクターの体を感じる。頭のてっぺんから足の先まで、ドクターの温もりが一気に溶け込む。

月曜日のその瞬間を思っただけで、胸がじーんとした。それでまた帰りの高速の出口、見落としちゃった。


「ドクターはなんて電話してきたの?」。
昨日、あの人は気にしてた。
「別に用事じゃなかったの。」
「なんにもないのに、かけてきたの? そういうのが危ない。」

もうね、危なくなんかないんだよ。危ないのは通り越えちゃったから。危なくなくて、安心なんだよ。あなたがくれる痛みが消えるから。


ドクターは、まだ別れた恋人を想うの? 痛みは消えた? まだ消えない? 

あの人の彼女のことが苦しくならない時が来れば、わたし、罪の意識から少しだけ解放されるのかな。


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守ってあげる - 2001年10月24日(水)

ちゃんと上手く出来たよ。
20人くらいの中に座って監査官が来るの待ってる間、
めちゃくちゃ緊張してたけど。
いざ始まっちゃうと度胸座っちゃった。
始まる前に病棟中の患者さんの顔見に行って、
「今日は気分はどうですかあ?」
なんて声かけながら、
ひとりひとりの疾患や病状を思い出してたの。
患者さんの顔見たら、ちょっと落ち着いた。

監査官は筋金入りのおばあちゃんドクター。
怖そうだったけど、りんとして素敵なドクターだった。

何聞かれてもきちんと答えられたよ。
ちゃんと普段から患者さんのこと大事にしてるからね、なんて。

病院のややこしいシステムとかポリシーとか、
ゆうべひとつずつ一生懸命復讐したけど、
そういうの聞かれなかったし。

メディカルレコードも日付まで細かくチェックされなかった。

ドキドキしてたけどね、
ドクターが隣りにいて手を繋いでくれてるみたいだったよ。

ほんとに手を繋いでいてくれてるみたいだったよ。

だから上手く出来た。堂々と話せた。
あとから、ああ言えばよかった、とか、あれも言えばよかった、とかイロイロ思ったけど。

ドクターが守ってくれてるんだって思った。


夜、電話くれた。
「どうだった?」って。


ドクターがわたしを守ってくれてて、
わたしはあなたを守ってて、
あなたは彼女を守ってる。

何かに似てると思わない?
なんだろう?


わたし、あなたのこと、ずっとずっと守ってあげる。


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明日、怖い - 2001年10月23日(火)

怖い。明日は病院の監査の日。ここ2週間くらい、ずっと病院内は緊張してた。わたしもこのところずっと遅くまで残って、メディカルレコードをチェックした。不備がないかどうか。ある。あった。いっぱいあった。3日おきに診なくちゃいけないはずの患者さんを、飛ばしてる。でも、もうどうしようもない。きっと追求される。インタビューもある。評価される。ちゃんと答えられなかったらどうしよう。自分の専門以外わかんないよ。わたしの評価じゃなくて、病棟の評価になるのに。それから病院の評価になるのに。

今日も8時まで残ってて、あの人にモーニングコール出来なかった。「忙しかったら出来なくてもいいよ」って言ってくれてたけど、ちゃんと起きたのかなって心配した。

うちに帰ってからかけたけど、おかけになった国に国際通話が繋がりませんでした、なんてテープの声。もうどっちにしても仕事に行っちゃっただろうな、ってあきらめる。


昨日ドクターがまた電話くれた。ほんとならあの人がかけてくれるはずの時間だった。あの人はお休みで、予定より遅くまで寝てて、待ってたけどなかなかかかってこなかった。やっぱりドクターは、こうやって時々あの人と電話で話す時間にかけてくれてるんだ。

今日もかけてくれた。監査の心配してるの知ってるから。「大丈夫だよ、きみはちゃんと出来る」って、励ましてくれる。何度も言ってくれる。甘い言葉なんかくれないくせに、こういうときにはふにゃふにゃになりそうなくらい、優しい声を聞かせてくれる。一緒に仕事してたときのことを思い出す。いつもそばで支えになってくれてた人。守られてるみたいに、安心して仕事が出来たあの日々。また一緒に仕事したいと思った。

「今日は早く寝なよ」って言った。初めて仕事に行く前の晩、あの人がおんなじこと言ってくれた。おんなじような声だった。なんでもない言葉なのに、ちゃんと伝わるなんでもなくないこころ。

もっと声を聞いていたかった。

もっと声を聞いていたかった。

「大丈夫だからね。わかった?」「早くおやすみよ。わかった?」。
わたしの大好きなドクターの「Okay?」。

あなたの電話のキスほどに優しいよ。
あなたの声も聞きたかったよ。




ああ、やっぱり怖い。
消えてなくなりたいくらい。



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a bad girl on a bad day - 2001年10月21日(日)

bad day だった。
靴磨きしようとしたら、液体のワックスがなかなか出て来ない。プラスティックの容器を思いっきり絞ったとたんに一気にどぼっと溢れ出て、カーペットがまっ黒の液体ワックスまみれ。ジンジャーエールを飲みながら、持って帰って来た仕事をしてたら、置いた缶が倒れて机の上が洪水になって、大事な書類がびしょびしょ。チビたちのごはんを買いに行ったら、帰りに寄ったドラッグストアの駐車場で、エンジンにキーをつけたままロック。AAA を呼んだのはいいけど、2時間近く待たされる。震えながら待ってる間に、誰かが捨てたチューインガムを知らずに踏んづけた。履き慣らそうと思って履いて行ったブランニューの靴・・・。

ついてない一日。ドクターからも電話はない。夜になって、あの人に約束のモーニングコールする。まだ鼻声だったけど、風邪は少しよくなってるみたいだった。「のど痛いから、ちょっとうがいしてきていい?」。そう言って電話を置いたまま、あの人はなかなか戻って来ない。10分くらいバカみたいに待ってた。もしかして、切れちゃってるのかな。そういうことがたまにある。そう思って受話器を置いた途端に電話がなった。「もしもし?」。もー長いうがいなんだからあ、わざとそう言ってやろう思ったら、反応がない。しばらくして、「Hello?」。ドクターの声だった。

「今、何て言ったの?」
「ごめん。日本語しゃべっちゃった。」
「誰か日本から電話かけて来たと思ったの?」
「ううん。そういうわけじゃないんだけど。ごめん。」
慌ててそう言って笑った。

あの人の電話がものすごく気になったけど、ドクターの電話が嬉しかった。あの人はまだもう少しうちにいる。またすぐに話せる。

「いつ帰って来たの?」
「今日。朝電話したんだよ。ずっと話し中だった。」
あの人と電話してた時だ。してくれたんだ。わたしも何度か電話した。でもドクターはいなかった。日曜日だからもう帰ってるだろうなって思ったけど、いないのは誰かと出かけてるからだと思ってた。ずっとうちでフットボール見てたよってドクターは言った。「あたしも3回くらい、かけたんだよ」「なんでメッセージ、残さなかったのさ? ずーっと部屋に閉じこもってたわけじゃないんだから、いなかった時間もあったよ」。

