たりたの日記
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2002年01月31日(木) カレンダーをめくる

実はもう2月に入っているというのに、我が家のカレンダーは1月のままだ。1月最後の日記をまだ書かないでいるから何だか〆をしていないような気がしているからだ。今日こそは新しい月をめくらなければ。

30日の日記に記した「100人の村」は反響があった。
1人の、それも海の向こうの普通の人が書いた言葉が世界中に散らばり、様々な所に住む個々の人の心を揺さぶる。そのことを考えただけで実に爽快な気分になる。タンポポの綿毛が方々に広がってそこから新しい命が生まれ出る、そんなイメージと重なる。しかしこの場合言葉の種を運ぶのは風ではなく人間である。それもビジネスや自己顕示とは無関係に純粋に「心を打たれた」ということが種を飛ばす力となる。人それぞれにどの言葉に心を動かされたは違いがあることだろうが、伝えずにはいられないというところで何か共通したものがあるに違いない。

では私はこのメッセージのどこに動かされるのだろう。
最後の5行にどうして胸が詰まるのだろう。

「お金に執着することなく、喜んで働きましょう。
かつて一度も傷ついたことがないかのごとく、人を愛しましょう。
誰もみていないかのごとく自由に踊りましょう。
誰も聞いていないかのごとくのびやかに歌いましょう。
あたかもここが地上の天国であるかのように生きていきましょう。」

これは傷つき、悩み、不自由で、すこしものびやかになれず、この地上が苦渋に満ちていると考えている私たち人間の姿がまずあって、しかしそれにもかかわらず喜び、愛し、自由に踊り、のびやかに歌い、この地上を天国として生きていきましょうという呼びかけのように響く。そしてこの呼びかけに深いところで慰められる。
新しい年ももう一ヶ月が経った。この一ヶ月を振り返っても、悩み、傷つき、不安になったり、ため息をついた。新しい月もいろんなことが待っていることだろう。そうであったとしても自由に踊り、のびやかに歌っていこう。さてカレンダーをめくるとしよう。




2002年01月30日(水) 100人の村

友人のMさんから「100人の村」が届いた。
9月11日以来、あちこちの平和を訴えるサイトやメールマガジンまた、メーリングリストで見てきたが個人のメールとして送られてきたのははじめてだった。何度読んでも胸が塞がる。何度読んでも最後の5行目に胸が詰まる。このメッセージを転送したいと数人の友人の顔が思い浮かぶ。
そして記録の意味でこの日記中にも残しておきたい。
マガジンハウスから出ているという本も手に入れたい。



100人の村


もし、現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、
全世界を100人の村に縮小するとどうなるでしょう。
その村には・・・

 57人のアジア人
 21人のヨーロッパ人
 14人の南北アメリカ人
 8人のアフリカ人がいます

 52人が女性です
 48人が男性です 

 70人が有色人種で
 30人が白人です。

 70人がキリスト教以外の人で
 30人がキリスト教

 89人が異性愛者で
 11人が同性愛者です。

 6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍です。

 80人は標準以下の居住環境に住み
 70人は文字が読めません
 50人は栄養失調に苦しみ
 1人が瀕死の状態にあり
 1人はいま、生まれようとしています
 1人は(そうたった1人)は大学の教育を受け
 そしてたった1人だけがコンピューターを所有しています

もしこのように、縮小された全体図から私達の世界を見るなら、相手をあるがままに
受け入れること、自分と違う人を理解すること、そして、そういう事実を知るための
教育がいかに必要かは火をみるよりあきらかです。

 また、次のような視点からもじっくり考えてみましょう。

もし、あなたが今朝、目が覚めた時、病気でなく健康だなと感じることができたなら
・・あなたは今生き残ることのできないであろう100万人の人達より恵まれていま
す。

もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や苦悩、あるいは飢えの悲痛を一度も体
験したことがないのなら・・・あなたは世界の5億人の人達より恵まれています。

もしあなたがしつこく苦しめられることや、逮捕、拷問または死の恐怖を感じること
なしに教会のミサに行くことができるなら・・・あなたは世界の30億人の人達より恵
まれています。

もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるのな
ら・・・あなたは世界の75%の人達より裕福で恵まれています。

もし銀行に預金があり、お財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があ
るなら・・あなたはこの世界の中でもっとも裕福な上位8%のうちの一人です。

もしあなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら・・・それはとても稀
なことです。

もしこのメッセージを読むことができるなら、あなたはこの瞬間二倍の祝福をうける
でしょう。なぜならあなたの事を思ってこれを伝えている誰かがいて,その上あなた
はまったく文字の読めない世界中の20億の人々よりずっと恵まれているからです。

昔の人がこう言いました。わが身から出るものはいずれ我が身に戻り来る、と。

お金に執着することなく、喜んで働きましょう。
かつて一度も傷ついたことがないかのごとく、人を愛しましょう。
誰もみていないかのごとく自由に踊りましょう。
誰も聞いていないかのごとくのびやかに歌いましょう。
あたかもここが地上の天国であるかのように生きていきましょう。


2002年01月29日(火) 小さなタイ料理の店

仕事帰り、駅で夫と待ち合わせ駅の近くの小さなタイ料理の店へ行った。夫はそのビルの下を通る度に、一度来たいと思っていらということだった。小さな店の中に気さくな感じのタイ人とおぼしき女性が一人いた。厨房をカウンターがぐるりと囲んでいるかっこうで、15席くらいあっただろうか、時間が早かったせいでお客は我々だけだった。必然的に料理を作って食べさせる人と向かいあう形になる。メニューはトムヤンクンとグリーンカレーをのぞくと聞いたことも食べたこのもない物ばかりだった。私は初めて天然のココナッツのジュースを飲んだ。丸のままのココナッツは予想以上にたっぷりとジュースが入っていて、味も私の知るココナッツの味とはまた違うものだった。まさに樹液を飲んでいる感じがした。彼女は飲み物片手に、しかし瞬く間に注文の料理を出してくれた。私たちが食べている間につい先ごろタイにいっしょに行ったという、女友達がワインを下げてやってきたり、かかってきた電話にタイの言葉で話していた。そういうところから彼女に生活も見えてくるのである。そこはもう食べ物屋というよりも個人のキッチンのようでで、私たちは知らないで迷い込んだ客という図だった。しかし、本来の食べ物屋さんとはこういうものなのかもしれないとふと思った。作る人と食べる人が顔を会わせ、そこには食べ物だけでなく、人と人との間に行き交うものが生まれる。学生の時はお金もないのに、くせのある店主が四方山話をしながら作ってくれる居酒屋や小料理屋へも時々行った。その店の空気、並べられた料理、店主の顔や声まであざやかによみがえってくる。そういった人と触れ会う場所に抵抗なく入っていけた。ファミリーレストランや洋風居酒屋のようなところにしか行かなくなった今、食べ物を介して人と人とが触れ合う場所があることをすっかり忘れてしまっていたことに気が付いた。


2002年01月28日(月) 教会会員総会

昨日の教会会員総会を持って2年間の役員の任から解かれた。といっても私が担当していた英語学校と教会教育担当役員は役員という枠からはずれ、新たに設けられた様々な奉仕班へ移動した。つまり、これまでの仕事を他の教会員と同じ位置ですることができるようになったわけだ。正直ほっとしている。

PTAにしろ、何にしろ、組織の役員という立場は嫌いだ。しかし一旦その立場に立つと、私は「従来どおり」に従うことがどうしてもできない。まずいと思えるところ、変わるべきだと思うところが見えてきて、なとかしなければと思う。当然どの組織にも変化を求める人とそうでない人がいるわけで、その双方の間で「変えよう」とするリーダーたちは緊張を強いられる。変化を求める人もその変化に不安が生じれば、リーダーのせいにしたいし、変化を求めない人たちとしては今までの平和を「かきまわした」と攻めたくなる。教会といえども、国の政治を司る組織からPTAの組織まで同じようなことが起こるのだ。それはひとつには日本人が変化を求めない傾向が強いということがあるように思う。もう一つはお上と下々という図式に分けてしまって皆が同じ土俵で同じ責任を持ってかかわっていくという意識に乏しい。批判や傍観のところに留まり、共に担うというところになかなか立てないのだ。アメリカの教会で、多くの方が持ち場持ち場で様々な奉仕活動をされているのに驚いた。私も聖歌隊、教会学校の手伝い、ホームレスの人たちのシェルターのお世話、老人ホームへの慰問、クリスマスの時のクラフトパーティーでは折り紙でのオーナメントつくりの講習、婦人の集まりでの日本語の賛美歌の紹介、思い返せば4年間の間に数え切れないほどのボランティアや活動にかかわってきた。どれも楽しく、また自分が何かの役に立っていることに充実感を覚えていた。

