TENSEI塵語

2004年07月31日(土) 絶景!

きょうは市吹が休みだった。
練習場の公民館の都合で活動場所を失ったからである。
市吹で振り始めてから14、5年になるが、こんなことははじめてである。
きょうは中日新聞主催の長良川花火大会の日である。
毎年、7月の最終土曜と8月の最初の土曜日は大花火大会の日である。
稀に練習を休ませてもらうことはあったけれど、
たいていは花火を放っておいて練習に出かけるのが基本方針である。
きょうは何の気兼ねもなしに花火大会の夜を過ごせる希有な機会となった。

ところが、東方から珍しい根性の西進を続け(歩くような速度で)、
四国から日本海に抜けた不思議な台風のせいで天気も不安定になり、
朝からずっと曇ってはいたけれど、時々ざぁーーっと雨が降る1日。
心配された花火大会は決行され、私も河畔まで歩いて見に行ったけれど、
途中でシャワーを浴びながら見るはめになった。
しかも、風が弱く風向きも悪かったせいか、
煙が長くその場にとどまって、連発花火がしばしば隠れてしまう。
花火を十分楽しむことはできなかった。

帰宅後、今度は本当のシャワーを浴びてからTVをつけたら、
世界の絶景を紹介する番組をやっていた。

・イタリアの青の洞窟
・カリフォルニア州のヨセミテ(2時間の登山を伴う)
・オリエント急行電車
・ピラミッド
・中国 泰山からの日の出(7千段以上の階段を昇る)

と、どれもこれも魅力にあふれている感じなのだが、
最後のひとつには心底参った。

・ベネズエラのエンジェル・フォール



2004年07月28日(水) イヴェント終了

コンクールの地区大会が終わった。
無事終わって当たり前、トラブったら責任重大というのが、
こういう大会の常識であるが、
無事終わらせるためには半端でない準備が必要である。
10年以上もやってきてもう慣れてきている上に、
去年から運営しながら指揮台に立つことはなくなったので、楽なはずだが、
何日も前から無事開催できるためにさまざまな準備や配慮をしているので、
終わった後の虚脱感は毎度毎度のことである。
胸にぽっかり穴があくのも当然だ。

今年からこんなのがもうひとつ加わるわけだ。
8月8日の県大会の代表選考会(東海大会への決勝大会)でも、
きょうのようにトップで仕切らなければならない。



2004年07月26日(月) 仕事に追われた

朝、まず一昨日会館でもらったホールの平面図を拡大して、
見やすい状態に修正してから、出演者の移動を中心にした
さまざまな注意事項を書き込んで、印刷。
それから、部屋や場所、お願いや注意を掲示する紙を大量に印刷。

これで午前中は満タン。
昼食に出て、新聞と、昨日の本を少し読む。

また学校に戻り、創立30周年記念誌で頼まれている資料ページの作成。
今朝になって、明後日までにできないか、と言われたって困るんだよね。
きょうで数日がかりの資料ができたので、印刷しようと思って
カラープリンターの在処を尋ねたら、要領を得ないので徒労に終わる。
それは帰ってからやることにして、、、

午前中に作ったものを、事務局に届けておこうと、
市の最南端にある学校まで走った。
戻ったらもう4時。
アナウンス原稿を整理しているうちに、帰宅時間になった。

帰り道で、喫茶店で40分ほど休憩して、昨日の本を読みふける。

夕食後、アナウンス原稿を完成し、事務局の連絡原稿も整理し、
成績不振者の補充課題や追試験を作り、
記念誌の資料をカラー印刷してみて修正したり、、、
もう眼が霞んでしまった。限界だ。。。

その代わり、明日はラクだ。



2004年07月25日(日) この夏の課題

まず「マグダラとヨハネのミステリー」と題する本が届いた。
怪しげな題名である。
ダ・ヴィンチの最後の晩餐や岩窟の聖母に秘められたメッセージの
解読から始まっている。
最後の晩餐についての解読は、「ダ・ヴィンチ・コード」とほぼ同じだ。
それから、南フランスに根強いマグダラのマリア信仰に話が及び、
11〜12世紀のアルビジョア十字軍による、カタリ派撲滅のための
ラングドック地域での大虐殺行動についての考察がある。

詳しいことは明日まとめよう。今夜はもう遅い。

この夏は、非常に関心の深い課題ができたので、たいへんうれしい。
私は中学時代から福音書に描かれたイエスの大ファンだったが、
そして、そのイエスの言葉を中心に信仰について考えてきたが、
それとはまったく別の次元で、実際のイエスの生活がどういうものだったか、
という関心を長年抱いてきた。
イエス・キリストにどれだけ敬意を払おうと、私にとっては彼は
神の子でなく、ひとりの思想家か革命家であった。
けれども、それ以上に進むための入り口がなかなか見つからないでいた。
入り口は何でもいい。
とにかく、こういう新しい推論に耳を傾けてみよう。