ほんとについてない。かけてくれた時はわたしが話し中で、かけた時はドクターがちょっと部屋を出てた時? ちゃんと話せてたら会えたんだ。

予定を切り上げて早く帰ってくるってのはやめて、結局ドクターは予定通りブラジルにいた。よかった。せっかくの休暇だもの。ずっと心配はしてたけど、楽しかったって言ってた。早く帰って来なくてよかった、ってほんとに思った。嬉しかった。

「あの公園に行きたいな。きっとものすごく綺麗だよ、今」。そう言ったけど、ドクターは今度の土日は仕事で、わたしは3週間後まで平日のお休みはない。またずっと会えないのかな。色の変わった葉っぱが全部落ちてしまう前に、一緒に行きたい。

ドクターは言った。わたしに電話するとき、話し中がすごく多いって。「長い時間?」「そう。何度もかけるけど、ずっと話し中」。あの人との電話といつも重なってるんだ。なんで? 「コールウェイティングにしてないの?」って言われて、つけようかなと思った。

1時間近く話しちゃった。それでもあの人はまだうちにいるってわかってた。切ってから、すぐにあの人にかける。誰かから電話だったの? 誰? 誰さ? ダンナ? 怒んないから言ってごらんよ。言わなかったら怒る。

「またドクターかあ。ドクターと話すのはいいけどさ、それよりものすごく心配したんだよ。電話持ったまま倒れたんじゃないかとか。」
「ごめんね。・・・ドクターと話すのは怒んないの?」
「怒らなくはないけどさ。いや、やっぱり怒る。」

ごめんね。ごめんね。

明日は休みだから、明日たくさん話そってあの人は言った。「朝起こしてくれる? あ、やっぱり僕がかけるよ」「なんで? あー仕返ししようと思ってるんだ。あたしのこと待たせて」「ふふん」「ふふんって何よ。仕返しするの?」「だって僕はめちゃくちゃ心配したんだからね。きみがどうかなっちゃったんだって」「あたしだって、いっつもあなたのこと、そんなふうに心配してるんだよ」「ホントに?」。ほんとだよ。


「なんとか今週会えるように考えるよ」って切る前にドクターは言った。

「あなたが帰って来て嬉しい。」
「僕も帰って来て嬉しいよ。」


どうしよう。このままじゃ、わたしは bad girl。




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もしも、もしももしも - 2001年10月20日(土)

土曜日の午後。
わたしはひとりで近所をうろうろしてみる。ドクターはどこにいるのかわからない。もう帰ってるのか、まだ帰ってないのかも、わからない。

車両を通行止めにした通りではまたハーベストフェアをやってて、たくさん屋台のお店が出てた。オレンジ色のいろんな大きさのパンプキンを売ってたり、子どもたちが顔に絵を描いてもらってたり、そういえばもうすぐハロウィーンだなあって思う。

髪を少し切りに行きたいと思ってて、また行かなかった。あの人は「きみは短いのも似合うよ、きっと」って言ってくれたけど、ドクターは長い髪が好きだから切らないでって言う。ちっとも綺麗だとは思えないわたしの髪を、ドクターは綺麗だって言ってくれる。量が多くてボサボサで、昔っからまっすぐなサラサラヘアに憧れてた。でもこっちの人は、この髪をよく誉めてくれる。黒いけど、艶やかなまっ黒じゃないのに、「すごく綺麗な色だよ」とも言ってくれる。ブロンドやブラウンの髪が羨ましくて「あたしも染めたいなあ」って言うと、みんな「ダメ」って言う。「そんな色、わたしたちはなりたくてもなれないんだからね」って。「ブルーブラックっていうんだよ。すごい素敵な色じゃん」って言われて、そっかあ、ブルーブラックっていうのかあ、なんて、その響きが嬉しかったりする。

みんな誉め上手なんだ。細い体でこっちじゃブラのサイズも見つかんない程なのに、「おっぱい大きくなりたーい」って言うと、「何言ってんの。その体でおっぱいおっきかったら猫背になるよ。アンタはその細いのがいいんじゃん。羨ましいよ」なんて言う。わたしは形のいいふくよかなおっぱいと、おっきくてつんと上向いたカッコイイお尻が羨ましくて仕方ないのに。

そうやって人の個性を見つけて誉めて、自分だけにしかないいいとこもみんなちゃんとわかってて、欠点だなんて思ってない。そういうのっていいなって思う。だからみんながそれぞれに魅力的なんだろうな。


ジャケットなんかいらないくらいの、インディアンサマーだった。
ショウウィンドウに映るボサボサの髪が風に美しくなくなびいてるのを横目で見て、やっぱりちょっとだけトリムしたいなって思った。ドクターががっかりしない程度に。

どこにいるんだろう。いつ会えるんだろう。
コーヒー豆を買ってうちに帰ると、また淋しさが押し寄せる。ブラジルから毎日くれたメールが幻みたいな気がして、確かめるように何度も読み直す。連絡くれるまで待ってようと思ってたのに、またメール送っちゃった。「どこにいるの? 帰ってるなら、どうかメールください」なんて。


夜中にあの人が電話をくれた。ものすごく風邪がひどくなって、早退してきたって言ってた。昨日電話したときに「片方だけ鼻が詰まって苦しい」って言うから、歯磨きコ鼻の穴に塗ると通るよって教えてあげた。ほんとはメンソレータムだけど、持ってないって言うから。アヤシイなって自分でちょっと思ったけど、原理は同じだから大丈夫だろうってテキトーなこと言った。その場で試したあの人は「ホントだ。通った通った」って喜んでたのに。前に送ってあげた風邪用の粉末のハーブティも、電話しながら作って飲んでた。「薬っぽーい」ってオエオエ言いながら、「でもすごい効きそう」って納得してたのに。

近くにいたら、熱い雑炊を作ってあげたい。ずっとそばにいてあげたい。病気になったらあの人は電話をくれる。いつだったか、苦しくて眠れなかったときに言ってた。「うなされて死にそうで、ずっときみに電話したかったよ。でも仕事に行ってる時間だったから」って。そういうときに話したいって思ってくれるんだって、胸がきゅうんとした。どうしたらいいか教えてあげられるからだけかもしれないけど、それでもそんなふうに頼ってくれるなら嬉しいと思った。

ドクターも、気温の高いブラジルから寒くなったここに帰ってきて、風邪引いちゃって寝込んでるのかなとふと思う。もしそうなら、熱いチキンスープを作りに行ってあげたい。そばにいてあげたい。だけど多分、ドクターはわたしが心配してることさえ知らない。


ふたりとも大事。ふたりとも好き。あの人と一緒になっちゃった? あの人が彼女と愛し合ってるみたいには、わたしはドクターと愛し合えないけど。だけど「もしも」って考える。

もしも、ドクターが両腕を広げて受け止めてくれるなら、わたしはその胸に今すぐにでも飛び込む。もしももしも、ここを離れて行くときに、「きみもおいでよ」って言ってくれたなら、わたしは迷わずに一緒に行く。

絶対にどうにもならないあの人の想いとあの人への想いにいつまでも縛られているより、その方がよっぽど自然だよね。たとえその先なんてどうなるかわかんなくたって。

そしたらわたし、可愛くて若くて、きっと素敵なサラサラヘアの彼女のウエディングドレス姿を、隣りで愛おしそうに見つめるあの人に、ここから素直に「おめでとう」って言ってあげられるかもしれない。

