たりたの日記
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2001年11月30日(金) 映画「神の子たち」

彼らはほんとうに神の子だった。

フィリピンのパヤタスごみ捨て場
12歳のニーニャは
左右の違う長靴をはき、ゴミの山の上を歩く
今日一日生きるための糧をゴミの山から見つけるためだ
こちらに向けた目の奥に静かな喜びを見つける
その眼差しだけで私は遥かとおく彼女の気高さに及ばないことを知る
「私は盗むくらいだったら飢え死にした方がいいわ」とニーニャ
町で仕事をさがすため家族を残してごみ捨て場の家を離れる朝
ニーニャの父は家族を集めて祈りを奉げひとりひとりを祝福した
このように美しい家族の絵を
私は見たことはない

バヤタスごみ捨て場が崩れた
生き埋めになった子どもや大人は千人にもなるという
ゴミ捨て場が自然発火し、辺りは死体の焼ける匂いに包まれる
政府はゴミ捨て場を閉鎖したが
そこで暮す3500世帯の人は生きるすべを失う
ノーラは身重の体でデモに参加する
ゴミがこなければその日の食物が得られないのだ

ノーラに赤ちゃんが生まれようとしている
産婆さんがノーラのお腹をさする
夫フォーシンはノーラの頭に手を置く
ノーラの手をしっかりと握る
苦しむノーラ
握るフォーシンの手から汗が噴き出だす
このように美しいお産の写真を
私は見たことがない

5歳のアレックスは水頭症
もう起き上がることも歩くこともできない
いよいよ食べるものがなくなったアレックスの父親は
隣人に米を借りに行く
そこの家とて苦しい生活だろうが米を分けてくれる
持ち帰った米を炊き、まずアレックスに食べさせる
次に2人の妹たち、父は「おまえも食べろ」といい
母は「あなたも食べて」という

画面に大写しになったアレックスの瞳が
まっすぐにこちらを見ている
クリスマスに教会に行ったことが楽しかったと
歌うような声で語る
「ぼくの足が治るように神様にお祈りしたんだ」
このように美しい眼差しを
私は見たことがない

さまざまな廃棄物の山に埋もれて
悪臭と毒素にまみれて
あなたがたがを美しいのはどうしてですか
豊かなわたしたちよりも愛に溢れているのはどうしてですか
あなたがたが命の源へしっかりと繋がっているからなのですか

彼らは訴えたり責めたりはしない
けれども神は私たちに問いかける

あなたはどのように生きますか
同じ被造物として



2001年11月28日(水) 不思議なつながり

昨夜おそく、銭湯から帰ってくるとテーブルの上に息子が記したメモがあった。
へたくそな字で走り書きしたそれはTさんからの伝言で「遅くなってもいいので電話して下さい」ということだった。すぐ電話すると、明日大宮に来る用があるから会わないかということだった。実はここ数日間、Tさんのことを考えていたのだ。カトリック教会に行っているTさんとヴァッスーラの預言のことを話してみたいと思っていた。

一年振りに会ったTさんに以前よりやわらかな印象を覚えたが、彼女が孫を持つ身となったことと関係があるのだろうか。私たちは会わない間に起こった変化や新しい出会いのことや、今やっていることなどをいっしょにお昼を食べながら話した。
最後に会ったのは去年の5月の声楽の発表会の時だった。私たちは同じ声楽の先生の門下生という間柄だった。数多くの門下生の中でも特に彼女と親しかったのは初めて出会った古楽の音楽祭で寝泊まりを共にし、その頃お互いに関心を持っていた精神世界の話しなどで共感することが多かったからだ。そうかお風呂にもいっしょに入ってしょっぱなから裸の付き合いだった。

Tさんから「なんだか変わったわね」と言われた。私は前は何か内にこもる感じだったらしい。あの頃と今の変化といえば、身体的には子宮を取ってそのお陰でひどい貧血から回復しことが大きな変化で、精神的なところでは4月からほぼ毎日読まれることを前提とした日記を書くようになったことだろうか。私が以前に比べ、自分を開いている印象が強いのだとすれば、それは書くようになったことと関係があるような気がする。元気に見えるとしたらヘモグロビンの量が人並みになったせいだろう。

母親の立場、主婦の立場、教師の立場、教会員の立場、相手により場所により一つの私はいくつもの分かれる。どこかでほんとの私をセーブするかあるいは立場に自分が埋没してしまうような気がしていた。いろんな立場を脱いだ後、ひとりっきりになってここで書くことでなんだか癒される。座標軸をもとの位置に戻して私は私の真ん中に腰を落ち着けるのだ。これってずいぶん健康的な営みではないだろうか。歌うことも体にいいけれど。

そういえば、私たちが指導を受けた声楽家は「うそいつわりのない自分の声を取り戻す」ということをよくおっしゃり、自分の生の声、えぐい声やストレートな声を出すことを強調されていた。いつのまにか身につけてしまった「らしい」声を自分の声に戻していく作業は「目から鱗」だった。私は今はレッスンを中断しているが、3年間の間に歌う声はずいぶん変わったと思う。また声以上に表現する方向が変わってきているような気がする。「うそいつわりのない」がキーワードだ。

Tさんは偶然に出会い、かかわるようになったあるクリスチャンのオーガニゼーションのことを話してくれた。今度訪ねることになった。ここにも探しているものがありそうだ。きっと、今出会っていることと繋がりがあるのだろう。彼女に初めて会った時の不思議を今日また感じたことだった。


2001年11月27日(火) なんなのだろう

いったいなんなのだろう。
朝めざめたときから、晴れがましさに満ちている。
うきうきと心が動いていて、鏡の前で笑っていた。
外に出るといっせいに花々が話しかけてくるようで、
わたしったらパンジーやセージやゼラニウムやはなみずきの木なんかを
ひとつづつ撫ぜながらIlove you!と言ってまわったりしている。
道をすれ違う人みんなにおはようと言いたくて
電車に乗りあわせた人にもにこっと笑ってもいいような気になる。
ここは日本だというのに!(変な人だと思われるよ)
何かか違う。何かが起こった。
なんだかわからないけど不思議な力が満ちている。
今日はずっとこんなだった。
赤ちゃんたちは気がついたみたい。
幼児とお母さんの英語久ラスにおみそでくっついてくる赤ちゃんたちが
今日はいたずらもぐずりもしないてじっといっしょに体を動かしている。
やたらと目が合う。
おもわず赤ちゃんたちを抱っこして手遊びをやった。
やっぱりちがう、何かがちがう。
ということは私は気がつかなかったけれど
今まで心は晴れではなかったのだろうか。
こんなに光りが体中に注ぎ込んではじめて
今までの曇りに気がついている。
この晴れの気分をよく覚えておかなくっちゃ。
曇りのときを晴れと間違えないように。


2001年11月26日(月) 感謝

昨日のこと心からうれしいことが起こった。
何人かの人達とその喜びを分かち合った。
ひとりひとりのうれしさが伝わってくる。
それだけに重かったりつらかったりしただろうことが分かる。
今日はそのことだけを記しておこう。


2001年11月24日(土) 講演会のこと

昨日の日記には思ったことは書いたが出来事は書いていなかった。
やはり記しておこう。この日のことを後々思い出すような気がするから。
昨日は夫といっしょに次男のバスケットボールの試合を見に川口へ行き、その後、私だけ四ッ谷のカトリックセンターへ向かった。

講演の始まる一時間前に着いてしまったが、ロビーには準備の方々が書籍を並べたりしていたので入っていくと、もう階下の講演会の場所に行ってもよいらしい。並べてある分厚い本の隣にある「らんぷのあぶら」という小冊子を求める。一昨年前の夏、福岡と東京でのヴァッスーラの講演会の記録のようだった。何しろ何の予備知識もなかったから、講演の始まる前に彼女に関するものを読んでおきたいと思ったのだ。