2004年07月24日(土) コンクール会場の下見

昨夜は書いてるうちに睡魔に襲われ、睡魔と闘いながら塵語を閉じたらしい。
やっつけ仕事みたいに終わっていたので、ちょっと書き直しておいた。

今朝になってふと思いついて、稲沢のホールに走った。
例年、大ホールの他に小ホールも借りて、楽器置き場と自由な音出しの場、
そして、出演生徒の移動の便を良くしていたのだが、
今年はその小ホールが借りられなかった。
その対策はすでに立ててあったのだけれど、
実際に見て確認しておく必要を急に思いついたのだ。
きょうは、中学校の小編成の大会を開いている。
昨日そのことに気づいたときには、こんなことを考えはしなかった。
今朝、コンクールの貼り紙の印刷をしようとして、
大ホールの中だけで動かすために、配慮したおくべきことは何か、
実際に目で見て点検することを思いついたのだ。

実際に見に行って、想像と違って困ったのは楽器置き場だった。
例年小ホールに置いてもらっている大量の楽器を、
ロビー(ホワイエと呼んでいる会館も多い)に置いてもらえばいい、
昔はそれが当たり前だった、と決めていたのだが、
この会館は、客席はこの地域ではもっtも多く広いホールなのに、
ロビーは意外に狭く、しかも高級感を出すべく趣向が凝らしてある。
それで、ロビーに置いてもらう楽器を減らすべく、
主催者側からのお願い項目を増やす必要が生じた。
打楽器はすべて舞台袖に置くことと、1番大きな管楽器であるチューバは、
楽屋の練習室の空いた一室にまとめて置いてもらうというお願いである。

おおぜいの人間を動かすためには、想像の中での名案に喜んではいけない。
県教委なんかは、一瞬のひらめきで、現場を思いやることもなく、
想像の中で良さそうに思われたらすぐに指図するものらしい。



2004年07月23日(金) 「偉大なる生涯の物語」

高校時代に見たこの映画のDVDを1年ほど前に買っていたが、
今夜やっと封を切って、見た。
3時間以上の長さの映画なので、ついつい躊躇ってそのままになっていた。
10時間とか20時間とかかかるドラマを繰り返し見ていたくせに、
3時間そこそこで躊躇うなんて、どういうこったぃ、と言われそうだが、
それは物理的には割り切れない心理の問題なのである。

もちろん、今夜ふいに見たくなったのは、
昨夜も取り憑かれていた「ダ・ヴィンチ・コード」の余韻のためである。
この映画はかなり聖書に忠実に描かれたものだから、
「ダ・ヴィンチ・コード」で語られたようなイエス像とは違っている。
違っていても、イエスやマグダラのマリアがこの映画ではどう描かれてるか、
ちょっと思い出してみたくなったのである。

高校時代に映画館で見たときから、この映画は決して名画とは思わなかった。
どちらかというと、冗長で湿っぽく退屈な印象が残っていた。
その印象は、今夜見終わった後でもそう変わらない。
途中で休憩時間が作ってある前・後篇仕立ての映画であるが、
前篇はとにかくじれったく、煮え切らない。
イエスのよさが、聖書ほどにも伝わって来ないのだ。
ラザロの蘇りが前篇のクライマックスになっているけれど、感動が薄い。

映像特典のメイキングで、当時スタッフ・キャストだった人が
思い出を語っているところによれば、当時としては破格の費用を投じ、
監督はじめ、かなりのこだわりで制作を進めて行ったようだ。
確かに、風景などの映像、画面の構図、演技などはすばらしい。
けれども、言葉に始終がっかりさせられてしまうのだ。
脚本のセリフに問題があるのか、字幕の訳語に問題があるのか、どちらかだ。



2004年07月22日(木) 「ダ・ヴィンチ・コード」の余韻

きょうは「税金を返せ!」という告発ものの本を持って出たが、
どうも気が乗らなかった。
普段ならおもしろいと思ったかも知れないが、どうも気が乗らない。
どちらかというと、こんな話はうんざりだ、という感じである。
まだ心身が「ダヴィンチ・コード」の世界から抜け出ていないらしい。
よくあることだ。
長いドラマを見終わってからまた見直したりしているのも、
その世界から離れがたくなっているからだ。
先日「博士の愛した数式」を読んだ後も2、3日余韻から解放されなかった。

それで、帰り道に喫茶店に寄って、再びダ・ヴィンチ・コードを開いた。
終盤の意外な展開の伏線を検証すべく、ところどころ選びながら読み返した。
なーるほど、かなり微妙な表現で、両義的になっているな、、と
しきりに感心した。
最初のうちはこういう可能性もあると思ったはずなのに、
いつの間にか作者の罠にかかって、だまされてしまったようである。

作者ダン・ブラウンの前作の「天使と悪魔」を買おうと思ったが、
楽天ブックスでは品切れとなっていたので当面は諦めた。
それ以上に関心はマグダラのマリアとイエスの実像の探求になっている。
「レンヌ=ル=シャトーの謎  イエスの血脈と聖杯伝説」
「マグダラとヨハネのミステリー  二つの顔を持ったイエス」
「イエスの墓」
の3冊を注文した。いつ届くかはわからない。



2004年07月21日(水) 「ダ・ヴィンチ・コード」(4)

読み終わった。。。
何とも言えぬ充実感に満たされている。
それとともに、欠落感というか飢餓感というか、そんな感覚も漂っている。
もっと知りたいという欲求に駆られているのである。
この作品は思いがけないスリリングな展開で物語に夢中にさせながら、
広大な(という表現しかあてはまらないほどの)知的刺激をもたらした。

ああ、それにしても、何というロマンであろうか、、、
マグダラのマリアの物語と、この作品のヒロインのソフィーの物語は、、!

