たりたの日記
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2005年02月28日(月) 人間が本質的に持つ「破れ」

「孫含む家族5人殺害」の事件、新聞で読んだだけで、TVなどの報道番組は見ていない。しかしこの事件の持つ意味は深いと思う。ひとりの人間の犯した過ちで、またひとつの家族の悲劇だが、それはある意味でわたし達ひとりひとりが持つ「破れ」であり、どの家族にもまた社会にも潜む「破れ」という気がする。

社会的に模範的な人、命の大切さを説いていた人が今までの生き方を裏切るような行為に及んだそこにあるものを他人事としてではなく、わたしたちの問題として捉え、考えるべきだと思う。

ここ2週間ばかり、カフカの「判決」に見る父親と息子の間にある葛藤について思いを巡らせていた。それはまた母と娘の問題。わたし自身の家族同士の関係やわたしと親との関係にもそのままかかわってくる。決して他人事ではないと読みながら感じていた。

父親は息子に「・・・わしのいうことを聞け。わたしは今、お前に溺死するように宣告する!」と言う。そして息子はそれに従う。しかし、父親も息子も共に「愛していた」と告白しているのだ。

今日のこの一家心中を計った父親も家族を愛していたのだろう。そしてまた殺された家族も。
最も身近にいて、最も愛する人間をすら人間は傷つけ得る、殺し得るという事実。

そこに向かい合う合う時にわたしたちが知らなければならないのは、人間が本質的に避け難く持っている原罪の問題なのではないだろうか。
自分自身の内に罪を認めるということ、自分自身もまた殺し得る人間であるということを知ることから始まる何かがあるのではないだろうか。

自分が内に持つ「破れ」、罪に対して決して無防備であってはならないと思う。


2005年02月26日(土) 英語学校のオープンスクール


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My追加英語学校、年度末のオープンスクール。つまり父母や知り合いの方々をお招きする発表会。はずかしがってお母さんの陰に隠れてしまう子。緊張のあまり、口は動いているのに、そこから声が出てこない子。いつもよりもハッスルしてスター気分の子とさまざまでした。どの子もそれなりに一生懸命でその姿が目に焼きついています。

そういえば、わたしが子どもの時、小学校では学芸会というのがありました。
ちょうど今時分、体育館で(当時は講堂と呼ばれる舞台のある建物でした)開かれました。客席は他の子達と親たち。一日かけての一大パフォーマンスといってもよいくらい大掛かりでした。

出し物はそれぞれの学年から劇、遊戯(いわゆるダンス)、合奏や合唱があり、1月と2月は学芸会の為の練習が毎日ありました。クラスを解いて、他のクラスや先生といっしょにやるのは新鮮で楽しかったのを覚えています。また他の学年の出し物を見るのも、けっこう楽しいものでした。
学校の授業やクラスの出来事より、学芸会の練習の場面や本番の舞台の上での気持ちの方が印象深く残っているものですね。



ところで、こういう学芸会が学校から姿を消して随分になるのではないでしょうか。確かに親に見せるために授業時間を削って練習に当てたり、教師たちが遅くまで学校に残って小道具や大道具を作ったりというようなことを考えると、学校教育の中でパフォーマンスをやるということに無理があったのかも知れません

さて、今日の発表会、子ども達の記憶に留められますように。


2005年02月25日(金) ピンチヒッター

英語学校のネイティブの先生のKがインフルエンザにかかってしまい、今日は夕方、彼女の子どものクラスを肩代わりすべく仕事場へ行った。

3時半頃、英語学校より電話がある。今日は同居人が残業のない日で夕方6時には帰ってくるので、その時間に間に合うように夕食の支度をするつもりでいた。5時半からのクラスを教えるとなると、帰宅は7時半。急いで夕食の支度を済ませて出かける。突然の予定変更というのは実は苦手だ。なかなか気分良く変更に気持ちを合わせることができないのだ。
生徒4人のうち、二人は初めて会う子ども達だったが、何とか無事クラスをこなせてほっとする。

ところでわたしはここ10年ほど、病気でクラスをキャンセルした事がない。病気にならないというわけではないが、うまく仕事がない時に調子をくずす。日記を調べてみれば、去年は2月の前半に風邪で寝込んでいるようだが、週末に休養を取るくらいで済んでいる。今年は我が家の青年二人が立て続けにインフルエンザにかかったというのに、わたしは何とか免れた。

しかし油断は禁物。これから3月半ばまで、発表会や公開クラス、新しい生徒の受け入れやら1年の中でも一番忙しい季節なのだから。
まずは、充分な睡眠。このところ読むことも書くことも腰を落ち着けてできていないが、ともかく睡眠。さて、今夜は何とか12時前にベッドにもぐりこめそうだ。

さて、おやすみなさい。


2005年02月24日(木) 深夜の雪

どうりで今日の夕方はやけに寒かった。
自転車を飛ばしてジムから戻る時、今までにないほど気温が低くなっていると感じたが、これはわたしの体調のせいかしらなどと思っていた。