ヴァッスーラから遣わされたというギリシャからの証人が3人会場に入られた。通訳はマオさんのお友達の人見祥子さんだ。彼女はヴァッスーラの預言の翻訳者でもある。この日スピーチしたのはイリニ・ゾッパさん、考古学とフランス文学の教授ということだった。のまたのヴァッスーラの預言ギリシャ語への翻訳者でもある。
彼女の話しは最近の預言をもとにした話しだったと思うが、印象的だったのはイエスがキリスト教、ひいては宗教の一致を願っておりそのために働いているというメッセージだった。確かにキリスト教は大きくギリシャ正教、カトリック、プロテスタントに分かれ、プロテスタントに至っては実に多くの宗派に分かれそれぞれの神学があり、キリスト理解がある。冷静にこの事実を見た時、これはおかしいなことだ。イエスはたった一人なのだから。ヴァッスーラが受けたイエスのメッセージでは一人の私をなぜいくつにも分断するのかと訴えているという。またヴァッスーラの見たヴィジョンでは3本の硬い金属の棒が一本の太い棒となるという。これはギリシャ正教、カトリック、プロテスタントの3つの宗派のことをいうのだろうかと思ったが、講演の後でイリニさんに伺う機会があり、やはりそうだということがわかった。

キリスト教会の一致、エキュメニカル運動は学生の頃からの関心事だったが、9月の同時多発テロ以来、頻繁に考えるようになった。私自身、事情が許せばカトリックやギリシャ正教の礼拝にも出たいという気持ちがある。一人のイエスをさまざまな規範やルールや習慣の中に閉じ込めているような気がしていた。イエス自らがそれを止めて欲しいといっているのだとすれば、教会は変わっていかねばならないだろう。

講演会の後、200名近くの出席者がいっしょになって歌を歌った。讃美歌とはまたちがった歌が印象的だった。会の後、講演にいらしていたマオさんが翻訳者の人見さんに引き合わせてくださり、どういう訳からか、ヴァッスーラに向けてビデオカメラに向かって講演の感想もしゃべったりした。
マオさんといっしょにいたのでその後、講演者と関係者の集まるお茶の席にまでごいしょさせていただき、イリニさんの隣の席だったのでお話を伺ったり質問したりする幸運に恵まれた。人見さんが祈りの会にお招きくださった。行ってみようと思っている。


2001年11月23日(金) ヴァッスーラの預言

私の通う教会に長年に渡り神学校で教え、多くの神学書の翻訳をされ、牧師として働き定年退職しておられる方がいる。偉い先生という認識はあったが個人的にお話する機会もないまま数年が過ぎていた。最近になって新しい牧師を迎えるにあたって教会員が自分の信仰や今の心の状態、またどんな礼拝を求めているのかを言葉に出して話すようになった。それ自体とても心動かされることだったが、中でもその退職牧師のY先生の言葉に強く打たれるものがあった。彼はこう言った。私はもう人生も終わりにさしかかり、今死に向かって歩いています。私は日曜日ごとの礼拝でイエスに出会いたいのです。礼拝を通じてイエスに見え、いつ召されてもよいというようなき持ちで礼拝を受けたいのです。彼のひたむきな希求を感じた。痛々しいほどに求めておられるその姿に打たれた。
私は彼が多くの著書を残した故ではなく、長年牧師という職業についてきた故ではなく、今もなおイエスを求めて止まないその強い思いの故に彼を信頼し、彼の霊性の高さを知る。そして思う。イエスの求めている魂とはこういう魂だと。

さてこのように書きだしたものの、私はそのこととこれから私が書こうとしている
ヴァッスーラのことをどうつなげたらよいものかと迷っている。実はこの日(11月23日)、上智大学内にあるカトリックセンターで行われた講演会に出席するまで
私はヴァッスーラという女性のことを一度も聞いたことがなく本も読んだことがなかった。クリスチャンは聖霊に導かれてという言い回しをよくするが、まさに聖霊に導かれるように何も知らないままでそこに足を運んだのである。

ヴァッスーラは修道女でもなければ牧師でもない、教会にさえ通ってはいなかったし、キリスト教の教育も受けてはいなかった。そんな一人の主婦が43歳になったある日突然イエスの言葉を預かるようになった。いわゆる現代に生きる預言者だという。
ここまで読んだ人は胡散臭い話しだと眉をひそめているかもしれないが、聖霊の働きや今も生きて働くイエスの存在を信じるクリスチャンでも「あなた、なんて恐ろしいことをいうの」という反応が返ってくるような気がするし、牧師であれば「それは異端だ」と私を危険視するかも知れない。なぜならイエスは2000年ほど前の人で私たちはイエスが語り弟子たちが書き綴った聖書をイエスのことを知る唯一の手がかりとしているからだ。イエスを知るためにはその聖書の正しい理解が必要であり、そのためにはそれについて深く学び教会から承認された聖職者の導きが求められる。”正当な”イエスと出会う場所として教会が必要となる。ほんとうのところイエスは私たちにどんなことを伝えようとしたのか調べ、思考し、祈り、大変な労力を払って説き明かされる。時には教師の語る言葉が魂に触れてこず、イエスに会えないと苦悶する。最近になって今世紀最大の発見ともいわれる死海文書がようやく出版され人の目に触れるところとなるが、キリスト教はイエスの真実に一歩でも迫りたいと道を探し続けているのである。膨大な研究がなされてきたはずだ。それなのに、イエスキリストが日々一人の主婦に向かってメッセージを託し、それが13年間の間に10巻の本にまとめられているというのである。もしこれが真実であるなら、それは死海文書の発見などには比べ物にならないほどの大事件だ。もう2000年前のイエスに迫ろうとせずとも、今の時に語るイエスの言葉をヴァッスーラの預言の書に求めればよいのだから。

私はここでヴァッスーラの預言がイエスによるものかどうかを議論する気は毛頭ない。この本が私がなじみ親しんできたイエスとどうかかわっているかだけが私の関心事だ。ここへと誘われたのだから私はいつものように納得のいくまでここに身を沈めてみようと思う。私が心を動かされインスピェーションを得てきたことがら、セルマのこと高橋たか子の神の海、遠藤周作と宗教的多元論、アフガニスタンの中村哲医師、龍村仁監督の訴える霊性の教育、マオさんの仕事、ちいさな声、私とイエスを結ぶ線上につながってくるそれらのこととヴァッスーラの預言がどのようにつながっていくのいだろうか。


2001年11月22日(木) メキシカンセージ

メキシカンセージを植える。
毎年この時期に一番ダイナミックに咲いてきたメキシカンセージが今年は咲かなかった。多年草のハーブで丈夫な植物なのだが、冬越しができなかったのだろう。
3年ほど前に近所の方が株分けしたものを分けて下さった。鉢に入った30センチくらいのその植物を地植えにしたところ背丈は2メートルほどにもなり株も増えて、秋の初めから初冬にかけてそれは美しくまた逞しい紫色の花を楽しませてくれた。
まるでビロードの布でこしらえたような不思議な花は頭を少し下にうなだれ、風が吹くとその揺れる様がなんともいい。そうだ風は見えないけれど、植物の動きの中で風を見ることができる。メキシカンセージはとりわけ風と調和する。
花屋の店先で苗を見つけたので買ってきた。この植物が風にわさわさ揺れるほど大きくなるには来年の秋まで待たねばならないが、楽しみに待つことにしよう。


2001年11月20日(火) ギリシャからの証し人

今朝メールを開いたら掲示板にマオさんからこんな書き込みが記されていた。

今日はひとつの情報をお届けにきました。
以前にお話したことがある気がするのですが、聖心の鈴木先生の霊の話(天使)がすすんだことがありましたよね、その鈴木先生の同僚になられる方でHさんという方が友人なのですが、そのHさんが不思議な本の翻訳をされていまして、(ヴァッスーラの預言といい、もう十巻をこえていると思います。私は六巻まで拝見しているのですが)そのキリスト教の関係の方々三人の方がギリシャから証し人として見えるそうです。上智大学のカトリックセンターでお話があるそうです。
もし関心がおありでしたら私の掲示板かメールに御返事ください。
これはMLで送る情報のひとつという感覚でお知らせしてますので、関心がなかったらそのまま放念してください。

