たりたの日記
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2004年09月30日(木) 青年H,旅より帰還

9月の初め、コスタリカへ向けて旅立ったHが、この日、予定通り帰宅。
しかし17キロの巨大バックパックは大韓空港のミスで、ロスアンゼルスに取残されたまま、機内に持ち込んだ小さなバッグだけ持ってご帰還だった。
そのバッグにmGへのお土産のブランデーとわたしへのお土産、グアテマラで買ったという手作りのネックレスが入っていたのは幸いだった。荷物は翌日の午後には自宅へ届けられたが。

真っ黒に日に焼けたHは、機内ではほとんど眠れなかったといいながらも、旅の疲れも見せず、2時間ほど旅の話を興奮交じりに話して聞かせる。

一人旅は予想以上に収穫があったようで、行く先々のバックパッカー用の宿泊所で、様々な国からやってきているパッカー達とのおもしろい出会いがあったようだ。宿泊所でいっしょになった「国境なき医師団」のメンバーのイギリス人医師に、肝炎の予防のワクチンを打ってもらったり、ドイツ人の青年と意気投合してしばらく行動を共にしたり、イスラエルから来ている男女のカップルといっしょに旅したり、ベリーという国の国境で足止めを食っていた時、日本人の青年が持ち金が尽きて窮しているいるのを知って、100ドル貸したりと、あれやこれやのエピソードはなかなかわくわくするものだった。

コスタリカへ行くとだけ聞いていたが、結局はメキシコ、グアテマラ、ベリー
をまわり、数日間スペイン語の集中クラスを受け、マヤ遺跡を巡り、海に潜り、でサメやエイといっしょに泳いだということだった。

ああ、なんともうらやましい話。
どうせ海外に行くのなら、ホテル宿泊のツアーではなく、バックパッカーの旅をしたいものだ。
さて、いつになったら行けることやら。


2004年09月29日(水) 送り出す歌、アメイジング・グレイス

よしやさんの告別式。
献花の時、アメイジング・グレイスを歌う。
前の晩、よしやさんのお父さんからこの歌を独唱して欲しいと頼まれたのだったが、とても歌える自信がなかったのでお断りしていた。
きっと泣いてしまって歌えないだろうと思ったのだ。


朝になって、この歌が自然に口を突いて出てきた。何度も歌った。歌っているうちに、この歌をやはり告別式で歌おう、きっと歌えると思えてきた。
よしやさんのご両親に「お別れの歌を歌わせていただきます」と言うと、とても喜んでくださったが、お父さんが、「お別れなんてだめですよ。よしやを送り出す気持ちで歌ってくださいよ」とおっしゃる。
そう、そうだった。
告別式のプログラムはすでに出来ていて、歌に時間を割くことができないということだったので、参列者が献花する時に歌うことになった。


この歌を去年の6月13日にやはり教会員のKさんの告別式で歌った。
Kさんが亡くなる前に、告別式の中で歌ってほしいと頼まれていたのだった。
あの時、数人の方から、わたしの葬儀の時にも歌ってねと頼まれた。
みなさん、まだまだ長生きされるように見えたので、わたしがその時生きていればねと答えたことだった。あの時、1年数ヶ月後に、よしやさんの告別式で歌うようになるとは、誰一人考えてもみなかった…


Kさんの時のように最初英語で歌い、その後、日本語になっている讃美歌(讃美歌第二編 167番)の一番、三番、五番を歌う。
今回は無伴奏で歌う。その後、オルガニストが用意していたゴスペルソング数曲の中から「忘れないで」「知っていますかイェスさまを」をオルガンの伴奏で歌う。


告別式の後、多くの方々といっしょに火葬場へ行った。
お骨を箸で骨壷に入れるという習慣は、やはり淋しく、やりきれないような気持ちになる。例え肉体が魂を入れる物に過ぎないということは分かっていても、やはり淋しい。
けれど、こうした葬儀の手順をひとつひとつ踏みながら、大切な人の死をゆっくりと受け入れていくということなのだろう。




♪Amazing Grace!
 How sweet the sound.
 That saved a wretch like me!
 I once was lost, but now I'm found,
 was blind but now I see.


♪われをも救いし くしきめぐみ、
 まよいし身もいま たちかえりぬ


♪くるしみなやみも くしきめぐみ
 きょうまでまもりし 主にぞまかせん

♪この身はおとろえ、 世を去るとき
 よろこびあふるる み国に生きん


2004年09月28日(火) よしやさんの葬儀前夜式




よしやさんの葬儀前夜式は、よしやさんが好きだったという教会讃美歌337番「やすかれ、我が心よ 主イェスは共にいます」で始まった。
これはシベリウス作曲「フィンランディア」の主題に歌詞を付けたもの。わたしも好きな讃美歌のひとつ。よしやさんの病気の事が分かってから、教会学校の礼拝の中でオルガンで弾き、また友人と共に歌った歌だった。


この礼拝の中で用いられた詩篇を記しておこう。
葬儀という儀式の中で、古から詠み継がれてきた詩をそこにいる人皆で唱和する習いは好きだ。
この詩を知る者も知らない者も、またキリスト者も、そうでない者も、共に声を合わせ、詩を交読する。
個々の思いが一つに集まる。


詩篇 90編 1〜12 (神の人モーセの詩)


 主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ
 山々が生まれる前から
 大地が、人の世が、生み出される前から
 世々とこしえに、あなたは神


 あなたは人を塵に返し
 「人の子よ、帰れ」と仰せになります
 千年といえどもあなたの目には
 昨日が今日へと移る夜の一時(ひととき)にすぎません。
 あなたは眠りの中に人を漂わせ
 朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい
 夕べにはしおれ、枯れて行きます。


 あなたの怒りにわたしたちは絶え入り
 あなたの憤りに恐れます。
 あなたはわたしたちの罪を御前に
 隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
 わたしたちの生涯は御怒りに消え去り
 人生はため息のように消えうせます
 人生の年月は七十年ほどのものです
 健やかな人が八十を数えても
 得るところは労苦と災いにすぎません。
 瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
 御怒りの力を誰が知りえましょうか。
 あなたを畏れ敬うにつれて
 あなたの憤りをも知ることでしょう。
 生涯の日を正しく数えるように教えてください。
 知恵ある心を得ることができますように。