わたしはわたしのコンプレックスなところを誉めて好きだって言ってくれるドクターを、あの人が彼女を愛してるみたいに、安心して愛しながら。


でもね、きっとダメ。わかんないけど、多分ダメ。


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つるつるになる石鹸 - 2001年10月18日(木)

火曜日は日曜日の出勤の代休だった。シティに行った。ミッドタウンはまるで何ごともなかったかのように、平和そうに見えた。

用事を済ませてから帰りの駅に向かう途中で、また隠れたところにアウトレット商品を置いてるお店を見つけた。高い家賃の上に、車の修理代とか、心臓に悪い電話代の請求書。ずっと節約してきたご褒美に、って矛盾も甚だしい理由をくっつけてスカートを買った。

おしゃれなドクターが洋服を誉めてくれると、100点取った子どもみたいに嬉しい。猫の肌触りみたいになめらかでしっとりした生地も、黒猫みたいな黒の色も、うんと低いところで腰骨に引っかけるハングの位置も、微妙に広がった裾のラインも、両脇のスリットの量も、仕事にはちょっと無理かなって思う丈も、みんな気に入った。早くドクターに見せてあげたいと思った。

洋服買うときは、いつもあの人のこと考えてた。これ着て空港に迎えに行こうとか、これ着て一緒にクラブに行こうとか。秋にも、クリスマスにも、2月にも、春にも、夏にも、あの人のために特別な洋服が待ってた。輝かしくデビューする機会を失って、全然特別じゃなくなっちゃった洋服たち。


昨日、日本に帰ったあの人が電話をくれた。その前の晩には帰ってたはずなのに、こっちからかけると携帯は切られてた。彼女に会ってるんだって思った。空港で出国の手続きに8時間かかったらしい。チェックが厳しくて、荷物の中身を下着から何からひとつづつ調べられたって言ってた。アメリカの緊張がわかったって言ってた。

「きみにお肌がつるつるになる石鹸、買ってあげたからね。送るよ」。
ホテルの石鹸が汚くて、ドラッグストアに買いに行ったら、お肌がつるんつるんになる石鹸だったって。ホテルの汚い石鹸ってのがよくわかんなかったけど。

つるつるになる石鹸。天使みたいなあの人のお尻を思い出した。

「彼女にも買ってあげたの?」。またわたしはそんなことを聞く。日本に戻ったあの人を、わたしはこころでだけでも独り占めできない。「買わないよ」ってあの人は答えた。少し前ならきっと泣いてた。ほんとにわたしだけに買ってくれたとしても、彼女を愛してるあの人が悲しくて泣いてた。昨日は泣かなかった。悲しかったけど、泣かなかった。

帰って来たばっかりなのに、もう次の朝から仕事に行く。電話は駅までの短い時間だけだった。
「もう着いたよ、駅に。」
「やだ。やだやだやだ。まだ行かないで。」
あの人は笑って言う。
「しばらく見ないうちに、子どもになってるじゃん。」
しばらく見てないうちに? ずーっと見てないじゃん。もう1年半近く。それともあなたも電話のたびに、わたしのこと思い浮かべてくれてるの? 
「だって、いやだ。まだ切っちゃダメ。ダメダメダメー。もうちょっとだけ。ね?」
「困った子だなあ。明日はいっぱい話せるからさ。」
日本に戻ったあの人が、駄々っ子に戻ったわたしをたしなめてる。


ドクターからは火曜日以来メールが来ない。水曜日か木曜日の夜に発つって書いてたけど、どっちなんだろう。今頃飛行機に乗ってるのかな。ナントカって島は観光客を規制してて行けなくて、ラシーフェの海でスキューバダイヴしたらしい。ドルフィンもカメもサメもいなかったけど、めちゃくちゃ平べったいカレイがおもしろかったって書いてた。早く帰ってくるのやめて、まだ潜るの楽しんでるのかもしれない。

週末、会える? でも聞かない。待っていたい。ドクターが言ってくれるまで。あの人になら絶対言うのに。「彼女と会う」って言われたって、「だめ。あたしと会って」って。

つるつるになる石鹸、早く欲しいな。おんなじの買って、ドクターと会う日に使いたい。あなたがくれるのはちゃんと取っとくから。それならいい?

彼女はつるつるのお肌なの?

そんなこと考えながら、わたしはドクターに抱かれたくなってる。


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声 - 2001年10月15日(月)

電話ありがとう。
きみの声が聞けて嬉しかった。
元気?


ドクターは今日も近くのインターネット・カフェからメールをくれた。
いつも10代の子どもたちがたむろしてて、奇声を上げながらなにやら戦闘ゲームに夢中になってる所らしい。BGM に Destinyユs Child の「Survivor」が流れてるよ、なんて、ちょっとシニカルなジョークを書いてた。


「きみの声が聞けて嬉しかった」。
その部分をコピーして拡大してプリントアウトして、壁に貼っておきたいと思った。

メッセージのない留守電が入ってた。
あの人だ。「これから日本に帰るよ」って電話をくれたんだ。なんでメッセージ入れてくれなかったのかな。


「きみの声が聞けて嬉しかった」。
わたしの顔にかかる髪をかきあげるドクターの指。手を繋いで歩いてるときにいきなり抱き寄せるドクターの左腕。タクシーを待つあいだにぎゅうっと抱きしめてくれるドクターのからだ。そんなのをいっぺんに思い出した。

そしてあの人の微笑みが見えた。

なんであの人じゃないんだろう。髪をかきあげてくれるのも、抱き寄せてくれるのも、抱きしめてくれるのも。

目をつぶると、あの人があの微笑みのままで、あの指で、あの腕で、あのからだで、おなじことをしてくれる。ほらね。わたしはいつだって空想の中で、あなたの恋人になれるんだよ。


「きみの声が聞けて嬉しかった」。
そんなこと言ってくれたの、初めてだね。ドクターもあの人とおんなじで、甘い言葉なんてくれないから。返事を書いた。

早く帰って来てくれて、嬉しい。
だって、もうあなたが恋しいよ。
ここはもう、葉っぱが色を変え始めました。
綺麗な秋の色になった木の下を歩きたい。
帰って来たら、あの公園に連れてってね。


あの人は今飛行機の中かな。
ごめんね、電話くれたのに。

・・・わたしの声が聞けなくて、淋しかった? 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          



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もうすぐ元に戻る - 2001年10月14日(日)

電話かけちゃった。ブラジルに。
今日はメールが来てなくて心配した。
帰るなんて昨日書いてたから、もしかしたらもうブラジル発っちゃったのかな、とか、世界一安全だなんて言ってて、なんかあったのかな、とか、イロイロ心配してしまった。

ホテルの人にドクターの名前を言って繋いでもらうようにお願いしたら、「ああ、2号室の人ね」って言った。まだいるんだ。そう思ったらもうそれだけで切りたくなったけど、電話なんかして平気かなって思いながら、待ってた。