この1年は新しい方が責任役員に立ち、役員は初めてという青年と去年役員になったばかりのしかも女性(この教会にはそれまで女性の役員がいなかった。)の私という構成だった。異例の役員会としてスタートしたのである。
わたしたちが意図したというわけではないが、教会全体に変化をもとめる空気のようなものが起こり、私たちはそれを受けて数回にわたり全体での話し合いの時を持った。思い切った決断や変化がなされ、昨日の総会もそれまでの事業内容の承認と決算、予算の報告で済まされてきたものではなく、教会の組織についても、奉仕ということについても賛成、反対の入り乱れ実にたくさんの意見が出てきた。感情のぶつかり合いだってあった。当然である。みなが真剣にかかわっていれば、そういうぶつかり合いだって避けられないだろう。

この1年、教会改革の中心になって労してくださった責任役員のTさんはご自身から希望して役員を降り、新しく組織した奉仕班での活動を申し出られた。みなTさんに続けてやっていただきたい気持ちはやまやまだったが、誰も何もいわず、Tさんの申し出を尊重したのはTさんがどれほどこの大変な思いをし教会の流れを変える舵取りをしたかが良く分かっているからだ。それ以上の緊張を強いるべきではないと感じたからだ。牧師は昨日の説教をこのように結ばれた。「今年役員は教会の流れを変えるのに大きな働きをしました。それは地上にではなく、天に宝を積む行為でした。しかし、その業は誰かがやったというのではなく、神様がなさったことなのです。このことをなさしめてくれた神に感謝します。」私はこの言葉に大きくうなずいていた。そのことを実感していた。確かに大変な思いはあったが、大きな促しに沿って歩いてきたような気がする。

私たち役員は最後の仕事として新しい教会活動の組織を提案した。役員にすべての仕事と責任が集中しないように英語学校担当、教会学校担当、教会教育担当、行事担当、環境整備担当、教会音楽担当、牧会支援担当、広報担当という奉仕班を作り、そこへ私はこれをやると自主的に担当者を募った。何人もの人が自分から担当者の名乗りをあげ、そのリストはほぼ埋まってしまった。それぞれが自分の得意なところ、やりたいと思うところで奉仕していくという理想的な枠組みができた。4月には私たちがぜひともと招聘した牧師を迎える。さてどんな一年になるだろうか。


2002年01月27日(日) わたしについて来なさい

今日の聖書日課はマタイによる福音書4章18〜25、イエスが四人の漁師を弟子にするという記事だ。この話を初めて聞いたのは子どもの頃だった。子ども心に「人間をとる漁師にしよう」とはうまいことを言ったもんだと、妙に感心した記憶がある。子どもはそもそも柵などあまりないし、たいてい誘われればひょこひょこついていくのが日常だから、イエスから「わたしについて来なさい」と言われすぐに網を捨ててイエスに従ったというくだりにはさして感心もしなかったような気がする。自分に子どもというものができたとき、何を捨てろといわれてもこれだけは捨てられないという柵ができてしまったことを知った。生後6ヶ月の赤ん坊を抱いて郷里へ向かう飛行機に乗ったとき、それまで一度も怖いと思ったことがなかった飛行機を初めて怖いと思った。命が惜しい、事故には会いたくないという気持ちを持つ自分を別の人間のように気味悪く感じた。あの頃なら、やすやすと家庭を捨ててイエスに従った漁師たちに共感など持つことはなかっただろうし、むしろ家庭から父親を連れ出したイエスを恨みにさえ思ったにちがいない。子育ての時期の母親とはそういう生々しく、エゴイスティックな母性に支配されているのだ。子どもたちがすでに親がいなくても生きていける時期を迎えようとしている今、この聖書の記述はまた違った表情を持って見えてくる。「ああ、いいなあ」と、網を捨てた漁師たちの後ろ姿を羨望を持って見るのである。家も持ち物も、自分を支配しているいっさいの柵から解き放たれ、ただひとすじに信じる人の言葉に従って旅に出ることことはとても幸せなことのように感じられる。そういえば、2,3日前に届いたメーリングリストの中に医者と看護婦のご夫婦がアフガニスタンへ渡り中村哲医師の手伝いをするという決意を書いておられた。暮れに夫と中村医師の働きを取材した番組を見ながらどちらともなく、退職したらどこか必要な国へ行ってボランティアをしたいねと話したことを思い出す。今ある安定した暮らしを捨てて何もないところで人の役にたって生きたいという願いを持っている人は少なからずいることだろう。そして密かに「わたしについてきなさい」という強い声を待っているのだろう。人間の本性に中にそういう気持ちが眠っているような気がする。


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マタイ4章18〜25
◆四人の漁師を弟子にする
4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。 4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。 4:22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
◆おびただしい病人をいやす

4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。 4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。 4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った


2002年01月26日(土) 映画大好きなお隣さん

この日記のサービス「エンピツ」を通じて今までに2回メールをもらった。
一度は、大学の時の友人で音信不通になっていたKさんだった。Kさんと交流が続いていた共通の友人が私のホームページのことを教えてくれたのだった。「エンピツにメールが届いています」という表示を見ると誰からだろうとわくわくする。

つい2,3日前、「エンピツ」を通じての2回目のメールが届いた。差出人の名前が「映画大好きなお隣さん」となっている。文面を読んでも3分ほど、誰なんだろうと首をかしげていた。この送り主にピンとこなかった私は相当に鈍い。あっ、お隣の家に住んでる高校生のTちゃんだ、とやっと分る。Tちゃんは大の映画ファンだ。また文字通りお隣さんだ。小学校4年から去年中学を卒業するまで私の英語教室の生徒でもあった。それにしてもどうしてすぐにTちゃんだと分らなかったんだろう。きっとTちゃんの文章が友達への呼びかけ風で隣のおばさん宛てのようでも、英語の先生宛てのようでもなかったからだろう。たりたくみさんへとなっていた。

私自身新しい名前で書き始めた時、それまでの自分を一旦ニュートラルに戻したような気分になった。時には母としての話題になったり、「英語の先生」の話題だったりもするが、立場は立場としても、ここでは素のままの私でいたいと願っている。Tちゃんはそのことを察してくれたんだろう。いつか古くからの友人が「ここを読むとあなたのことを知ってるけど、知らない人みたいに感じる。」と言っていたがそういう側面はあるだろう。そうして今までの関係とちょっと違う新しい関係も生じてくるのかもしれない。

Tちゃんから去年の卒業生でパーティーしようという提案があった。もう彼らの先生ではないから、友達のように付き合えるのだとしたらうれしいことだ。ん、仲間に混ぜてくれるかなあ。


2002年01月25日(金) アンネのバラ

小さな声のメーリングリストで知った西城戸さんを通して「アンネのバラ」を分けていただいた。先週京都の園芸店から送られてきていたが、ようや我が家の庭に植わった。はじめは大きめの鉢に植えるつもりでいたが、問い合わせると地植えの方が良く、日照時間も5時間ほどあれば良いということだった。今は生垣の陰になって5時間も日は当たらないが春から秋にはもう少し日も当たるようになるだろうと思い切って地植えにした。

きのう用意していた苗床に注意深く苗を植え、アンネのバラ教会のHPの植え込みの注意にあったとおりに下から2つ目までの芽を残して剪定した。こうする丈夫な枝に花がたくさん咲くらしい。去年の冬に植えたアイスバーグという真っ白なバラと、カクタスという野バラのような一重のバラも思い切って剪定をした。これでよかったのかしらとすっかり短くなったバラの木に少し不安になる。植え込みが終わってマルチングをするようにと書いてあったのを思い出す。しかし手元に藁はない。あっと思い出したのはいつかリースを作ろうと買っておいた藁をひもで丸い輪に整えたヌードリース。はさみで紐を切り藁をバラバラにしてバラの苗の根元を覆った。

「たりたガーデン」といかにもガーデニングに詳しそうな名前をHPにつけているが、実は花が好きなだけでバラの植え方や剪定についても全く知らなかったほど知識に乏しい。去年プランターにプランターの土でパンジーやチューリップと同じ感覚で植えた白バラがみごとに咲いたので気を良くして苗を分けていただいたものの、手入れについて読んでみるとなかなか大変そうだ。でも人にも花にも細やかなお世話ができない私には良い訓練なのかもしれない。これを機にバラの育て方を学ぼうと思う。

植え込みが終わったところに学校帰りの小学生が通りかかった。昨日私が穴堀をしていた時に「何してるの」と声をかけてきた5年生の女の子たちだ。「アンネ・フランクって知ってる?」と聞くと、一人の子が知っていた。「アンネのお父さんから送られたバラなんだって。この町にはここだけにあるバラかもしれないよ。咲いたら見にきてね。」と言うと「うわーっ」という声。「アンネのバラ」のことを説明したプレートを立てようかなと思った。うまく咲いたらの話だが。

西城戸さんのHP「アンネのバラ友の会」によると、アンネのバラは1971年京都のクリスチャンの合唱団がイスラエル演奏旅行中にフランク氏と偶然出会い、その後の交流と友情の証として翌年のクリスマスに、フランク氏から京都の嵯峨野教会に10本のバラの苗が贈られたことに始まる。その1本が翌年の春、奇跡的に花を咲かせたそうだ。アンネのバラはその後、接ぎ木で増やされ、全国の教会、学校、平和施設等に送られているようで、さいたま市(旧与野市)の聖イエス会ベツレヘム教会で見ることができるらしい。