聖書の箇所は コリントの信徒への手紙(二)、4章18節〜5章5節

「私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
 見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
 私たちの地上の幕屋が滅びても、神によって建物が備えられることを、私た ちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかで す。私たちは天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上 の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸の ままではおりません。この幕屋に住む私たちは重荷を負ってうめいておりま すが、それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずの ものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着た いからです。私たちを、そのようになるのにふさわしい者としてくださった のは、神だからです。」
 

S牧師による説教「永遠の住みかを着る」の中で、この聖書の言葉が解き明かされ、よしやさんの死がけっして空しいものではなく、苦しい地上の幕屋から解き放たれ、いよいよ永遠の住みかを上に着たということを告げられる。
花に囲まれ、遺影の中で笑っているよしやさんの、これは門出を祝う時なのだと、またその思いを強くする。
 
 


2004年09月27日(月) 別れ・旅立ち





今日の夕方、友人のよしやさんが癌のため亡くなりました。


ついこの前の金曜日にはまだまだ闘いはこれからだという感じで、普通に話もできたので、突然の訃報にどうして!と思わずにはおられませんでした。


けれども、この時を神が定め、よしやさんを神の元へと招かれました。
わたし達、地上にいる者にとっては、別れですが、よしやさんにとっては、晴れやかな天への旅立ちの時なのだと、心は静まっていきます。

そうして、またわたしも、そしてあなたも例外なく、命の源へと帰る時が
来ることをまた思います。

メメント・モリ(あなたの死を覚えよ)

けれど、別れの式はつらいです。
おくさんのタミは、また家族のみなさんは切り裂かれるような痛みの中にあることでしょう。
そこに癒しがあることを祈ります。


教会では明日の7時から前夜式、明後日の午後1時から告別式が行われます。よしやさんの事を遠くから祈ってくださっていた方々がおられることを知っています。
これまで、お祈りをどうもありがとうございました。
どうぞ、よしやさんの旅立ちを祝して下さい。
そして、残されたご家族のことを覚えてお祈りください。


2004年09月25日(土) 新しい出会い

今日は錦糸町、すみだトリフォニーホールへ、楽団あぶあぶ&ミュージカルティームLOVEの公演を見に出かけ、その後、5時からの 正津勉さんの文学ゼミに出席すべく、 新江戸側公園へ。ゼミでの読書会の後、2次会にも混ぜてもらって高田馬場の居酒屋へ。

ステージも、ゼミもそこにあったのは新しい人との出会いと、新しい世界との出会いだった。今のわたしに必要なものが、そこに置かれていると感じた。
このことは明日の日記に書くことにしよう。


2004年09月24日(金) ゴザンスメールマガジン最終号





今日、ゴザンスメールマガジン最終号が発行されました。


ゴザンスの存在を知り、初めて投稿したのはちょうど1年前。この1年間、800字小説、ことばあそび、そしてテーマやコラムなど、さまざまに「書く気」を促し、また励ましてくれたゴザンスでした。


ネット上とはいえ、自分の書いたものを読んでくれ、ピックアップやマガジンに取り上げてくださったり、コメントをくださったりと、そこには編集者と書く者との血の通った交流が存在しました。
ゴザンスの100人のための本の企画で出版された「育つ日々」、それを作り上げるまでの編集者とのやり取りは今となっては貴重な体験であり、また得難い思い出です。
この1年間、ゴザンスからしっかり育てられたことを感謝します。
ありがとう、ゴザンス!

マガジンの今回のテーマ「卒業文集」では、わたしが寄稿した「タリタ・クミー少女よ起きなさい」が取り上げられています。
編集者から、卒業文集に寄せて書いていただいた文章を記念に、今日の日記に貼り付けておきたいと思います。




■たりたくみさん「タリタ・クミ ―少女よ、さあ、起きなさい」
 >> http://writer.gozans.com/writer/1495/
 勇気を持って、信じてすすむことのできる人なのだろうな、ということを、作品を通して感じさせる力があり、作品を読めば読むほど「この人はどんな人だろう」と思わせられます。そしてまた作品を読みたくなってしまいます。


2004年09月23日(木) 「アイ・ロボット」を観た

久し振りにシアターで映画を見た。
だいたい映画に行かない?と同居人に持ちかけるのはたいていわたしの方で、彼がそれに付き合うという図。たまに同居人がどうしても見たくないというのもあり、そういう時は昼間、一人ででかける。
そう、いろいろ気は合うものの、映画の趣味においてはかなり違う。最近はレンタルのDVDがあるから、わたしはわたしで彼は彼で、好みの映画を部屋の向こうとこちらで見るということができるから、お互いに歩み寄る必要もなくなって都合がいい。

で、今日は珍しく、同居人からのお誘いだった。
「アイ・ロボット、好みじゃないだろうけど、行かない?」
彼が言うには、エンジニアとしての日々の仕事と無関係じゃないから見ておきたい映画なのだと言う。未来の科学にも、エンジニアの将来にもおよそ興味と関心のないわたしだが、夜の遅い時間、大きなスクリーンを前に、少し斜めになったすっぽりとおしりを包み込むような椅子に深く腰をおろし、ひたすら無心に画面を見つめるというそれだけでも十分魅力的だと思った。帰りも車で楽チンだし。
「いいよ。眠るかもしれないけれど」
と同意する。


果たして、「アイ・ロボット」おもしろかった。見終わった後、何度もおもしろかったねと口にするほど楽しんだのだった。文句なしのエンターテイメントだった。楽しい映画なんてつまらないというわたしの日頃の言い分がこの日ばかりは通用しなかった。だって楽しんでしまったのだ。

さて、しかし、この映画、よおく考えてみると、空恐ろしい話しだ。不完全な人間がどんなに「まちがいなく」、人間に役立つロボットを作ったとしても、そこに綻びができる。その綻びの重大さにまず気が付いたのが、ロボットの生みの親である博士だった。博士は自らの命を捨てることで危機を阻止すべく一人の刑事に託す。
これ以上書くとネタバレになってしまうので、このくらいにしておこう。
それにしても、刑事役のウィル・スミス、かっこよかったなぁ〜。


