人権�牋貽�100質��
〆よろしければ、相互リンクをお願いします。


2001年05月21日(月) 「破戒」1982〜2003

人権について これまで「繰り返し聞いた」ことは2つ
一つは「ハーフではなく ダブルだっつーの」
もう一つは 「"破戒"のラスト けしからん」を、別の講師から。
それぞれ 人権について「これを言えるのは自分しかいない」何かを伝え聞いたような気がする。 
後者について、
「丑松」という青年は 父の命令で部落出身を隠し 長年教員を務めてきたことを教壇の前で土下座し アメリカへ国外脱出する
なぜ「丑松」は
わたしが部落出身を隠したのは 厳しい部落差別のためであり あなたたちの中にも わたしと同じように部落差別に苦しむ学生がいるかもしれません。これを機に わたしと一緒に 部落出身者を支える学級、学校、社会にしていきましょう
と言えなんだか・・・けしからん。
(さて 本日 メールで 部落出身女性から 同僚の交際相手に出身をどう伝えたらよいか 伝えたあと何かあったらどうすればよいかというような質問を受けました。)
ワタシのHP作成は 部落出身者に「隠すな 伝えろ」とプレッシャーを与えるのには 役立ってきたかと思う(苦笑)。
相談の彼女は もちろん 恋人に「どのように告げればよいか」を自分で考える力を持っている。
力が欲しいのだ。「部落出身者を支える社会」の力が。
(メールくださった方の恋人、家族、職場が 部落に対する差別、偏見を捨てることに ワタシのHP作成が 少しでも役立てたらと思います。どうもありがとうございました。)
ところで 
人権について「これを言えるのは自分しかいない」何かは ワタシにもあるのだろうか?
「隠すな 伝えろ」だけ言うのでは けしからんっつーの!


☆加筆
「破戒」の中の葛藤(2003-01-02)

★丑松の葛藤
 何故、新平民ばかり普通の人間の仲間入りが出来ないのだろう。何故、新平民ばかりこの社会に生きながらえる権利が無いのであろう 人生は無慈悲な、残酷なものだ
 自分はこれから先どうしよう 何処へ行って、何をしよう 一体自分は何の為にこの世の中へ生まれて来たんだろう
 ああ、ああ、捨てられたくない、非人あつかいにはされたくない、何時までも世間の人と同じようにして生きたい
 何故、自分は学問して、正しいこと自由なことを慕うような、そんな思想を持ったのだろう。同じ人間だということを知らなかったなら、甘んじて世の軽蔑を受けてもいられたろうものを。何故、自分は人らしいものにこの世の中へ生まれて来たのだろう。
 どうせ最早今までの自分は死んだようなものだ。恋も捨てた、名も捨てた ああ、多くの青年が寝食を忘れる程に憧れている現世の歓楽、それも穢多の身には何の用があろう。一新平民 先輩がそれだ 自分もまたそれで沢山だ。
 いよいよ明日は、学校へ行ってうちあけよう。教員仲間にも、生徒にも、話そう。そうだ、それをやるにしても、後々までの笑草なぞには成らないように。

 ★丑松の破戒
「皆さんもご存知でしょう。・・・まあ穢多というものは、それ程賤しい階級としてあるのです。もしその穢多がこの教室へやって来て、皆さんに国語や地理を教えるとしましたら、その時皆さんはどう思いますか、皆さんのおとっさんやおっかさんはどう思いましょうか 実は、私はその賤しい穢多の一人です」「・・・皆さんが御家へ御帰りに成りましたら、何卒おとっさんやおっかさんに私のことを話して下さい 今まで隠していたのは済まなかった、と言って、皆さんの前にこうして手を突いて、こうしてうちあけたことを話して下さい 全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です」「許して下さい」

 ★丑松の父の戒
「たとえいかなる目を見ようと、いかなる人に巡り会おうと、決してそれとはうちあけるな、一旦の憤怒悲哀にこの戒を忘れたら、その時こそ社会から捨てられたものと思え」


 ☆藤村はモデルとなった部落に取材でよく足を運んだが、小説を書いてからは一度も来た事が無い。
 藤村は「破戒」を持って文壇での地位を確保した。
 部落と部落外の区別、部落問題と他の社会問題との区別を無くして、一般的価値を書いた。
 一般民藤村の自我と社会の葛藤を、一般民に向かって、部落民の経験を素材として書いた。