2002年01月24日(木) 植物の力

私は植物に、植物の持つ力にかなり思い入れがある。
ハーブ、アロマレラピ、バッチの花療法と出会うままにのめり込みその手の本を読み漁り、実際に試すという具合にあれこれと手を出してきた。
ラベンダーのエッセンシャルオイルに夢中になっている時には小さなびん入りのエッセンシャルオイルをたくさん買い求め、友達や親戚にバラまいた。押し付けもいいところである。みなそれぞれに喜んで使ってくれたと記憶しているが、迷惑だった方もいたかもしれない。

今でもラベンダ、ユーカリ、ティーツリー、ローズマリー、ペパーミントの精油の瓶を薬屋さんのように並べては日常的に愛用している。
やけどをしたらラベンダーの精油をつけ、ぞくぞくっときたらお風呂にユーカリの精油をたらし、部屋の空気が悪い時にはクッションやカーテンにペパーミントをたらすという具合にである。しばらくアロマポットを使っていなかったことを思い出し、書くのを中断しアロマポットにろうそくを点し、水を少し張ってユーカリとラベンダーの精油を垂らす。体に良い香りが部屋に満ちてきた。

バッチの花療法というのは、1936年に細菌学者のバッチ博士によって完成された野の花や草木から作られた癒しのシステムで、38種類の花の中から自分にとってネガティブな感情を取り除く作用を持つ花を選び、数滴口の中に垂らすか飲み物に混ぜて飲むといったもので、けっこう楽しんだ。
インパチエンスは忍耐力に欠け、すぐにイライラせかせかしてしまう人用、これは私。ビーチとよばれるヨーロッパブナは人の長所が見えにくく、批判的な人が回復するという、これは夫。という具合に我々の治したい状態を数えていくと2つや3つではきかず、7種類の花を調合してもらうことになった。しばらくコーヒーやお茶に入れて飲み、なかなか効かないねなどと話していたがそのうち飲むことを忘れてしまった。さて結果はどうだったのだろうか。でも3年前、家族4人分の心を平安にするのに10個もの花に○をつけたことを思い返せば、今はそれぞれに安定しているなあと改めて思う。今だったらバッチの花療法を試そうなどとは思わないだろう。ということはやっぱり効果があったというべきだろうか。

そして今はまっているのが「タヒチアン ノニジュース」。これは身体に作用する。血液や細胞を正常な状態に戻し、痛みや炎症を抑え、肥満を解消し、うつ病やストレスを取るとされるノニというハーブ果実のジュースだ。
義父の病気を何とかしたいというのがきっかけで知ったものだったが今は家族で愛用している。「飲まない」と言い張っていた夫も自分から飲んでいる。元気が出てくることを実感したようだ。私は最初に口にした時、何かこの植物の並々ならない力をピンと感じてしまった。最近になってインターネットで詳しい研究を読んだが、そういうことを情報としては知らなくても体のレベルで感じ取っていたような気がする。植物からのインスピレーションを大切にしたいと思う。ハーブにしてもノニにしても単なる物とは考えていない。それは交流することのできるエネルギー。向こうの力とこちらの求める力が交流した時に何かが起こるという気がしている。


参考 101の医療的用途をもつタヒチアンノニジュース
http://www.seabell.co.jp/natural/health/page3-1.htm#NO28


2002年01月23日(水) 夏を越したシクラメン

一昨年の暮れにいただいたミニシクラメンが夏を越し、
今薄ピンクの花を開き始めた。
まさか翌年にまた咲くとは思わず、庭の隅に鉢のまま置いておいた。
暮れに空いた鉢などの片付けをした時、まばらに出た葉の内側に小さなつぼみとおぼしき、先が丸くふくらんでいる小さく細い茎がいくつも出てきていた。世話らしい世話は何もしなかったのに、花が咲くのかしらとあわてて部屋に入れ肥料を施し、日当たりの良い南側の掃きだしのところへ置いたのだった。
つぼみはだんだん大きくなり、茎も逞しくなり、昨年同様のミニシクラメン
が見事に咲いた。
知らない間に育っていくことがある。
知らないところで庭の花たちも育てていただいているのだ。

終わりになってしまったかのように思えるミュージカル、けれども夏を越したシクラメンがぎらぎらした太陽のもとでは息を潜めていても、また冬が来るとつぼみを大きく育てやがてすばらしい花になったように、はや蕾は膨らみ始めているのかもしれない。
明日も歌の練習をしよう。


2002年01月22日(火) 映画 「初恋の来た道」

私が子どもの頃、母親が良く歌っていた歌のひとつに「草原情歌」がある。

遥か離れたそのまた向こう
誰にでも好かれるきれいな娘がいた

明るい笑顔はお日様のよう
明るく輝く目はお月様のよう

お金も着物も何にもいらぬ
毎日その笑顔じっと見つめていたい

中国という国を、私はこの歌から知った。
風が草の上を渡る広々と明るく開けた草原、
輝くような笑顔の少女がいるところ。
繊細でのびやかなその歌の節はそのまま、美しい国土と美しい少女のイメージにつながった。

映画「初恋の来た道」を見た時、私の幼い頃の記憶の中にある映像がそのままに映し出されていることに息を呑んだ。ただ風だけが吹き渡る草原が実際そこにあった。そして草原の中をひた走る少女は思い描いたとおりお日様のような笑顔だった。もうなくしてしまったと思い込んでいた心象風景に巡り会った思いがした。
この映画からはアメリカ映画にも日本映画にもない、独特のスピリットが伝わってくる。繊細な恋心を描きながらしっかりと大地に足がついた揺るぎのないヒューマニズムが貫いている。人間ってこんなにピュアな存在だったんだ。愛はこれほど強くひたむきなものだったのだ。これまでにない方向から人間に光が当てられたような新鮮な印象があった。

この映画の原題は「我的父親母親」。都会で生活している息子が父親の死の知らせを受け故郷に帰省するところから話は始まる。母親は町にある父親の亡骸をどうしても車ではなく、人が担いで村まで連れ帰ると言ってきかない。人の迷惑も返りみない昔のしきたりに縛られた頑固な老婆というふうに映る。息子は母と父の若い頃の写真に目をやり、そこから白黒の画面が美しいカラーに変わり、スクリーンいっぱいに輝くように美しい少女が大写しになる。ああ、これがあの頑固な老婆の若い姿なのだ。見るものは時間を遡り父親と母親のロマンスへと誘われていく。
村に町からやってきた青年教師に少女は恋する。遠くから眺め、遠くから声を聞き、しかし心はいっときもその若者の元を離れない。町へ戻った若者の帰りを待って雪の中で凍死寸前になるほどにその思いは強いのだ。町から村へと続く一本の道。それは青年と娘とを繋ぐひとすじの道でもあった。

「お父さんの朗読する声を40年間聞いてきたけれど、一度も聞き飽きることはなかったよ。いい声だった。」と老母は語る。映画の冒頭で出てくる頑固な老母がその姿はそのままで美しい少女に見えてくるから不思議だ。老母の昔を知ったことで老母が愛しい存在へと見る目が変わったのだ。それにしてもひたむきな初恋は40年の歳月を超えて生き残ったというのか。これはめでたしめでたしで終わるおとぎ話のめでたさをはるかに超えている。

亡き父の教え子たちが大勢駆けつけ、亡骸を交代で担ぎながら、初恋の来た道を辿り村へと連れ戻る。「ルオ先生、帰ってきましたよ。」と道々呼びかけながら。
息子が戻る朝、老母は聞きなれた朗読の声を風の中に聞く。学校に向かって走りだす老母。学校の前にはその日のように人々が集まり、若い青年が子どもたちに朗読をしている。朗読しているのは老母の息子だった。息子は町に戻る前に母親のために父親の書いた教科書で一度だけの授業をしたのだった。

久し振りにおんおんと泣いた。泣きながら洗われた。心地の良い涙だった。





2002年01月21日(月) 5番目の甥

私は二人弟がいるが、姉も妹もいない。姉妹がいったいどういうものなのか知らない。私には息子が二人いるが娘はいない。娘のいる暮らしはどんなものか想像できない。私には四人甥がいて姪は一人もいなかった。そして19日に5番めの甥が誕生した。よくよく私は女の子に縁がないようだ。

弟のところに赤ちゃんが生まれたら手伝いにいこうと張り切っていて、クラスに穴を開けないように、12月の内に余分にクラスを持って1月はいつでも休めるように準備していたが、金沢の大学で教えている弟はちょうど休みに入り主夫をやれるから手伝いはいらないという。あまり頼りにならない姉だというのは自分でも自覚はしているが、、、。暖かくなったら見に行くことにした。

赤ちゃんを抱っこする時のうっとりする気分を思い出す。その時は果てしなく続くように感じていた子育ての時期は過ぎてみると瞬く間だった。ここにこうして生きている時も瞬く間のことなのだろう。