2004年09月22日(水) 今日したこと、考えたことなど

もう9月も終わりに近づいているというのになんて暑い。
今日は午前中につくしんぼ保育室の「幼児とお母さんの英語クラス」
急ぎ夕食の準備。ポテトサラダを山のように作る。洗濯物も乾いているので取り込む。
午後から英語学校で幼児とお母さんのクラスと年長児クラス。
その後ミーティングと来週のクラスの準備。教会学校の礼拝のためのオルガンの練習と讃美の集いの準備。会社帰りの同居人mGと共に9時前に帰宅。遅い夕食。

通勤の電車の中と空いた時間、この土曜日に参加しようとしている正津勉ゼミのテキスト、富岡多恵子の「遠い空」を繰り返し熟読。この作家のエッセイをおもしろく読んだ記憶があるが、小説は読みかけたものの、入っていけずに止めた。ところがこの「遠い空」は最初の一行目から最後まで、引き込まれた。

初めて覚える読書後の感覚があった。この甘さのなさ加減はどうだろう。わたしの書くものやその方向が砂糖まみれの甘ったるい感じがしてくる。同時に何か背中をドンと突っつかれるような感じ。同じ女として、彼女の書いているその世界、そこに起こる感情は自分のことのように分かるということに気が付く。しかし、わたしはそういうものを表現しようとか書こうとかまるで考えてみたこともなかった。意識に上らせることすらなかった。そういうわたしというのは何なのだろう。そうして、それを書く彼女というのはどういう人なのだろう。

ゼミでどんな話しがされるのだろう。この作品がどのように読まれるのかということの興味が未知の世界へ出かけることの不安に勝っている。
こうして知らない世界と出会いが続く。
そのことの意味は、最初は少しも分らない。けれど、後になってから、その事の必然がちゃんと見えてくることはもう学習済み。
だからやってくるものには可能な限り背を向けないで、向かっていくというのがわたし流。


2004年09月21日(火) 詩人たちが残した愛の詩を旅して

ここ一月ほど、ひたすら辻仁成の著書に没頭してきたが、自叙伝風小説「刀」を読んだところで、ようやく気が済んだ。
一巡りの旅が終了したようなそんな気分。


では今度は何に向かって旅しているかといえば、この百年の間に生きた詩人50人の恋愛の詩、そして相聞句歌へ向かって。
旅のガイドは、正津勉著「詩人の愛ー百年の恋、五〇人の詩」と「刹那の恋、永遠の愛ー相聞歌40章」
読みながら、時間と空間を越えてひとりひとりの詩人や歌人の心へ深く降りていくような行くようなそんな集中が生まれる。


知っている詩人や歌人、文人もいるが、初めて出会う詩人も多い。
いずれにしろ、こんなにも真剣に人を恋し、その証としての詩や歌が残されている事に不思議な感動を覚える。
人間の一生のなんと儚いこと。ましてや恋などはさらに儚いもの。けれどもそこに起こる強い感情や、苦しみや喜びは言葉に残されることで永遠のものとなる。
その詩や歌は作者を遠く離れて、今を生きている者達の魂にすっと寄り添う。恋愛の詩が心に触れるのは、それがひりひりとしたむき出しの魂で書かれているからなのだろう。
わたしは恋の詩が好きというよりも、この何もかも脱いだようなむき出し具合が好きなのだと思う。


そういえば、連れ合いが、昨日のWeb日記に珍しく恋の詩らしきものを書いていた。わたしはそれをふんと鼻先で笑ったり、どういう意味!と目尻を吊り上げて追求したりはしない。
その事をおおいに評価したいと思う。ホントに。
いい歳して、いえ、いい歳になったからこそ、書ける恋の詩というものが
あっていい。


で、あたしも書こう、恋愛の詩、あるいはストーリー。





2004年09月20日(月) 敬老の日に、伯母を訪ねる

敬老の日。
本来ならmGの両親とわたしの両親を訪ねるべきところなのだろうが、
九州まで帰省するわけにも行かないので、この日は世田谷に住む、わたしの母の姉夫婦を訪ねることにしている。

伯母は母より10歳年上だから今年85歳。身体は弱ってはきているものの、伯母も伯父もまだ元気で、頭もしっかりしている。
行きがけデパ地下の寿司屋で、敬老の日の祝い弁当を買い、mGの運転で車ででかける。

従兄弟と伯母と伯父と、この日ばかりは親戚の会話をする。とにかく親、兄弟、親戚とはみな離れているから、日常の生活の中に親付き合いというものがない。だから1年に一度か二度のこの親戚の家への訪問はちょっとしたイベントだ。
今回は、もう一人の従兄弟の娘、つまり伯母の孫が飛び入り。5年ぶりかに会うUちゃんは、もう社会人になっていて、小さい頃の面影を探すのは難しい。
時がずんずん進んでゆく。


伯母から、おもしろい話を聞いた。
大学病院の看護学校を卒業してすぐに就職した病院がなんともツマラナイ病院だったので、いっしょに就職した友人と2人で一晩だけそこに居て、次の日、窓から行李を放り出し、すたこらさっさと夜逃げしたという話しだった。
伯母は田舎のしょぼい町医者なんかで働くよりは新天地の大きな病院へと、
一人上海へ渡る。初めて聞く話だ。
今までに知らなかった伯母の一面が見えてきて愉快だった。
わたしは母よりは伯母の方に似ているかもしれない。


2004年09月19日(日) 険しい山道を


コスタリカに向けて9月のはじめに旅立った我が家の青年Hは、どうやらグァテマラのスペイン語学校で一通りの「勉強」を終えて、メキシコへ入るとメールあり。
なにしろ彼は金を持っていない。現地でシティーバンクの口座から降ろすという計画だったようだが、出発前の手続きに不備があり、銀行から自宅に届くはずになっている暗証番号が2週間経っても届かない。キャッシングができるようになったのはようやく昨日になってからだった。
いったい食べているのか、夜露はしのげているのか、その土地の事情も分らないので心配だったが、なんとか無事に旅を続けているようす。やれやれ…


よしやさんは抗癌治療の効果があり、副作用も少ないので1週間ほどで退院したのだったが、再度入院。夕方mGと病室を訪ねる。
タミと二人でベッドの上にいた。食道を通る水や食べ物が飲み込めないという問題が起こった。薬の副作用のせいかもしれない。点滴で水分と栄養を補給しているとのこと。
つらい時を迎えている。道は今までになく険しいように見える。
よしやさんもタミも笑顔を失ってはいないが…
導きと癒しがありますよう。