寝ようとして雪が降っているのに気がつく。
外灯の明かりに照らされて、降り積もった雪も、空から降りてくる雪の有り様も美しい。

美しいだけではすまない事は承知だが…
電車は動くのか、車は出せるのか、雪かきをどうするか…
今夜はしかし、心配はせずに、
しんしんと降り積もる雪の気配に包まれて眠ることにしよう


2005年02月23日(水) 子ども達がかわいい

子ども達がかわいいな、いいなと思える度合はわたしの心身の健康の度合いを示していることに気がついている。

今日はどの子もわくわくするほど素敵で、彼らの中にいることがほっかりと幸せだった。
わたしの心と身体がとても良い状態だということだ。

夜、来週のクラスの準備をしていると一人暮らしを始めたHから携帯電話が入った。何を思ったのか「良く育ててもらったよ」なんて言う。
言われて悪い気はしない。夢中で育てた時期は確かにあったのだもの。
しかし、あの頃は身体も心もすぐに疲れてしまって余裕なんてなかった。ま、それでも大きくはなったのだからね。


2005年02月22日(火) クロスしていることを知ることはうれしい

登録しているエンピツ日記のタイトルに、
「お互いの時間がクロスするのは、確かに素敵だと思う」
というタイトルがあって、このフレーズどっかで聞いたなあと思って読んでみると、あたしの日記を読んで書いてくださったものだという事が分かり、思わずニンマリ。
あぁ、クロスしてるんだと、そのことがほのぼのと心を照らしました。

昨日の日記に書いたベスからの質問にこんな返事を書いて送りました。

One of the purposes of my own web site is a response to God who gives me a precious time and life, and I want to share this gratitude with people. Also, it is kind of my training as a writer.


<サイトの目的のひとつはわたしに貴重な時間と命を下さる神への応答です。
そしてその感謝を人々と分かち合いたいと思っています。
またわたしのライターとしてのトレーニングでもあります。>


2005年02月21日(月) サイトの目的は?

こんなに夜遅く。けれどもここを開いて書こうとしています。
mGの家族と古い付き合いのあったアメリカ人宣教師の娘(といってもわたしより10歳ほど年上)のベスにメールで義父のことを知らせたら返事が来ていて、その便りの最後に、
I looked at your Homepage. Is that your poetry? What is the purpose of your own web site? The pictures are beautiful.
とコメントがありました。
ベスはひらがなは読めるはずだけれど、おそらく彼女のパソコンには日本語が出てこずに、写真以外は文字化け状態なのでしょう。

はて、わたし個人のウエッブサイトの目的。
彼女は伝道のためとかそういう答えを期待しているのかもしれないなぁ、牧師の奥さんで、伝道熱心な人だもの。
そんな確固とした目的があるわけではないのです。ただその日自分が歩いた足跡のようなものを残したい、それを読んでくれる人とそれをシェアしたい。

またこれは伝えるということよりもわたし自身の覚書という要素も大きいです。とにかく書かないことにはその日の事がぱあっと消えてしまうような感じがして書いておかなければという気持ちになります。そして書こうとする気持ちを持続できるのはそれを読んでくれる人が存在するからです。

また、どんな人の一日も、たとえそれが何の変哲もないような一日であったとしても、今日という日を生きたということはひとつの奇跡で、かけがえのない時間を過ごしたのだと思っています。
書く事でまた読む事で、お互いの時間がクロスする。わたしはその事がとても素敵な事だと思います。



<今日の覚書 3つ>

父が実家から離れた大分市内の病院から、実家のある町の老健施設に戻ってきた。
金沢に住む上の弟が一泊の予定で実家に戻り、また熊本に住んでいる下の弟が車で送り迎えをしてくれる。久し振りに、わたしを除いた家族が4人、ひとときをいっしょに過ごしたことになる。
施設が近くなり、母が通うのにも楽になって良かった。
父は新しい環境への移行がうまく行っただろうか。


義母が先週の月曜日に引き続いて2度目の白内障の手術。
今日だけ入院し、明日は退院とのこと。

青年Hはいよいよ都内でアパート暮らしを始めた。
まだ学生の身分ではあるけれど、仕事も見つかり、なんとか一人立ちできそうなもよう。


2005年02月20日(日) ゲットしたザックはドイターのナバホ35

山へは行かなかったので、Yさんにザックその他をお返ししたものの、ザックを背負うと重い荷物でも肩に負担がかからないばかりか、トレッキング気分で何か足取りも軽くてよかったなぁと、ザックの事が頭から離れない。

買出し、ジム、実家への帰省。別にトレッキングに限らずとも、ザックは役に立ちそうな気がする。午後ジムへ向かう道で、足はスポーツ店、ヒマラヤへ引き寄せられる。

ネットに書いてあった。ザックはちゃんと中に重いものを詰めて背負ってからフィット感を確かめて買うことと。
この店は店員が急がしそうにしていてこちらから聞かない限りはしつこくかまったりしないから、しばらくは勝手にあれこれと背負ってみていた。そのうち店員が声をかけてくれたので、1万円以下の30ℓくらいのザックで、身体にフットするものと言うと、コールマン、コロンビアといったわたしの知ってるブランドの他にも、フランス製のやらドイツ製のやらを出してくれ、親切にもそのザックに自分の大きなスポーツバッグを詰めるのも手伝ってくれた。