ドクターは元気そうだった。
でもやっぱり予定より早く帰ってくるみたいだ。「2号室の人」って言ってたくせに、ホテルの人は間違えてほかのお部屋に繋げちゃって、人のお部屋でドクターは話してた。マンガみたいなホテルだなあって思った。

嬉しかった、声聞けて。
「どうしたの?」ってびっくりして聞くから、「今日メールが来なかったからどうしたのかなと思った」って言った。しょうがないコだと思っただろうな。ちょっとバカしちゃったかな。でもドクターの声だって、嬉しそうだったよ。ほんのちょっとだけ話して切った。人のお部屋だものね。「気をつけてね」って言ったら、あの優しい優しい言い方で、「きみも気をつけて」って言ってくれた。明日からナントカって島に行くのかどうか、聞き忘れた。


今朝、鳴り出した目覚まし時計の音を止めてまたうとうと眠りに戻りかけてたら、あの人からの電話が鳴った。今日も短かかった。でもわたしは寝ぼけてなかった。コレクトコールしてって言ったけど、あの人は公衆電話からコレクトコールする方法がわかんないって言った。説明する時間がもったいないから、しょうがないかって諦める。

あの人はちゃんとニュースを知ってた。こっちの人がとても神経質になってるって言ってた。帰りの飛行機大丈夫かな、なんて、バカなこと言う。「いつ日本に帰るの?」って聞いたら、「あさって」って答えた。それじゃあわかんない。電話をくれたのはあの人の夜中で、そのあさってっていつ? 明日のこと? またちゃんと聞かなかった。

わたしって、ほんとぼーっとしてるんだ。大事なこと、全部聞き忘れる。

あの人の声を聞くと、わたしはとろける。愛おしくてとろける。昨日あんなに怖くって心細かったのに、あの人の声を聞いて、体中の細胞がライトアップされたみたいになった。それから光がきらきら点滅しながら、あたたかさと一緒にこころに染み込んでいった。そしてわたしをとろかせた。あの娘が笑ったときみたいに。あの娘が駆け寄って来たときみたいに。あの娘を抱きしめたときみたいに。


ドクターがもうすぐ帰ってくる。あの人がもうすぐ日本に帰る。あの人がここにいてドクターがここにいなかった一週間。なんだかすごい偶然だなって思う。深い意味があったのかなって思う。わたしの中で何か大事なことが起こったのかもしれないって思う。きっとわたし、見落としてるんだ。気がついてないんだ。ぼーっとしてるから。


さっき窓辺に立って外を見てたら、赤ちゃんを抱っこしたお母さんと荷物を抱えたお父さんが、アパートに帰って来るのが見えた。かわいい赤ちゃんを抱いたあの人の彼女と、その隣りにいるあの人を、ちょっとだけ想像した。自分の過去も思い出した。わたしの将来はどうなってるのかなあって思った。



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世界一安全な場所 - 2001年10月13日(土)

休暇気分がだんだん減っていく。
ここにメールとニュースをチェックしに来るたびに、心配が増す。
世界は一体どうなってしまうんだろう?
僕たちは帰ることを真剣に考えている。
ここは安全だよ。今世界一安全な場所なのかもしれない。
ただ、帰りたいと無性に思う。
何が起こるかわからないこの時期に、
ここでこのまま休暇を過ごしている気になれない。
きみにはずっと連絡するよ。

今日のドクターのメールは悲しくて重たかった。

ニュースを読む。あの炭疽菌の粉が入った郵便物は西でも見つかって、アメリカ全域にわたる可能性をほのめかしてる。「神経質にならないように」などと言いながら、不審な郵便物は開けないことって警告する。テロ組織はイギリスとアメリカに、アフガニスタンへの空爆の報復を宣告した。「警戒するように、注意するように」。何をどうやって? 不安ばかり駆り立ててる。

仕事をしている間は何も考えずに済む。うちに帰ると、全てのこととひとりでいることが怖くなる。

ドクターの胸のざわめきと心配が体中に痛いくらいにわかる。帰って来て欲しい。すごくそう思う。だけど、あんなに楽しみにしてた休暇を台無しにして欲しくない。

ずっと働き過ぎてたんだから、世界一安全な場所で過ごす休暇が今あなたにふさわしいんだよ。
心配しすぎないで、残りの休暇を楽しんでくれるように願ってます。

返事を書いたけど、ドクターの気持ちを思って少し後悔した。


夕べ、遅くに夫に電話した。とても怖くて眠れそうになかったから。夫にはわたしの怖さはわからないみたいだった。アメリカがやったこと、戦争の無意味、大統領のラディン家との過去の関わり、そんなことを並べたててたけど、わたしが聞きたかったのはそんなんじゃなかった。ただわたしはこの恐ろしさを取り除いて欲しかった。途中から夫の話に上の空だった。やっぱりダメなんだと思った。この人じゃないと思った。そんなことわかってたはずなのに、電話をした自分が嫌になった。


明け方近くに電話が鳴った。あの人だった。おじいちゃんは退院出来そうだと言ってた。「あなたは元気なの?」「すごく元気。話したいことがいっぱいあるんだけど」。今回は余分なお金がなくて、切りつめなきゃいけないからって言った。ほんの少ししか話せなかった。「コレクトコールでかけ直して」って言おうと思ったのに、眠気でぼうっとしてるうちに言いそびれた。アップビートな音楽が周りで聞こえてて、あの人の声はそれでもやっぱり近かった。明日のこのくらいの時間にまたかけるよって言ってくれた。嬉しそうな声だった。

あの人は多分こっちのニュースを知らない。知らないでいて欲しい。あの人が日本に帰るまで何も起こらないで欲しい。帰るまで、何も心配しないでいて欲しい。


あの人をすべての心配事から守ってあげたい。
そばにいられなくてもいい。そばで支えてあげられるのはわたしじゃない。
ただ、何も何も悪いことがあの人に起こらないでいて欲しい。

そして、わたしはドクターにそばにいて欲しいと思う。
多分、今、わたしの世界一安全な場所・・・。


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怖くてまた胸がどきどきしてる - 2001年10月12日(金)

今日は仕事がお休みだった。週末のシフトが入ってるから。
済ませなきゃいけない用があってシティに行こうと思ってたのに、途中で財布を忘れて来たことに気がついて引き返して、結局行かなかった。帰ってずっと昼寝をしてた。このごろ仕事がものすごく忙しい。新しい患者さんがどんどん増えて、病室が足らないくらい。毎日時間に追われてる。新規じゃない入院患者さんのフォローアップもたまっていく。きっとその疲れがどっと出たせいだ。目がさめたら夜になってて、ドクターがメールをくれていた。

シティでは気をつけて。炭疽菌のことが心配で仕方がないよ。

テロ事件に関連があるかどうかはまだ捜査中らしい。どっちにしても警告が出されている。どんな形にせよ、新たな攻撃の可能性があるから。バイオ兵器なんて言葉が恐ろしすぎる。またアフガニスタンに続けさまに落とされた空爆。「We hate the Americans」。ニュースで聞いたアフガニスタンの市民の言葉。憎しみが込められてた。ぞくっとするほどだった。もうhateって言葉は使わないようにしようと思った。

仕返しの仕返しの仕返しの仕返し・・・。
どこまで続くの? 