前にこの日記、メメント・モリの記事で書いたY先生が顔面骨折のため昨日入院した事を聞く。ここのところすっかり身体が弱っておられて、歩行するのも大変なご様子だったが、明日は途中で休会になっていたダンテの「神曲」の読書会をリードして下さることになっていた。そんな矢先の思いがけない事故。早く回復がなされますよう。魂の平安を。


生きるということは、ほんとうに、険しい山を登るようなものだと、また思う。平坦なところを歩いている者だって、いつ道は険しくなるか分らない。
天候は瞬時にして変わる。霧が出る、雨が降る。それでも前へと進んでいく他はないもの。


願わくば、厳しい一歩、一歩を、主が共に歩いてくださるように。
歩く力がなくなる時があれば、主が背負うて歩いてくださるように。




2004年09月17日(金) 隠されているもの・照らし出されるもの



そこにあるのに、目には見えないものがある。
それは何者かによって、その姿が隠されているからだ
それが見えるようになるために
わたしたちは肉体の目ではない新たな目を持つ事を求められる
そこに在るという、妙に確信に満ちた勘のようなものが
わたし達を駆り立てるのだ
見えるようになりたいと
見えるものにされたいと
暗闇に目を凝らす

なぜ、またいつ、見えないものが見えるようになるのか
それは誰にも分らないが
ある時
それまではただ闇であったところに
ひとすじ光が射す
微かな光はそこに在るもののかたちを予感させる
さらに目を凝らす
無心に見ようとする
捉えようとする
するとそれに答えるかのように光は次第に明るさを増し
隠されているものをゆっくりと照らし出していくのだ

そうしてそのものを目にした時
魂は自分に向かって言う
わたしはこれこそを見たいと願ってきたのだと

隠されているということは
それを隠している者が存在するとうこと
照らし出されるということは
それを照らし出す者がまた在るということ
わたし達はその存在と渡り合わないわけにはいかない


2004年09月16日(木) 辻仁成の「愛と永遠の青い空」を読んだ


昨日のうちに辻仁成の「愛と永遠の青い空」を読み上げ、今日から「刀」を読んでいる。これで11冊目。


辻氏のこれまでの作品は青年が主人公で、扱っている世界も、写真や絵や音楽といった芸術の分野、いわゆるトレンディーなストーリーなのだが、この「愛と永遠の青い空」の主人公は75歳の妻に自死された男、周作。頑固一徹の戦中派。真珠湾を攻撃した時のパイロットだった。


妻の死の意味、戦争の意味、自分が生きてきた事の意味。この物語の最初からずっと投げかけられているのは、すでに人生を締め括ろうという時期を迎えている周作の問いだ。そして読者であるわたしは、その本を読むことで、周作の問いをいっしょに探そうとしていることに気がつく。わたしが周作といっしょに探そうとその本の世界にのめりこんでいったのは、その問いが、わたし自身の問いと無縁でないことに深いところで気が付いていたからなのだろう。


戦友2人とハワイへ行き、真珠湾で攻撃を受けた側のアメリカ人や二つの祖国の間で苦しんできたアメリカの日系人達に出会う。また周作はその旅に妻小枝が残した日記を携えている。
これまで生きてきた事がらと、ひとつづつ出会い直しをし、そこに新しく意味を発見していく周作。それは単なる回顧や後悔などではなく、自分の過去との出会いなのである。


わたしが今この著者の作品を読みたい理由として、ひとつには作品全体を通して自分を超えたところにある神の視線とでもいうべきものを感じることを、前の日記にあげたが、今回は、作家の人生への捉え方、そして生きるということがどういうこと、あるいは死がどういうものなのかという真摯な問いかけに、共鳴しているのだという事に気が付いた。
こんな言い方を許してもらえるなら、その捉え方の具合や、問いの深さ加減が、わたしのサイズに合っているということなのだろう。
それが浅ければつまらないと思うし、また深すぎれば共鳴するに至らない。

また男性の身勝手さを描けても、その事の故に傷つく女性を、納得の行く書き方で書く男性作家になかなか出会わないと思ってきたが、辻氏の作品に出てくる女性の内なる訴えや叫びなどは女性として十分共感ができる。そもそも男性なのだから女性の側に立って書くということは難しいに違いない。しかし彼の作品の中の女性達は男の目が見た一方方向の女ではなく、女が女としてきちんと書かれていると思うのだが、どうだろう。

最後にこの本の題名、「愛と永遠の青い空」というのは、なにかインパクトに欠ける気がする。むしろ副題の They rest in peace(彼らは平安のうちに眠る)の方がぴったりするのだが。
そう、この本の中にはいくつもの死が描かれ、また死の向こう側へと行った霊たちも、重要な登場人物として大切なメッセージを伝える役目を担っている。
この世の旅を終えて、休みへと入った彼らは確かに平安の中にあって、そのことが生きる者への励ましとなっている。


2004年09月15日(水) 問い 

      問い


ど  どこからやってきたの、わたし
こ  この時代を選んだのはなぜ
ま  まあるい地球に降り立とうと
で  出てきたのは何をするため

も  もうずいぶん歩いてきた
と  遠いところへも旅してきた
お  思い出はバッグに入りきれないから
く  苦しかった記憶は捨ててしまおう

へ  返事はまだですか
い  行こう、それならまだこの先
こ  ここに生きることの意味を問いかけながら
う  上を仰いで




ゴザンスの最後の【ことばあそび】を投稿しました。
頭の文字は「どこまでもとおくへいこう」

今回は少しも悩まずに、あらかじめ考えたりもせずに
いきなり最初の文字からやってくるインスピレーションに任せて綴りました。5分もかからなかった。

このことばあそびがゴザンスの初めての投稿でした。一年前の事です。
不思議なもので、制限が与えられているから、茫洋とした「いいたいこと」
の中から、一筋の糸のようなものが顔を出すのです。
それが、自分の言いたいことと違わなければ、後はすうっとそこから糸を引き抜くように頭の文字に連なった言葉がするっと出てくるのです。
おもしろいものだなあと思いました。