結局背負った感じが一番心地よかったdeuterというドイツのブランドのバックパックに決める。定価8900円が7900円。ザックカバーを買ってちょうど一万円。予算内に収まる。背中にかなり厚めのパッドが縦に2本入っていて、背中に当たる部分の通気が良いように工夫されている。中の仕切りを付ければ2気室になる。

靴やウエアーなどに比べるとザックはそれほど高くない。もっとも本格的な山用のものとなれば話は別だが、わたしのような駆け出し(まだ駆け出してもいなかった)にはこれくらいでちょうどいいのではないだろうか。


家に帰ってネットで調べてみると、以下のような情報が出ていた。deuterはドイターと読み、ドイツのバックパッカーの専門ブランドで、バイカー用のバックパックを初めて作ったブランドで一貫して背中の通気性にこだわっているということだった。

わたしが買ったNAVAJO(ナホバ)35の色はマンダリン。黒とオレンジのコントラストが美しく、またバック全体のフォームも好きだ。

さっそく、ジムの荷物をこのバックパックに詰め込み、背中に背負って歩く。
ジム行き、買出し、旅行、サイクリング、そして本来の目的の山行と、このザックはわたしの力強い見方になってくれそうな気がする。



【ドイター】ナバホ 35
●エアストライプシステム採用
●サイドメッシュ&ジップフロントポケット、デイジーチェーン
●2気室
●サイズ:49×35×27cm 
●重量:980g 
●容量:35リットル
素材
●Deuterバリスティックナイロン420D/スーパーポリテックス600D
アルミフレーム内蔵のエアストライプシステムは背中にフィットします。
Airstripes System
(エアストライプ システム)
縦に二本並んだ強化発泡ウレタンパッドに
細かな溝をつくることで背中への接触面積
を限りなく少なくします。
このシステムによりバイク乗車中の
左右の揺れに対しても安定し、さらに
エアーが背中を吹き抜けるような構造で
サイクリストやバイカーに最適なザックです。




2005年02月19日(土) 冷たい雨の一日

朝から雪混じりの雨。
もともと第3土曜日は仕事をしている英語学校の近隣にあるキリスト教主義の幼稚園の子ども会のある日で、うちの英語学校のネイティブの英語教師のKと参加しているのだが、Kが研修のために行けないので今回は不参加の届けをしていた。しかし、山行が中止になったので、予定変更、一人出かけることにした。

山行き用の厚手のソックスにトレッキングシューズ、ランズエンドのスコールジャケットという格好で、しかも背中にホッカイロまでくっつけているというのに、20分ほど歩くだけで、身体が冷えてきた。平地でこれほど寒さを感じるのであれば、雪山の寒さはいかばかりだろう。南国育ちのわたしは寒さには弱いのかもしれない。おぉ、やはりいきなり雪山なんて無茶な話だったかもしれないと思いつつ、これくらいの寒さ雪山に比べればなんでもないんじゃないのと、いつもなら苛立たしく感じるであろうみぞれも、歩く距離も、山歩きの気分で歩くならいくらでも歩けそうな気にもなる。まったくわたしは気分屋だ。

さて、夜はジムへラテンを踊るにしても、午後の時間がそっくり空いている。今頭を占めていることは実は課題読書のカフカでも書きかけの原稿でもなく、4月のダンスの振りなのだ。これがストンと自分の身体に落ちないことには、心がそわそわと落ち着かない。そこで、ビデオを見ながら昨日の続きを練習する。あぁ、広い鏡のあるスタジオで練習したい!と思いながら、ビデオの置いてある6畳の和室でR&Bのステップを踏む。
「えっ、ここの動き、分からない!」とビデオを巻き戻ししては動きを確かめなければならない。
「あぁ、こういう動きね」
と目では納得しても動いてみると動けない。今日も最後までは「研究」できず残念。

夜のラテンは一箇所どうにも動きが入らないところがあって、そこのところでテンポが遅れたり、人動きと反対になったりと不本意だったが、それでも楽しかった。しかし、こういうのを下手の横好きというのだろうなと毎回思う。

でもね、下手でもやりたいことがやれるという事はかなり幸せな事だと感謝に思います。




2005年02月18日(金) 山行はおあずけ

今朝、山歩きをする友人から「ザック貸すよ〜」とうれしい電話。手持ちのデイパックに荷物を詰め、750mlの焼酎の瓶(あくまでも仲間のため。あたしは50mlがいいところです)まで入れるとかなり重く、ウエストバンドがないと疲れるだろうなあと思ったので、午後の電車に乗ってホイホイと借りに行きました。で、帰りはそのザックを背負い、夕食の買い物などもそのザックに詰め、いかにも山行の帰りといった井出達で電車に乗ったのでした。

ところが帰り道で携帯に電話が入り、明日の山行きの中止の知らせ。仕方ないですね。ずいぶんの悪天候ですもの。ま、楽しみが先に伸びるだけの事。この機会に雨具だのクライミングパンツだのアイゼンだのを揃えることができて良かったことです。友達から借りたザックを背負ってみて、どういうのを手に入れるか感覚も掴めたことですしね。