何か起こったらどうすればいいんだろう。わたしはきっと何も出来ない。チビたちを両腕に抱きかかえてじっとうずくまってるしかきっと出来ない。怖い。またあの日みたいな恐ろしさを感じてる。

ドクターは月曜日からナントカって島に行くって書いてた。そこではもう多分、インターネットにアクセス出来ないと思うって。最後にもう一度、気をつけるようにって書いてあった。それから今泊まってるホテルの住所と電話番号。どうしてかわからなかった。でも声が聞けるなら電話したいと思った。


あの人は今どこで何をしてるんだろう。
電話がかかってこない。いつ日本に帰るのか、ちゃんと日にちを聞いてなかった。ここにいる間に話せるのかな。きっと元気でやってるよね。


土日は仕事。忙しくても、患者さんと接するのが嬉しい。まるで違う自分になれる時間。みんなに早く会いたい。





昨日の日記、ごめんなさい。
エンピツさんからメール頂きました。
日本語版のOSでは何もおかしくないって。
そうなんですか? 
あんなタイトル書いたから、いつもより見てくれる人が多かった。
ごめんなさい。
メールくれた人ありがとう。
うそです。一通も来ませんでした。
当たり前か・・・。



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ええ〜ん、誰か教えて〜。なんで〜?? - 2001年10月11日(木)

昨日の日記のレイアウトが変になってるよぉ。
直そうと思ったけど、なおんない!!
教えてください。
どうすれば元に戻るの??

直そうとしてるうちに
無タイトルで昨日の日記がそのまま更新されちゃった。
また同じの読んじゃった人、ごめんなさい。
決してわざとじゃないです。

わ〜ん。
普段、読んでもらってる人完ぺき無視して、ちっとも語りかけてない日記なのに、
こんな時だけ助けを求めて、許してください。
でも、助けて〜。
アホなので何もわかりません。
教えてください。

えっと、
いつもいつも言いたくて、ほったらかしのままになってること。

読んでくださってありがとう。

ほんとに感謝してます。

直し方教えて欲しくて言ってるんじゃないです。
ホントです。

だから、よろしくお願いしますぅ〜。(泣)


angel




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穏やかな気持ち - 2001年10月10日(水)

元気? 僕は今日一日体調壊してて、
やっと回復しかけてるとこだよ。
夕べ飲み過ぎたせいかなあって気がしてる。
実際にはそんなに飲んでないはずなんだけどね。

きみのメールを読むと、そこがとても懐かしくなるよ。


ドクターからメールが来た。
昨日移ったホテルはなんか胡散臭いところで、とても安全とは思えずに、また今日別のところに移ったって書いてた。パックを背負ってホテルを探し回ってるだけみたいで、くたびれてるって。ちょっと元気がなくて、驚いてすぐに返事を送った。  

最後の bye がなつかしいと思った。
病院のギフトショップのところで、笑顔じゃなくて、少し心配そうな顔して言った bye。
ベッドの中から「じゃね、bye」って言うから、わざとまねして「bye」って立ち上がったら、笑いながら「冗談だよ」ってわたしのお尻を叩いたこと。
まるで永遠の別れみたいにいつまでもドクターにしがみついてた休暇の前の日に、アパートの玄関に戻ってくドクターが右手をあげて bye をして見せた優しい顔。

そしてそのあとの自分の名前は、わたしがいつも呼んでる呼び方の名前を書いてた。それが嬉しかった。   


あの人からまだ電話はない。
きっと大変なんだろうな。頑張ってるんだろうな。

あの人がこの国にいて、ドクターがここにいない。
もしもドクターがここにいて、休暇の前みたいにずっとあのまま忙しいまんまメールも電話もなかなか来なかったら、また前のときみたいに毎日泣いてたかもしれないよ。
せっかく近くにいてくれてるのに、声も聞けないあの人のことばかり思って。  

ドクターはブラジルからちゃんとメールをくれて、  
だからわたしは、あの人のことまで安心してる。
あの人がこの国の反対側で一生懸命仕事してるとこ想像して、
頑張ってって応援してる。 

こころのずっとずっと奥のところで、
あの人のこと微笑みながら想ってるわたしがいて、
おんなじわたしがドクターのメールを楽しみに待ってて、
休暇を楽しんでるドクターと、知らないブラジルの風景を、ドキドキしたりワクワクしたり、ハラハラしながら想像してる。  


誰かがくれた贈り物なのかなってふと思う。
近くにいるのに声も聞けなくても、もう、あんなふうに泣かなくていいように。

こんな穏やかな気持ち。わたしのこころの休暇なのかもしれないね。


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いつもと違う朝だった - 2001年10月09日(火)

昨日、あの人が空港から電話をくれた。
「今着いたよー。無事着いたからねー。あ、もう行かなきゃ。置いてかれる。また電話するよ」って慌てて切っちゃったけど。声が近かったね。気がついた? 「また電話する」ってのがいつのことだかわかんないけど、あなたの声がとても近かったよ。安心した。よかった、無事着いて。

休日なのに、何もしなかった。外はとても気持ちよさそうだったけど、どこにも出かけずにぼうっと一日過ごしてた。ドクターも無事着いたかなと思って、Eカードを送った。チビたちの毛をといてやった。洗濯をした。日本と同じ3連休の最後の日。そんな一日だった。

今朝はまるで違う朝だった。
あの人がこの国にいる。それだけで、いつもと違う朝だった。
葉っぱの色が変わりはじめて、風が冷たくて、車を走らせながら、あの人のいるところはどうなのかなって思った。あっちは何時かな、まだ寝てるんだろうな、って3時間しか時差がないのが嬉しくて仕方なかった。

時差じゃなくて、3時間分だけ距離が離れたところにいるみたいに錯覚して、それならいいのに、すぐに会いに行くのに、そんなこと思って笑っちゃった。

時差が3時間って遠いんだ。タイムゾーンを3つ越えなくちゃ行けない。それでも同じ国。陸続きなんだよ。とてもあの人が近くに感じる。悪戦苦闘しながらアメリカ人のスタッフと会話してるとこを想像して、嬉しくなる。おんなじ国で仕事してるんだよ、おんなじくらいの時間帯で仕事してるんだよ、なんて仕事中まで嬉しかった。


帰ったら、ドクターからメールが届いてた。長いメールだった。

カードありがとう! ちゃんと無事に着いたよ。
サンパウロまでの飛行をオサマ・ビン・ラディンの記事を読みながら過ごした。僕は、僕たちがアフガニスタンに空爆を落としたことを知らなかった・・・。


「アメリカが」ではなくて「僕たちが」っていう言葉が、優しくも悲しくもあった。ドクターの「we」をもしも翻訳家の人が訳したなら、「アメリカが」になったんだろうなと思う。わたしには、「戦争だけは起こってほしくない」って言いながら星条旗のピンをシャツの襟に付けたドクターの、自分の国がやってしまったことに対する無念さとか責任の重さとかが、苦しく切なく伝わってきた。

