一平さんの隠し味
尼崎の「グリル一平」のマスターが、カウンター越しに語ります。


My追加
目 次過 去未 来


2004年02月27日(金) 第二部  その11



第二部  その11


「仕送り」・・・と言う言葉は最近あまり使われませんが、

なぜ、私が田舎の家へ仕送りしてたのかって言うと、私の父は当時(昭和15)としては珍しくバスの運転手だったそうです。
ある程度、資金を貯めて、小さな工場付きの豆腐屋を始めたんです。結構味もいい評判で長い事やってたみたいですよ。
だけど、高利貸しの知人に借りたお金の返済が延び延びになり最後には払えなくなり、とうとうつぶれてしまいました。 

今でも憶えてるのは、小学校の5・6年生だったと記憶してますが、学校から帰ると、知らないおじさん達が何か「赤い札」を
いろんなところへ、ペタペタと貼っていたのをうっすらと憶えてますが(よく言われる、差し押さえって言うやつです。

もちろん家も差し押さえだから直ぐに高利貸しの人が、出て行ってほしいってと言うことで、夜中・・・祖母・母・子供3人・
全員5名で豆腐屋を後にしたのを憶えています。母は家を出るとき、ずーっと
後ろを振り返りながら泣いてたのを今でも憶えてます。それからとゆうもの兄弟3人で新聞配達・牛乳配達・豆腐配達・・・祖母は着物縫い・・・母は料亭の裏方・・・みんなで家計を助けていくわけで・・・ここで疑問が・・・湧くわけで、何故に5人なのか?父は何処へ?(笑)

なんと父は、事業に失敗して、それからというもの働くのを辞めてしまったわけで・・・家にもほとんど帰らない・・・。
そんな訳で子供3人とも自分の稼ぎで高校まで出るわけです。苦労しっぱなしの母でしたね、母が他界して
もう15年ほどなりますが、あの笑顔だけが鮮明に浮かびます、ほんとうに、やさしい母でした。

せっかく推薦を受けて入った大学も早々と辞めて、とにかく働いて、早く母に「仕送り」せねばと19歳の青年は
必死で働きいつの間にか気が付いたら通帳にたくさんのお金が貯まってたということです。

親方が店をやる気があるのかと聞かれたとき、正直不安でした、が!この今、このチャンスを逃したらもう二度と
ないだろうと考え・・・25歳の若者は!

「やりたいです!やらして下さい!」と・・・言ってしまうんです。


                     さあ!大変ですよーまたこの次











2004年02月23日(月) 第二部  その10



第二部  その10


修行時代も6〜7年経って、私も料理など作るようになってた、ある夜の日・・・

みんな集まるように店の親方から号令がかかった、めずらしい事なので、みんなザワザワ!
親方がみんなの前で・・・。
「ところで、みんなは貯金はどれぐらいあるんかな?」

「・・・・・・」「しーーん」
誰一人、貯金どころか、ほとんどの人が給料を前借りしてて(笑)、みんな下を向いたまま「しーん」

昭和39年頃から、オリンピック・など日本高度成長に入り始め、大阪万博と景気のいい頃もだんだんと
悪くなり、昭和48頃にオイルショックが来て、グリル一平も当時従業員が14人〜15人もいたのですが、
親方も、ここらでおもいきって店をもう一軒、出そうと思っていたそうです。

親方が・・・みんなの通帳をみながら、
「もう一軒、ノレン分けをしようと思ってるが、貯金をしてないんじゃ、商売をする以前の問題やな!」
「ん・・・!この通帳は誰や!・・・」・・・・・・・・(ドキ!)

「こんな大金をどうしたんや!田舎からでも送ってきたのか?」・・・・・・・・(ちがいますよ!)

「いえ・・・毎月二万ずつ貯金してたんですけど・・・」

「二万円って、お前の給料は二万円だよね・・・」   「小遣いは?」

「残業代が小遣いで・・・、」  「毎月90時間ちかくあったんで、何とか」

「確か・・・田舎へ仕送りもしてたよな・・・」      「あ・あ・ ハイ!」
 
「100万もなー   で、小遣いって幾らぐらいあったんや!」・・・

「仕送りした残りで5000円ぐらいはありました。」   「で!5000円ぐらいで足りたんかいな!」

「あ・ハイ!夜の食事は卵を買ってきて寮のご飯に卵ごはんにして・・・」

「・・・わかった!・・・それで店やってみたいんか?」



                これからは、また次の機会に



 






2004年02月09日(月) 番外編  3




番外(スキー)編  3


とんでもない話があるんですけど。

六甲山ご存知ですよね、くねくね曲がった道を登って上がるわけですが、あの道のガードがない道を想像して下さい、
その名は「ウイングヒルズ白鳥」!まだオープンしたてのスキー場でした。

スキーをやり始めてまだ、二年目の滑りたくてたまらない頃、友達二人と息子を乗せて出かけたんです、
その頃は、まだ四駆の車が少ないころで、ほとんどタイヤチェーンを持参してゲレンデへ向かったものでした、

その日は友人に、チョッと古いけど、と、言ってたプラスチックのチェーンを借りて、いざ出発!スキー場が近くになった頃、
チェーン規制にかかり、何とかタイヤにチェーンを付けて山を登りはじめました、くねくねとガードレールのない、すぐに崖下の道を登り、もう直ぐ頂上って時にチェーンがプチッと切れたんです、

とりあえず、切れたチェーンを拾って蛇行運転しながら、そのまま駐車場へ・・・、
みんな滑りたいことが先で、帰りの事なんか誰一人、心配する余裕はなかったのです・・・、

汗いっぱいかいて、みんなでお昼時間のとき食べながら一人がポツリと言ったのです、
「そう言えば、チェーン切れてたよな、帰りどうするん?」「・・・・・・・」
「雪がだんだん、ひどくなってきてるで!」
「売店でチェーンぐらい売ってるやろ!なんとかなるって!」「そんなことより早く滑ろ!」これは私!