掲示板の文章をそのままここに張り付けたのは、この文を読んだ時に何かこれから私が会うべきものとの大きな出会いをすでにそこに感じたからである。
それが何だかは分からないがこの「はじまり」を記録しおきたいと思った。
それにしても何か不思議なものを感じる。もう7年ほど前のことになるが、6年ほどお会いしていなかったマオさんから出版された著書が送られてきた。マオさんの生原稿を一度読ませていただいたことがあったが、すばらしい本の数々となってお届けられた作品を前にしてほんとにうれしかった。そして彼女のメッセージが広く外に向かって発信されたことに深い感慨を覚え、人間的な成功というよりは高いところにおられるあの方の意図することが成就したという思いがした。そんな気持ちがあったからだったのだろうか。私はお祝いのお花などは送らずに、お礼にその頃読んでいた鈴木秀子さんの著書を2冊、紀伊国屋書店から届けてもらった記憶がある。あの時は「この本でなければ」という妙な確信があったのにもかかわらず、それからしばらくするとどうしてあの本を送ったのか、何をその時思っていたのかが不確かになったのも覚えている。

いつだったか掲示板で鈴木秀子さんの本のことが話題にのぼり、その時にお友達で不思議な本の翻訳をしておられる方のことが書かれていた。その時、どんな本なのか読んでみたいと思いはしたが積極的にそれ以上のことを伺おうとはしなかったような気がする。
人にしても本にしても、その出会いの意味がはじめのうちは定かではないのに、長い時間やさまざまな出来事を経てその意味が少しづつ形をなしてくる。「すべてのことに時がある、、、」という旧約聖書の伝道の書のフレーズを思い起こす。

お知らせいただいた講演会に行きたいと思った。仕事などと重ならなければいいがと願いつつメールを送ったところ講演会のちらしをファックスで送っていただいた。講演会は11月23日の午後6時から。行ける。



2001年11月19日(月) 「パンケーキの国で」を読みながら

伊藤美好さんの著書「パンケーキの国で」を読んでいる。
読む前はアメリカのことかしらと思っていたが「子どもたちと見たデンマーク」という副題があった。表紙の子どもたちの写真も、やはり北欧の感じが伝わってくる。
デンマークの学校制度や教育機関、またその歴史にいたるまで実に丁寧に書かれている。単なる体験記ではなくデンマークの教育について学ぶことができる本だと驚いた。
デンマーク独自の教育機関や義務教育の考え方、子どもの教育に対する助成金の制度など、私の知るアメリカの教育システムよりさらに自由で豊かであることが分かった。北欧の社会制度が整っていることは聞いていたが、子どもの教育や学校については知らないことばかりだった。

しかし、子どもというものの捉え方、学校というものの考え方の大筋のところはアメリカとよく似ていることに驚いた。伊藤さんの驚きや感動はそのまま、私がアメリカの学校の先生や親や子どもたちに出会うなかで驚いたり感動したりしたことを蘇らせた。どうしてこんな大切なことを記憶のかなたに沈めて思い出そうともしなかったのだろうとふと振り返ってみる気になった。

4年半のアメリカ生活から帰国して8年が過ぎた。まだ心はアメリカにあるような
自国で過ごすことの違和感から始まり、なんとか伝えよう、私の周りからでも変えていこうと行動した時期を過ぎ、そこで得たものを仕事にしようと勉強したり資格を取る時期を過ごし、今は実際に英語学校で教えている。それなりに体験したことを無駄にしないように流れに沿って歩いてきたつもりでいたが、アメリカ滞在中、また帰国してすぐにはあったった「伝えよう」「変えていこう」という気持ちがなくなっていることに気がつく。久ラスの中で、習慣の違いや行事などを伝えても、今の日本の教育を見直すきっかけとしては話していない。話したところで、いいわねえ、そんな体験をしてみたいという反応がせいぜいで、単なる自慢話や思い出話にしか聞こえないのではないかと次第にアメリカのことはしゃべらなくなった。今の日本の教育に対しては、良くないとだれもが思ってはいても、しかたがないが先
に来る。確かに私が子どもの頃から大元のところでは何も変わっていない。誰も変えられない。私もすっかり「あきらめ」に支配されている。

私が何を言おうと変わらない日本、でもそれで語ることを止めてよかったのだろうか。伊藤さんの本を読みながらしきりとそのことが思われた。


2001年11月18日(日) 県活へ

午前中礼拝に出て、午後から県民活動センターのボランティア大会へ。
「ちいさな声」のメーリングりストでごいっしょの井上さんが他の方々といっしょに歌を歌ったり、「ちいさな声」の販売をなさると聞いていたので、お会いするのを楽しみに出かけた。
ブースは入り口に近いところにあり、井上さんらしい方がいらっしゃるのでごあいさつすると「たりたさん」と声をかけてくださり、やっぱりそうだった。広川さんもいらした。はじめてなのにはじめてという感じがしないのはネットで知り合った方にはじめてお会いするときに等しく感じる感覚だ。

CHANCEでその存在だけは知っていた「みんなの夢の合唱隊」の今川さんが名刺を下さる。今川さんのギターに合わせてさまざまな平和の歌を歌うことができた。
この前、大宮駅で原爆展を手伝ったがそこに今川さんもいらしたとのこと、今度大宮で原爆展示会をやる時にはその前で歌を歌いましょうなどと話した。

ブースで井上さんたちが書いた「笑う不登校」と伊藤さんが書いたデンマークでの
子育て記「パンケーキの国で」を買えたのは収穫だった。帰ってきてから夢中で読んだ。


2001年11月17日(土) 映画「地球交響曲第4番」

「地球交響曲第4番」の上映と龍村仁監督の講演会に行く。
深い感動と慰めを覚える。世界の平和が揺らいでいる今、私の国という意識から、私の地球という意識へ移行しなければならない今、この映画の持つメッセージが光りを放つ。まるで、私たちが直面した9月11日の同時多発テロとそれ以後の大きな出来事を予感して、その解決の糸口があらかじめここに啓示されたかのような印象さえ受ける。

その糸口とは何か、それは私たちひとりひとりの内にある霊性、スピリチャリティー。人種にも民族にも、国家にも 組織にもよらず、人がひとりで立ち、「わたし」と地球との関係について思いを凝らし、地球上のあらゆる生き物とまた大気や水と繋がるということ。「わたし」がここに生かされていることの意味を知ろうとすること。「わたし」を生かしている力を、地球をいかしている力を感じそこと交流すること。

この映画は今を生きる4人の人間の生き方を通じてそのことを示している。
生物物理学者のジェームス・ラブロック、レェジェンド・サーファーのジェリー・ロペス、野生チンパンジー研究家のジェーン・グド−ル、版画家の名嘉睦稔の4人だ。
彼らはそれぞれに異なる分野の仕事をしている人達であるがいくつかの共通点があるように思う。4人が4人ともまことに肩の力が抜けていて自然体であるということ。そしてふっきれたとでもいうべき実に気持ちのよい顔つきをしているということ。彼らの存在を通して人間というものがそもそもどうあるべきかを知らされる思いだった。

彼らは科学者として、またスポーツマンとして、アーティストとして偉大な業績を残す人達には違いない。しかし、彼らが偉大なことをしたからすばらしいのではなく、彼らの人としての確かさやその霊性の豊かさが彼らをして偉大なことをなさしめたと感じさせられる。
そこからは あのように偉大なことは私にはできないというのではなく、この人たちの中にある霊性はわたしたちひとりひとりに同じようにあるのだということが導き出される。

龍村監督はこの映画の企画意図を「21世紀に生まれ育つ子どもたちへ」と明示しているが、これをすべての子どもたちに見せたいと思った。子どもたちは大人よりはるかに鋭い感性で、4人の人間のスピリチュアリティーと接触するような気がする。その時はめだった反応は見せなくても、その出会いは深い意識の底に沈み、そこでゆるやかに育っていくのではないだろうか。名嘉睦稔が描き出す生命力溢れる美しい絵が、彼が子どもの頃に出会った沖縄の美しい自然のリフレクションであるように。