読後の大いなる余韻からなかなか解放されそうにない。。。


ちなみに、この作品にとって些末なことではあるが、
シオン修道会の歴代総長を見て驚いた。
1188年からの20数名の名前が挙げられている中で、、、

サンドロ・ボッティチェルリ 1483〜1510
レオナルド・ダ・ヴィンチ  1510〜1519
アイザック・ニュートン   1691〜1727
シャルル・ノディエ     1801〜1844
ヴィクトル・ユゴー     1844〜1885
クロード・ドビュッシー   1885〜1918
ジャン・コクトー      1918〜1963

この作品でシオン修道会は、ローマ帝国の政略に侵される以前の、
イエス・キリスト夫妻の血を守ろうとする秘密結社として描かれているようだが。。。





2004年07月20日(火) 「ダ・ヴィンチ・コード」(3)

「イエスとマグダラのマリアの結婚は史実として記録されている。
 それに、イエスを既婚の男性とする方が、聖書に従って独身だったとする
 通説よりも、はるかに理にかなっている」
「どうして?」
「イエスがユダヤ人だったからだよ。
 当時の社会秩序は、男性が結構しないことを事実上禁じていたんだ。
 ユダヤ人の慣習では、独身は非難され、
 息子にふさわしい嫁を見つけるのが父親の義務だった。
 もしイエスが結婚しなかったのなら、福音書のどれかがそれに言及し、
 独身という不自然な状態を通した理由について何らかの説明を
 しているはずだ。ところがそんな記述はどこにもない」

「マグダラのマリアがキリストの右腕だっただけではなく、
 もとから高い地位を備えた女性でもあったことはほとんどしられていない」
「ベニヤミン族の出身だったの?」
「そうだ。マグダラのマリアは王族の血を引いている」
「貧しかったんだとばかり思っていたけど」
「有力な一族の出であった証拠を消すために娼婦ということにされたのだよ」
「だけど、マグダラのマリアに王家の血が流れているからといって、
 どうして初期の教会はそれを気にかけたの?」
「マグダラのマリアだけでなくその伴侶たるキリストにも流れていたからだ。
 知っての通りマタイ福音書は、イエスがダビデ家の出であると述べている。
 つまり、ソロモン王=ユダヤ人の王の末裔だ。
 強力なベニヤミン族と姻戚になることによって、
 イエスはふたつの王家の血筋を融合させて、
 王位に対する正当な権利をもつ強大な政治的統一体を作り上げ、
 ソロモン王にさかのぼる王統を復活させようとした」

「聖杯伝説とは、王家の血の伝説だ。
 聖杯伝説が〈キリストの血を受けた杯〉について語るとき、
 それが指しているのは、
 マグダラのマリア=イエスの聖なる血脈を宿した子宮なのだよ」
「でも、キリストの血が受け継がれるためには、、」
「子どもがいなくてはならない。
 それこそが、人類の歴史上、最大の隠蔽だ。
 イエス・キリストは結婚していたばかりか、父親でもあった。
 マグダラのマリアは聖なる器だ。
 イエス・キリストの血脈を育んだ杯だった」


何という驚き!! 
今まで想像したこともなかったが、何という自然な盲点だろうか!
数年前夢中で読んだ「イエスを愛した女」のマグダラのマリアは、
たしか娼婦のままだったと記憶するが。。。



2004年07月19日(月) 「ダ・ヴィンチ・コード」(2)

聖杯の研究に情熱を注ぐ宗教史学者ティーピングとソフィーのやりとり。

「聖書について知っておくべきことは、偉大なる大聖堂参事司祭でもある
 マーティン・バーシー博士の次の言葉に要約される。
 『聖書は天国からファクシミリで送られて来たのではない』
「なんですって?」
「聖書は人の手によるものだということだ。神ではなくてね」

「新約聖書を編纂するにあたって、80を越える福音書が検討されたのだが、
 採用されたのは、わずか4つの各伝だけだった」
「どの福音書を入れるかは誰が選んだんですか?」
「そう! キリスト教の根本的な皮肉はそれだよ。
 今日の形に聖書をまとめたのは、
 異教徒のローマ皇帝だった、コンスタンティヌス帝だ」
「コンスタンティヌスはキリスト教徒だったと思いますけど」
「とんでもない。コンスタンティヌスは生涯を通じて異教徒で、
 抗う気力のなかった死の床で洗礼を受けさせられたにすぎない」