 ワタシの葛藤は、それはむしろよいこととして受け入れる部落出身の若者たちが育ってきていることにあるかもしれない。

(差別者の立場にある良心ある一般民が、人権一般について語ることが、実は人権について何も語っていないことから、被差別の立場にある部落民との間に、人間的緊張感が生まれる。必然的に。
 ワタシたちの世代は、そこを「出身者の立場に立ち切る」ことで乗り越えようとしていた。始めから終いまで。
 その行為は、いまや「部落と部落外を区別するもの」として、部落部落外双方から 一蹴にされ兼ねないと、ワタシは思う。)

 藤村も今の部落の若者もなぜ、部落と部落外という立場の違いに踏みとどまることをしないのか。それにより少なくとも藤村は、差別とたたかう猪子連太郎を一面的にしか書けなかった。蓮太郎の自我の葛藤を想像することができず、描き出されていないので、結果、読者に連太郎になりたい、ならねばという肉迫した必然性を与えなかった。立場の違いは現存するのに。

 ★蓮太郎の言葉
「我は穢多なり」「我は穢多を恥とせず」
「いくらわれわれが無智な賤しいものだからと言って、踏み付けられるにも程がある」
「高柳の話なぞを聞かなければ格別、聞いて、知って、黙って帰るということは、新平民として余り意気地が無さ過ぎるからねえ」

 ★お志保の言葉
「でも、そうじゃ御座いませんか 新平民だって何だってしっかりした方のほうが、あんな口先ばかりの方よりは余程好いじゃ御座いませんか」
「おとっさんやおっかさんの血筋がどんなで御座いましょうと、それは瀬川さんの知ったことじゃ御座いますまい」
「あれ、他はそうかも知れませんが、私はそうは思いませんわ」

 ☆部落出身の一高校生の感想(1973)
「おれんとこの同和のセンコオがいってたけど、丑松が土下座するところは君たちには不満だろうが、あの時代の状況の酷さを描き出すためにはりアリティーがあるというんだ。差別の酷さをえぐり出すことによって真実をあらわしているというんだ。おれはこんちくしょうと思うんだよ。丑松は自殺してくれたほうがよかった。その方がおれたちに逃げ場はないって教えるもの。センコオに丑松になるなって言われるとかあっときちゃう。おれたちは丑松を自分の中にかかえているからだ。藤村もそうだけど丑松になるなという大人たちは、おれの立ち入り禁止区にずかずか土足で踏み込んでこられた感じだなあ。大きな声で言いたいのは、一般は差別しときながら丑松になるなってなんだっていう気持ちあるよ」

「どうしようもない運命観を感じてしまって、耐えられない」

☆補足

 「破戒」で「土下座した穢多の教員」の十字架を生涯背負っていくのは、ワタシではなくこの丑松です。この、誰からも卑怯者扱いされる立場に立ってしまった若者を、これ以上追いつめる個人的正当性は、ワタシも他の部落の人たちも持ち合わせていないでしょう。
 しかし、あえて「破戒のラスト、けしからん」と言ってきました。
 
 かつての日本社会は、部落出身者として生まれてきた以上、どのような重圧にも一人で耐えねばならないと生き方を強いました。これほど、こわい話はないでしょう(闘う生き方はそこから生まれたのでしょう)。
 
 「破戒」を読むとそれらがわかります。問題のラストは、丑松の個人的頑張りの延長線上にあるものです。
 
☆最後の一人の立場に
我々のモットーは「最後の一人の立場に立ちきること」。「最後の一人」とは 部落差別に負けた姿をした老若男女。悪いのは部落差別であって「最後の一人」ではない。だから「最後の一人」には 決して石を投げてはいけない
ワタシは元気がないとよく言われる。ワタシは「最後の一人の立場に立ちき」れない。ワタシは 手に石を持っている。部落差別とたたかい「前を行く出身者」がワタシに石を捨てていいよと言い続けている。


 < 一つ前の日記  目次  次へ>


ミンク [MAIL]

My追加