2001年11月15日(木) クリスマスツリー

偽物のクリスマスツリーなんて
人を騙すようなものですよ
「聖なる場所」に偽物なんて
とその人は言う

枝ぶりのよいモミの木が
植木屋の店先から
運び出される
「聖なる場所」に
ホテルのフロアーに
豪華なパーティーの会場に
お金持ちのリビングルームに

赤いリボンや金色のモールで
飾りつけられたモミの木
オルガンが響き
人々が歌う中で
賑やかなバンド
人々が踊るその中で
しかし
木ははらはらと葉を落とす
誰が気づくだろう
木が死につつあることを

クリスマスが終わった朝
「聖なる場所」の裏庭で
飾りを取られたモミの木の息が絶える
ホテルのゴミ置き場に
モミの木は
うち捨てられる
植木屋は引き取ったモミの木を
まとめて処分するのだという

イエスが生まれたのは
貧しい馬小屋
寝かせられたのは
汚い家畜の餌箱
神が人となった場所は
大きな礼拝堂でもなく
シャンデリアのある広間でもなく
暖炉の燃える金持ちの居間でもなかった

イエスは
道を説き
病人を癒し
弱き者の友となり
やがてうち捨てられた
十字架の上で
ああ、ゴミ置き場のクリスマスツリーは
十字架のイエスのようではないか

アドベント
「聖なる場所」にモミの木が運びこまれる
イエスの誕生を祝うクリスマスのために


2001年11月14日(水) ちいさな声

昨日の朝日新聞の天声人語に伊藤美好さんと彼女が中心になってやっているネットを通じて、アメリカのテロ報復に対する声を集める「ちいさな声」の活動のことが載ってた。伊藤さんのことは「平和を創り出す人々のネットワークCANCE!」のメーリングリストで知った。このサイトとの出会いももとはといえば、一回目のピースウオークに長男が参加したことから始まった。伊藤さんたちのサイトIoを訪ねた時、いい活動をしているなあ、気持ちが通じる人達がここにいるうなあと感じた。なんどか情報を持って掲示板をお訪ねした。マオさんも来ていた。私がマオさんの「平和を望みます」のページに”01、9、11”という詩を投稿したところ、マオさんから伊藤さんのサイトの「ちいさな声」にも持っていくことを勧められ、私も「小さな声」にその詩を寄せた。
伊藤さんから直接メールもいただき、メーリングリストへの参加も誘ってくださったので、そこにいる三十数名の方々とのメールを通じての交流も始まった。
MLでは集まった「ちいさな声」を冊子にすることについて活発な意見交換がなされていた。私の投稿は声として寄せたものというよりは私の個人的な心情を詩という形にして表わしたつぶやきのようなものだったから、それが冊子の中にあって異質なものになってしまわないだろうかと心配したり、また自分を公のところにさらすことへの恐れのようなものもあり、自分の意気地のなさや後ろ向きなところが見えてきていた。でも、土曜日の祈りの会の時から何かふっきれ、また強い気持ちが戻ってきて進みはじめていた時だった。
伊藤さんにも、他の方々にもお会いしたことはない。でもその方々の存在から励まされているのを感じる。

昨日は朝、天声人語をネットから持ってきてメールに張り付け(やり方がまずくて、送信したものを見ると、改行がぐちゃぐちゃだったが)、「ちいさな声」の冊子の宣伝といっしょに、思いつく限りの人に送った。しばらく音沙汰なかったのにいきなりこんなメールが届いて気分を悪くした人もいたかも知れないと今朝になったら、昨日の私の行動をとがめる気持ちが出てきた。ということはやはり昨日の朝のあの時間を逃したら、「思っただけで行動しない」といういつものパターンを繰り返してきたことだろう。人の思惑をまず考えてしまう私の悪い癖だ。
思うだけではなく、行動に移していくということを今学びつつある。


■《天声人語》 11月13日

先週、本紙に「アフガニスタン難民を凍死から救おう」という写真付きの短い記事が出た。東京のモスクから古着を送る活動の紹介だ。読者の反応は驚くほど素早かった。

モスクには瞬く間に予定の古着が集まり、早々に締め切らざるをえなかった。こんどの事態で「何かをしたい」「何かをしなければ」と思っている人がいかに多いか。

東京の主婦、伊藤美好さん(45)もそんな一人だった。友人と「思いを伝えあいたい」とインターネットのホームページで呼びかけたのは9月末だった。テロで犠牲になった人たちのことを思うと胸がしめつけられる。けれども
米国のその後の言動はおかしい。そんな思いを伝えあう。

1通、また1通。メールがきた。若い母親は子どもを
前よりいっそう強く抱きしめて寝ていると書いてきた。空爆下を逃げまどうアフガンの人々に自身の空襲体験を重ねる女性がいた。パートの女性は「自分には何ができるのか」と問いつづけている。父親の暴力と教師の体罰に傷つい
た会社員は、暴力の連鎖に心を痛めていた。子どもの声も交じり始めた。

怖がりの伊藤さんが、自分でも思いがけない行動に出た。この声を友人たちと国会議員に届けて回ることにした。最初は119人の声を。次に163人。その3日後には179人。議員たちにはあきれられた。テロ対策特措法が成立したいまも、声はとぎれることなくつづく。

2001年秋を、こんなふうに感じながら過ごした人たちがいた。その事実を形にしたくて、伊藤さんらは声の束を冊子に残す。



2001年11月13日(火) 次男の誕生日

どういうわけか、ここのところずっと、朝家族が出かけたらマックの前に座り、何か一仕事終わるとまた開き、外から帰ってくるとまずマックを開く。
夫も隣の部屋で同じようなことをやっているのでそちらからの文句はないが、子ども達が愛情不足(?)を感じているのではないかと時々気になる。
夕べもつい夜更かししてしまい。次男の誕生日のケーキのことを思い出したのは夜の1時過ぎだった。今から焼くとなると睡眠不足で明日の仕事にさしつかえるのでケーキはあきらめて寝ることにした。

ケーキのことは忘れていたというよりそもそも計画の中に入れていなかったのだ。バースデイのお祝は夕方の8時に4人で大宮駅に集合し、いっしょに食事に行くことになっていた。プレゼントはこの前の旅行でアウトレットに寄った時エディーバウアーのバックパックとトレーナーを買ったし、夫は財布を見つけることになっているし、今年からバイト料を手にするようになった兄はかなり奮発する模様だし、両方のおじいちゃん、おばあちゃんからはお祝の手紙とおこづかいが昨日の内に郵便で届ているしで、今年は例年より用意周到だったくらいだ。しかし、ケーキのことは抜けていた。そのことに気づいたのは次男が朝家を出た後だった。何となく機嫌が悪いような気がしたが、朝渡した私のプレゼントが気に入らなかったせいかしらと思っていたら夫がケーキがなかったせいじゃないのという。

いつも子どもの誕生日は少しも用意周到ではなく、また家族が夕食に揃うこともないので、前の日にケーキを買ってきたり、ブラウニーミックスを使って焼いたケーキにクリームで飾りつけをしたものを朝食テーブルに飾り、みんなが出かける前にお祝をすますという調子だった。プレゼントもお年玉のように前の晩、お金をお祝袋に入れたものを用意し、朝の食事の時に渡していた。
私としては泥縄もいいところの誕生祝いだったが、本人とすれば毎年やってきた誕生日の朝の行事を意識しないまでも何となく期待していたのかもしれない。
今朝は夫も長男もまだベッドの中、私はおめでとうとプレゼントだけ渡して、15分の内に家を出る次男に朝食のハムサンドを当てがい、弁当も詰め、ただばたばたと忙しく送り出したのだった。
そうか、朝のケーキか。言われてみればそんな気もする。
長男が大学生になって、大人の仲間に入ったので、下の子もまとめて大人にしてしまおうというところがどこかにある。