「なぜ異教徒の皇帝がキリスト教を公認したのかしら」
「コンスタンティヌスはやり手の実業家だったのだよ。
 キリスト教がのぼり調子だと見るや、単に勝ち馬に賭けたわけだ。
 コンスタンティヌスが太陽崇拝の異教徒をキリスト教に改宗させた
 鮮やかな手並みに、今も歴史学者たちは舌を巻いている。
 異教の象徴や暦や儀式を、キリスト教の発展途上の伝統と融合させ、
 双方が受け入れやすい、いわば混血の宗教を創り出した」

「ニケーア公会議でキリスト教のさまざまな点が議論され、評決が行われた。
 復活祭の日付、司教の役割、秘蹟の授与、そして言うまでもなく、
 イエスを神とするかどうかについて」
「イエスを神とするかどうかですって? どういうことかしら?」
「その時点まで、信者たちはイエスを人間の預言者だと、
 影響力に富んだ偉大な人物だが、あくまでも人間とみなしていたのだよ」
「神の子ではないということ?」
「そうだ。『神の子』というイエスの地位は、公会議で正式に提案され、
 投票で決まったものだ」
「ちょっと待って。投票の結果、イエスが神になったの?」
「かなりの接戦だったがね」

「すべては権力の問題だ。メシアたるキリストの存在は、
 教会とローマ帝国が存続していくために不可欠だった。
 初期の教会は、従来の信者からイエスをまさしく奪い、
 人間としての教えを乗っ取り、神性という不可侵の覆いで包み隠し、
 それによって勢力を拡大した、と多くの学者が主張している。・・・・。
 たしかにイエスは、並はずれた力を備えた偉人だった。
 コンスタンティヌスの腹黒い政略のせいで、
 イエスの生涯の偉大さが損なわれるわけではない。
 誰もイエスを詐欺師呼ばわりしていないし、イエスが地上を歩き、
 幾多の民をよりよき生に導いたことを否定してもいない。
 われわれはただ、イエスの大いなる影響力を
 コンスタンティヌスが巧みに利用したと言っているだけだ。
 キリスト教の今日の姿は、そういった作為の結果なのだよ」

「わたしが言いたいのは、キリストについて先祖から伝えられた
 ほとんどの話が、捏造されたものだということだ。
 聖杯の物語と同じく!」

そうして、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵から〈聖杯〉の真相に迫る。

「このフレスコ画が、聖杯とは何かという質問に答えてくれるのね?」
「〈何か〉ではない。
 〈誰か〉だ。
 聖杯は物ではない。
 実を言うと、聖杯は、、、、人なのだよ」


上巻はここで終わった。当然、即座に下巻に手が伸び、ページをめくった。

無実の容疑者として警察の追っ手から逃れるロバートとソフィーの逃亡劇も
スリリングだが、ソフィーの祖父である殺された館長ソニエールが遺した
ダ・ヴィンチの暗号に迫っていくこうした静的な部分もスリリングである。



2004年07月18日(日) 「ダ・ヴィンチ・コード」

昨夜「ダヴィンチ・コード」を読み始めた。
すぐに引き込まれてしまった、、おもしろい、、、が、悲しいかな、
視力がかなり衰えていて、調整に疲れ、昔のように長時間読み続けられない。
きょうも暇あるごとに読み継いだが、休み休みである。
けれども、ストーリーだけでなく、興味深い話も多く、
頭の中では、何をしていてもこの作品の世界の雰囲気が漂っている。

黄金比のことをしっかり説明してもらったのは、この本が初めてだ。
1.618、、この数字は何だ、黄金比だ、この宇宙で最も美しい数値だ、
と、読んでいても、まだピンと来なかったから。。。
それが自然界のさまざまなものや、人体の各部分の比率や、
芸術作品にも見られる、、、と読み進むにつれて、
そんなようなことを以前聞いたことがあるなぁ、、と気づいていく。
黄金比という言葉も、すぐに聞いたことある言葉だとわかっても、
私の頭の中では、何ものにも関連づけられない孤独な単語として
長い間放ったらかしにされていたようだ。

私は、何かを聞いても、それをその都度整理してしまっておくのが苦手だ。
部屋でも机の上でも、未整理のまま積み重ね放題にするのと一緒だ。
何でもかんでも、雑多なままぐちゃぐちゃにして、忘れてしまう。
ちょっとサイト検索をして黄金比について3つほど見てみたら、
たいてい、この小説で読んだことが書いてあるではないか。
しかも、フィポナッチ数列からも導かれる数値だということも、
当たり前のように誰もが言及しているではないか。
ということは、小説を読みながら、その説明に感心し、驚嘆し、
作者の博学にも畏敬の念を覚えたりして、熟読して理解しようとしているが、
既に知っている人にとってみれば、
当たり前のことがわざわざ長々と書いてあるに過ぎないわけだ。

秘密結社シオン修道会にボッティチェリ、ニュートン、ユゴーなども
会員として名を連ね、ダ・ヴィンチは約10年間総長を務めた、という話も
同様だ。

さっき読んだところでは、宗教象徴学者ロバートが、
殺された館長の孫娘ソフィーにシオン修道会のことを説明する中で、
テンプル騎士団の話に及んだ。
大学時代、一般教養の世界史を受講したら、そのテーマはテンプル騎士団で、
教授の著書を教科書として買わされ、講義もちゃんと出席し、
レポートも書いてAだったはずだが、この小説に出てくる話は
初めて聞く話としか思われない。
確かにあの時はまじめに授業を受けていたはずだが、
問題意識がほとんどなかったような気がする。
ただ、課せられたノルマのひとつに過ぎなかったわけだ。

