たりたの日記
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2008年08月31日(日) 父のこと 2

この夏、実家に帰省した折、父の古くからの友人で、また同僚、わたしにとってはすぐ上の家に住んでいたMさんが、「おおの路23号」に載せる『 随筆集「みえ」の歩み』と題された原稿を、母に届けて下さった。

 昭和三十七年、わたしが六歳になった年に発行された「随筆・みえ」に、父もかかわっており、父はその表紙の絵を担当すると共に、文章も寄稿していた。Mさんは、その原稿の中で、父のことに触れて下さり、当時の父の文章も載せて下さっていた。その事が嬉しく、胸がいっぱいになった。

「随筆集・みえ」には、忘れられない思い出がある。二十年ほど前、東京の大泉の教会に、F牧師を夫や子ども達と共に訪ねた時のことだった。F牧師はかつて牧師として三重教会に赴任しておられた事があり、わたしにとっては通っていた保育園の園長先生だった。

わたし達は日曜日の礼拝に主席しその後、牧師館でお昼をいただきながら、小さなお孫さんたちともいっしょに、団欒の時を過ごした。その際、F牧師は面白いものがあるからと、大切に保存されていた「随筆・みえ」の創刊号から五号までの冊子を出してきて、見せてくれたのだ。

文芸誌「随筆・みえ」のメンバーでもあったF牧師と父がそんなところで繋がっているとは知らず、まさか、こんなところで、昔父が書いた文章や、その中に書かれているわたしや弟の幼い頃の様子に出会うとは考えたこともなく、驚き、また感動したことだった。

今は二人とも成人して独立している我が子が、その時にはちょうど、幼稚園の年長児と年少児だったから、父の随筆の中に登場する弟とわたしと同じ年齢ということになる。F牧師夫妻は、あなたと弟さんは、ちょうどこんな感じでしたよと、我が家の子達を眺めながら、なつかしそうにおっしゃった。また当時の保育園のことや、「随筆・みえ」にかかわる話などを聞かせてくださった。そして帰り際、父が描いた五巻の冊子の表紙と、父の随想のページを、教会のコピー機でコピーし、持たせてくれたのだった。

 その訪問から一年もしないうちに、わたし達一家は夫の海外赴任に伴い、アメリカのニュージャージー州に引越し、そこで五年あまり過ごすことになったが、その時いただいたコピーは、その後、数回の引越しにもかかわらず、失わずに済んだ。

 実家から戻ってきて、二十年年振りに、しまってあるファイルの中から、「随筆・みえ」のコピーを取り出してみた。
三号には、父の随想と並んで、当時、わたしの担任をしてくださった、保育園のH先生の文章もあった。

 保育園の五歳児の時、わたしは父に連れられて、三重教会で行われた、H先生の結婚式に出席したのだ。ウエディングドレスに包まれた美しい先生の姿を克明に記憶しているのだが、この随筆には、青年期のH先生の保育の仕事に寄せる想いや同世代の青年達とのかかわりや葛藤が書かれており、感慨深かった。

 この文章の最期に、父が一号で書いている「名裁判」という随筆を記しておこう。ここで父が讃えている保育園の先生は、間違いなくH先生のことだろう。


         名裁判
                     杉山 正人


最近、長女の方も、長男の方も『良い』と『悪い』の使い分けをひどくするようになった。長男はテレビを見ては、すぐ、「あれが悪いんじゃ」と言う。「父ちゃん、あれが悪者で、これが良いんじゃなー」・・・・・・「これが強いんだどー」等。こんな場合、私は無責任に相槌をうつ事を慎む様になった。
                ○

私は夫婦共稼ぎであるため子供達を保育所にあずけている。五才の長女と三才の長男は日曜をのぞいては殆どその保育園に通っている。
 或る雨模様の日であった。土曜日だっただろうか、私は務め先から園に廻り子供達を連れて帰ったが、園を帰りかけた時、保育園の先生が私に話がある素振りをされた。子供に気づかれないためであろう、私もこれは、うちの子が何かやらかしたなと直感した。
 先生の話はこうである。
うちの長女の方と或る友達の女の子とが口論をしたのである。口論と言っても五つの子のだから大した事もない、言い争いであろう。その言い争いの原因が振るっている。少年院(院の生徒をさす)は悪いと友達が言ったのに対し、長女の方は悪くないと主張したのである。二人とも勝気でゆずらず、最期に保育の先生に裁きを仰いだわけである。少年院の職員である私も、この小さな子の質問に即答するにはまごつく問題である。先生は両方の子に「少年院の兄さんは、前にはいけないことをしたけれど今はそれを良くするために一生懸命勉強しているのよ」と言われたそうである。私はこの名裁判に敬服した。
 先生は、私が少年院に務めているので、私の子供へは先生の言った考えとは違う意味で少年院を理解させているのではないだろうか、もしそうだとすると、親である私の考えと先生の考えがくい違うことになる・・・そんな事を心配されての話かけだったのである。私は、心よりその裁判にお礼をのべて帰った。
 私は職場である少年院の事を家の子供達にはあまり話さない。少年院の事故で呼び出しを受けた時も、逃走生の捜査に出向く時も、子供達には「お仕事に行く」の一本槍で通していた。だからうちの子が少年院の生徒を理解するのは、少年院の体育祭だとか楽隊の生徒とか、奉仕作業に出て一生懸命働く生徒だけである。しかも父の務め先であるので少年院は悪くないと言い張ったに違いない。
 私がその日、子供達に少年院の勉強をわかりやすく話をしてやったことは勿論である。
 それにしても、私は園の先生の名裁判振り、幼い子供の気持ちをきずつけまいと気づかわれた裁判を子を持つ親として、否、非行少年の矯正に当たる職員として、振り返って見たかったのである。