ともあれ、今日は久し振りに家族揃って外で食事をすることができた。賑やかにしゃべりまくり、食べまくるティーンエイジャーとのパーティーもたまにはいいもんだと思った。
やれやれ、調子が悪いマックをまだ修理にもださず、だましだまし使いながらもうすぐ今日が終わるという時間帯だ。そしてこんな時間になって、「あっ、ケーキがなかった。」と思い出した。今日は満腹過ぎて、ケーキを買おうなどという頭が全く働かなかった。そういえば、私がメールのチェックしている時に長男がケーキのことを何か言っていたなと思いだした。日記を途中にして、こういう時のために買い置きしてあるブラウニ−ミックスをボールにあけ、卵と油と水を加えて混ぜ、オーブンに入れる。クリームは早起きしてコンビニから買ってこよう。

くんくん、チョコレートの甘い匂いがしてきた。「チン!」
どれどれ焼けたようだ。
なんとかケーキは間に合ったけれど、睡眠不足はどうしようかな。


2001年11月11日(日) 成長感謝と平和への祈り

日本の多くの教会はこの時期に子どもの成長を感謝する特別な礼拝を行っている。これは日本には七五三があり、神社に子どもを連れてお参りに行くので、クリスチャンの子弟や教会学校に通ってくる子どもたちのために教会版 七五三ができたのだ。私の所属する教会の場合は年齢に関係なく小学生はみんな千歳飴がもらえる。余れば中学生や、高校生までに行き渡る。

さて、教会で私が幼児とお母さんのクラスをするようになってから、この成長感謝礼拝に英語学校の幼児や親御さんの姿が見られるようになった。子どもたちは千歳飴がめあてだろうが、親御さんたちはたとえクリスチャンではなくても子どもを守り育ててくださった神様に手を合わせ、子どもへ祝福をしてほしいと思うのだろう、神社で七五三をやってもそれはそれとして教会へもいらしてくださる。小さい子を育てた親としてその気持ちはとてもよく分る。
教会は神社のようにビジネスでやっているわけではないから、いつのまにか形骸化してしまい、本来の祈りや感謝が脇に追いやられている今の七五三よりも
本来の姿に近いと感じられるのかもしれない。こと子どもに関しては親は誰でも自分のなかにある霊性を目覚めさせられるのではないかと思っている。日々子どもの成長を見守りまがらその命を育てているのが親ではないことに気づかされるし、その命を親は守りきれないことも身を持って知っている。子どもを育ててください、守ってくださいという祈りは意識しないまでも、きっと胸のうちにあるのだ。子どもを思う親の思いの中には純粋な信仰心が存在していることを私は疑わない。

今日の成長感謝礼拝はいつもは半分は空いている長椅子がすきまのないほどぎっしりと埋まった。教会学校の親子が13名、英語学校の親子が18名出席した。親子3人正装してカメラ持参でいらした家族もいた。いつもはお母さんが英語クラスにいらっしゃるが、今日はおとうさんもいっしょに、またおとうさんが子どもを連れて礼拝に出席されていた。教会は初めてという方も多かったと思う。子どもたちは1列に並んで、前に進み出て、牧師からひとりひとり頭に手を置いてもらい祝祈を受けた。

また今日は世界で平和を願う日として様々な運動や集会が行われている日でもある。礼拝の最後に牧師が平和の讃美(讃美歌21、499番、平和の道と)とリードし、平和への祈りを捧げた後、アフガニスタンへの献金の案内をさせていただいた。親たち、大人たちの子どもたちの成長を感謝する思いは、そのままこの冬を生き延びられないかもしれない多くのアフガンの子どもたちへの痛みに移行する。どの方々も祈りをもって捧げてくださったことだろう。子どもたちも自分たちのお小遣いの中から捧げていた。献金は18680円になった。


2001年11月10日(土) 忙しい日

私という人間はいつも忙しそうにしている。確かに気分は忙しいのだが、フルタイムで働いている女性、そのうえ子育て中という方々からすれば決して「忙しい」とは言ってはいけない身分なのだ。忙しくないことの罪悪感が自分に忙しいという暗示をかけているのかもしれない。または要領悪く立ち回って、ことさらに我が身を忙しくしているのかもしれない。
と、こんなことを書くのも、今日は朝から夜中まで珍しく、マジに忙しい日だったからだ。忙しいというのはふさわしい表現ではないな。密度の濃い日と言った方がいいかもしれない。

さて、その1日はこのように過ぎた。
午前10時〜11時半、英語学校で児童英検
午後1時、荻窪駅、ミュージカルの仲間とうわさのラーメン屋へ
午後2時〜5時半、ミュージカル「森のおく」の練習
午後7時30分〜8時半、大宮に戻り、教会の「讃美と祈りの会」
午後8時半〜10時半、教会の役員会
11時に仕事で遅くなった夫と遅い夕食を食べ、メールのチェックなどをして
午前1時就寝。

どれも収入に結びつくものではないので仕事とはいえない。かといって遊びというわけでもない。どれもが人との大切なかかわりがあり、心動かされることがあり金銭とは無関係ながら何かを産み出していく充実感がある。

英語学校の児童英検は私が教えている小6クラスの担当だったが、テストをやってみると、ひとりひとりの定着の度合いが良く分る。教えたのにできていないところもあり、定着しているかどうか、きちんと使えるところに達しているかチェックする必要があると感じた。それにしても、Yくん、英単語を読み取って答える問題が2択だというのに、100パーセントの確率で違っている。これにはぞぞっとしてしまう。今までやってきたフォニックス、文字を音に置き換えて音声化していくレッスンはどうなってしまったのだろう。他の子が全問できているだけに、不可解だった。後で聞くと眠くて、適当にまるをつけたという。確かに眠そうではあったが、果たしてそれだけだろうか、個人指導の時間を取ることにしよう。

ミュージカルの練習は荻窪の若杉小学校なのだが、そのそばにいつも列をなしているラーメン屋があって、気になっていた。そこでMさんとNさんと待ち合わせて、気になるラーメン屋へ行こうということになっていた。
名前さえ、覚えていなかったが、二葉というラーメン屋で、見るからに地味な見せ構えで人も10人がやっとカウンターに座れるような小さなラーメン屋だった。若いおにいさんの風貌は確かにカリスマラーメン屋(?)の風貌をしている。一口食べて、なんと鰹のだしが効いているラーメンだろうと思った。
独特な味、特徴のあるラーメンだった。でもいつも博多ラーメンの固麺やそれよりも固めの「バリ固」とうのを食べているせいか、麺がやわらかすぎると思った。家に帰ってラーメンにえらく詳しい(ほとんど趣味)夫にいうと、荻窪では古くからのラーメン屋で有名なんだそうである。いったいいつ行ったのだか、すでに探索済みで、家に何冊かあるラーメン屋ガイドにはあの地味な店が実物よりこぎれいに映っていたし、あのおにいさんはそのままの顔で映っていた。あの列はそういうことだったのかと納得。

ミュージカルの練習はなげきの歌の練習が中心だった。つらい思いをして死んでいった猫たちがあちらの世界から歌う歌である。 4匹の猫がそれぞれ 4つのソロを歌う。私の歌う2番目の歌は私が曲を付けたものだったが、作曲担当のkさんが初めのソロの明るい旋律から、2曲めの物悲しく、少し風変わりな旋律に巧みな転調でうまくつないでくださっていて、他の歌の間に挟まれていても違和感がなく、全体が奥行きのあるものになっていると思った。
ところが自分で作曲しておきながら、この曲は音が取りづらい上に、うまく歌わないと、歌らしく聞こえないということが判明した。声楽のレッスン曲を仕上げる時の要領で、きちんと練習していかねばと思ったことだった。