つくづく自身のもの知らずを痛感しつつも、
小説は自然と問題意識を深めてくれるのでありがたいものだと思った。



2004年07月16日(金) さあ夏休み

終業式は来週の火曜日だが、もう気分は夏休みである。
そんな解放感がある。
明日も休日なのにいつもと同じ時間に出かけて、
高校野球の応援団の子たちを球場に乗せて行かなきゃならない。
終業式後の夏休みも、生徒には夏休みでも、我々はそうではない。
仕事もいろいろあるし、毎日出校なのだ。
それでも、夏休みに入ったという少々気の早い解放感がある。

3日間の、猛暑の中での保護者会が終わったせいでもある。
それ以上に、きょうで授業が休みに入ったというのが大きい。

おそらくあまり重視されてないことだが、
授業をどう進めるかという問題は、時間不定で取り組まねばならぬ仕事で、
次の授業、これからの2、3時間の授業、次の教材、、といった単位で、
さまざまな形で、頭を悩ませなきゃならないのだ。
古典でもそうだが、特に現代文を担当すると、終わりなき課題となる。
帰宅後や休日も、いつも落ち着かないし、
余暇を楽しんでいたのを中断して、授業の準備をすることもある。
思いついたりひらめいたりしたときが、仕事の始まりだったりするわけだ。
他の教科の教員はどうか知らないが、国語科の教員の仕事は、
時と場所を問わない、いつも仕事に脅迫されているようなものである。
だから私は、教員の「勤務時間」などというものは規定しにくいと
思っているが、ここ数年、勤務時間なるものが厳しくなってきたのは、
教育委員会に入るほどの人たちが、そういう意味での切実な体験を
してこなかったためであろう。
だから、一部の市民から疑義が出たときに、形式主義で解決するしかなかったわけだ。

これから1ヶ月余り、授業の進行に関する脅迫的な悩みからは解放される。
事務的な仕事ばかりに限定される。
それはかなり大きな負担軽減である。
きょう心に広がった解放感はそれなのだ。



2004年07月15日(木) 磁化杯

磁化杯というのが多くのサイトで通販されている。
どのサイトにも、こんなことが書かれている。

・・・・・・・・

水を注いで10分後・・・その水はもう普通の水じゃない。
カップ1杯の健康法。
こんな方々にオススメ・・・慢性胃腸病、便秘、高血圧、糖尿病、自律神経症、肥満症、更年期

1個1個の水分子が絶えず不規則に運動し、チェーン状に結合する現象を
ブラウン運動と言います。
そのブラウン運動のせいで水の粘りが多くなり、溶解性と浸透力が低下し、
溶解酵素の発生も少なくなります。
磁化杯に水を注ぐと、このチェーン状に結合した分子を分離し、
吸収されやすくするのです。

・水の粘りが少なくなり、水中のカルシウムイオンとマグネシウムイオンを
 分離させ、結石を予防する。糖尿病の防止にも。
・水の溶解力が高くなり、人体が摂取した栄養分が十分に溶解され、
 消化・吸収しやすくなる。便秘解消からダイエットまで最適。
・体内の血液、血管と臓器内の有害物質が加速溶解し、体外へ排出される
 ため、血液の流れがスムーズになる。成人病予防にも。
・水中の溶解酵素が多量発生するため、身体への酵素供給が増え、
 疲労感が軽減される。新陳代謝が活発化。脂肪燃焼。

・・・・・・・・

効能書き上、私が当面気になっているのは胃腸関係くらいだが、
毒にはなるまいと判断して、
通販サイトでもっとも安い1980円のものを買ってみた。
それが昨日届いた。
水を入れて冷蔵庫に入れておいて、好きなときに飲んでみる。
上の効能はどうか知らないが、飲んでみて美味いことはたしかだ。



2004年07月14日(水) 暑い保護者会

土・日の雨で月曜日までの3日間、猛暑から少し解放された。
昨年もこんな感じで8月半ばまで涼しかったことが思い出された。
今年も涼しい夏かな? でも、9月のあの酷暑はたまらんぞ、と思ってたら、
昨日からぐんぐん気温が上がり、きょうは先週以上の暑さである。
こんな暑さの中で、きょうから3日間の保護者会が始まった。
来てもらう保護者が気の毒である。
とても人を呼べるような環境ではないではないか。

とにかく、正午あたりから2時ごろまでの暑さは最悪だった。
授業も保護者会も、拷問としか思われない雰囲気だった。
ま、そうは思っても、まさにそのことに向かっているさなかにあっては、
拷問的状況も忘れがちになるのだが。。。
こんな環境で仕事をしろと、平然と命じて、
涼しい部屋で涼しい顔をしている連中の神経が信じられん。