2002年01月20日(日) 一致の勧め

今日の教会学校の担当は長男のHの番だったが、学年度末の試験でお尻に付いた火も半端じゃない状況なので変わってやることにした。今日の聖書日課はコリントの信徒への手紙1の1章10〜17「一致の勧め」というタイトルが付いている。

初代教会でさえ、様々な問題を抱えていたことが分る。コリントの教会で内部分裂が起こっていたようだ。それに対してパウロは「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」と問いかける。2000年前も今も分裂や仲たがいが容易に起こることは変わらない。「心を一つにし、思いを一つにし、固く結び合いなさい」というパウロの言葉は身に染みるが、それを実現することの何と難しいことだろう。

子どもたちへの話はこどもさんびかの137番の「きょうだいげんかを」という賛美歌を題材にした。阪田寛夫作詞、大中恩作曲の歌で1981年に作られた歌だ。20年前、教会学校で教えていた頃、新しいこどもさんびか集に入っていて子どもたちに教えた覚えがある。もう一度開いてみた。

1、きょうだいげんかを しない日はとおかにいちどか つきにかい
なかよくするのは むずかしい
かみさま かみさま かみさま そのわけおしえてください。

2、しらないどうしで けんかする
  したしくなっても またけんか
  なぜだかさっぱり わからない
  かみさま かみさま かみさま そのわけおしえてください。

3、こころがよわると うらみあい
  はりきりすぎると いがみあう
  なんだかかなしく なってきた
  かみさま かみさま かみさま そのわけおしえてください。

4、そのくせあるとき わけもなく
  みんなにやさしく したくなる
  だれかにおわびを したくなる
  かみさま かみさま かみさま そのわけおしえてください。

  おしえてください かみさま

この歌の3番の歌詞について考えてみた。ここにどうしてけんかをしてしまうかそのわけのヒントが隠れている。けんかも仲たがいも相手があってのことだが、相手の非を指摘することから始まるが、その原因は案外相手の中にはなく、自分の内にあるのではないか。自分自身への不信感や迷い、劣等感などが自分に向かわずに他人へと向かうという習性を私たちは持っているのだ。だとすれば、いったいどこに解決があるのだろう。
私は子どもたちにこう語った。
「誰でも不安になったり、自分がいやになったりするんだけれど、それをそのままにしていたら、自分の心が病気になるか、そうでなければ、それを人にぶつけて、けんかになってしまう。心も病気にせずに友達とけんかにもならずに元気になる方法があるでしょうか。私は今度心が弱くなったらまず神様にお祈りしようと思います。自分の不安を誰に話しても相談してもますます淋しくなるばかりです。大好きなお母さんだってみなさんの苦しい気持ちを変わってあげられないんです。そんな時は淋しい気持ち苦しい気持ちをかみさまのところに持っていくのです。人にはできなくても神様は不安をとりのぞくことができます。その淋しさを強さに変えてくれるのです。」


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1コリント1章10〜17
◆一致の勧め
1:10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 1:11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。 1:12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。 1:13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。 1:14 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。 1:15 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。 1:16 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。 1:17 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。


2002年01月19日(土) ミュージカル公演中止となる

新年の抱負はまず6月のミュージカル「森のおく」に向けてがんばることだった。その目標のミュージカルが今日、公演中止ということになった。理由は、理由は何だったのだろう。言葉として読み、言葉として聞いたが、そして私も残念だけれどどうにもならないのだろうと判断したものの「どうしてなのだろう」という疑問符が私の中から消えない。
私が感じてきたことはこのミュージカルを創っていこうとして集まった人たちが、それぞれ私利私欲と無縁の人たちで、それぞれ精一杯がんばっていたということとみなそれぞれにきらりとした個性を持っていて、劇や歌の練習の中にその人たちの美しいものが出ているということ。そして脚本も音楽も人の心を動かすものになるだろうということだった。厳しい表情や緊張した雰囲気に触れることはあったが、それらは物を創りだしていく時に必ずついてまわる厳しさであり、孤独感であり、戦いであると思っていた。しかし、結果としてもうこれ以上続けられないということになった以上、それを受け止めなければならない。「なぜ」と問うことは止めよう。あれだけの人がひとつことのために集まり、それぞれの持てる力を出してそれを実現させるべく努力した。結果は実を結ぶに至らなかったけれど、これまでの過程の中に学ぶべきことがあるのだろう。中止になったということの意味もどこかに隠れているのだろう。今はそれが見えなくても。


2002年01月15日(火) 井の中の蛙

「お母さんすっげえやつに出会ったよ。」
テレビを見ながらアイロンがけをしていると、夜更け過ぎにバイトから帰って来た長男がまくし立て始める。
彼は常時8割方興奮状態にある。
おとといは島崎藤村だったし、昨日は太宰治だった。どうやら古典に目覚めたらしい。しかし今日の興奮の元は秋に同じ学部に入学してきた同い年のインド人の男子生徒だった。
彼に言わせれば、物の見方や考え方で負けたと思ったことがなかったが、その子と話しているとまるで自分が幼児のように思えるくらい深い知識と洞察力を持ったタメ(同級生のことを最近はこういうらしい)なのだそうだ。
「ほんとうに井の中の蛙だった。」と並々ならぬ感動を覚えているようだが、でもこの台詞もう何度も聞いたような気がする。だいたい蛙なのにそうじゃないと錯覚しているところがまず幼い。
まあ良い、少しづつでも井戸が大きくなればそれに越したことはない。
でもそのインド人の19歳、ちょっと興味がある。小さい頃から日本で育ちインターナショナルスクールに通っていたらしいがいったいこの国にまたこの世界にどういう感慨を持っているのだろう。この異文化にどにように抵抗し、また順応してきたのだろう。彼の考え方が深いとするならば、抱えてきた悩みや怒りも深かったのだろうか。

昨夜「タイタンズを忘れない」という映画をビデオで見た。公民権運動の後、それまで別々に分かれていた白人の高校と黒人の高校が統合する。統合を前にそれぞれの学校で力のあるアメフトのチームがいっしょに合宿練習をすることになる。教育委員会は統合を進めるために黒人学校のコーチを起用する。白人側の親も子も黒人のコーチをボイコットしようとするが白人の学校のコーチが補佐として入ることでなんとか合宿にこぎつける。しかし白人と黒人の生徒の反目は何ともしがたい。コーチ同士も強いわだかまりがある。ところがそこに奇跡のようなことが起こる。お互いがお互いを理解し始めるのである。肌の色でこうだと決め付けてきた既成概念がはずされていく。理解は信頼へと意向し、さらには深い友情へと発展していった。何が間違っており、何が正しいかということを体験のなかで勝ち取っていくのである。お互いが反目する場面、白人が黒人を差別する場面は気分が悪くなるほど醜悪だったが同じ人間が差別の縄目から解かれて自由になっていく場面は美しかった。人間って捨てたもんじゃない。心の底から力が沸いてくるような映画だった。これは実話を元にして作られた映画だが、きっと醜い争いの向こうで私たちの知らない美しいドラマがいくつも生まれているのだろう。

一見平和に見えるこの国にもいわれのない差別で苦しんでいる人たちがいる。一見差別などと無縁に見えるような人の口からやっぱりニグロはとか、○○人だからとか信じられないような言葉が飛びだす。一旦日本の外に出るならば、そういう私たちこそ差別の対象になるというのに。
それぞれの民族が、人種が自分たちの井戸を出て広い海原へ出て行く時はしかしもう迫ってきている。
長男の通う大学の比較文化学部には様々な国のバックグラウンドを持つ学生たちが集まってきている。キャンパスそのものが異文化を学ぶ教材になっているのだ。ここでの教育に、またそこで育っていく学生たちに期待したい。人は変わりうる。この国も世界も。
マルチン・ルーサー・キングが訴えたように人が人を人種や肌の色ではなく、その人個人の信条や生き方で判断していく世界へと変わっていくことを
私もまた夢見る。
「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」

我が家の蛙くん、大いにがんばってくれたまえ。


2002年01月14日(月) バスケットボールの観戦

高校のバスケットボールの大会を見に行く。
どんな試合にもかかさず見に行くお母さん方の中では私はかなりさぼりだ。
よその高校の事情は良く知らないが次男の所属するバスケットボール部は代々、親のサポート体制が整っているらしい。大会ともなるとかならず、応援をよろしくという電話連絡網が入る。
今日は差し入れ当番に当たっていることもあり、祝日で夫もいるので2人ででかける。我が家のエースはしかし、ベストメンバーという訳ではなく、試合によっては出してもらえない。あまり期待しないで行くともうすでに8点をリードしている方のチームに息子の姿があった。なかなかシュートは決まらないがディフェンスは一番うまいと、バスケのことなどさっぱり知らないくせに親ばかしていた。
すっかり大きく逞しくなった、あのぷくぷくしたお人形のような子が、、、。と私たちのいつもの会話。自分たちも変貌しているに違いないが自覚がない。一方子どもたちはあれよあれよという間に姿を変えてしまった。子どもの成長がうれしくもあり、あの頃の彼らをもう失ってしまったという愛惜もある。
私の人生はスポーツには全く縁がない人生だが、息子がこれほど打ち込んでいる姿を驚きと尊敬の念を感じながら見ていた。