讃美と祈りの会は今回の担当のTさんが、祈りの項目を用紙2枚にびっしり打ち出してくれており、8人の参加者でそのリストもとにそれぞれ声に出して祈っていった。世界の平和への祈り、教会への祈り、病気の人や助けを必要としている人達への祈りと順番に祈っていくうちにあっという間に1時間は過ぎてしまった。
祈りの中で示されるということがある。私はここのところ、少しも良い方向に向かっていかないアフガニスタンの状況に、またアメリカの報復に対してどうにもならないといった無気力感に陥っていた。行動している人たちと同じテンションにないことでさらに後ろ向きな気持ちになっていた。けれど、祈りの中で、明日、ピースウオークや様々な平和のイベントをやる人達と祈りと思いをひとつにしたいという気持ちが起ってきた。またそういういうひとつひとつのことに神様からの祝福を祈る祈りが口をついて出てきた。また、祈りだけではなく、動きなさいというメッセージも伝わってきた。
祈り会の後の役員会で、明日の礼拝の席で、ペシャワール会が呼びかけている
アフガン、いのちの基金への呼びかけを提案した。これまで、教会の礼拝のなかで、募金を呼びかけたことはなかった。そういう雰囲気がないので提案するのもためらわれてきた。でもみなで祈りった後だったからか牧師や他の役員から賛同を得ることができた。
夕食も食べないままでお腹は空いていたが、心は満たされていた。不思議なように疲れもなかった。
明日は成長感謝の礼拝なので、英語学校の生徒や父兄も何家族か礼拝に出席されることだろう。そんな中でアフガンの人々への祈りと献金をよびかけることができる。同じ時間に平和の為に行動を起こしている世界中の方々と和すことができる。うれしい。



2001年11月08日(木) 英検

夕方の5時、中3のYちゃんがにこにこしながらやってくる。
「3級合格しました。」と、全面笑みでいっぱいだ。春に受けた時は一点足らなくて不合格だった。高校入試は推薦で行きたいので、英検3級はどうしても取りたいと言っていた。よかったねといいながら自分のことのようにうれしかった。7時半から来ている中2の二人も3級合格だった。そこできょうは急きょ、面接の練習をする。二次試験は一人づつ英語で面接を受ける。短い文を書いたカードが手渡され、20秒黙読した後音読し、その文と絵について、5つの質問がされる。学校で塾で教科書を読んで訳し、文法や単語を覚えるだけでは、中間や期末のテストはよくできても、はじめて目にする英文を自分の力で読み
英語の質問に答えるという力はなかなかつかないと思う。
私の願いは自分の力で英文を読み、理解できる力をつけることと、英語でのコミュニケーションができるようになることなので、いわば、二次試験のようなことを毎週やっている。そのせいか、どの子も音読、英語での受け答えは問題なくできた。実際の面接では緊張も多少するだろうだろうが、この試験の後ではどの子も決まって自信をつけるのだ。



2001年11月06日(火) 旅日記/富士眺望とアウトレット

紅葉台の展望台からの眺めは予想を遥かに越えるものだった。静岡駅から、御殿場から、これまでに富士山は何度となく見てきたが、これほど雄大で、大自然の力を感じさせてくれる神秘的な富士山ははじめてだった。

紅葉台の展望台からは360度の大パノラマが広がり、広い裾野にまさしく海としか形容できないような、広く深い樹海をかかえた壮大な富士が神々しくそこに在る。ぐるりと見渡してみれば、森林の中にうもれるようにして水をたたえた富士5湖や南アルプスの山々まできれいに見える。また、名前の通り美しい紅葉で、青木ヶ原樹海も裾野に広がる風景も緑一色ではなく、点描画のように、様々な色に彩色され、やがて来る冬を前に輝くような美しさを見せている。昨夜雨が降ったせいで、空気はひときわ澄み、紅葉した木々も生き生きとしている。こんな天気やこんな眺めはめったにないという。
我々はこういう恩恵に預かれるほど、日頃の行いがよかったかしら。日頃あまり当りが多くない私は友人2人の幸運に便乗させてもらっているような気がした。YOさんのカメラで富士山をバックに激写をし、またこの眺めをしっかり目に焼き付けて、山を降りた。

ところで、この紅葉台までの山道、車ではなかなかスリルのあるものだった。
鋪装されているのはほんの入り口のところだけで、後は車が右に左に傾くほどのでこぼこの細い道、場所によっては離合不可能なところもある。その上シーズン中の日曜日とあって、車は降りてくる車もひっきりなしに続けば、我々の後にはタクシーを先頭に上に行こうとする車がずらりと繋がっている。これはもう進むしかないねとなんとか上からの車を交わしながら上ヘ上へと登ってゆくが、果たして車を止めるスペースがまだあるかどうか疑わしい。ハラハラドキドキしながらもなんとか駐車場に着いた。思った通り駐車場はすでにいっぱいだったが、都合良く、出る車があり無事に車も止めることができたのであった。
「行きはよいよい帰りはこわい」と帰りの混雑を心配していたが、不思議なように下からの車は途切れていて、離合のために苦労することもほとんどなく、来た時よりも早いペースの帰路となった。

もう充分楽しみ、帰るはずの時間が近づいていたが、我々は予定していた御殿場のアウトレット行きもあきらめることはなかった。ここはYMさんは前に来たことがあったが、Yoさんも、私も話しには聞いて一度行ってみたいと思っていたところだった。この アウトレットも予想をはるかに凌ぐ、スケールの大きさで、ニュージャージーに住んでいた頃よく行ったアウトレットモールとすっかり同じ様子で、そこが日本ということを忘れてしまうほどだった。

数々の店の中から、ローラー・アシュレ−、タルボット、ランズエンドを選んで見て回り、最終的にはエディー・バウワーで、それぞれ買い物をする。買い物が嫌い、特にデパートが苦手な私であるが、売れ残りを集めて半値くらいで売り捌くこういったアウトレットの店は何か血が騒ぐ。またまた体内時計は狂ってしまい、帰りの時間への配慮がすっとんでしまったのは私だけだったのだろうか。戦利品をトランクに詰め車を出す頃はもうすっかり暗くなっていた。

ま、子ども達もお腹が空けば自分達でなんとかできるくらい大きくなっているので私たちはそれほど心配することもなく呑気におしゃべりしながら帰ってきた。9時過ぎに家に電話を入れると、子どもたちはちゃっかり寿司を出前して食べた後だった。鍋いっぱい作っておいた10人分のカレーでは間に合わなかったらしい。YMさんの男顔負けの運転のお陰でその日の内には家に帰りつくことができた。良い2日間であった。


2001年11月05日(月) 旅日記/温泉と富士山

11月4日朝
ドアを誰かがノックしたような気がして反射的に時計を見る。
目覚まし時計を見るなり"We slept in!" と叫んだのは映画ホームアローンのお母さんだったが、まさにあのシーン、私は「大変、寝過ごした」と叫んでいた。時計の針は8時50分を指していた。
夕べ、食事の時、オーナーの奥様に、朝食は8時ですと言われていたのだ。いつも6時頃に起きているので、寝過ごすなど考えてもいなかった。友人たちもそうだったにちがいない。ところが揃いも揃って、我々は1時間以上も寝過ごしたのである。

前の夜は食事の前、すぐ近くの「ゆらり」という富士眺望の温泉へ行き、2時間近くをそこで過ごしたのだった。雨が降っておりもう暗くもあったので、富士眺望とはいかなかったが、気持ちの良い露天風呂、備長炭、竹、塩、砂で構成された塩釜蒸し風呂、低温バブル風呂になっているドーム型の洞窟風呂、ユーカリの香りが心地よい香り風呂とひとつひとつに工夫を凝らした風呂を楽しんだ。こういう温泉は他にも無いわけではないが、これほどひとつのポリシーで作られている温泉というのは今まで出会ったことがないと思った。カラオケやゲームなどはなく全体にしっとりした空気があった。気や風水など、エネルギーの流れを意識した作りをしていると思った。

温泉と食事の時のワインで、私たちの体内時計は同時に狂ったに違いない。すでに、他の泊まり客が出払ったダイニングルームで私たち3人だけで遅い朝食をいただく。お料理は夕食も朝食もおいしく、ボリュームのあるものだった。
ダイニングルームは夜とはまた違った表情をしている。窓の外は昨日と打って変わっての大快晴。ペンションを出る時、見送って下さったオーナーが右手の丘の上にある白い見晴らし台を指差して、紅葉台からの眺めがすばらしいので行ってみるといいと教えてくれた。何しろばたばたしていたもので、化粧もしていなければ、髪もはねている。見晴らし台に行く前に昨夜の温泉に入って身綺麗にしようということになった。