2004年07月13日(火) 投票率

選挙のたびに投票率の低さにあきれるのだが、
こんな情勢にあってさえ、56、7%とは、、、?
県議や市議線の時は、50パーセントを割っていることもある。
こんな選挙に誰がした?
政治家たちがこれを憂えている雰囲気はない。
歓迎している人が多いのかもしれない。
何か事件があると通達みたいなものを出して世話を焼く
文科省や教育委員会が、長年のこの惨状に何の世話も焼かない。

有権者の約半数が選挙に行かないのを野放しにしてるなんて、
憲法の精神に反するではないか。
確かに選管は宣伝をしてはいるけれど、その効果が薄いのだから、
どうするのが一番いいのか、彼らもしっかり考えるべきだろう、本来なら。
ま、そんなこと、気にもしてないだろうけど。。。



2004年07月12日(月) 選挙結果に思う

自民党49、民主党50。自民党、目標の51に達せず。
この選挙結果を自民党の敗北と言い、小泉クンの続投に懸念の声もあるが、
私から見たら、こんなのはとても敗北とは思えない。
あれだけ批判されて当然のことをいくつもしていながら、
それでもせっせと自民党に票を投じに行く人が減らないことに、
大衆というものの空恐ろしさを感じずにはいられないのである。

それ以上に恐ろしいと思ったのは、民主党12増の中身である。
民主党が50以上も当選することがあれば、
自民党の当選数は40そこそこか40を切ると予想していた。
ところが、自民党は議席をひとつ減らしただけである。
あとの11はどこから来たかというと、共産党からである。
一概には言えないだろうが、格好としては、
今まで共産党に票を投じていた人たちの、過半数を遙かに越える人たちが
民主党に期待を込めて投票したということになる。
自民支持者は、いくつか政策批判をしながらも、動かなかった。
共産支持者は、表立った成果を上げない政党に見切りをつけた。
もっとも庶民的立場からものを言ってくれる可能性のある政党を排斥した。
今こそ応援すべき時なのに、ますますものを言えなくしてしまった。
二大政党制と言うに値しない「二大政党制」のマスコミの煽動にのってしまった。

もうこれで、似たもん同士の二大政党の大波に流されて行くしかないのだ。
多少の具体的政策の違いはあるから、どっちが主導権を取るかで
現実の動きに多少の違いはあるだろうが、根本的には大差ない。
わいわい大騒ぎするほどの違いはないのである。
庶民に暮らしにくい世の中になる一方だろうな、と予想できるだけである。
しかし、ここまで愚かな成り行きになれば、もう何を言ってもしょうがない。



2004年07月09日(金) 20人学級

この暑さの中で、生徒がだらけていると嘆く声もよく聞こえてくるが、
この苛酷な環境の中で、よくこれだけ耐えているものだと、私は感心する。
それでもやはり、最低限のことは曖昧にしてはいけないので、
やっと帰れそうなSTの終わり際、特別教室の掃除がいい加減だったので、
全員を待たせて、掃除当番に掃除のやり直しを命じた。
実に暑苦しい指示をしたものだが、生徒は実にさわやかに行動した。

きょうの授業は、変更で昨日に移動した授業もあって、
古典のスタディークラスの2つだけだった(それに会議2つである)。
古典のスタディークラスは、2クラスを3つに分けているが、
去年の成績をもとに、上位の者を35人ほど集め、
下位の者を22人くらい2つのクラスに分けて、
私は2講座ともその下位クラスのひとつを担当している。
きょうはそのひとつは1時間目にあり、もうひとつは6時間目にあった。
1時間目は暑いとはいえ、まだしのぎやすい空気だったけれど、
6時間目は、教室に向かって渡り廊下を歩いているうちから悲惨な空気だ。
熱風に取り巻かれている感じで、倦怠が塊になって襲ってくるようである。

こんな時に40人ほど集まっている教室に行くと、さらにむっとする。
熱気がさらに温められて、サウナのドームを作っているようなものである。
けれども、20人そこそこしかいない教室は、風通しがいい。
暑さは変わらなくても、圧迫感がないのだけはありがたい。
しかし、暑い!
こんな時に、生徒は勉強したくないし、私も仕事などしたくない。
けれども、授業中をみんなで眠って過ごすわけにも行かない。
結局、私語も居眠りもなく、和気藹々とみっちり授業をして、終わった。

20人クラスというのは本当にありがたい。
生徒ひとりひとりが今何をしているのかがよく見える。
次々指名していくと、ひとりあたり2、3回はあたる。
そんな中にいるせいか、なかなか眠る暇もないようだ。
発問もしやすいし、その連鎖も作りやすい。
たまに私語があっても、それを利用しやすい。
皆が近いところに集まっている感覚があるからである。
40人ほどもいると、あっちこっちでバラバラという状況になる。
今まで長きに渡って、40人以上が適正とされてきた根拠はいったい何だったのだろうか?