それより何より、この夏は25年振りに白馬岳に登ろうとmGと話がまとまりました。さて、ジムで鍛えた我々、20代の頃と比べて体力のほどはいかなるものでしょう。ま、松本駅の構内で寝ることまではするつもりはありませんが、山小屋で一泊し、翌日上高地でキャンプくらいはできるかも知れません。

いよいよ我々の熟年トレッキングの仲間入りでしょうか。


2005年02月17日(木) 山行きの装備

今日はジムの後、山行きの装備を整えました。
あ、まだ書いていませんでしたが、明日、文学ゼミの方々との山行きへ初参加する予定です。山は山梨は大月の九鬼山。雪山歩きということです。

四つ爪のアイゼンくらいは持っていった方がいいということなので、ジムの側のスポーツ店でなんとかなるだろうと思っていたのですが、只今品切れとのこと。かといって六つ爪のごっついやつは見るからに大袈裟で7千円近くもするので、後で大宮まで出ることにし、雨具(ラッキーなことに、ゼラノッツのものが半額以下になっていた)とストレッチ素材のトレッキングパンツを買いました。

そもそも雨具も、パンツも手持ちのもの(ポンチョとエアロで履いてるパンツ)でなんとか間に合わせるつもりだったのですが、目の前にそれ用の機能的なものがズラリと並んでいると、やはりこういう装備はきちんとするべきじゃないだろうかと不安にかられたのでした。

さて、アイゼン。夕方大宮のデパートへ出向き、山関係の売り場で、四つ詰めアイゼン、2900円を見つけました。1700円くらいで売ってると聞いていたのですが、やはりデパート価格、仕方ないです。
さて、もう店には用はないはず。ところが目はザックへと。いかにも身体にフットし、背負いやすそうなザックが並んでいます。なにしろあたしが持っていこうとしているザックはウエストバンドもついていないタウン用のデイパック。山歩き用のザックとは根本的に違うということに、今頃になって気がついたというわけです。
しかし、安いものじゃないし、そもそもこれから度々山行きをするかどうかも分からないのに、りっぱなザックを買うのもなぁ・・・と、店員からあれこれ説明を聞き、いくつか背負ってみたあげく、結局買わずに帰ってきました。

帰ってネットで調べてみると、日帰り用の20〜30ℓのザックを選ぶのが一番難しいとか。それならば、今回は簡単なバックパックで歩いてみて、自分の身体でどういうザックを買うべきか知ってから買う方がいいのではないだろうかね。

その昔、学生の頃、mGと二人で白馬岳に登った時は、ザックもだけど、何もかもいい加減なものでした。確かストレッチもきかないジーンズで、ビニールの雨具。それで雪渓を歩き、山小屋へも一泊し、確か山から下りて松本駅の構内で寝袋に入って寝たのでした。
あれを思えばなんだってありという気がしてきます。


2005年02月16日(水) 焼鳥屋から

たとえばこういうのも有りだろうか。焼鳥屋のテーブルに連れ合いと向かい合わせで、かなりのほろ酔い気分で書く日記。音楽はホルストのジュピターをリメイクした歌。タイトルは知らないけど。そういえばこの歌の元歌はミュージカル「十戒」で歌われている。この舞台は3月6日に見にいくべくチケットをゲットしていたのだった。あ、携帯の電池がない。続きは家で。

続きを家で書いています。

わずかお湯割り2杯でかなり気持ち良く酔っ払ったアタシは、駅までの道すがら、大きな声で(自分で言うのもナンですが、美声です)ゴスペルを歌いながら歩きました。連れ合いはほぼあきれて、アタシを置いてさっさと歩いてましたけど・・・

帰りに酒屋へ寄り、彼は日本酒、アタシは誉高い大分麦焼酎「銀座のすずめ・琥珀」をゲットしました。

あぁ、かなりのヨッパです。


2005年02月14日(月) カフカを読む

午後6時、最後の英語教室の子ども達を帰してから駅へ急ぐ。
こんな遅く寒い夜に一人で早稲田まで出かけようというのだから、わたしって、ほんと物好き。しかも参加しようとしている文学ゼミは7時には始まるのだから、どうがんばってみても45分は遅刻。おおよそ一番要の講義の部分はほとんど終わっている。しかし、それでも行けば何か学べるし刺激を受けることができると算段しているのだ。

教える仕事をしていると、学ぶことに、ことさら飢える。ジムでインストラクターから指導を受けることや、講義を受けたり、いろいろな人意見を聞くことが心地よいのは、受けることでエネルギーをチャージしているからなのだろうか。

シャトルで大宮に出て、そこから池袋、大塚とJRを乗り継ぎ、都電荒川線で終点の早稲田まで乗る。そこから徒歩10分足らずで会場の新江戸川公園の松声閣に到着。緑色のビニールのスリッパがたくさん並んだ部屋の戸を開けるとストーブの燃える長机を並べた畳の部屋で、熱っぽい学びがすでに始まっている。