それからはもうそのことには触れてなかった。サンパウロで友だちのアルバートと落ち合って、ラシーフェまで飛んだこと。ラシーフェの街を歩き回って、ビーチ沿いに眺めのいいホテルを見つけてそこに落ち着いたこと。明日はもう少し安いとこ探すこと。ディナーにカニを食べたこと。知ってた? ブラジルってすごい人口の日系人が住んでるんだよ。日本人の顔した人が完ぺきなポルトガル語を話すのを聞くのは、なんかおもしろいよ。そんなことを事細かに書いてた。


きみが元気でやってますように。返事待ってる。

何度も何度も読み返した。嬉しいね、想ってる人から来る長いメール。あの人に自慢したくなっちゃった。「こんな長ーいメールを、あなたからいつも欲しかったんだよ」って。いつかドクターのこと話せるときが来るかな。彼女と暮らすあの人のことをちょっと淋しいと思いながら、あの人もそんな話をするわたしをちょっと淋しいと思いながら、それでも特別な友だちでいられる、そんなとき。

あの人は今何をしてるのかな。
電話を待ち続けて眠れない日を、もう今度は過ごさない。頑張ってるあの人をちゃんと応援する。素敵なミックスしてもらって、いい曲になって、いいレコーディングが出来ますように。


今からドクターに、わたしも長い返事を書こう。


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飛行機 - 2001年10月07日(日)

朝まで仕事をしたあと、今日ドクターはブラジルに飛んだ。

朝までうち合わせをして、明日あの人がアメリカに来る飛行機に乗る。

地図を見たら、ブラジルはあの人が来るところより、ここから遠かった。
ドクターがあの人より遠いところに行く。
あの人がまた3時間しか時差のないところまで来てくれる。
淋しい? 嬉しい? 

あの人が来るのが嬉しい。

前に来たのは、ふたりが知り合って一年の記念日だった。
あの日、アメリカに来る前の晩、あの人は彼女と一緒に過ごした。
「彼女と会うの?」。昨日聞いたら、おじいちゃんのことがあってそれどころじゃないって言った。「行く前に会おうって言ってたけど」。聞いたのはわたしだけど、聞きたくないことまで言うあの人。胸がずきんと痛んだ。またゆうべ彼女と一晩過ごしてたら、一緒にいる二人を思って、わたしは前とおんなじくらいに苦しかった?
あれからちょうど5ヶ月。


1年と5ヶ月。
想い合う月日だけが流れて、会った日の数は変わらないね。
5日の数字は変わらないけど、変わったことはある。
あなたが彼女との結婚を決めたことと、そのせいでわたしの胸がいつもキリキリ痛くなったこと。
わたしがドクターに出会ったことと、そのおかげで胸のキリキリが少し減ったこと。
そしてあなたに秘密が出来たこと。
だけど、天使を愛するこころは変わらないよ。
愛おしくて愛おしくて愛おしくて、こころの一番深いところで大切な大切な人。


いつもよりずっと近くにいてくれるのが嬉しい。
だけど前の時ほどこころが踊らないのは、
アメリカに来てくれてもやっぱり会えないからじゃなくて、
ドクターのせいでもなくて、
今度は一週間しかいないからでもなくて、
前より忙しくて電話も殆どしてもらえないからでもなくて、

おじいちゃんの心配をあの人が抱えたままなのと、

それから、この国に来ることそのものが心配なせい。

ここで今何かが起こるとは思えないけど、空気はピリピリしてる。

入国審査も厳しくなってるって聞いてる。
あの人も言ってた。ミュージシャンの機材なんか警戒されて、スピーカーをバラしてまで中をチェックするらしい。それに機材は小さくても機内に持ち込めないかもしれないって。あの人の大事な機材を壊さないで。悪いことが何も起こりませんように。

あの人が着く時間を計算する。月曜日のお昼。ここの夕方。
「着いたら電話して。」
「出来たらする。スタッフが一緒だし、出来るかどうかわかんないけど。」
「だめ。心配だからして。こっちも月曜日、祝日なの。あたし、うちにいるから。」
「わかったよ。だけどもし着いてすぐ出来なくても、その日のうちにはかけるよ。」
「うん。コレクトコールでもいいから、かけてね。」

泣きそうになった。行ってらっしゃいって明るく送り出してあげなきゃって思ったら。「泣いてるの? 笑ってるの? どっち?」って笑われた。「わかってるよ。心配しないで。好きだよ」。会いたいよ。あなたに会いたい。あなたが来るところまで、会いに行きたい。叶わない思いがまたこみ上げて来て、胃のあたりを刺す。


ブラジルには15時間かかるって言ってた。途中でトランジットがあるから。あの人とドクターが同じ雲の上を飛んでる重なる時間がある。そんな、意味のないこと考えた。









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愛してるって言えない - 2001年10月06日(土)

ドクターのお部屋で見つけた本。
「A Return to Love」。
こんなの読むのかなって思って手に取ってみる。
表紙をめくると、ボールペンの手書きの文字。
誰かからの贈り物だ。

最後に書かれた I love you と女の子の名前。
別れた恋人なのかな・・・。

ゆうべ仕事で一睡もしてないドクターは
シーツにくるまってベッドに沈むみたいに眠ってる。
ここにも天使がいる、なんて思ってしまいそうな、
その眠りの中に吸い込まれてしまいたくなるような、
あたたかで穏やかで無防備で罪のない寝顔。

静かな静かな昼下がり。
わたしはベッドから抜け出して、
床に落ちたタンクトップを拾い上げる。

そうっとベッドの隅っこに座って、
本のページをめくる。

愛してるって言えるのは、
こころが開いているからだよね。
受け止めてくれるこころも開いてるのを、知ってるからだよね。

もっとおしゃべりがいっぱいしたかったけど、
夕方からの仕事の時間ぎりぎりまで
ドクターを眠らせておいてあげる。


「今日は車のところまで送ってくれなくていいよ。」
「下まで一緒に行くよ。」
アパートの玄関を出たところで
ドクターはわたしの腕を引き寄せた。
そしてゆっくりゆっくりくちびるを重ねた。
腕を伸ばして背伸びをしてドクターの首に絡みつく。
ドクターはわたしの頭を抱き寄せて
腰を力いっぱい抱きしめてくれる。

「いってらっしゃい。気をつけてね。」
「Okay」
「休暇、うんと楽しんで来てね。」
「I will」
「あたしのこと忘れないでね。」
「Okay」
「ほかの子とセックスしちゃだめだよ。」
ドクターは笑う。
「なんで笑うの? 笑わずに言ってよ。」
「『Okay』」

「淋しくなるよ。」
わたしはドクターの頬に自分の頬をすり寄せる。
ドクターはぎゅうっと腕に力を入れて、
それから何度もわたしの髪を撫でた。
「向こうからメールするから。」
「きっとだよ。」

たった2週間、休暇に行くってだけじゃない。
それなのに。
来年、ドクターがここを離れてしまうとき、
わたしったら一体どうなっちゃうんだろう。

愛してるって言えたら、
つかまえておくことが出来る?
愛してるって言えないから、
どこにも行けない気持ちが息苦しいの?

愛してるんだ、わたし。違うの?
だけど認めたくないんだ。違う?
それともただ甘えていたいだけ?
愛してるのはあの人だけだから?
それともそう思っていたいだけ?