日帰り温泉「ゆらり」はペンションから車で5分足らずの所にある。温泉へ行くべく、右折したとたん、目の前にドーンとどでかい富士山が現れた。私たちは思わず歓声を上げる。実は昨夜のこと、温泉のパンフレットの写真を見て、いくらなんでも、こんなに大きく富士山が見えるなんていうことはないよね、きっと合成だわねと私たちは頭から疑っていたのだ。どうやら間違いなく富士眺望の温泉だったのだ。内湯の窓いっぱいに富士山は広がっていた。富士山は実際スピリチャルな山だった。お湯の中に山の霊気が溶け込んでいるような気がした。なんと贅沢な朝だったことだろう。


2001年11月04日(日) 旅日記/ワインとほうとう

11月3日、午後。
ぶどうでお腹をいっぱいにした私たちはこの町の観光の中心である勝沼町営ぶどうの丘へ行く。ほんとに小高い丘に白っぽい円形の建物が見えている。駐車場はいっぱい、ワイングラスを手にした人がたくさん通っていく。お祭り気分が漂っている。

丘を登っていくと、今日は新酒祭りの日であるらしく、外といわず、中のホールといわず、通路にまで、ほろ酔い加減の人達がくつろいでいる。チーズ、パン、ソーセージなどがセットになってパックしてあるおつまみセットとワインで1000円だった。ちょうど昼どきだが、我々のお腹はぶどうでいっぱいだし、この後はここの名物だという「ほうとう」を食べる予定なので、このワインセットには手を出さなかった。

ここで我々は家族や職場のお土産を買ったのだが、まあおびただしい種類の勝沼ワイン、いったいどれを買ってよいのやらさっぱり分らない。味が分らない以上、ラベルとかびんで、中味を推測するしかない。「無添加赤わいん」というラベルのデザインが気に入ったので夫の土産はこれに決める。
土産売り場の地下はワインの貯蔵庫になっていて、聞き酒ができる。なんとかという名前の聞き酒用の銀色の皿にブルーのリボンがついているものを買うとそれでワインの味見ができるしくみになっている。私は小さなワイングラス一杯で赤くなってしまう質だし、YMさんは運転がある。YOさんがそのお皿を買って地下へ降りていった。

下には上の売店で売られているたくさんの種類のワインがどれも試飲できるようになっていた。勝沼ワインといっても様々なラベルのワインがあって、どれもほんとに味が違うようだ。「なにこれ、まずい。飲んでみる」とYOさんが注いだ白ワインを飲んでみると。うーん、ほんとにまずい。でもなんだか良い性質のワインという気がしないでもない。ワインの味を調べることができる人はひとつひとつのワインにどんなコメントを持つのかしらと思った。YOさんが私の買った赤ワインを見つけてくれる。恐る恐る飲んでみると、フルーティーでおいしい、ぶどうそのままの香りがする甘味のあるワインだった。夫はどうだか分らないけれど、私は好きな味だ。これにして良かった。

ほとんどなめるくらいなのに、私は赤くなったようだ。このワインの試飲、酒好きな夫はうれしいだろうなあと思う。そういえば、このワインの丘への送迎バスを見かけた。今度来ることがあったら、送迎バスを利用すると良いだろう。このバス、上部がでこぼこと、紫、あるいは緑色の半球で覆われている。どうやらぶどうをデザインしたもののようだ。窓はワイングラスになっていて、窓ガラスの下の部分は紫色の液体が入っていて、バスが動くたびにぷるんぷるんと表面が動のがおもしろい。ほんとのワインを入れているかどうかは分らないがずいぶん楽しいデザインの乗り物だ。

さて、ぶどう腹もいいころ合いに空いてきた。売店の人が「ほうとう」を食べるのなら塩原が良いと教えてくれたので、地図で道を探し、探し、おいしい「ほうとう」を求めて雨の中車を走らせる。といっても、地図を見るのも、道を探すのも、運転をするのも、私とYOさんはまったく手が出ない。YMさんってほんとにえらい、女の鏡だと私たち2人は尊敬の眼差しを送るだけであった。
人に聞いて、それらしい通りに入ると店構えからしていかにも由緒正しいほうとうを食べさせてくれそうな店が見つかった。もう2時過ぎだというのに、入り口で人が待っているほどだった。おばあちゃんの家を思い起こさせるような高い天井と太い柱と梁の店の中はいっぱいのお客で賑わっていた。いろりをテーブルにしつらえたような席に他の2組の客と相席をする。ほうとうを注文すると当たり前の顔で、「40分かかります。待つ甲斐ありますよ。」と注文聞きのおばさんは自身満々だ。ここまで苦労してほうとうを求めてきたのだから待つでしょう。40分でも。幸い私たちは話すことには事欠かない。ここではおもに、映画に詳しいYOさんが味わい深い中国映画やスペイン映画の話しを、まるで見えるように話してくれ、YMさんと私は手帳を出してメモをとったりと熱心であった。

さてさて、私たちの向かいに座っているカップルと、我々3人が「ほうとう」にあずかる番となった。いろりにかけるあの黒い鉄の鍋のミニチュアにたっぷりのほうとうが出てくる。どう見ても2人分はある量だが、どうやらこれを一人で食べるということらしい。平たく太い麺がいろんな野菜やきのこといっしょに煮込んである。味噌仕立てのその味は驚くほど、大分の名物のだんご汁に似ていた。大分のだんご汁の場合、だんごはめん棒を使わずに手で伸ばし、伸ばした太い面を真ん中から裂いて、野菜や肉を煮込んだ味噌汁の中に投げ入れる。中学校の家庭科で習ったこの作り方で、冬の寒い日はこのだんご汁を今でも作る。ほうとうにはかぼちゃが入っていると聞いて、それを楽しみにしていたが、私のお鍋の中に限って、かぼちゃは入っておらず、残念だった。この冬はかぼちゃ入りのだんご汁を作ろうと思った。

ところで、このほうとう、おいしいおいしいと食べるのだが、食べても食べてもなくならない。だいたいが大食いの私だが最後まで食べきれなかった。
もう夕方だ。ペンションの夕食が食べられるかしらと心配しつつ、我々はシルバーレイクロッジへと向かった。雨はまだ降り止まない。


2001年11月03日(土) 旅日記/ぶどう狩り

さてと、旅行の覚え書きを書くつもりでここを開いたものの、何をどう書くといいだろうか。あまりに盛り沢山の旅だった。どのアクティビティーひとつとってもいつも書いているよりは長い日記になってしまいそうだ。だいたい私はほとんど何の変わりばえもしない日常のひとコマや思いをふくらませるだけふくらませて書くことを得意としているわけで書くことがあり過ぎる場合どうすればいいのだろう。たたでさえ危うくなってきた記憶力、毎日少しづつ書いたりしていると、書いてしまわないうちに忘れてしまいそうだ。まあよい、指が動くに任せてみよう。

今回の女3人旅はYMさんからお誘いのメールが届くところから始まった。
YMさんとYOさんと私の3人。子どもたちを同じ幼稚園に通わせながら団地の2DKで文庫活動をした仲間だ。今はそれぞれ異なる場所に引っ越しし、1年間に1、2度会うくらいになっている。子育てに追われていたころは泊まりがけの旅を共にするなど想像したこともなかったような気がする。そういう時期がやっと巡ってきたのだ。

YMさんから鳴沢村の観光パンフレットが届いた。初めて聞く地名だった。富士山頂のある村、広々と広がる裾野、青木ヶ原減樹海はこの村に含まれるという。宿泊はYMさんが職場から招待券をもらったというシルバーレイクロッジというペンション。そもそもペンションなるものに泊まるのは今回で3度目、18年ぶりだ。一度は結婚前、大学時代の友人と二人で湯布院へオーナーから信じられないほど美しい夕焼けが見える場所へ連れていってもらった。2度目はもうじき満一才になる長男を連れて軽井沢へ初めての家族旅行の時。すばらしいオーディオとジャズのレコードのコレクションがあるペンションで、子どもが寝た後、夜更けまで、ジャズを聞きながら話しをした。今回のペンションのオーナーはフィッシュイングの世界の人。そこで売られているしゃれた魚のロゴの入ったオリジナルバッグはどれもすてきなデザインだった。私たちフィッシュイングという発想がなかったが、予約すれば、河口湖や山中湖に フィッシュイングガイドしてくれるようだ。