今日のテキストはカフカの「家長の心配」、「最初の苦悩」、「断食芸人」。
昨年9月から参加するようになって翻訳物は初めてだった。そういえば、ここ数年翻訳本をほとんど読んでいなかった。とても新鮮に感じたが、どこか掴みどころがないほど、この作家を遠くに感じた。作家の魂に触れている感覚が起こらない。なにか掴めそうで掴めないもどかしい感覚がある。ドイツの作家だからというのではないだろう。ヘルマン・ヘッセやミヒャエル・エンデ、神学者のバルト、といったドイツの作家に深く沈潜した体験があるもの。


それでも「断食芸人」は食い込んでくる作品ではあった。
始めに考えたのは、芸人、パフォーマーという人間についてだった。
自分を人に晒すということ、見られるということを生業にする人達。そこに共通するもの。自分を晒さずにはおられない欲求というものがあるのではないだろうか。そういう意味では私自身、パフォーマーであるかもしれない。芸と言えるようなものではないとしても、わたしはこうして書くことで自分というものを不特定多数の人の前に晒すことを良しとしている。むしろ晒したいという欲求すらある。

そしてカフカの描く断食芸人と同様、人から感心されたいと思う一方で、また感心されては困ると思っているのだ。なぜならこうして毎日のように書いていることは苦労でも何でもなく、そうせざるを得ない内なる欲求に従っているのであって、少しも取るに足るようなことではないことを熟知しているからだ。
断食芸人の中に見る自己矛盾はまたわたしの内にもある。


サーカス小屋で人に見捨てられた断食芸人は死ぬ寸前に、監督のすぐ耳もとでささやいた。
「うまいと思う食べ物を見つけることができなかったからだ。うまいと思うものを見つけていたら、きっと、世間の評判になんかならないで、きっとあんたや他の人たちみたいに腹いっぱい食っていたことだろうよ。」と。

出版への熱意もそれほどなかったのか、あるいは周囲がその価値を見出していなかったのか、カフカの作品は生前はほとんど出版されることはなかったが、全集数冊分に及ぶほど数多くの作品を書き残している。他になにもうまいと思う食べ物を見つけられなかったということがカフカの書くことへのモチベーションであり、言ってみれば、この断食芸人の断食にも似たものだったのだろうか。


では、わたしはどうだろう。
この作品の最後に出て来る豹。死んだ断食芸人のいた見世物の檻の中に代って入れられた、<生きる喜びが喉もとからひどく強烈な炎熱を持って吐き出される>一匹の豹。
カフカが羨望とも軽蔑や嫌悪とも取れる眼差しを向けているその豹にわたしは似ているかもしれない。書く事しかないというのではない。書きたい、踊りたい、歌いたい、教えたい、学びたい、まだまだ多くの「〜したい」に意識も時間も埋め尽くされている、貪欲な生。
幸せでめでたい人間だ。
幸せなあまり作品が書けないという不幸を負うているにしても。


2005年02月13日(日) 荒野の誘惑

教会暦では先週の水曜日(灰の水曜日)2月9日から受難節(レント)に入りました。キリストの十字架の道行きを3月27日の復活祭(イースター)まで辿っていくわけです。

今日の受難節第一主日の福音書の箇所はイエスが40日間、荒野で断食をし、悪魔の誘惑に会うという箇所でした。悪魔との対決。このテーマではこの日記で以前に書きましたが、今日説教を聞きながら、また新たな発見、新しい理解が加わった思いがしました。

折りしも、翌日のゼミの課題の中にカフカの「断食芸人」という作品があり、その作品を読む上でも、気づきのようなものがありました。
それら、もろもろのことをもっと考えてみたいと思います。まだ文章としてはまとまりません。また今は時間もありません。

そのうち、ここへ戻ってきて続きとして書くか、新たに書くことになるかと思います。とりあえず、聖書の箇所だけ載せておきます。


悪魔とはわたし達にとってどのようなものなのでしょうか。
また荒野とは。

ある意味、わたし達が生きているこの世界そのものが荒野であり、日々悪魔の誘惑に晒されているのだと思います。けれども、そこには神の眼差しが注がれているということ。






マタイによる福音書 4章1節〜11節

 1:さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
2:そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
3:すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4:イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。
  神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
 と書いてある。」
5:次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
6:言った。
 「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
  『神があなたのために天使たちに命じると、
  あなたの足が石に打ち当ることのないように、
  天使たちは手であなたを支える』
 と書いてある。」
7:イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
8:更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
9:「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
10:すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
   『あなたの神である主を拝み、
   ただ主に仕えよ』
 と書いてある。」
11:そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。


2005年02月12日(土) 「モーターサイクルダイアリーズ」を観る

記念日第2弾と称して、恵比寿ガーデンシネマへ、若きチェ・ゲバラの青春を描いた「モーターサイクルダイアリーズ」を見に行く。

これはゲバラ自身が書いた「モーターサイクル南米旅行日記」などを原作としていて、革命家ゲバラしか知らなかったわたしは、ゲバラという生身の人に触れることができ、良い体験をした。