わたしはこころを開けない。
ドクターもこころを開かない。
だから言えない 「I love you」。

だめだよ。
「愛してる」は、いつか、いつの日か、あの人に言う言葉なんだから。



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Beauty Sleep - 2001年10月05日(金)

今日は早く寝よう。
いっぱい眠ろう。
くたびれた顔見せなくていいように。
早起きしてバスタブにつかろう。
からだを磨こう。
綺麗にしよう。
おしゃれもしよう。
また2週間離れてる間に忘れないでいてくれるように。
ずっと思い出してくれるように。


「きみはこれから何するの?」
「わかんない。」
「わかんないの? じゃあね、ビージーズでも聴いて。」
「なんでなんで?」
「いや、また最近好きになって聴いてるからさ。」
「『若葉の頃』が好き。ファースト・オブ・メイ。」
「どれだっけ?」
そう言ってあの人が口ずさむ。
「違うよ、それは『愛はきらめきの中に』じゃん。」
「そっか。じゃあどういうのだっけ?」
今度はわたしが口ずさむ。
途中からあの人も口ずさむ。

全然別のところで、全く時を隔てて、出会って好きになったおんなじ音楽があって、「一緒だね」って笑った思い出に、またひとつ思い出が増える。


おじいちゃんは今日だけの一時退院が出来て、家族でお食事するって言った。
安心してたあの人。「大丈夫だよ。きみが大丈夫って言ってくれたから。大丈夫なんでしょ?」「そうだよ。大丈夫よ」。


僕にわけを聞かないで。
ただ時が過ぎて行って、
誰かが遠くから奪いにやって来た。

きみはもう僕に時間を聞かない。
でも僕たちの愛は決して死なない。

僕はひとつひとつ思い出す。
きみの頬にキスした日を。
きみが僕のものだった日を。

ただ時が過ぎて行って、
誰かが遠くから奪いにやって来た。

きみはもう僕に時間を聞かない。
でも僕たちの愛は決して死なない。


こんなにこんなに大事なのに、わたしは別の人のところに行く。
そう思ってから、遠いいつかのあの人の言葉が聞こえた。
「こんなにきみが好きなのに、僕は別の人と結婚しようとしてる。」


早く寝よう。
「美しくいるために早く寝なさい」。
ドクターが笑ってジョークにした言葉を、ドクターのために実践する。



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100パーセント - 2001年10月04日(木)

昨日、仕事が終わってから、オフィスからドクターに電話した。留守電になってたから、「ドクターのバカ」って日本語でメッセージ入れた。

今日はお昼休みに電話した。しつこいよ。わかってるよ。だけど、止められない。一回目はまた留守電になってて、お昼休みの終わりかけにまたかけたら、取ってくれた。寝てた。「ごめん。また起こしちゃった?」。「いいよ・・・」って言いながら、殆ど寝てるみたいだった。「ごめんね、切るよ。寝てちょうだい」って言ったら、すんなり「Talk to you later」。え? ほんとに切るんだ。「あとで電話していいの?」って聞いたら「うん、夜かけて。病院にペイジして」って言ってくれた。午後からの仕事が嬉しかった。

うちに帰って、あの人に電話する時間を待ってたら、電話が鳴った。絶対あの人だと思ったのに、ドクターだった。「ごめんね、お昼。めちゃくちゃ疲れてたから」「もう元気になったの? 今どこ? 病院?」「もうすぐ出るとこ。きみは元気?」。ドクターは「元気?」をまた何回も聞く。お決まりの言い方じゃなくて、とても優しい言い方で。それから、仕事のことも病院のこともいっぱい聞いてくれた。

「昨日、メッセージ残したんだよ。聞いた?」「聞いたよ。何て言ったの?」「知りたい?」「うん」。「『Dumb Kenny』って言ったの」「『Dumb Kenny』? ・・・そんなこと言うなよ、僕に。いい子でいてよ、僕には」「・・・ごめんなさい。だって、話したかったんだもん。なのに電話もくれないし、メールもくれないし」。甘えて言っちゃったのを消すみたいに、「今日も忙しいの? 忙しくなるの? ねえ、旅行に行くのは土曜日だっけ? 日曜だっけ?」って急いで続ける。

「仕事が忙しくなかったら、病院から電話してほしい?」「してほしい」「するよ」「何時でもいいよ」「だめだよ。寝てるとこ起こしたくない」「いいんだって」「きみは美容のための睡眠、ちゃんと取らなきゃだめ」。

「土曜日、会いたい?」「会いたい」「じゃあ、来る? でも4時から仕事なんだよ。それまでなら会える」。

ずるいよ、全部わたしに言わせて。でもいいや。土曜日、会える。切るときに「土曜日さ、朝8時半ごろおいでよ」って言った。

また素敵なスリルだね。朝の8時半に、セキュリティうまくすり抜けて入れるかな。

よかった。よかった。よかった。会える。会える。会える。


電話を切ったら、すぐまた鳴った。ドクターが何か言い忘れたのかなと思ったら、あの人だった。

あの人はわたしの名前を呼んだ。そして「ありがとう」って言った。


ドクターに甘えたいのは本当。
あの人を愛してるのも本当。

どっちも100パーセントなの。ドクターもあの人も、わたしのことは半分でも、わたしは半分ずつがどっちも100パーセントなの。こんな数学、ないよね。でも特別にマルちょうだい。もう苦しいのはいやだよ。今だけでもいいから。少しの間でもいいから。


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ここまで会いに飛んで来て - 2001年10月03日(水)

「アメリカに行く日が近づいて来たよ」。

おじいちゃんは ICU から、病棟の個室に移った。足と腕のケガは大したことなくて、骨にも異常がなくて、だけど頭の中のケガのせいで動けない。記憶もまだおかしいまんま。退院しても・・・。もし退院出来なかったら・・・。そんな、これからの家族のことをあの人は淡々と話す。自分にひとつひとつ説明するように。言い聞かせるように。

わたしはまるで、家庭に起こった変化とそれに対処していく方法を母親から聞かされて、なんとなく怖くて自分がだんだん小さく縮まっていくような気がする子どもみたいな、そんなふうになってあの人の話を聞いてた。

ずっと家族なんか無視して、何が起こっても知らん顔して、早くうちから出ていくことばかり考えてた遠い自分も思い出してた。

あの人の優しさも素直さも、平凡で、だからこそ幸せな、そんな家庭のなかで培われたものなんだなって、あらためて思った。そうしてそんな幸せを当たり前のように自分の将来に当てはめて、それは何も意識しなくても本当に当然のことで、そうやってあの人は自分が育ったような穏やかで幸せな家庭を作っていく。


アメリカの仕事、こんなで頑張れるのかなって不安になってるよ、って言った。励ましてあげたかったのに、「会いたいな」って言ったらまた涙がこぼれそうになった。


あの人が来るところと、ドクターが行くブラジルと、どっちが遠いのかなあって思う。ブラジルの方が近いんだよね。たった一週間でも、あの人はドクターと入れ替わりになれないね。