2002年01月13日(日) 主の洗礼日

教会暦では先週の日曜日でクリスマスが終わり、今日の主の洗礼日からキリストの公生涯をたどっていくことになる。やがて受難節そしてイースターと続く。

イエス自身はバプテスマのヨハネから洗礼を受ける。聖書には「そのとき、天がイエスに向かって開いた」とある。また「神の霊が鳩のように御自分の
上に降って来るのを御覧になった」と記されている。
今日の主日のメッセージでは、洗礼は自分の意思や決意ではなく、神から一方的に与えられる恵みだということが語られた。確かにそうだと思う。人間の意志の力で神の存在、イエスのあがない、聖霊の働きを信じるのではなく、神の方が捕らえて信じる者とさせてくださるのに違いない。しかし、この道を歩みますとイエスに従って行きますと神に約束したのだ。洗礼にはそういう決意という側面もあると思う。
私がそのスタートラインに立ち合図と共に走り始めたのは21歳のクリスマス。長い長距離走を走り出す前の気持ちににていた。走れるのだろうかという不安の方が大きく何の晴れがましさもなかった。あの時読んだ信仰告白文の最後に「私は弱い時にこそ強いからである」というパウロの言葉を書いた。書いた時にどれほどその意味を理解していたのかは分からないが、弱い時にこそすぐ脇にイエスの並走を感じてきたことは確かだ。

礼拝後、役員会。昼食も取らないまま4時まで話しあったが、総会にむけて画期的な組織編制の提案がまとまった。
その後、上智大学の構内で行われる賛美と祈りのつどいに参加すべく四谷に向かう。宗派は問はない集まりだということだったが、100名近い参加者はみなカトリックの信徒のようにお見受けした。私はプロテスタントだと自己紹介すると会の後で、何人かの方が声をかけてくださり、メールアドレスもいただいた。フレンドリーな方々だった。

この会の中で初めて異言というものを聞いた。皆で何曲か賛美歌を歌った後、誰からともなくそれぞれが思い思いの言葉と節で賛美を始めたのだが、それぞれどこの国の言葉とも知れない言葉があちらからもこちらからも聞こえてくる。あまりに流暢なので完璧なバイリンガルがずいぶん大勢いるものだとみごとな外国語での賛美に聞きほれていたがこれが聖書にも出てくる異言というものだということが後で分かった。そこには何か荘厳な犯しがたいクリアな空気があった。それぞれが違った言葉や響きを発しているのに、その響きや節のうねりはなぜか調和していて不思議なハーモニーができていた。
私の知らない不思議はまだたくさんあることを思う。
どんな不思議にも自分を開いていたい。



マタイ3章13〜17

◆イエス、洗礼を受ける

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。


2002年01月12日(土) 100円ショップ

100円ショップへ行く。
アメリカに住んでいた頃、何でも1ドルという店があって驚いた。他の店で売っているものとほとんど同じものが10分の1で買えた。その当時はとても考えられなかったが、今ではアメリカの1ドルショップ顔負けの100円ショップがあちこちにある。100円ショップで掘り出し物を見つけるのは楽しい。

今日は教会用のくず入れを買う目的で行ったのだが、見ていると「これ便利」「これきれい」と自分の家のものもたくさん買ってしまった。
野菜入れネットはなかなかのアイデア商品でデザインや色も悪くない。プラスチックのハンガーのようなハンドルに洗濯ネットのようなうすベージュのネットがくっついているものなのだが、ダンボールの箱に入れていた玉ねぎ、ジャガイモ、にんじんがすっかり収納でき、中身も見えるし通気性もいい。フックにひっかけられるから、場所もとらない。透明のアクセサリーボックスも便利だった。ピアスやネックレスが一つずつたくさんに分かれた仕切りの中に納まってしまった。もうネックレスどうしがからまることもないし、どのピアスがどの箱に入っているか探さなくてもいい。
きれいなオレンジ色の紙ナプキンが目に止まった。きれいな紙ナプキンは使いたいのだけれど、けっこう高いのでもったいなくて使わないでしまっておくことが多い。でも100円だったら惜しくない。ついでにオレンジ色の透き通ったプラスチックのコップも買ってその中にナプキンを入れる。鮮やかなオレンジ色がテーブルを生き生きさせる。
100円ショップで安上がりの生活改善だ。


2002年01月11日(金) 花の金曜日

育児に追い回されていたころ金曜日ほど待ち遠しいものはなかった。
夫の普段の帰宅は夜の10時、11時といった時間帯で子どもの寝顔を見る(たまに私のも)のがせいぜいだった。そこで花の金曜日、金曜日は残業無しの日なので夫は6時前に帰ってくる。私は車に乗らないので金曜日は自転車ではできない買い物や子どもの病院やその他もろもろの夫に助けてもらいたいことのリストがアップされていた。私と子どもたちは道路に面した窓に顔を突き出して夫の運転する赤い車(車種は忘れてしまった)を待った。すっかり車に乗り込む用意をして外で待っていることもあった。金曜日の夕方から週末にかけては私もきりきり舞いから解放され、一息つけたのである。

私は今年から金曜日が仕事がオフ。そこでやっぱり花の金曜日。昼間に生協の共同購入の車が来るので特別な用がない限りは出かけることもなく、家の中やせいぜい近くのスーパーに買い物にいくという過ごし方をする。何もノルマのない一日というのはいい。私の一番いたい場所は自分の家のこのテーブル。窓から葉っぱの落ちたハナミズキの枝を眺め、そこに来る鳥の声や木に吊り下げたウインドウチャイムのかすかな響きを聞きながら書いたり読んだりする。今日は3月の末から書いてきた日記をクリックしながら目を通してみた。同じ一年なのにその一日のある部分を切り取って書き付けただけで味わいというのか重みというのか、何かちがうなと思った。実際はもっとたくさんのことがありもっと多くのことを思ったのだろうが書いたものを読み返すと我ながらよく書いたもんだとあきれる。今は書きたいから書いているだけで、そこにどんな意味があるのか考えていないがこれは今の私にとってきっと必要な作業なのだろう。そのうちパタリと書かなくなったとしても。

午後から歩いてスーパーに買い物に行く。このところ寒い日が続いているが冷たい風の中に春の色と匂いが混ざっているのが分かる。この季節とても歩きたい気持ちにかられる。今日はずいぶんあたたかく、もう春がすぐそばに来ているに錯覚してしまう。木の芽花の芽がふくらんでいき、日が日に日に長くなっていくこの春のはじめの季節が好きだ。

買い物の後、鯛焼きを買ってスーパーの裏手にあるコーヒーのお店に寄り道をする。そこはヨガでごいしょのMさんのお店でここには何かほっとくつろげる空気がある。コーヒーを挽いてもらっている間においしいコーヒーをすてきな陶器に入れて出してくださるのもうれしい。店の脇にある小さなテーブルにはいつも素敵に花が生けてある。まわりの壁が一面たなになっていて、様々な形の陶器のコーヒーカップや小皿などが並べられている。持っていった鯛焼きを食べコーヒーをいただきながらMさんとしばらく話をする。Mさんの話の端々から私のようにふっとここに立ち寄って健康のことや家庭のことなど話していかれる方がけっこういらっしゃることが分かる。Mさんおっとりとした話方やどんなことも聞いてくれそうな懐の広さがそうさせるのだろう。こんな風に歳を重ねられたらいいなと思う。店先に農家の方が作った野菜を持って来られ、Mさんはいただいたほうれん草やこまつなを分けてくださった。帰り道、コーヒーの良い匂いといっしょにゆっくり歩いて帰った。

今でも夫は金曜日は早く帰宅する。夫の帰宅が早いと子どもたちはテレビのある和室を退散しなければならないので内心はうれしくはない。夫も息子たちへの気兼ねがある。最近の金曜日は早めに夕食にし、夫と私は車で20分ほどのお湯屋さんへというパターンが定着してきた。そうすれば息子たちも2人でゲームをしたりうるさい音楽を聴いたり我が物顔で出来、私たちもうるさい音から解放されまたくつろぐことができる。父親の帰りを待ってみんなでお出かけを楽しみにしていた頃がなつかしくもあるがこれが今の我が家流花の金曜日である。


2002年01月10日(木) 映画「母の眠り」

昨夜遅く、ラップトップのPCを寝室に持ち込み、DVDで「母の眠り」という映画を見た。末期癌で死んでゆく母親役にメイル・ストリーブ、ハーバード出のピュリッツア賞作家の父親にウイリアム・ハート。NYでジャーナリストとして働いている娘はデニー・ゼルウエガー(ヴリジッド・ジョーンズの日記の主人公)。シリアスな映画だった。死がまずは重いテーマだが、母と娘との葛藤が何とも重かった。