ゲバラ役のガエル・ガルシア・ベルナルはわたし的には久々に出会ういい男。もしかしてわたしはラテン系がタイプなのかもしれない。スペイン語はちっとも分からないのだけど、その言葉のリズムがひどく心地よかった。

ゲバラには小娘の頃から憧れがあった。中学校2年の時、クラスの友達の家に遊びに行った折、その子のお姉さんのレコードのコレクションの中に、ゲバラに捧げる歌というタイトルのLPレコードがあり、革命家ゲバラの風貌や、その歌が伝える熱っぽい空気に心を捉えられてしまった。友達に頼み込んでそのLPを借り、返してと催促されるまで何ヶ月も手元に置いては聞いたり眺めたりしていたのだった。

ゲバラが死地で綴った最後の日記「ゲバラ日記」(角川文庫)を買った。時を経てのゲバラとの再会。

南米の土地や人々は魅力的だった。また映画の中では何度も、土地の人達がラテンダンスを踊る場面が出て来た。
いっしょに観ていた同居人と、「絶対、南米を旅しよう!」と気が合う。モーターバイクで旅する気はしないが・・・



夜は久々の土曜ラテン。1月末のステージ以来会っていなかったメンバーの方達と再び踊ることができて、なんとも楽しかった。今度のステージは4月24日。ラテンに加えて、R&Bも。ビデオで見るとかなりカッコイイ振りです。
これをカッコ良く踊れるかどうかが当面の課題となることだろう。
がんばります!


2005年02月11日(金) 結婚記念日の今日

今日は結婚記念日。勘定してみるとどうやら24回目のようです。
同居人が昨日の内に戻ってきたので、今日いっしょにすごせてまず良かったことです。というのも、どういうわけか、あたし達はこの記念日にあまり縁がない。昨年は、義母が骨折し、わたしはこの日の朝、宮崎に飛んでいますし、その2年前は義父の入院で、泊りがけの温泉行きを取り止めたのでした。で、今回も大変な事があって、実際、結婚記念日のことなど忘れていました。

さて、この記念日に何をするでしょうか。ジム行きに決っています。今やレストランよりも映画よりも我々が過ごしたい場所。それが幸いにも同じというのが、平和というか何というか。ま、24年の年月のなせる業でしょう。

しかしね、同居人。わたしが洗濯したり、支度したりするのを待てないから、朝のうちから一人で行くなんて言っていたのです。結局はわたしが大急ぎで支度するからと11時まで待ってもらって家を出たのですが、彼はレッスンを3本取って、その後サウナに入ったら動悸がしちゃったらしいです。やはり急な運動は、この年齢では考えものかも。

一方わたしは、彼がボディーヒーリングをやっている時に、隣のスタジオでカロリーバーナーやってました。無謀にもいきなりハードなのやって、その後立て続けに2本。別に何事も起こりませんでしたが・・・しかし、ジムの後パスタ屋で食事した時、たった一杯のグラスワインが効きまくり、もう、身体は起きては居られない状態。まだ夕方の6時半だというのに、家に戻るなり、ベッドに潜りこみました。今日はHはバイトで深夜の帰宅だし、もう夕食(これは昼食だと同居人は主張していたけれど)も済んだことだし、わたしがベッドに飛び込んで悪い理由もないでしょう、ふにゃ、ふにゃ・・・と。

ところが、2時間ばかり眠ったところ、階下が何か騒がしいのです。次男Mの声。しかしそれだけじゃない。後二人くらい知らないオトコたちが家の中に入ってきたもよう。パジャマのままでMの部屋をノックすると、つくばからやってきた友達が約二名。
本人が戻ってくることはおろか客連れてくることも言わないんだもの何の準備もしてないよぉ〜。
もらいもののおせんべいや買い置きのビスケットとお向かいの自販機から買ってきた飲み物を差し入れ、さて、これでいいでしょと日記に向かったのでしたが・・・

ん、あたし達は昼兼夕食を済ませてお腹いっぱいだけれど、彼らの晩ご飯はどうなっているのだろうか、今頃気がつきました。
ちょっと聞いてこよう。



良かった!彼らは今日は都内へ繰り出し5回くらい食事をしここへ辿りついたとのこと。一休みしたから、また車でつくばへ帰ると3人で戻っていきました。やれやれ・・・再び静かで平和な時間。


2005年02月10日(木) 歯医者の予約も忘れてしまうほど

二週間ぶりに、家でゆっくり過ごしました。
丁寧に掃除や台所磨きや風呂磨きなどをすると気持ちもさっぱりとなりようやく日常が戻ったような気持ちになりました。
Hも熱が37度台になったので、久々に布団から出て、アルバイトの仕事へ出かけてゆきました。

ところがわたしときたら何か頭がぼおっとしていて、夕方の5時半に歯医者の予約が入っていたことまですっかり忘れてしまい、そのことに気がついたのは、診療時間が終わる7時半でした。2週間前の木曜日に続きまたまた予約をすっぽかしてしまいました。