この課題がもうなくなるというのは、なんとも寂しいのですが、時々、自分で文字を考えて、このことば遊びを続けていきたいという気がします。

ちなみに、これはアクロスティックという詩作の方法のひとつです。




2004年09月14日(火) 温いお風呂の中で「スーラの点描画のなかでのように」を聴いた

仕事は午後からなので
今日は朝風呂に浸かりながらディーバのCD「なあに?」を聞いた。

あまり大きな声では言えないが、何もない日の午前中、温いお湯に浸かってお風呂の中で過ごすのが好きだ。
風呂の中で何をするかといえば、考え事をしたり、本を読んだり、書いたり、ヨーグルトとバナナとシリアルの朝ご飯を食べたり、つまりテーブルの上ですることをそのままお風呂の中でやる。
そこにはパソコンがないためか、あちこち歩きまわるスペースがないからか、やろうとしていることに文句なく集中ができる。これがいい。

いろいろやるが、そういえば音楽はあまり聴かない。風呂は無音が、せいぜい虫の音くらいがいい。
それなのに、この朝、風呂にCDを持ち込んだのは、集中して聴きたいCDが頭に浮かんだからだ。

このCDの中に入っている「スーラの点描画のなかでのように」と「おやすみスプーン」という歌の歌詞が、この前の朗読会で自作の詩の朗読をされた正津勉さんの詩だった。

もう、ずいぶん前にこの歌を通して、この詩に出会っていたのだったと、今になって気が付く。
谷川俊太郎さんの「ことばあそびうた」のいくつかの詩も、このCDの中で歌として聴くことができる。

しばらく聞いて、そのうち聞くことを忘れてしまっていた歌は、また違う風に聴こえる。
それは、わたしがその時のわたしとは違っているからだ。自分の内に起こった変化はそんな事からも分かる。

今ここへ来て、再びこの歌や詩に出会ったことの意味はなんだろうと、温いお風呂の中で考えを巡らせていた。


2004年09月13日(月) パソコン、危機免れる

わたしのパソコンが動かなくなってしまったことは
数日前の日記に書きましたが、同居人mGの尽力で、
なんとかその脳の部分は無事に、本体から取り出し、
記憶を別のPCにすっかり移すことができたので、
情報が失われる危機からは免れました。ほっ、です。

後はPCの心臓が止まったままになっているので、
これを店に持って行き、なんとか蘇生させていただ
かねばなりません。
いったいどこが悪いんだろう…

今年は我が家の青年達がそれぞれに入院をするとい
う異例さでしたが、わたしのPCも今年2度目の入院。
続く時は続くものです。

これから先は、何事もなく、今年を乗り切りたいもの
です。
夏の疲れが出る頃、身体に気をつけましょう。


2004年09月11日(土) 声のライブラリー(自作朗読の会)へ

朗読を聞くのは好きだが、作家自身の朗読となればさらに興味が湧く。しかも今回はわたしが好きというよりはむしろ崇拝している高橋たか子氏が最新作の「きれいな人」を朗読するというので、まだ6月の内から参加の申し込みをしていたのだった。主催は駒場公園の中にある「日本近代文学館」。今回で38回目の声のライブラリーということだった。


この朗読会のことを知らせてくれたのは、高橋たか子研究会のサイトの常連になっているネット友のS。朗読会は午後2時からだが、朝9時には羽田に着くという彼女と渋谷で待ち合わせる。そこから会場に最寄の駅、駒場東大前までは井の頭線で2駅。駅のすぐ目の前に東大教養部の門。静かな住宅地の中の道を通って会場までは徒歩10分。わたしたちは、その途中にぽつりとあったpiyokoという、いい感じの店構えの店に入る。テーブルが3つほどの小さな店内には不釣合いなほど、たくさんの種類のシフォンケーキがケースに入っていたが、どうやらシフォンケーキが有名な店らしい。そこには豆とひき肉のトマト煮と五穀米という、Sとわたしにぴったりのメニューがあり、そこで再会を祝して、早い昼食をゆっくり取る。オレンジシフォンケーキも、リラックスローズという名前のハーブティーも忘れられない味だった。


ずいぶん、ゆっくりと過ごし、道に迷いながらようやく会場に辿りついても、開場まで30分あったので、その文学館の展示物を観る。日本の近代文学を担った人達の写真や年賦、初刊本や直筆の原稿などが興味深かった。
しかし、Sもわたしも、実のところ、これから起こる出来事の方に心はすでに奪われている。開場するや、一番乗りでホールに入り、Sから促されて一番前の席を確保する。


朗読会と、それに続く座談会は3人の作家によるもので、高橋たか子さんの他は やはりカトリック作家の森内俊雄さんと詩人の正津勉さんだった。
正津勉さんのことは知っていた。いつだったか「詩の雑誌」で、谷川俊太郎さんと正津勉さんの対談を読んで興味を覚え彼のホームページへ行き、文学を学ぶ誰でも参加可能なゼミを月に1,2度開いていると知り、ユニークな詩人だなと思っていた。



高橋さんは予想していた以上に、そぎ落とされていた。不必要なものは一枚一枚脱いで、もうどんなこともふっきったとでもいうような素の人になっていた。それは彼女が小説の中で描き出そうとした「きれいな人」そのものという印象だった。

実際、化粧もせず、髪もシンプルそのもの。そして、意外なことにジーンズジャケットにスカートという装いだったが、それにしたって近くの八百屋さんの店先や、家のまわりを散歩をしたりしている高橋氏に会ったような飾りのなさだ。おそらくその会場のいた人間の中で、最も装わない格好だったかもしれない。
高橋氏が文章の中で繰り返し書いておられることが、もうひとつストンと落ちた気がした。
装いに限らない。この世の中のもの、自分自身に対してすら、すっかり執着がないといった、その人の今の地点での境地、その人の方向、そんなものがその存在を通してすっきりと見えている。
このような大作家にこのような表現が許されるかどうか分らないけれど、その何も余分なものを貼り付けていない晩年の作家は、なんとも愛らしく、思わず笑みがこぼれてしまう。女性的というより、むしろ男性的な感じすらしたのではあったが…