季節ごとに凝ったデコレーションで家の内外を飾り、夫の誕生日には人をたくさん呼んでのサプライズパーティーを企画し、町のボランティア婦人のグループで活躍する、いわばアメリカ版主婦の鏡ともいうべき母親。娘は小さい頃からどこかそういう母親に抵抗しては本ばかり読む理屈っぽい子で、成人してからは母親の創り出す家庭的な雰囲気を嫌い、母親と正反対の生き方を選んでいる。その反面、大学教授の父親には尊敬と憧れを抱いて育ち、父親から認められたいという気持ちが彼女の仕事への情熱へとつながっている。

そんな娘が父親の頼みで職場を離れて実家に戻り、母の「世話」をすることになる。娘が戻ってきたというと母親は露骨に有難迷惑だという顔をする。娘は娘で、仕事が大切とばかり、実家でそれなりに下手な家事をなんとかこなそうとしながらも、抱えた仕事をなんとか成功させようとやっきになっている。母親は雇った看護婦には介助を頼んでも、娘には頼もうとはしない。小さい頃からお互いの間に流れていた不協和音が母親の病気によって外に噴き出して来たかのように見える。一方父親は家事や母親の世話は娘にまかせっぱなしで手助けする気配はない。大学の会議といいながら浮気をしている気配がする。しかし父親も耐えられないような喪失感にさいなまされていた。娘の父親への尊敬も崩れていく。
死にゆく人間を抱えた家族はそれだけでも苦しむのに、新しく生じたお互いの関係に苦しむ。楽しいという振り、理解しているという振りができなくなる時、完璧だった家庭がぐらりと傾き、覆い隠されていたものが表面に出てくる。死だけでなく、家族はそういったものにも向かい合わなければならない。

私は年齢的には母親の方に近いのだが、映画の中では娘の方に自分を被らせて見ていた。どこか似ていると思った。母と娘の葛藤が良く分かる。私の場合は職業婦人の母に対して、私は専業母親、専業主婦で挑むというところがあった。それでいて私が子育てに追われてアップ、アップしている時期にさっそうときめて仕事や学集会に出かける母に嫉妬やいらだちを感じていた。親子の間にあるものはけっして愛情だけではない。愛、ねたみ、競争心、羨望、不安、孤独、ありとあらゆる感情の渦のなかで近寄ったり離れたりしながら同じ時と空間を過ごしていくのである。子どもが育ち上がり、やっと親と子どもが別々に暮らすようになり平和が訪れても、今度は親が弱ったり、病気になったりすることで、双方はまた近づかざるをえない。その時に障害になるのは小さい頃から押し込めてきた親への感情なのである。しかし、それは残した課題のようなもので、そこへの捕らわれから自分を解き放っていくべき機会を与えられているのだ。幼い頃に心に焼き付けた思いを大人の目でもう一度検証することが求められている。その時には見えなかった状況や親の想いに目を止め、幼い日の自分に思い込みが何であったか見直す作業が必要なのだろう。もし傷ついているインナーチャイルドが自分の内にあるとすれば、それを癒すのはもはや親ではなく大人になった自分自身なのだから。母の介護と看取りを通して主人公が自分自身を癒していく過程に同伴している気持ちがした。しかし映画は過程のままに終わっている。「課題」は彼女がこれから結婚や出産、子育ての中で続いていくことになるのだろう。そして私もまた親の介護と看取りを通して「課題」を仕上げていくことになるのだろう。

今日、ヨガの帰り県活の図書室で行く。これといって今借りたい本などないのにしきりと足がそちらへ向いたのだ。こういう場合、出会うべき本が私を呼んでいるんだと素直に導きに従うことにしている。
一番奥の書架まで歩いていくと「生きるための死に方」というタイトルの本が目に留まった。「新潮45」に掲載された42人の作家の文がまとめられたものだ。冒頭の芹沢光治良氏の文を立ち読みしてに並々ならぬものを感じ、この本だけを借りて帰ってきた。

夜になって、珍しく学生時代の友人のYさんから電話がある。声の調子が沈んでいる。教授の誰かが亡くなったのかしらと言葉を待った。亡くなったのは同じ科にいたNさんだった。小学校音楽科の7人のメンバーはそれぞれにみな個性的だったが中でも強烈な印象を持つ2人が際立っていてNさんはその一人だった。その昔、中学校の教育実習の時だったか、何かのことで私は彼女の個性とぶつかり合った記憶がある。実際にぶつかったのか、私の心の中に起こったことだったのかは覚えていないが、当時私は自分の感情を人にぶつけることができなかったからきっと私の心の中だけに吹き荒れた嵐だったことだろう。卒業以来一度も会わずじまいだった。いろいろと辛い経験をしたということは聞いていたが豊かな恵まれた家庭のお嬢様だった彼女のその後の人生のことを私は知らない。7人のメンバーのうち、私以外はみな卒業後、地元で教師をしている。みなで集まり葬儀に行くことになったからとYさんは私が名前だけでも連ねられるよう配慮してくれた。みなそれぞれに課題をこなしながら生きているのだろう。あの頃は恐ろしい教授のピアノのレッスンや卒業演奏会での演奏が共通の課題だったけれど、今はそれぞれに複雑に入り組んだ課題を抱えているのだろう。

電話の後、テーブルの上に置いてあった「生きるための死に方」を開く。
表紙の折り返しのところにフロイトの言葉が書かれてあった。
「あらゆる生あるものの目ざすところは死である」

地上での戦いを終え天の住居に移ったNさんの魂が安らかならんことを。


2002年01月08日(火) ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉

O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.

小さな声のメーリングリストにこの詩への問い合わせがあった。調べてみると聖学院の木本院長が日本に紹介し、広く知られるようになったという。その訳詩はこのようになっている。

神よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
 


短い詩の行間の言葉もおぎなって、詩の持つ意味がはっきりと伝わるよう、メッセージ性を持たせて訳されていると思った。
これを、できるだけ、原文の言葉の並び方を変えずに詩のリズムを損なわないように訳すとこういうぐあいになった。


神よ、我らに与えたまえ
変え得ないものを受け入れる心の平静さを
変られるべきものを変えていく勇気を
そしてそのひとつをもうひとつのことから
見分ける知恵とを。

distinguishというのは2つのことがらを分類するというよりはひとつのことがらから、量的にも少ないもうひとつのことがらをその価値を見定さだめそこから取り出すというニュアンスがあると思う。

私たちはどうにもならないことを受け入れることができない。どうにもならないことに心騒がせ、思い惑う。それでいて、自分の力で変えていかなければならないことには努力することなく早々とあきらめてしまう。

冷徹な目。社会に対しても、自分自身に対しても醒めていてゆるぎない視線を向けていきたいと思った。
大晦日のテレビ番組の中に映し出されたアフガンの中村医師の眼差しを思い出す。
  


2002年01月07日(月) 息子の友達

夕方暗くなって回覧板を届けに外へ出ると、車が一台家の前に止まった。どなただろうと運転席の黒い人影を確かめようとすると、「お母さん」と向こうから大学生の長男が自転車でこっちに向かってくる。「Tちゃんと偶然そこで会ったんだ。」車を運転しているのは息子の友人のTちゃんだった。「まあ、Tちゃん、お久しぶり。どうぞ入って。」
ちょうど、英語教室が終わったばかりで人が入って来ても良い状態に部屋も整っている。昨日のようにテーブル中に書類や本が広げられているような状態だとこうはいかない。

Tちゃんは長男Hの中学の時からの友人、サッカー部のキャプテンだった。中学の頃は家に泊まりあったりもしていた。はじめてTちゃんを見たのは中一の時の授業参観で、HとTちゃんがいっしょに一台のコンピューターを操作していた。学生服は着ているものの2人ともまだ小学生の面影を残していて、操作がうまくいかないらしく、2人して途方に暮れているあどけない顔を思い出す。あれからどのくらいの時間がたったのだろう。目の前に現れたTちゃんの逞しくなったこと。あの時の子どもっぽさとも、高校生の時の繊細な感じとも違った、余裕と暖かさを備えた青年の顔をしていた。お父さんを亡くされてからもう3年になるという。今月の末は3回忌なので田舎へ帰省するそうだ。Tちゃんのお父さんが亡くなったことをしばらく経ってから知った時には息子共々心が痛んだ。声をかけたい、なにか思いを伝えたい。でもTちゃんやお母さんの痛みを思うとお尋ねすることもためらわれて、とうとうお悔やみにも伺わないままに月日が過ぎていて、HからTちゃんのことを聞くたびにそのことが悔やまれた。

「お母さんはお元気?」「ええ、元気すぎますよ。ガーデニングなんかしてるんです。僕たちがもう働くなって、働かせないから暇なんです。」
Hと同じ年とは思えないほど、成熟しているものの言い方だった。また、お父さんが亡くなられた後、兄弟たちで力を合わせて母親を支えてきたその道すじが見えてくるようだった。