      



2008年08月30日(土) 父のこと 1

数年前からふるさとの文芸誌「おおの路」の仲間に入れていただき、1月末と8月末に投稿している。

今回は父のことを書いた。文芸誌は紙面の制限があるので、一通り書いたものを、短くして投稿したのだが、ここに、最初に書いたものを記しておこう。





随想
          父のこと 
                  
この夏も八月の半ば過ぎから十日あまり、三重町の実家へ帰省した。子ども達が小さい頃は家族ぐるみで帰省していたが、ここ数年は、もっぱら私だけ、一年に二、三度帰省している。
実家の玄関を入るとすぐ右側の壁にアマリリスの花を描いた大きな油絵が目に入る。この絵は父が退職した後、認知症が出る前に描いたもので、父の最期の油絵だ。

 今から二十年ほど前、まだ認知症という言葉もなかった頃、父の記憶を司る回路に変調の兆しが現れた。そして、それは次第に進み、錯乱に翻弄される時期を過ぎ、やがてはすべての記憶を失うことで、反対に平安を得たというような経緯を辿った。
 父の生活する施設を訪ねると広い食堂に他の入所者の方々と丸いテーブルに付き、食事を待っている父の姿が目に留まる。髪はまっ白で美しく、あたりに穏やかで平和な空気を漂わせている父の様子は、ここ数年来、変らない。

「お父さん、帰ってきたよ。美子だよ」
耳元で大きな声で呼びかけるが、父の反応はない。わたしの事が忘れられていることに悲しみを味わったのは、もう十年も前の事で、今はその事に痛みも、歎きもなく、今の父の安定した、緩やかな人生の最後のステージを、感謝を持って受け入れることができる。ともかく、こうして、生きていてくれる。父の存在がこの地上にある。その事がとても有り難い。

 やがて運ばれてくる食事は、どれもペースト状になっていて、元の野菜や、魚の形を留めてはいないが、どれも、それぞれの素材がきちんと調理されたものを、潰したり、練ったりしたもので、種類の多さとバランスのよさに、有難いと感謝する。これらの食事が父の命を支えているのだ。

 スプーンで一口づつ、ゆっくりと、食べ物を父の口に運ぶ。それは母乳からようやく離乳食に移ったばかりの我が子の口に、喜びと祈りを持って食べ物を運んでいた時の気持ちを思い起こさせる。あの時、「この食べ物が、この子の体を強く大きくしてくれますように」という祈りとともに食べ物を小さな口に運んだ。今、「この食べ物が、父の体を支え、命を保つことができますように」という祈りながら老いた父の口に食べ物を運ぶ。

 実際、父は良く食べてくれる。口元に運ばれた食べ物を、父独特の優雅な動きでもって、ゆっくりと口に含み、もぐもぐと口を動かし、時間をかけてゆっくり飲み込む。そうして、用意された食事を残すことなく、最期のひと匙まできれいに食べてしまう。ここに、父の生きる力を見出して安堵する。まだ自分の口から食べ物を食べることができる。それを消化する内臓も健康だ。
 食事をさせながら、父にいろいろな事を語りかける。もう言葉は通じないから、私の近況報告や、様々な想いは、心の中で、父の魂に直接伝える。父のところへ来る道すがらに聴いてきた音楽を父にも聴かせようと、イヤホーンを父の耳に差し入れてみた。
「お父さん、これは、わたしが今聴いている歌よ。いい歌でしょう」
耳元に入ってき音は分かるのか、わずかに顔の表情に動きが見えるが、以前のように、それを聴いているという様子は見られない。もう、メロディーやリズムといった音楽としては受け止められないのだろう。それでも、父の魂はその歌を聴いていて、
「あぁ、いい歌だ」と、言っているような気がするのである。
 ゆっくりとした食事の時間が終わると、車椅子を動かして、口腔ケアの場所へ行く。そこには、食後の歯磨きをしてもらう人達が車椅子の中で静かに待っている。