2004年07月08日(木) 暑すぎ!!(`ε´)

教育委員会のエアコンを撤廃すべし。
そして、彼らを狭い会議室に押し込んで、
彼らにもっとも興味のなさそうな話を3時間ほど聞かせるべし。



2004年07月07日(水) 「ホテリアー」の一場面

「本当の恋は、、恋することだけで十分完成してる」とユンヒが言う。
何かおかしなセリフにも感じられるが、言いたいことはよくわかるし、
私自身、恋に本物も偽物も、成熟も未熟もなかろうと考えている。

このセリフの直前は、ユンヒとテジュンがこんな会話をしている。
ユンヒはラスベガスに留学に行くことになり、その出発の前夜、
ユンヒの念願を叶えて、レストランで食事をする場面である。

「叶う恋と叶わぬ恋の違いは?」
「結婚?」
「結婚は恋の完成かしら?」
「そうかもしれない」
「結婚が完成だとしたら、離婚するのは?」
「間違えた」
しかし、ユンヒは、このテジュンの一般的な意見に対し、
結婚が完成だとしたら間違うわけがない、結婚は恋の完成じゃない、と言い、
「本当の恋は、、恋することだけで十分完成してる。私にはそれができる」
と言うのである。
つまりこれは、ユンヒがテジュンのもとを離れて、
離れながらも、テジュンへの思いをひとりで育てて行くという宣言である。

ユンヒの母は、ユンヒがまだ子どもだったころ、
夫の束縛に耐えきれず、睡眠薬で自殺したのだった。

ユンヒの恋の相手のテジュンは、度重なるユンヒの率直な告白にも、
歳の差、ジニョンへの未練、ユンヒ=キム会長の娘、という理由があって、
ユンヒへの思いが深まりながらも、その気持ちを受け止めようとしない。

言葉は記号ではない。
言葉がどんな過去を背負っているかで、意味も重みも変わる。

全編でもっとも泣かせられるのは、最終回で明かされる、
ドンヒョクがユジンに書き続けてきたメールなのだろうけど、
それをここに再現するのはたいへんな労力である。



2004年07月06日(火) 学校長というもの

校長の意向が学校運営の基本と考える教員が意外と多いのに驚くのだが、
驚いているのは私だけであろうか?
前任校の職員会議は、文句言いたがりも案外多くいて、
割と会議が紛糾する機会もあったのだが、紛糾して長引くと、
年配の分別ありげな先生が立ち上がって、
「校長先生のご判断を」などと言い出すので困った。
「校長先生のご決断に従いますから」なんてセリフを聞くと、
ゾゾ〜〜っと全身気分が悪くなる思いだったが、私だけであろうか?

ほとんどいい校長に出会わなかったせいかもしれない。
私の考えるいい校長とは2通りである。
ひとつは、教員の自主的なアイディアと活動を認め、見守る人であり、
もうひとつは、ワンマン的に指導力を発揮しても、それが的確な人である。
後者のタイプにはまだ出会えていないが、前者は1、2名いたかもしれない。
我々の教育活動を煩わしく困難なものにしてしまっているのは、たいていは、
外部からのクレームにペコペコするばかりで現場知らずの教育委員会と、
自己保身と将来の地位にあくせくする学校長のわがままである。
わがままな生徒も厄介だが、わがままな校長は被害も多く手がつけられない。

我々は同じ学校に何年いるかわからない。
10年以上いるなんていうことは珍しくないし、20年以上かもしれない。
学校長はといえば、たいていは3、4年である。
彼らはその短い間に、目に見える成果をあげなければならない。
いや、別にあげなくてもいいのだが、その後の地位で名誉を自慢するために
何としても成果を見せなければならないと考えてしまうようだ。
もちろん、教委の不興を買うようなことはぜったい避けなければならない。
こうして短い任期を戦々兢々と過ごさなければならないものらしい。
だから、彼らの願いは、現状維持か、一時的によく見えることにとどまる。
表面的にうまく取り繕うことが第一なので、
我々が長い目で見た道を提案しても、相手にされなかったりする。
だから、校長が変わるたびに、同じ過ちを繰り返して進歩がない。

まぁ、腰掛けのような校長は、そうでしゃばらんでもよろしい。
我々は、何年も、直接に生徒に関わっていかなければならないのだ。
無責任なことを言ったりしたりして、将来に害毒を残すよりは、
自分が何のためにいるのか、ソウルホテルの社長から学んでほしいものだ(笑)



2004年07月05日(月) 最高責任者というもの

「ホテリアー」を2回目見直して、今夜は第17話まで見終わった。
あと3話である。

1度目見たときには曖昧だったことが大分よくわかってきた。

ジニョンがドンヒョクへの思いを深めるのはいつだったのか?
どうやらそれは、ドンヒョクがソウルホテル買収のために来ていることを
知ったとき、つまり、憎むべき敵だと知ったときらしい。
いや、その時思いを深めたというのは正確ではない。
その時、ジニョンはドンヒョクに対する思いの深さに気づかされたと言うべきだろう。