京都の言葉のアクセントで、淡々と読まれているのは、その小説「きれいな人」の中に出てくる、100歳を迎えるシモーヌ夫人の詩の部分だ。


     すべては思い出だ
     と、或る日に気づいたわたし
     或る日といってもずっと昔のこと
     以来、すべては思い出
     過去のすべてが思い出だという
     あたりまえのことではない
     今、その時それ自体、思い出なのだ
     現在を生きているのに現在を思い出す 

     ここに生きているわたしを
     わたしが思い出している
     まるで、わたしが生きていないかのよう
     別人がわたしを思い出しているかのよう     

     ・・・・・・・・・・・・


彼女らしい表現やそこから立ち上ってくるものはそのままだが、わたしが書物を読みながら聞いていた作者の声や語り口調よりもはるかに色がなく、
ニュアンスもなく、さっぱりと透明な、淡々とした言葉たちだった。だからこそ、真に内面的な朗読なのだろう。それほどに彼女の内面には虚飾がない。

文字だけで、その人の書いたものだけで知るその人と、実際の血の通う肉体を持つその人との間にある差異はこれまでに何度も体験してはきたが、この日の出会いには、実際の人物に会うことで、なるほどと深く納得できるものがあった。
この出会いは本当に貴重だった。高橋さんは、人の前で朗読するのはおろか、今まで講演もした事はないというから、これはめったにない稀有な機会だったのだ。


正津さんの朗読はとてもチャーミングだった。熟年にしかない、若やぎとか、しなやかさとか色っぽさとか、そういう豊かなものが伝わってくる。
そして山の話しをする時、また山の詩を読む詩人は、高みを見上げるしんと静かでスピリチュアルな冷気をまとっておられた。
高橋さんの枯れた感じとは対照的だったが、今の年齢を生きている正津さん
の満ちているものが伝わってきて心地よかった。


さて、座談会の後はサイン会。
Sとわたしはまたしても真っ先に、高橋さんのサインのテーブルに並ぶ。
せっかくあこがれの作家を目の前にするのだから、目と目くらいはしっかり合わせたいと思うのだが、何しろたくさんの人間、しかもおそらくみなが高橋さんのファン。そういう人間と顔を合わせるのは高橋さんは得意ではないはずだ。うつむき加減に黙々とサインをしていかれる彼女にわたしは前の日に書いたファンレターをおそるおそる差し出した。
「はい、はい」と淡々と受け入れてくださる。
目は合わせないままに。


正津さんは著書「詩人の愛」にサインをして下さる時に「たりたくみさん、前にどこかでお名前見ましたよ。前にお会いしましたね」と親しく声をかけてくださる。「いいえ、お目にかかるのは初めてです」と言いながら、またしても起こるデジャビュ。
こうして人と人がさっと横切る時、そこに留まる何か。
わたしはこの先、この詩人のことをもっと知ろうとするかもしれない。


わくわく、どきどきしながら歩いて来た住宅地の静かな道を、安堵感の混じる高揚した気分でSと共に歩いて行った。
「今日は幸せだったね」
と、言いかわしつつ、お互い同じ想いでいることを心の内に嬉しく感じながら…




2004年09月09日(木) おもしろいアート

一日遅れだが、この日の事を記しておこう。
午後、桶川市の古い日本家屋をギャラリやお茶室にしたところで開かれているダテくんの個展へ行き、そこで、マオさんや真春さんと久しぶりにお会いした。ダテくんとはミュージカルの公演以来だから1年半ぶりだ。あの時には大道具、小道具、黒子になって舞台を支えてくれる役だったけれど、彼自身はもともと表現する人だったのだと改めて知る。ダテくんの作品を見ることができてよかった。

彼の作品はいわゆる壁に掛かった絵や、テーブルの上に置かれたオブジェではない。いろいろなところから集めたおもちゃや古い道具や古着、そんなものと、彼の描いたデッサン画が、たとえば引き出しの中とか、お膳の上とかに並べられてある。わたしには馴染みのないアートだが、常識を覆されるようなところがあっておもしろかった。

マオさんからは、彼女の継母が中国に残してきた子供達を探し出して、継母との再会を果たさせるという、つい先頃の一大プロジェクトの話を伺った。わたしなら到底やれないことだなあと、またもやその人の並々ならない行動力と意志力に圧倒される。ミュージカルにしても、一人彼女のパワーに寄るものだったと、時間が経つほどに思うのだ。
きっと、いつか、マオさんのこうした産みの苦しみが書くという行為の中で結実していくのだろう。


2004年09月08日(水) 辻仁成 「99才まで生きたあかんぼう」を読む

ここ、3週間ばかり、辻仁成にハマっていることは前にも書いた。
数えてみると今日で9冊目を読み終わったことになる。
今日、読んだ本は「99才まで生きたあかんぼう」
ちょうど、帰宅のための電車に乗っていて、電車が降りるべき駅に到着した時に読み終えた。
終わりにしたがって本格的に涙が流れてきていたので、電車から出た外が暗闇だったのはありがたかった。
決して泣くような本じゃないのに、泣けた。

見開きのページに1歳から99歳まで、一人の男がこの世に誕生してから死ぬまでのことが、書かれている。1年がきちんと本の2ページ分だ。
これは一人称でも三人称でもなく、なんと二人称で書かれている。はじめはこのお前がという語りかけが何か落ち着かなかった。「お前」と語る、その語り手が見えてこなかったからだ。

しかし、途中で「もしかすると」と思った。やはり、この本の語り手は神だった。作者は一言も神という言葉を使ってはいないのだが、この本の終わりでそのことがはっきりと知らされる。
命を与え、片時も休まず見守っている神。

「そしてその日の夜、わたしはお前を抱きしめるために、とうとう地上へ下りた」

そして本の最後で、神は言う

「よく生きた。99才のあかんぼうよ、お前はほんとうによく生きた」と


この3週間ばかり、たまたま出会ったこの作者の中に見え隠れしている「なにか」の正体を見極めたいと先を急ぐようにして手に入るものから次次と読んできたが、読み進むにしたがってその「眼差し」に気がついた。その存在をほのめかしすらしていないのに、その「眼差し」が感じられると思った。

昨日読んだ「グラスウールの城」では、はっきりと神という言葉が出てきて、ここらあたりでわたしは共感を覚えてきたのかなと何か暗示のようなものを感じたのだったが、今日、この作家の作品を読み続けてきたことの意味が、ようやく分かる気がした。