そして・・・三時ぐらいになり、みんなで帰ろうとした時、雪がひどくなり、慌てて売店に、
「すみません!チェーンありますか?」  店の人が 不思議そうに・・・・ 「ありませんよ」
「タイヤはスタットレスだったら、まだチェーンは巻かなくても大丈夫ですよ!」と、店の人
「いいえ・・・違うんです、あのーノーマルタイヤなんですけど・・・」と、息子が、 「えええー!」と、店の人

売店を出て、みんな無口になってしまった、・・・車はセドリックのワゴン車でした、
さあー帰るしかありません、みんな笑いもなく、車の中は、とても静かでした・・・。
サイドギヤを引きながら、下りにさしかかったとき、いきなりタイヤが滑りはじめ、蛇行はじめ、ハンドルが・・・

タイヤは回ってない状態でそのまま滑ってました、どんどん加速してゆきます、全身が突っ張って!
全身、汗が吹き出て、後ろの友人二人は「ああああー」「危ない!」「危ない!」「止めよう!」
止めようにも止まらない!だんだん前の車の車間距離が縮まって!サイドをおもいっきり上げると少しは減速した!

すると息子が「お父さん!山側の土手に車を当てながら減速したら!」・・・・・「なるほどいい考え!」
さっそくハンドルを山側に切り横のボデーを当てながら「ズズズズゥー!」「ガガガガァ!」
ボンネットの上には山からの雪がボタボタと落ちてくるし、スピードが出ないように、出ないように!・・・。
 
後ろの車も、前の車がとんでもない事をやらかしてるので、100メーター近く車間距離をとっていました、
僕たちの前の車もバックミラーに写る後景に、恐れをなし、かなりの距離を開けられてました、(笑)
後ろに座ってる友人も顔色がだんだんなくなってゆき、一人が気分が悪いと言い出し、「止めて!」
「止まらへんて!車が勝手に動いてんねんて!」「あかん!反対方向に動きだしたでー!」

車は山側だけでなく反対のガケ側にも、勝手に向かいだし・・・「ああああー」「落ちるうー!」
運がいいのか、1メーター位の高さの雪が積もってて、そこに「ガガガア!」「ハンドル切って!切って」 
「落ちるうー!」  あの時は、本当に落ちるのかなーって思いましたよ、後ろの二人も、もう最後だと
覚悟をしてたそうです・・・谷側の雪のガードレールにボンネットが突き刺さり、そのままの状態が20秒
ほど止まってました、僕が「今だ!ゆっくり降りて!」、うしろが降りようとした時、ボンネットが雪の中から
ずれ出し、雪道にもどりだした、二人はまた、ドアを閉めて後ろで「あああああー」と、大声が始まった!

また山側の壁に「ガガガガー」・・・何回となく繰り返し、繰り返し!えらいもんで恐怖感もいつのまにか
消え去り、気が付いたら下りも最後のカーブにさしかかり、みんなで「着いたー!」「生きてるでー」と、
笑いながら、みんなで握手したり、手を叩いたり、少し広い駐車場に車を止め、全員で後ろの山を
眺めて、なにか感無量な思いが・・・息子が・・・ポツリと、
「あの山を下りて来たんだよなー」「ほんまに死ぬかと思った!」・・・。

何年か経った今でも後ろの二人が店にきます、冬になりスキーシーズンになると必ずこの話題に
なります・・・いまでは笑い話になってますが、あの時、私たちが下から山を見上げてる時、
後ろの二人の内の一人が駐車場のずーっと奥のほうで「ゲーゲー」と吐いてたことは内緒です。



                          またこの次













2004年02月02日(月) 第二部   その9


第二部   その9


会長は立とうとして、隣に座ってる息子さんに止められた、息子さんは父に言った、

「一度も釣ってない一平さんに、またつらい思いをさせる事になるで!」 

会長は・・・

「このチヌ研に一年もいて、一度も釣ってないって、ワシは自分が許されへんのや!何の為のチヌ研なんや!」

「みんなで知恵を出したらなあかんのや!行く度に坊主(一匹も釣れない事)で、辛かったと思う!」

「ずーっと一年間、みんなの釣った事の自慢ばなしばっかり聞いてきたんやで、よく頑張ったと思う!」

息子さんが・・・

「みんなわかってるよ、最近、みんなで一平さんの店に食事に行って帰りに

 は、必ず一平さんを釣らせなあかんで!と、話して帰ってた・・・みんな教

 えたくてウズウズしてたんやで、やっぱり最初のチヌは自分で仕掛けて釣る

 事に意味があるんやと思ってた。みんなそうやで!一平さんの横で釣る人は

 自分の事より一平さんのことが心配でソワソワしてた。こんなこと一平さん

 の前で言いたくなかった・・・」

私は、ガーンと頭を打たれた!自分の商売のことしか考えてなかったし、みん

なが店に来てくれてた事に満足してた自分がとても、恥ずかしい思いがしたの

を、今でも憶えています・・・。

みんな、素晴らしい釣り人たちでした、そんな大きな思いやりの中で楽しませ

てもらった事に今でも感謝しています。

あれから・・・店も人手が足りなくなって、結局、チヌ研を辞めざるえない事

態になってゆきました。

時々、その頃の連中が今でも食事に来てくれます、必ず言うことは・・・

「最初に逃がした、あの・大きなチヌは、あれは、もったいなかった!」


       (ありがとう!忘れないで下さいよ・・・涙)




           またこの次









一平 |MAILHomePage

My追加