夜9時、夫が宮崎から戻って来ました。
これですっかり葬儀関係のプロジェクトが終わったことになります。

2月2日の日記をアップしました。


2005年02月09日(水) ほっと一息

今日の仕事を終え、来週のクラスの準備や打ち合わせ、教材作りなどを終え、9時過ぎに仕事場を出て、10時に帰宅し、遅い夕食を済ませやっと一息。
わたしの英語教室の仕事は月曜日から水曜日に集中しているので、何とか病気にもならずに今日までのクラスをこなせてほっとしています。

2月1日の日記を遡って記しました。毎日少しづつ、書いていない日々の日記を書いていこうと思います。

風邪が治り始め、食欲の出てきたHとデリバリーのピザを食べながら、わたしは晩酌。今日のお酒はYさんからいただいた奄美黒糖焼酎「稲の露」。
さとうきびのほのかな甘さに心も身体もふっと和らぎます。

明日の夜には夫も実家から戻ってきます。一人になってしまう義母のことが気にかかりますが、彼女の本来の力強さが戻ってくることを祈るばかり。
時間は前へと進んでゆきます。


2005年02月08日(火) インフルエンザは吹き荒れて

日記をお読みのみなさん、インフルエンザは大丈夫ですか?
我が家にはこれまでとんと縁がなく、予防注射を受けるという発想すらなかったインフルエンザですが、あの図体のでかい次男Mと、風邪のウイルスも怖がって近寄らないのではないかと思える長男Hが相次いでインフルエンザで倒れ、今Hは隣の部屋でうんうんと唸っています。高熱に加え、身体の節々が痛いらしいです。

今朝薬剤師をしている友人のJが電話をくれ、インフルエンザの特効薬タミフルのことを聞きました。なんでも48時間以内に服用すれば、インフルエンザの症状がかなり緩和されるとか。今だったらまだ間に合うかもしれないと、昨夜熱があるといって寝たHを叩き起こし、タクシーで病院まで行かせたことでした。検査の結果はやはりインフルエンザのB型。Hは2度に渡る宮崎行きでアルバイトを欠勤、さらにインフルエンザで欠勤を重ね、もう首になる寸前のもよう、弱り目に祟り目とはこのことです。

英語学校へ行ってみれば、クラスの子の半数がインフルエンザで欠席。インフルエンザの嵐は吹き荒れているようです。この嵐、どうか、わたしの前は素通りして行ってくれますように。




2005年02月07日(月) 歯痛の一夜が明けて

昨夜は一晩中歯痛に悩まされ、朝を待ちました。
今夜こそ、眠りを中断されることなく、ぐっすり眠ることができると思っていたのに、またまた睡眠が取れませんでした。何という不運。
すぐにでも何とかしてもらいたいのに、予約は11時。しかたなく、掃除と洗濯、花の水遣りなどを済ませ、ようやく歯医者へ。

昔治療した歯の奥に病巣があり、炎症を起こしているのが原因。炎症が治まるまで治療はできないということで抗生物質と痛み止めをもらいました。医者とは有り難いものです。あれほどどうにもならなかった痛みが午後は薄れ、クラスを3クラスと、NPOの無認可保育室の理事会を無事こなすことができました。

遅い食事を終えるともう、11時。急ぎ入浴、就寝とします。
今夜こそ無事に眠ることができますよう・・・
ちょっと心配なのは熱が38度5分あるらしい長男Hが今バイト先より帰宅中。インフルエンザかも知れません。

ちなみに次男Mは木曜日、葬儀の前夜に熱発し、土曜日に医者に連れていくとインフルエンザにかかっていました。実に今日まで3日間、宮崎で寝ていて、今日、つくばへ戻ったという次第です。
看病に続く葬儀で過剰な負担がかかり、抵抗力が弱くなるのでしょう。


さて、さて、夜更かしは禁物。
おやすみなさい。


2005年02月06日(日) 戻ってきました

今日の夕方、宮崎から戻って来ました。
27日にばたばたと家を出てから何と11日も留守をしていたことになります。その間、全くと言って良いほど、ここから気持ちは離れていました。
というより、離れざるを得ませんでした。
自分の内側に気持ちを向けることができるということが、どれほど贅沢なことなのか、わたしがいかに日々、贅沢な時間をいただいてきたかが良く分かりました。
そして今、贅沢にも日記を書いています。

この11日間に、看取り、葬儀の準備、前夜式、告別式、葬儀の後始末と一連のことに喪主の妻という立場でかかわり、いろいろなことがあり、また考えさせられました。

夫の家族は祖母の代からのクリスチャンホームで、家族もみな受洗しているので、葬儀はキリスト教式でした。教会での葬儀はこれまでは手伝う立場で、何度かかかわってきましたが、義父の告別式もまた悲しさの中にも清清しさや希望がある良い告別式でした。

詳しいことは、また日を遡って少しづつ書いていきたいと思います。
人の死と息を詰めて向かい合った、貴重な日々だったように思います。


2005年02月02日(水) 看取りの時 ♯2

長い夜が明けた。
カーテンを開くと薄暗がりの中に外の景色が見えている。

朝6時11分に、携帯から夫に
「今わたし一人で看ています。酸素は再び80台です。脈、血圧とも正常です。・・・・・」とメールを送っている。
この時点では、義父は再び危機的状況を潜り抜け、今日も看病の一日が始まるという事を疑わなかった。
その後、義姉と交代して仮眠を取り、8時過ぎに病室へ戻った時には
「今起きてきたとこ。おとうさんが弱っているけど落ち着いています」というメールを送っている。