この感じ、高橋たか子の本をともかく集中して読んだ時と経緯が似ている。
始めに初期の作品に出会い、そこにある書かれていない「なにか」にひっぱられるようにして次々に読んでいった。そしてあるところへ来て、彼女が40歳を過ぎて神と出会い、そこからまた新しく書き始めた事を知った。しかし、まだ信仰を持っていなかった時期の彼女の作品の中に、痛々しいほどの希求があって、まずはそこに惹きつけられたのだった。激しい求道の歩みとでも言えばいいだろうか。自分はいったい何者なのか、自分の向こう側には何があるのかという問いかけが書く動機になっていると思った。

辻仁成が、一人のアーティストとして、作家として、これからどのような歩みをしていくのか、とても興味深い。

読んだ本を書いておくとしよう。

「情熱と冷静のあいだ」
「ピアニシモ」
「ワイルドフラワー」
「目下の恋人」
「海峡の光」
「ガラスの天井」
「母なる凪と父なる時化」
「グラスウールの城」
「99才まで生きたあかんぼう」

明日から読むものは
「クラウディ」
「愛と永遠の青い空」
そして最新作、作者の自伝とも言えるらしい「刀」


2004年09月06日(月) パソコンが動かない

昨日(9月6日)のこと、いつもの通りにキーボードを打っていたら、突然すっと画面が暗くなり、それ以来、スイッチが入りません。バッテリーも問題ないようです。困ったなあ。この前4万だか出して修理したばかりだったのに。まだ寿命でもないのに。使い方が悪いのかなあ。

ま、パソコンは、こうして同居人のを使わせてもらったり、ネットカフェで使うこともできますが、そこに入っている資料が取り出せないというのが、かなり痛手です。返す返すも、小説の原稿を早めに送っていてよかったと胸を撫で下ろします。大量に書いたものが一瞬にして跡形もなく消えてしまうというのは、何ともやりきれないものですからね。

こうして、ネット上に書くということは、少なくとも、自分のPCのところではなく、誰でもどこでも取り出せるところにあるということで、安心です。
わたしのようにすぐに物を壊してしまったり、失くしてしまう者には、こういう場所が、ほんと、ありがたいです。

というわけで、日記の更新も滞ることになるかもしれません。


2004年09月04日(土) 心太秋祭り

た ただの土曜日がスペシャルなものになる。
の のんびりと下北沢探索をするつもりだったのに、
し 知らない間に、電車の外は豪雨。
か 傘を差しても、ずぶぬれになりそうな気配、
つ つまらないけど、動かない方がよさそうね。
た たたんだ傘を小脇に抱え、近くの本屋で雨宿り。
な 懐かしい場所ARTIST、3度目だというのに親しいところ
と 心太秋祭りライブが始まった。
こ コアな音楽たち、個性的なアーティストたち。
ろ ろうそくの火のような素朴さと温かさがそこに満ち、
て 照らされるよ心、届くよエナジー。
ん んんん、いいね。こういう夜。
ま 祭りで初めて出会う人達、「はじめまして]「あなたが…」
つ 繋がりが繋がりを呼んで、不思議な出会いがまた起こる
り リリックの力、音の力、人の力、心は大きく振幅した 
 

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ゴザンスの【ことばあそび】の要領で、頭の文字を「楽しかったな心太祭り」
にしてこの日参加した、心太秋祭りという名前のライブの感想を書いてみました。


心太(トコロテン)は、いろんなジャンルの人達、年齢も様々な人達が日替わりで日記を書いているユニークなサイトで、わたしも25日に担当しています。日記は読んでいても、会ったことのない人がほとんどなのですが、心太のライブに来ると、ライターの方々と会うこともできます。このライブも3回め、今度も同居人mGとともに参加しました。


昨夜の出演者( 八ヶ岳の住人・タナカアツシ・奈良大介・Shall・mue・ワタナbシンゴ・)はみな心太日記執筆者。
観客席にはわたし達の隣にたもつさん(詩人)、向かいにさnきちさん(映像作家・人形劇団主宰)そして佐久間 孝さん(映画監督)がいらして、この3人の方々とはメールのやり取りはしていたものの、初めての顔合わせでした。


おもしろいなと思います。普通のコンサートやライブであれば、音楽だけが届きます。ところが演奏者の日々の仕事のこと、これまでのこと、考えていることを文章を通して知っているので、そういうものもひっくるめて、彼らの生きることとしっかり結びついた「魂の仕事」が伝わってきます。


人形劇の仕事、映画製作の仕事、わたしにとっては未知の世界の中で創作活動をされているお二人と、直接お会いできたのは幸いでした。ライブの演奏を聴く事がメインなので、お話をあまり伺う事もできませんでしたが、取り組んでいらっしゃる事や書かれるものがさらに身近なものに感じられました。同世代というのも、こういう様々な世代の中にあってはクラス会に似たような親しさが生じるものですね。きっとまたお話を伺うチャンスがあることでしょう。




ネットで書くようになってから同時進行で、新しく人と出会い繋がるという事が続いていますが、またそれは、自分とは異なる世界の空気を呼吸することにもなります。さまざまな人、さまざまな生き方に触れて、そこからやってくる「元気」に感謝しています。



2004年09月03日(金) 800字小説 「おばあちゃんの卒業の日」

2学期が始まったばかりの9月の始め、ぼくは教室の中にいて、うとうとうとしながら国語の授業を受けていた。と、いきなり事務の先生が教室に入ってきて、ぼくの家から電話だと伝えた。
 ぼくの心臓は一度ガタンと大きな音を立て、それからドクドクと連打し始めた。ぼくはその電話が何の知らせか、聞かないでも分かった。おばあちゃんが死んだんだ。

 ぼくと中一の妹の瑞希はタクシーを待って中学校の校門の前に立っていた。突然、瑞希が思い出したようにぼくに言った。
「おにいちゃん、覚えてる?おばあちゃんが言った事」
「なんだよ、それ」
「前におばあちゃんの病室を訪ねた時、おばあちゃんが言ったじゃない。おばあちゃんが死ぬ日は、おばあちゃんの卒業の日なんだから、二人とも悲しんだりしないで、お祝いしておくれって」
「そうだ。あの時ぼくは頼まれたんだった。お葬式の時に、卒業式に在校生が読むように送辞を読んでくれって」
「わたしはおばあちゃんに代わっておばあちゃんが書いた答辞を読んでくれって頼まれたわ。おばあちゃん、答辞書いたのかなあ」