 父の歯はもう、三本しか残っておらず、口を漱ぐという動作もすっかり忘れているのだが、介護士の方は、「杉山さん、歯をみがきましょうね」とやさしく声をかけながら、歯ブラシで三本の歯を磨き、口を漱ぐ水を飲み込まないように、口の端に指を差し入れ、上手に、口の中の水を出して下さる。

 部屋まで、車椅子を押してゆくと、介護士さんが、慣れた動作で、重い父の体を持ち上げ、車椅子からベッドへ移動させてくれる。床づれができないように、体を横に向け、側面にクッションを差し入れ、時間がくれば、身体の傾きを変えるというきめ細かいケアがなされているようだ。父にとっては孫ほどの若い介護士さんのさわやかな笑顔に、あぁ、父は良いところで生活させていただいていると思う。ベッドの上の父は、お腹が一杯になり、気持ちが良くなったのか、まぶたはもう重く塞がっている。すでに気持ちの良い眠りに入っているようだ。

「お父さん、また来るからね。元気にしていてね」
父の眠る部屋を後にし、また自転車で、母の待つ久知良の実家へ戻る。
 父のいる施設から、実家まで自転車を走らせる間、道路の左側に、遠く、なつかしいふるさとの山々が見え隠れしている。高台になっている地点から坂道を下降してゆく時、自転車から見るふるさとの風景は、いつも、はっとするほど美しい。

           
<つづきは次のページ>




2008年08月29日(金) ふるさとの風景



今はもう、9月10日で、秋風が吹いているのだが、まだ夏のページが終わらない。
さっさと飛ばして、9月に移ってもいいのだが、どうやら夏に未練があるようだ。

写真は、わたしのふるさと。

父のところへ行く途中の休憩スポット。

自転車で片道40分ほどかかるので、モスバーガーで読書したり、山が見える、空き地で一息入れたりしたのだ。

今になってみれば、そんな何でもない風景の中にいろんな思いが残っている。








2008年08月28日(木) 砂千里 3

いつからここにやってきて
こうしてどっかり座り続けているのだろう
この石
わたしの生れるずっと前からここに在り
わたしが死んだ後もずっとここに在りつつける石
覚えておこう
この石に背中を預け
この石を抱きしめた日のこと


2008年08月27日(水) 砂千里 2

す   過ぎた月日を振り返り歩いた

な   夏の阿蘇

せ   千里も続く砂の道は黒々と

ん   ん・・・・言葉はかなたへ吹き飛んで

り   理由もなく、命の儚さと煌きだけが降りてくる



2008年08月26日(火) 砂千里 1

4つの火口の淵を巡り、そこから続く黒黒と広がる砂千里の木道を歩いた。
この世の風景ではないような、しんと鎮まりきった風景、そこにある空気。









2008年08月25日(月) 火山

火口の美しさはどこから来るのだろう。

地球の中心にある熱の固まりが
大きな怒りのように地上に噴出し、
岩を溶かし、
岩を削り、
すべてを焼き尽くした後の
荒々しい静けさ。



2008年08月24日(日) 阿蘇中岳噴火口

22日、草千里から中岳火山口へ向かう。
噴火口の白い煙、
人を寄せ付けない、厳しい火山の顔。



< 旅日記より>

朝あれほど降っていた雨がすっかり上がった。

私は草千里から火口西口駅までバスに乗り、ロープウェイで中岳の火口まで登っていった。
ほとんど韓国語しか聴こえてこないロープウェイに詰め込まれ、押し出された場所も観光客で賑わう、「観光地」だった。
しかし、火口の荒々しさは、どれほど多くの観光客がそこを覗き込もうとも、揺るぐことはない。
この厳しさの前に息を飲む。

三年前、わたしは単独、反対側の仙酔峡から火山口まで行った。
あの時はロープウェイにはわたしの他、一組の親子しかいなかった。
火山口には人気もなく、ただただ恐ろしかった。
あの恐ろしく荒涼とした火山の姿をもう一度見たいと思っていた。
この風景の前に立つことを幾度となく心に描いてきたのだ。

あの日、人っ子一人いない火口に立ち、まるで「ここを立ち去れ」と言っているような突風の中、吹き付ける火山灰のつぶを顔に身体に受けながら、きりきりとする、完璧な孤独に半ば陶酔していた。

あの時、荒れ狂う風から剥ぎ取られる事を願っていたのだと思う。
人間として生きてきて身に付けてしまった、あらゆる柵、役割の枷、自分を偽る良識、言葉にならないような様々な重さを。

何のために?