しかし、その後の義父の様子はこれまでとは明らかに違っていた。義父はしきりに首を振る。しかし言葉で訴えることはできない。疲弊が限界に来ているのではないだろうか。

わたし達が駆けつけた翌日、その日は午後に来るという孫達をまだかまだかと待っている時だったが、医者がうとうとするお薬を使いましょうかとわたし達に聞くと、本人がその会話を聞いていて、はっきりと拒否したので、医者は「気丈な方ですね。ご本人にそういう意志があるのなら、薬を使うのは止めましょう」といい、それ以来、ずいぶん苦しそうな時にも、意識を朦朧とさせる処置が取られることはなかった。けれどもどうだろう。今義父がその処置を望んでいても、自分の口で頼むことはできない。今の義父にできる意思表示はうなずくか首を振るかのどちらかしかないのだ。

わたしは薬を使いたいと父が思っているのではないかと話す。義姉と義母がそれぞれ義父にうとうとする薬を使いたいかと聞くと、義父は二度とも強く頷く。そのことを主治医に伝え、さらに主治医から薬を使うかどうかを尋ねてもらう。義父はそうして欲しいと首を縦に振る。
点滴にドルミカムという薬が加えられる。一番薄い状態で使ってみるということだった。義父はアリガトウと言うように片手を顔の前で動かす。9時半過ぎ。

薬が効き始めたのか、義父の呼吸が穏やかになり、うとうとと眠りに入ったように見えたので、義母と義姉は洗濯などの用を済ませに一度家に戻る。
しかし、義父の眠りは長くは続かず、今までにないほど、目をしっかりと開け、しきりに何か言おうと口を開くのだが、言葉にはならず、義父が言おうとしている事を聴き取ることができない。
せめて、義父が安心することを話したいと、わたし達夫婦が仲良くしていること、子ども達もそれぞれがんばっている事、何も心配ないから安心してと話すと、いちいち頷いてくれる。

その間にも、80台だった酸素の量がずんずん下がり、40台に落ちたので、義母と義姉に早く戻って来た方がいいと電話する。12時過ぎ、義母達が戻って来たので、わたしは夫に連絡すべく、病院の外へ出る。その後、病室に戻ってみると義父はもう意識もないようで、一刻も争えない状況になっていることが分かる。ここからは3人とも一時も目を離さず父を見守る。

やがて酸素の数値が測定不能となる。看護婦と医師が病室に入って来る。医師は手の平に時計を携えている。呼吸は止まったり、吹き返したりをくり返す。そしてとうとう止まったまま、吹き返すことはなかった。
心臓が停止する。
午後1時2分です。医師が時間を告げる。

義父はりっぱに自分に与えられた生を生き終えた。


2005年02月01日(火) 看取りの時 ♯1

1月31日

 義父の容態がずいぶん良くなり、このまま小康状態に入るかもしれないという期待が持てたので、夫と次男は午後の便で自宅と寮に戻る。父は義母と義姉とわたしにしきりに家で過ごせと合図する。母が夜10時くらいまで病室にいて、その後わたし達が交代して夜の付き添いをしようと病室に行くと、強い調子で帰れという動作をする。5日ぶりに初めて父だけ病室に残して、わたし達は家で寝る。
その後はしばらく眠れない夜が続いたのだから、後で思えば、この時、義父がわたし達を帰してくれたことは有り難いことだった。


2月1日 

朝早く父のところへ。元気がない。酸素の量も70台になる。また点滴を入れるための血管がだめになり、もう静脈からは点滴を入れられない。しかしこのまま点滴が入れられなければ、口からは全く水分を補給できない状態なので、体に水を補給できず危険な状態になる。無理かもしれないが、足の付け根の動脈から点滴を入れられるようやってみるということになり、医師は奮闘し、およそ一時間ほどかかって点滴を入れることができるようになった。
父の衰弱は更に進んでいるので、夜もわたし達は3人で交代に病室に残ることにする。

夜中の12時半、急に酸素の数値が40に落ち、夜勤の看護婦さんが達があわてて病室に駆けつけ、肺に空気を送り込んだりという緊急の時の処置をする。
3時間あまり、義母と義姉と共に義父の手を握り息を詰める。
義姉は父親を失うことが耐え難いのだろう、必死で義父をこちらへ引き止めようとしているのが分かる。義母は放心していたのかもしれない。
わたしは大地からのエネルギーを自分の身体を通して義父へ送るヒーリングをする。義父はじっと手を取らせてくれる。心は静かだが、後から後から涙が流れ続ける。血縁と別離する引き裂かれるような痛みはなく、ひとりの人の終末の前に感動にも近いものを感じていたような気がする。

明け方3時過ぎ、酸素の数値が40台から70台、さらに80台にまで落ち着いたので、わたし達は交代で仮眠を取る。


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