 おばあちゃんが横たわる病室にはやわらかな光りが満ちていた。お母さんがおばあちゃんの文箱の中にあった家族のそれぞれに宛てた手紙と「答辞」と書かれた手紙を見せた。
「答辞っていったい何なのかしら、下に瑞希様って書いてあるの」
ぼくと瑞希はおばあちゃんから頼まれたことを話した。
「そうか、なるほどな。おふくろらしいよ、卒業だなんて。徹、しっかり書けよ。」お父さんはそう言いながら、ぼくの肩をぎゅっと掴んだ。

 その夜ぼくは、おばあちゃんに送る言葉をノートに綴り始めた。
「おばあちゃんご卒業おめでとうございます。今までいろいろと大変だったけど、おばあちゃんが言っていたように、ようやく天国へ入学したんですね...」
書きながら泣けてきたけれど、それは悲しい涙じゃなかった。なんだか、お腹の底から力のようなものが沸き上がっていた。



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久し振りにゴザンスの800字小説を書きました。設定は 「卒業の日、教室で、わたし(ぼく)が」です。この3つキーワードでお話を創るわけですが、
これを書く直前まで、卒業なんて、少しもストーリーが浮かんでこないと思ってました。ところがお皿を洗っていた時、物語のある場面がふっと浮かび上がってきました。病床にいるおばあちゃんと孫達のシーン。もう物語はそこにあるようです。そこで、その物語を聞こうとばかりにわたしはパソコンを開きました。指が物語りを紡ぎはじめます。
物語が出来上がる度に、この不意に起こってくる感じが不思議で、またわくわくもします。

なんだか、最近、自分がおばあちゃんになった時の事を思い浮かべます。実際わたしと同世代の友人が孫を抱える身になっていて、わたしもその日が来るのはそれほど遠くもないと思えるからでしょうか。
もう子ども達に必要なくなった絵本や児童書を処分しようとして、孫にいいかもしれない、なんて思い捨てられない。自分でも笑ってしまいます。

そのくせ、まだ20代、30代の現役気分で、今日もジーンズのミニスカートとタンクトップという格好ですからね。この矛盾・・・
おばあちゃんになっても、ジーンズ履いてるでしょうね。なんとかウエスト61センチをキープしたいもんです。


2004年09月02日(木) DVDで見た「冷静と情熱のあいだ」


夕べはひとりDVDで「冷静と情熱のあいだ」を見終わったら、寝るのが午前2時になっていました。それでも今朝は7時に起きて、ジムまで自転車を走らせ、ラテンとエアロビクスを快調にやれたので、ずいぶん調子がいいです。
はい、調子に乗って、足痛めないように注意します。


ところで昨夜見た映画の話。
邦画をめったに観ないので、比較のしようがないのですが、たとえ、舞台がイタリアであっても、洋画とは空気が違うものだなあと今さらのように感じました。好きですよ。この映画のさらりとした透明感のある映像や、人物たち。役者の竹野内 豊もケリー・チャン(陳慧琳)も、原作の登場人物達をよく表している適切な配役だと思いました。
不思議な気がしたのは、イタリア映画なんかで出てくるフィレンツェやミラノに比べて、わたしが自分の目で見て記憶しているその町の風景にうんと近いという事でした。
ちょうど、外国の映画人が撮った日本の映像や、写真家が撮った日本の景色がどことなく、我々、日本人の視点と違うように、その国に住むものではない者の目にはそこに住んでいる人とは微妙に見え方が違うのだろうと思いました。

役者は日本語とイタリア語と英語で台詞をしゃべるわけです。この一人の人格の中に異なる言語があり、引いてはそこから導かれる異なるパーソナリティーが見え隠れするところもおもしろかった。ここで日本人ではなく、英語が自分の言葉として表現できる香港のケリー・チャンを起用したのは成功していると思いました。

恋人同士が10年経ってもお互いの存在を忘れられないで、その愛を自分の支えにしていくという、こういう純愛物語は文句なく好きです。年甲斐もなく…


相変わらず、辻仁成を読んでいます。言葉や表現がぴったっときます。が、この作家というかミュージシャンは、わが同居人にはすこぶる評判が悪いのです。彼に言わせると、「女の敵」らしい・・・世俗に長けている同居人がいろいろと知っている、この作家のスキャンダルの類をわたしは一切知らないので、作品の中に流れる純粋さや、透き通った孤独がとても親しく感じられるのですけれどね。


2004年09月01日(水) 青年H、コスタリカへ

我が家の青年H(長男のことです)が、本日、コスタリカに向けて旅立ちました。7月8月とオニのように深夜まで働いていましたから、渡航費用と一ヶ月の滞在費はなんとかなったようで、今回は初めてわたしに前借することなく、出かけました。そういえば、今回は全くのひとり旅。目的はスペイン語の勉強らしいですが、日常から切り離されて、言葉もうまく通じない場所をほっつき歩きたいのでしょう。その気分は良く分かる。いづれわたしも・・・

そういえば、昔、「サンホセへの道」っていうポップスがなぜだかとても好きで、布団の中で、深夜放送のラジオを耳にくっつけながら寝ていて、ラッキーにもこの曲が聞こえてくると、しがみつくようにして聞いてました。今思えば、何のことはない軽い曲なのですが、あの時には、あの曲はわたしを日常から、見知らぬサンホセという場所へ連れ出してくれるような、そんな作用がありました。
そこへHが行くというのが、ちょっとウラヤマシイ。

これで一ヶ月はmG(夫のことです)と二人なわけで、なんか楽だなあ、やっぱり。しばらくビデオも借りてなかったけれど、今日はツタヤに行ってきました。
辻仁成を読んでいる勢いで(今朝、芥川賞受賞作品の「海峡の光」を読みました。やはり好きな世界です)彼の監督した映画なるものがあることを知り、借りにいったのですが、残念ながらツタヤにはありませんでした。あまりにマイナーということなのですが、あるとことにはあるのでしょうね。とりあえず、原作が映画になっている「冷静と情熱の間」を借りてきました。これから観るので、今日はこの辺で。


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