「明日は日本は10月4日でしょ? 天使の日なんだって。」
ほかの人が書いてるのを読んで知ったことを教えてあげる。
「なに? セイシの日?」
「なによ、セイシって。飲むヤツ?」
「そうそう。その発想はおかしいけどね。普通は子どもがどうのとかって言うんじゃないの?」
「精子じゃなくて、天使の日。」
「なんで?」
「10がテンで、4がシだからでしょ。」
「なんだー。ベタな日本の語呂合わせか。アメリカのだと思ったよ。」

いいじゃん、ベタでも。素敵じゃん。あなたの日だよ。


天使。わたしの天使。ここまで会いに飛んで来て。







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お月さん - 2001年10月02日(火)

大きな大きな月だった。
オレンジ色があったかそうで、あの人のこと考えながらずっと見入って運転してたら、高速の出口見落とした。

出口を見落としたから、少し帰りが遅くなって、なんとか間に合った約束の時間に電話した。おじいちゃんは記憶が前後してて、だけどあの人の名前も顔もちゃんと分かっててくれて、よかったって言ってた。肝心の脳内出血の範囲はまだわからないらしい。

夕べはちょっと安心して眠れたよって、まだ疲れた声であの人は言った。名前を呼んで、「大好きだよ」ってわたしは言ってた。

4月のまんまになってたオードリーのカレンダーをめくったら、今日の日付けのところにフルムーンのマークがついてた。


今日のお月さん、見た?
ものすごくおっきくて、あったかそうで綺麗だった。
帰りの車からずっと見てたの。

それだけ。
気がついてないかもしれないと思って、
教えてあげたくなったの。
だけどもう遅いよ。
もう普通のサイズに戻っちゃった。

Have a good full moon night.

p.s. いつ旅行に出発するって言ったんだっけ?
   土曜日? 日曜日? 忘れちゃった。


もう返事くれるまでメールしないって思ってたのに。きっと土曜日に行っちゃうんだ。会えないんだよね。


そんな恋をしてた。まだ10代の頃。つき合ってって言って追いかけてきたのは彼だったのに、いつの間にか、わたしの方が好きになっちゃった。友だちが多くて、忙しくて、会えなくて、どこにいるのかもわかんなくなって、追いかけても追いかけても想いが届かない人のようで、だんだん淋しくなってった。女友だちも多い人だった。

最初に結婚したときも、離婚したときも、次に結婚したときも、あの娘が死んだときも、別居を決めたときも、報告して、

あの日には、「心臓がどきどきしてる。生きてるんだろ? 大丈夫と言ってくれ」ってメールくれた。

バースデーにカードを送ったら、返事が来た。

ひとりで寂しいと思うけど、がんばれよ。
新しい出会いは受け入れること!
いい女なんだからさ。

どきっとした。ドクターのことなんか、何も報告してないのに。寂しいなんても言ってないよ。「いい女なんだからさ」がくすぐったくって、笑っちゃった。報告したいけどね、出来ないんだよ。あの頃とおんなじに、ひとりで追いかけてるみたいになっちゃってるの。

別れたずっとあとで、「きみしかいなかった。特別愛してた」って言ってた。つき合ってるときに言ってくれたらよかったのにって思った。


全然進歩がないね。大人の恋って何? わたしには出来ないよ。ごちゃごちゃ理屈を考えても、いろいろ理由も見つけ出しても、あれこれ言い訳並べ立てても、いつまでたっても好きになる気持ちの中身は一緒。

細い細い三日月の下にぴったり寄り添う赤い星を見つけたら、制服とブランコと「金星だよ」って教えてくれた言葉を思い出すように、オレンジ色の大きな月を見るたびにドクターに送ったメールを思い出すのかな。

あの人は、気がついていませんように。まんまるい月を見るたびに、おじいちゃんを悲しむのは辛すぎる。




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僕の天使 - 2001年10月01日(月)

あの人の声が、昨日よりもっと沈んでた。おじいちゃんの検査の結果がまだわからない。明日はわかりそうだよって言ってたけど、お母さんのときだって、なかなかわからなかった。もどかしいよ。おじいちゃんっ子みたいだから、ものすごく心配してるんだ。ずっと寝てないって言ってた。去年の父の日に、お父さんじゃなくておじいちゃんにケーキ買ってあげてたの、思い出した。

何でもないとか、大したことないっていうのは、ちょっと難しいかもしれないと思う。でも、心配性で優しいあの人が、少しでも安心出来る結果であってほしい。早くICUから普通の病棟に移れて、おじいちゃんにいっぱい会えますように。

家族の気持ちはほんとにつらい。病院って残酷なところだって時々思う。よくなる患者さんばかりじゃない。どんなに手を尽くしても、ダメなことはある。毎日家族が励ましに来てたのに、誰もいないときにひとりで逝っちゃわなきゃいけない人もいる。「死亡」の文字を見るたびに、心臓から何かがザーッと音を立てて落ちていくような気持ちになる。それでも、病院の日常は、普通の顔して過ぎて行く。


患者さんにジェローをあげた。400キロなんていう極度の肥満で、極端なカロリー制限させられてる人。病院の文句ばっかり言って、食事の文句ばっかり言って、悪態つきっぱなしだった彼が、毎日顔出してるうちに変わってきた。どんなに罵られようが「ちゃんと食べた?」「おいしかった?」って頑張ってるうちに、笑ってくれるようになる。今日初めて、「夕食のジェローがおいしかった。夜食にもうひとつちょうだいよ」なんて言ってくれた。疾患に支障がないから大丈夫。だから、帰り際にこっそりあげた。

こっそり差し出して、「あたしは天使なのよ」ってえらそうに言ったら、嬉しそうに大笑いした。「今食べちゃだめよ。ちゃんと夜までとっとくんだよ」「Youユre my angel!」。

ナースじゃないから、白衣の天使じゃないね。白衣は着てるけど、ナースの白衣じゃないし。だけどわたしだって、時には天使になれるよ。あの人みたいに本物じゃなくても。

ドクターがいたら、きっと話してた。「あの患者さんに『僕の天使』って言われたよ」って。「自分が言わせたんじゃん」って笑っただろうな。

昨日メールした。


土曜日の午後、会える?
あなたが旅行に行く前の日。
ダメ? ダメ? ダメ?
「Yes」って言って。
お願い!!
  .
  .
  . 
ありがとう! いひひ。


返事は来ない。


急に寒くなった。先週まで車にクーラーかけてたのに、今日はヒーター入れてた。外は冬の匂いがした。オイルのような匂いと、風の冷たい匂いと、枯れた葉っぱの芯の匂いが、みんな入り混ざった匂い。どこにいても冬の匂いはおんなじ。いつもなつかしい匂い。もう、落ち葉が道路を走る。まだ枯れてないのに、少しだけ黄色くなったから風に落とされちゃった葉っぱたち。

もうすぐクリスマスだね、なんて思う。


おじいちゃんの病気。あの人の心配。泣きそうだった声。電話越しのいつものキス。ドクターの顔。ドクターの声。来ないメール。会えない一ヶ月。冬の匂い。冬の匂い。冬の匂い。冬の匂い。会えなかったクリスマス。会えなかったクリスマス。会えなかったクリスマス。会えなかったクリスマス。


明日も頑張ろ。少しだけ残酷な病院で、なりそこないの天使を演じて。




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