剥がされて、剥がされて、何にも属さない、魂だけの存在になる必要があった。
憑かれるように、一人さ迷った、幾つもの山や荒野は、
すべて、そこへと繋がるような気がしてくる。


2008年08月23日(土)  「大阿蘇 」 という詩




その昔、国語の教科書に載っていた詩を見つけた。
三好達治の「大阿蘇 」     


      大阿蘇
             三好達治


雨の中に、馬がたつてゐる
一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
雨は蕭蕭と降つてゐる
馬は草を食べてゐる
尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐつしよりと濡れそぼつて
彼らは草をたべてゐる
草をたべてゐる
あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
雨は降つてゐる 蕭蕭と降つてゐる
山は煙をあげてゐる
中岳の頂きから うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濛濛(もうもう)とあがつてゐる
空いちめんの雨雲と
やがてそれはけぢめもなしにつづいてゐる
馬は草をたべてゐる
艸千里浜のとある丘の
雨に洗はれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
たべてゐる
彼らはそこにみんな静かにたつてゐる
ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは静かに集つてゐる
もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
雨は蕭蕭と降つてゐる



2008年08月22日(金) 雨上がりの草千里



8月22日午前10時

待っているうちに、雨は嘘のように上がった。

牛達を避けながら、草千里をつっきり、烏帽子岳へ向かって歩いていく頃には太陽さえ出て来た。









2008年08月21日(木) 雨の草千里



8月22日、朝から雨。

それでも予定通り、タクシーで草千里に向かう。

9時20分。

雨脚は強くなる。

ここから中岳へかけてのトレッキングは今日は無理なのだろうか。

雨が小降りになるまで、しばらく待つことにした。


しかし、この景色は雨に似合う。

ふりそぼる雨と静かに草を食んでいる牛

昔、中学校の教科書に載っていた草千里の詩、

あれは確か、雨の草千里だったような。


2008年08月20日(水) 夏の由布岳へ



別府駅から、由布登山口までバスに乗る。

バスから降りると、目の前に、美しい姿の由布岳が聳えていて、

そこへ続く緑の草地は美しかった。

二度目の由布岳だ。

しかし、こうして山を眺めたのは初めてのような気がした。


一度目は、まだ山登りを始めて間もない頃の二回めの単独行、

三月末だった。

山を眺めやる余裕もなく、

不安を押して、登り口までの枯野を歩き、

がむしゃらに登り、また、駆け下りた。



夏の由布山の麓に吹き渡る風はファンタジックで、

山の中に分け入ると、木々も土もしっとりと湿って、

水の底のように静かだった。


2008年08月17日(日) 明日から九州へ

夏は始まったばかりという気がしていたのに、

8月も半ばを過ぎてしまいました。


今年は珍しく、九州の帰省はこれからです。

明日から27日までは大分の実家。27日〜29日は夫の実家の宮崎へ。

その間、ここはお休みになります。

どうぞ、楽しい夏をお過ごし下さい。

また9月に。


2008年08月08日(金) 父に会いに

実家への帰省の目的は大掃除と父のいる施設に行くこと。
母はタクシーで行くがわたしは40分ほど自転車をこいで施設まで通う。
朝7時に家を出れば、朝食の介助に間に合う。

川の側を通り、遠くに美しい山々を眺めながら走るこの道は好きなのだが途中の登り坂はきつい。去年までは、坂道では自転車を押していたものの、今年はのろのろではあるが、自転車から降りずにこぐことができた。
これは一重に、小学校に自転車で訪問するせい。田舎なら高校生でもない限り40分も自転車で移動する人はいないが、都内では当たり前。
こんなところに変化を感じる。

父はわたしの事は分らず、言葉も意志表示もないが、肌の色つやは良く、穏やかで健康な感じを受ける。
父の手を握りながら食事の介護をするのだが、癒されているのはむしろわたしの方なのだ。
この安らぎと平和はどこからやってくるのだろう。

午後から昨日の続きの片付けと掃除。ずいぶんすっきりとなり気持ちが晴れ晴れとする。


2008年08月02日(土) 旅の終わりの夕暮れ

7月29日、帰りの羽越線から見た夕暮れ時の空。

羽越線に2時間半乗り、新潟へ。

新潟から深夜の「ムーンライトえちご」乗り、夜を抜け、早朝の大宮駅に降り立った。























2008年08月01日(金) 芭蕉の句碑


鶴岡で帰りの電車を待つ間、日枝神社へ。

樹齢を重ねた杉の木がここにもあった。

境内の右手にある小さな弁天島には、
芭蕉の句碑が建てられている。

「珍らしや 山をいで羽の 初茄子び」

























































































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