ドンヒョクが自身の仕事を捨てて、、、つまり、改心して、
ソウルホテルを守るために尽力し始めたのは、何のためか?
実は、愛するジニョンの哀願は、彼をそこまでは動かさなかった。
全財産を投じてまでソウルホテルを買収から守らせたのは、
幼いころ別れた妹のためである。
ドンヒョクも5歳のころ養子として売られてアメリカで育ったが、
妹も、2歳で養子としてアメリカの家庭に引き取られた。
ドンヒョクは自分を捨てた親を憎みつつ育った。
韓国に戻って、父を捜しあてて会いに行ったが、怒り、訣別した。
次に妹を捜しあてて会ったが、妹はドンヒョクに心を開こうとしない。
ソウルホテルを奪おうとし、恩人テジュンからジニョンを奪おうとしている
兄を、妹は素直に兄として歓迎できないでいる。
それとは対照的に、妹は、自分を捨てた父との再会に涙を流して喜ぶ。
ドンヒョクにとってもっともショックだったのはここだ。
夢にまで見ていた肉親との再会の、冷酷な現実。。。
ここから、ドンヒョクの行動がはっきりと変わっていく。
もっとも、この変化を準備したのはジニョンとの出会いなのだろう。

こういう本筋とは違うところで、おもしろいところがあった。
亡き社長のどら息子がベルボーイとして修行しているが、
ある時、靴を脱がせろと言う客に反抗して口論になり、大騒ぎになる。
その中で、ジニョンが客をひっぱたき、ますます収拾がつかなくなる。
客は、今にも警察や新聞社に電話しそうで、絶体絶命のピンチになる。
亡き社長の妻が今は社長の地位にいるが、
社長は客の前で30分土下座して、ようやく客の許しを得、収まった。
それを知って悔いて詫びるジニョンに、お婆さん社長はこう言う。
「そのために私がいるのよ」

何と最高責任者らしい美しい言葉ではないか。
世の校長連中に聞かせてやりたい言葉である。



2004年07月04日(日) もうおしまい

朝刊の一面トップは、来週の参院選の予想。
民主党が自民党を上回るだろうことが、大革命のように報じられている。
確かに大事件に違いない。
それは、表向きは政権交代であっても、
今までの流れをいっそう過激に推し進めることになるからだ。
新聞はなぜこれを煽るのだろうか?
そして、なぜ多くの庶民がこの政党に期待を寄せるのであろうか?

投書欄の、特集でないコーナーのトップには、
今は何が何でも改憲させないための選挙をすべきだという意見が載っている。
今度の選挙ですべてが決まるのだという思いで、力説している。
これを載せたのが、圧力の激しい新聞社のせめてもの誠意というところか?
けれども、この投書に心を動かされ、自らの過ちに気づき、
来週投票先を改める人が、いったい何人いることか。。。
寧ろまたこれを読んだことによって、民主党に政権交代させることが
正しい選択をすることになると、勘違いした人がいるかもしれない。
一面トップで、あたかも大革命かのように煽ってちゃしょうがない。
そしてその行く末は、、、今まで繰り返し書いてきたとおりであろう。

私は、政権なんてのは何党が取ろうと、誰が持とうとこだわらない。
大切なのは、国民の幸福のために政治をしないと議席をやらないぞ、と
常に国民の側から圧力をかけ続けることである。
そのための選挙である。
私は、数少ない国民と同じく、長年そういう投票をし続けてきた。
けれども、多くの国民は、そういう投票をしてこなかった。
1票というのは、私にとってはいつも虚しいものだったけれど、
それがある方向に集まってしまえば、大雨の後の濁流のごとく、
ひとつの国家を悲惨へと押し流してしまうわけである。

ま、やきもきしたところで、この流れはもう変えられないのだ。
先日ある人が語っていたように、
戦後60年、もう一度悲惨を体験しないと日本は生まれ変われないのだろう。



2004年07月02日(金) 引き続き「ホテリアー」

試験週間明けの、忙しい1日だった。
なかなか厳しい時間的条件だったけれど、
月曜日にちゃんと試験の答案を返せる状態にして、持ち帰らずに済んだ。

夜9時半ごろから、ホテリアーの続きを見る。
いつの間にか第9話まで見ていた。



2004年07月01日(木) 「ホテリアー」DVD

注文しておいた「ホテリアー」DVDが届いた。
7月上旬から発送という話だったが、意外と早かった。
買うかどうかについてはかなり迷った。
前半の10話ほどを見ていた時の印象からして、
3万円ほどを費やして手に入れるほどのものか、かなり疑問に思われた。
けれども、これに限って、2セット分売でなく、全巻セット販売である。
しかし、何かしら捨てがたい魅力もあり、じっくり見直したい思いもあり、
そして、実際やっぱりつまらないと思ったら中古屋に売ればいいという
悪魔のささやきもあり、思い切って買うことに決めたのだった。

明日返す分のテストだけは採点して、DVDを見始めたら、
ついつい第5話まで見てしまった。
こうして改めて最初の方から見直してみると、
1度目はこのあたりをわりとぼんやりと見ていたはずなのに、
意外と緻密で、味わい深い展開だったんだなぁ、と認識を改める。
美人のヒロインが、バタバタあたふたしているだけに見えてたのも、
直情径行、思いこんだらまっしぐらな女性を好演していると見えてくる。


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