Tちゃんに焼き芋を出すと、「これ鹿児島のですか?」と言う。それは確かに鹿児島の叔父から送られてきた薩摩芋だった。そういえばねっとりとして甘くべっこうのような色をしたこの薩摩芋はここらの芋と何かちがうなと思いながら食べたのだった。Tちゃんのご両親の郷里は鹿児島だった。そんな言葉からも我が家で育つティーンエイジャーにはない生活感のようなものを感じた。我が家の息子たちが芋の産地を当てるなどとは思いもつかない。

「カレー、食べていかない?」
「いえ、もう帰らないと。お袋が待っているだろうから。」
何気ない言葉に胸がじんとする。
平気で朝帰りをするわが息子はTちゃんにおびただしい量のCDのコレクションを披露しながら音量を上げてCDをかけている。長男にはそんなTちゃんの言葉はただ耳をかすめていったくらいのものだろう。
専門学校に通うTちゃんはこの春、地元で自動車関係の会社に就職することになっているといつかHが話していた。「ぼくはこの町には住まないよ。日本にだって住まないかもしれないから。」と息子。「どうぞ、どうぞ。」と私。
様々な親と子の関係、様々な家族の模様。Tちゃんのお母さんのことはあまり知らないがご主人を亡くされご苦労があっただろうが、これからは4人の子どもたちと孫たちに囲まれ幸せにすごされるのだろうと人事ながら何かうれしかった。


2002年01月06日(日) 聖書の朗読

教会暦では今日は顕現主日と言われる日だ。東方の3人の博士が輝く大きな星をたどって、ようやくベツレヘムの馬小屋のイエスに会うことができた日を記念する主日、クリスマスはこの日を持って終わる。日本では暮れのものはさっさとかたずけて新年の準備をするので、年が明けてもクリスマスツリーやリースなどを飾っているとずいぶんちぐはぐな印象があるだろうが、実際のところクリスマスの飾りは一月の最初の日曜日まではそのままにして置くものなのである。我が家のドアのリースはそういうわけでお正月の間も飾って顕現主日の翌日の月曜日に取ることにしている。家の前を通る人は「いったいいつまでクリスマスのものを出しているんだろう。」といぶかしがっているかもしれないが。

今日の礼拝で私は聖書朗読をした。今まで奏楽やお祈りの当番にはなっても、礼拝の中で聖書を朗読したことはなかった。今日は朗読の当番に当たっている方がお休みされていたので私が読むことになったのだ。いつもは人が読むのを聞くのだが、人の前で声に出して読むのはこれほど自分で読んだり人が読むのを聞いたりすることと違うことかと驚いた。聖書の言葉を音声で伝えるという体験は何か他の時には感じたことのない何かがあった。そこに私の個人的な読み込みや感情が入らないように、表現するのではなくしかし、ここにある言葉を届けたいという熱意を込めて。読みながらそんなことを自分に言い聞かせていた。前もって読む時間もなく、ぶっつけ本番の朗読などという恐ろしいことをしてしまった。以前、朗読の公演に行った時、語られる方が作品にどれほど真摯に取り組み、また朗読の技術なども深く学ばれているかということに感動した。私にとって聖書は文学作品以上のものである。聖書を朗読するというそのことだけでもひとつのライフワークになることだろう。聖書の朗読に取り組んでみようかとふとそんな気になった。


イザヤ60章1〜6

◆栄光と救いの到来

起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り
主の栄光はあなたの上に輝く。
見よ、闇は地を覆い
暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたを照らす光に向かい
王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
目を上げて、見渡すがよい。
みな集い、あなたのもとに来る。
息子たちは遠くから
娘たちは抱かれて、進んで来る。
そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き
おののきつつも心は晴れやかになる。
海からの宝があなたに送られ
国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群
ミディアンとエファの若いらくだが
あなたのもとに押し寄せる。
シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。
こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。


エフェソ3章1〜12

◆異邦人のためのパウロの働き

こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。 あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。 初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。 あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。 この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。 神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。 この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、 すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。 こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、 これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。 わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。


本日の福音書 <マタイによる福音書 2章1〜12>

◆占星術の学者たちが訪れる

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


2002年01月05日(土) はなびらのお風呂

長男から電話が入る。
終電で帰るから鍵開けといて。
それで何時なの。
12時半くらいかな。
そのくらいなら起きてるよ。
12時半に帰って来るわけないよ、いいよ鍵開けたまま寝て、と夫は珍しく私より先に寝室へ引き上げた。

夫の言った通り1時半を過ぎても息子は帰ってこない。しかし、もう最近はこんなことで腹が立ったり、おろおろと心配したりすることもなくなった。
人間は順応する。それがいいか悪いかは別として。
いいわ。もうお風呂に入って寝よう。夫は銭湯に行ったし、次男はシャワーだったから今日はお風呂にお湯が張っていない。そうだ、こんな時にとっておきのはなびらのお風呂にしよう。クリスマスにMさんからいただいたはなびらの入浴剤。透明のプラスティックのケースにきれいな色のはなびらの形のせっけんがたくさん入っている。

バスタブに3分の1ほどお湯を張ってさらさらとはなびらの形のせっけんを入れる。いろんな色のパッケージがあるが、今日はブルーのはなびらを選んだ。お湯の上にブルーのはなびらが浮かぶ。しばらくはお湯の上にぷかぷかと浮かぶはなびらを楽しんでから、さらに勢いよくお湯を入れるとはなびらがみるみる泡になってバスタブは泡風呂になる。小さい頃、「奥様は魔女」か何かで見たようなあんなふわふわシャボン玉が飛び交うような豪華な泡とではないけれど、ちょっと贅沢で、豊かな気持ちになる。ついでにアロマキャンドルを灯すんだったな。

キャンドルの火は不思議、たちまち瞑想へと誘われる。そういえば、年末年始にかけて、瞑想とは程遠い生活をしている。
瞑想といっても自己流のものだが、一口でいうと限りなく自分に降りていく。いろんな煩いごとや、ネガティブな思いをろ過すし、底へ、底へと降りていく。そんな場所に思ってもみないような心地のよい空間がある。それはいきなり開けた平地のように自由で広々としている。静かなよろこびがひたひたと満ちてくる。

お風呂にゆっくり入って、もう日記もおしまいにしようというのに息子は帰ってこない。心配の虫が騒ぎ始める前にさあ寝よう。神様、あとはあなたにお願いです。どうぞ危険からお守りください。鍵は開けたままですから泥棒からもお守りください。
ではおやすみなさい。


2002年01月04日(金) お正月はおしまい

昨日まではごろごろしたり、温泉に浸かったり、出かけたりと正月モードにどっぷりと浸っていたのに、今朝になって家族がみなで払い、たまったゴミをいくつも回収所に持っていくと、急に正月モードが年度末モードに切り替わった。

高校受験を控えている生徒のこと、年はじめのクラスのこと(見学者が2人ある)、13日までに提出しなくてはならない、英語学校の授業報告や会計報告の資料つくり、ミュージカルの台本の暗記と練習とこの一週間の内にやらなければならないことが一気に押し寄せてきた。どうして今まで気にならなかったのだろうと思えるほど、気になりはじめた。まず、中3の2人に、入試対策の補習をするから午後から来てと伝え、年賀状ややそのままになっていたクリスマスカードの返事を書く。

夕方から高校入試対策勉強会をやる。通常、90分のクラスなのに、2時間30分の大サービスでしかもこれはボランティアの補習。でも生徒たちは急に「叱咤激励モード」に入ったチューターにちょっと面食らっていたに違いない。受験英語に振り回されたくはないけれど、目の前に迫っている試験のことがむしろ母親レベルで気にかかるのだ。熱を入れすぎたのか叱咤激励にエネルギーを消耗したせいか、はたまた食後に食べたブランデーケーキに酔っ払ったせいか、夜にやろうとしていたことを残したまま、ソファーにひっくりかえってしまった。息子が毛布なんか掛けてくれるものだから仕事のこともすっかり忘れて気持ちよくたっぷり眠り、今度は夫から疲れているんだからこのまま眠たほうがいいと2階に追い立てられ朝まで寝てしまった。

翌朝になってかなりあせっている。この週末は気合をいれてがんばろう。


2002年01月03日(木) 揺れ動き

私の育った家は典型的な核家族で、しかも両親の故郷からは遠くに我が家だけで暮らしていたから、親しい親戚づきあいはなく正月だからと親戚の家に行ったり誰かが来たりということがなかった。当然お年玉というものはない。親からもなぜかもらっていなかった。そもそももらったことがないのであれば、なくて不自由することもなかったから、正月明けにクラスでお年玉が合計でいくらになったなどどいう話を聞いてもしれほど淋しい気持ちにはならなかったような気がする。そういうことで言うなら我が家は他の家と日常的に違うことが多すぎて、違っていることがむしろ普通だったが・・・

私と弟たちは共働きの家庭で育つ鍵っ子の走りだった。実際は鍵を首にかけて登校していたものの、あまり紛失してしまうものだから、鍵は持たずに家はいつも鍵を開けてておくことになった。取られるものなど何もないからと
言っていたが、いくら田舎のこととはいえ、一般的なことではなかったに違いない。自分のことは自分でやるというのは我が家の常識で、また勉強しょうがしまいがとやかく言われることもなかった。それぞれがそれぞれに抱えていることでカンバッテいたから、子どもといえども世話をしてもらうという意識はもたされていなかった。


こいいう育ち方をしたためだろうか、あるいは私の性格なのだろうか。自分のことは自分で、人の世話にならず、人の世話もしない、めんどうな人付き合いも苦手という非常にクールな面がある。一方で、家族が助けあったり、親戚が行き来したり、隣近所の人たちとつつがなく暖かい交流をしたりという自分に欠けているものにあこがれ、無理にでも自分をそこへと持っていこうとする一面がある。でもここのところでこの2つの私がいつもぎくしゃくとぶつかる。親や兄弟、親戚といった血縁に対してクールであまりかかわりあいたくないというもともとの気質と親兄弟と世間なみに近い関係を持ちたいという願望がぶつかりあうからだ。よくよく振り返ってみると、他とちがう自分の家を受け入れながらもそうではない親子関係や親戚との関係を見て「欠け」を感じてきたのだろう。「違う」ということへの漠然とした不安のようなものが確かにあったような気がする。

歳を取るとともに血族に対するクールさに後ろめたさを覚えるようになってきた。その感覚はは通奏低音のように、あるいは低い耳鳴りのように消えることはないが、暮れから新年にかけてはその音がひときわ大きくなってくるような気がする。今朝目が覚めた時に世田谷に住む伯母を訪ねようと思ったのはここ何日か大きくなっていたあの通奏低音のせいだったのかも知れない。私と夫の親戚はほとんど九州に集中しているが、唯一母の姉が結婚してからずっと世田谷に住んでいる。母より11歳年上の伯母も義理の伯父も身体は弱ってきたもののまだ元気だ。暮れに検査で入院していた伯父も結果が良かったので退院しており、元気そうで安心した。

1月1日から売り出しのANAの超割航空券が取れた。3月の頭にには生徒の高校入試も終わっているし、年度末よりは仕事のやりくりも付けやすい。この時期を利用してて夫と私の実家へ帰省することに決め電話をする。母は「わざわざ帰ってこなくていいよ。」という。母の方も世話にはなりたくないという気持ちと子どもたちがみな遠くに離れて暮らしていることの無念さとの間を行きつ戻りつしているのだ。こういうぎくしゃくはしかし、一見普通に見える家族にだってあるものなのかもしれない。家族ってなんだろう、どういう関係を育てていくのがいいのだろうと時折、考えがそこで停止してしまう。私の中の葛藤はこれからも続くのだろうか、それとももっと別なものに形を変えていくのだろうか。子も親も否応なしに加齢は進んでいく。お互いが何を必要とするかは刻々と変化していくのだろう。その変化に自然に対応できるようになるために、私の中にずっと潜んできたネガティブな想いを手放していかねばならないとそんな気がする。


2002年01月02日(水) 見知らぬ読者

昨夜遅くホームページの掲示板を開くと、ふじたあきこさんという方から書き込みをいただいていた。タイトルは「たりたくみさん有難う」となっており
このような書き込みだった。

<明けましておめでとうございます。 昨年はたりたさんのお部屋に人知れずお邪魔して ゆっくりさせていただきました。詩やエッセイを読ませていただき、日記を愛読して新しく迎えた2002年の最初の日にこうしてご挨拶をお送りしております。沢山の贈り物を心から有難うと申し上げます。1日の終わりに開くあなたのペ−ジからどんなに多くの慰めと希望をいただいたことだったでしょう。今年もどうぞよろしく..上よりの祝福を心から祈りつつ>

この書き込みを何度も読みながら不思議な感慨に浸った。書いたものをサイト上でオープンにするということは私が会ったこともない方から読んでいただくということを十分に予想しているし、また読む人がいるから何にでもすぐに飽きてしまう私がこのように書き続けることができるのだと思っている。実際、夫や友人、またネットで知り合った方々が読んでくれていることで励まされている。けれども、お会いしたことのない(恐らく)方からこのように読まれていることを知ると、何か今までに覚えのないしみじみとした気持ちが起こってきた。そしてこの「日記」を始めた時、こういう出会い、こういう触れ合いをこそ密かに期待していたような気さえしてくる。それというのも、私自身、実際に会ったこともない人の書くものを読むことで深い慰めや共感をいただき続けてきたからだ。そこには書き手と読み手という関係を超えた相互に行き交うダイナミックな関係が生じる。私はほとんどの場合、本の中にはさまれている読書カードに感想を記入することはない。ある意味で感想というものが書けないほどに書いた人の魂と深く結びついてしまう。そうなれば、もうそれで十分満足で書き手にもその気持ちは通じているはずだなどど思ってしまうのである。

こうした書く者と読む者との心の繋がりを反対の方向から体験したのだと思う。今まで読み手であっただけにふじたさんから伝えられた言葉が染みわたってくるし、そこに起こる交感の恵みを書く者の立場で味わっているのである。
表現するということはそれ自体、とても恵みと慰めに満ちたことであるが、その表現が他者の慰めにも成り得るのだとすればなんという感謝だろう。


2002年01月01日(火) 2002年1月1日

一日はどこを取っても私の人生においては一回きりのものである。
お正月といってもそんな一日に変わりはないが、ふと後何回お正月を迎えるのだろうと思い、そばにいた夫にあと40回くらいかしらと言うと、「そんなに」とびっくりされてしまった。後35回くらいが妥当なところじゃないかということになる。

渋谷でのカウントダウンとそれに続くパーティーとやらで朝帰りした長男も揃い、おせちを並べた新春の食卓を4人で囲む。「おせちがこんなにおいしいと思ったのは初めてだなあ。」と、長男。あちこちでお酒も飲むようになって味覚が大人のそれに近づいたのだろう。テーブルの上の料理は例年になく、みるみる無くなっていった。一方、夫と私は前のような大食いをしなくなっているためか、お雑煮はどうしても入らない。夕食にいただくことにする。こんな場面でも、家族のステージが移り変わっていることに気づかされる。

カルタも凧揚げもしなくなったお正月、子ども達は午前中の家族団らんでもう十分とばかりにそれぞれの部屋へと引き上げ、夫と私は初売りへと車で出かけた。数ヶ月前に愛用していた私の第一号のパソコンが壊れてしまって、それからというもの義姉が不燃物の回収の日に出そうとしていたパソコンを九州から送ってもらって使っていたが、元旦にパソコンを新調しようということになっていた。我が家で一番パソコンの知識の無い私が一番フルに使っているのだから、新しい高性能のものを使う権利があると夫は積極的で、私専用のものだけれど、10万は出してくれるという。目を付けていたSONYのVAIOのノート型は長男がおばあちゃんからの入学祝いで買ったものよりはるかに安くて機能も新しく、しかも音の良いスピーカーとDVDが付いている。「これ、5年は使えるかしら。」と言い、5年後の自分をふっと思い浮かべた。50歳、もう初老ではないか。そう思うと16万のパソコンは惜しくないという気になった。
残りのあまり多くない日々を記録したり、物を書いたりする道具としてこれまで以上に使いこなそうと思った。丼勘定の家計もこれで管理し、あちこちのノートに分かれているアドレスをまとめ、仕事のスケジュールやプライベートなプランもここへまとめていければいい。そう、収束の時期に差し掛かっている。集めたものは整理し、広げた風呂敷は取捨選択していかなければ。

出かける前、郵便受けを覗くといくつかの郵便物に混じってなつかしい筆跡の封筒があった。キャロルからのクリスマスカードだ。毎年必ず、2人の娘の写真入りのカードを送ってくれる。我が家の次男が通う保育所でクラスメートだったキャロルの長女はすっかり大人びた父親の側のイタリア系の美人に変身しており、まだ赤ちゃんだった末の子はドイツ系の祖母にそっくりの顔になっていた。カードの裏にはびっしりと書き込みがしてある。車の中で読み進む内にはっとした。私たちの共通の友人で教会学校では次男のクラスをボランティアで教えていたリンダが昨年4月に急逝したことが書いてあった。リンダの養女は次男よりひとつ年上、今年の夏高校を卒業するはずだ。日常的にすっかり忘れていたリンダやその家族のことが鮮やかに思い出される。交わした言葉の中で心に響いた言葉や彼女の包み込むような愛情豊かな表情が不思議なほどくっきりとした輪郭を持って浮かびあがると私のうちで新たな場所を占めてしまった。もう彼女を忘れることも、記憶が色あせることもないだろう。人の死はある時、新たな出会いになる。その人の魂と生前にない強さで結びつくかのようである。リンダが私にとってどんなにかけがえのない人だったかを改めて知った。

あと35回くらい正月を迎えるだろうとのんきな会話をしたが、実際は明日の命の保障さえない。

「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
マタイによる福音書25−13


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