YMさんの運転で走ることおよそ4時間、ぶどうとワインの産地、勝沼町に着く。ぶどう狩り街道を行くがもう、ぶどう狩りのシーズンは過ぎたと見え、看板は出ているもののシャッターが降りたままのぶどう狩りスポットばかりだったが、それでも、まだやっているぶどう園が見つかった。ぶどう狩りとは言っても、収穫して持って帰えるというのではなく、1時間600円でぶどうの食べ放題というものだ。今の時期は何とか2号という種類のぶどうだ。色は薄い紫色、キャンベルよりつぶはちいさいが、デラウエアよりは大きく種もある。甘くてあっさりした味である。ちょうど頭すれすれの高さのぶどう棚に、たわわに実っている。貸してもらったきゃしゃなハサミで、食べたいふさから食べたい分量だけ切り取って食べて下さいという説明がある。
そのぶどうの姿のかわいらしさと、ふさにハサミを入れる快感、さらには採った先から食べてよいという「非日常」に、にんまりしてしまう。
食べ放題というのは何でも好きだ、ケーキのバイキング、焼肉の食べ放題、そんなに食べられないとは分かっていても、制限がないというのはいい。子どもの頃に読んだお菓子の家を見つけて、屋根といわず、窓といわず、思う存分食べまくるヘンゼルとグレーテルのその場面に溜息をついて眺めいっていたあの渇望の気分が満たされるのかもしれない。
始めは1時間ぶどうを食べ続けるなんてできないよね、などと話していたものの、時計を見るともう5分前、話ながらとはいえ、1時間近くぶどうを食べ続けたことになる。私たちが農園に入ると同時にどどっと押し寄せた観光バス3台分の人々が集合の合図でさっといなくなると、広いぶどう畑にわたしたちだけになった。係りのお兄さんたちが後始末をしている。「まだ5分ありますからいいですよね。」と、我々は出口に向かいながらも、未練がましくぶどうを食べ食べ歩いていった。

続きは明日


2001年11月02日(金) キャロットケーキ

ずいぶんケーキを焼いていない。思い立ってキャロットケーキを焼こうと小麦粉を取り出したところ、使いかけの袋に印刷された賞味期限が今年の2月になっている。ということは1年間くらい、ケーキを焼いていないことになる。もちろん、水と油と卵を入れて焼くだけのアメリカ製のケーキミックスでブラウニ−や、ホットケーキはよく作るけれど、きちんとしたケーキは粉を計りで計ったり、いろいろ道具を出したりするのがめんどくさくなっている。

小麦粉を買いにスーパーに行くか、キャロットケーキをあきらめるかしばらく迷ったあげく、自転車に乗って小麦粉を買いに行く。明日はかつての文庫仲間、子育て仲間3人で河口湖方面に泊まりがけで出かける。Yさんが運転する車で行くのだ。なんだかうきうきしていて、手作りのお菓子を持っていきたい気分になったのだ。

子どもたちが小さかった頃、車で遠出をする時にはよくキャロットケーキを焼いて持っていったものだった。人参がたっぷり入ったあまり甘くないケーキは、食事の時間に車から降りられない時など食事がわりになったからだ。しっとりしているから、クッキーやお煎餅のようにぼろぼろくずがこぼれないのも良かった。カレーの人参も寄り分ける次男がキャロットケーキだと良く食べた。

今夜の夕食のキムチ鍋と明日の夕食のカレーを作りながら、人参を4本下ろす。
レシピを書き込んであるのクッキングノートを取り出すのも久しぶり。作ってみれば、簡単なものなのに、どうして1年も作らなかったのだろう。オーブンからシナモンの良い匂いがたちのぼり、部屋中が暖かい空気に包まれる。そうそう、お菓子の焼ける匂いが好きでいつも何かしら焼いていたのだ。ここ何年間かそういう匂いも忘れるほど、私は何をしていたというのだろう。単に気持ちにゆとりがなかったのだ。キャロットケーキは我ながらよくできた。今年はクリスマスのフルーツケーキを復活させよう。型抜きのクッキーも作る気になれるかもしれない。


2001年11月01日(木) 秋の植え込み

11月になった。10月のカレンダーを破り取ると、ずっしりとしたカレンダーの手ごたえはなく、なんとも頼りない。そうだ、あと一枚しか後ろにないのだもの。今年がもう終わりに近くなっていることに改めて気づかされる。

11月に忘れずにしなければならないのは、春に咲く花の苗や球根の植え込み。
チューリップの球根はカタログなどで注文して早々と用意するのだが、植え込みは花屋にパンジーやビオラの苗が出回るようになるまで待つ。
チューリップだけ植えたのでは芽が出る春先まで黒い土ばかり見ることになり
つまらないので、チューリップと他の花の苗を寄せ植えにすることにしている。
注文したカタログの写真を見ながら、咲いた時の他の花との色やバランスを思いうかべながら植え込みをする。
今年はピンク系のチューリップを6種類35球用意していた。この球根には白いスイートアリッサムの小花やパープル系のビオラや濃い紫のムスカリを合わせる。

今年は予定していた球根の他に夫がオランダに出張に行った時にお土産に買ってきた球根50球という飛び入りがある。ひと袋に色んな色がいっしょに入っているので、色を予測して植え込むことはできないが、どんな花がどんな具合に出てくるのか楽しみでもある。パッケージの写真を信用するとすれば、赤、白、黄色の定番だ。黄色やオレンジのパンジーを加えて原色系のプランターにしよう。

春のはじめまでに植え込み時には頼りなかったビオラやパンジーが根を張り、株はしっかりしてくる。4月に入り葉がこんもりと茂る頃、花の間からチューリップの葉が顔を出す。そのうち、ビオラやパンジーを押し退けるようにして、チューリップがぐいぐい伸び、やがてメインはすっかりチューリップに取って代わる。しかし、チューリップの寿命は短い。早々と花が終わった後、パンジーたちに再び出番がくる。多少長く伸び過ぎて格好は悪くなるものの、夏が始まるまではワイルドに咲き続けるのだ。いよいよ夏から秋にかけての花と植え替えをするまで、この花たちと半年以上付き合うことになる。

そんなに長い間、楽しませてもらえるのだから、植え込みはゆっくり、丹念に楽しみながらやりたいのだが、いつもそうはいかない。
なぜなら私は植え変えや植え込みが好きではない。植え込みの前には終わりになってしまった花を鉢から抜き取って、土改良剤などで土を再生させるという仕事がある。すでに花は終わってしまっても、すっかり死んでしまうわけではない。まだ根は生きている。葉もいくらかは付いている。そんな植物を抜き取ってゴミ袋へ入れる時なんともいやな気分になるのである。そこで、あまり考えないようにさっさと機械的に手を動かそうとする。一刻も早く、この仕事に方を付けたいとあせるのである。あるいはどうしようかと立ち往生したり、思いきり悪く、まだ生きている夏の花の脇にパンジーやビオラの苗を植え込んでみたり、終わりかけの植物を鉢から地面に移してみたりとほとんど気休めのようなことをやる。
我が家の庭がどこか野生っぽくてきれいに整っていないのは、多分にこの入れ替えの思いっきりの悪さのせいだ。草もあまり抜かず、また時期が過ぎて徒長した植物をいつまでも処分しないでおくからすっきりした印象にならないのだ。
でも、私は草一本もない、枯れかけた花や花がらがひとつもないような庭はどこか好きになれないというひねくれ者だ。大方のガーデニングの本に私は従っていない。そういえば、子育てもそういうところがある。愛情がないわけではないが、雑である。「かってに育ってね」という気分が底にある。ガーデニングも子育てもプロ根性に欠けている。

ところで、前にガーデニングのことでメイ・サートンの「独り居の日記」から引用したことを思い出した。4月1日の日記だ。
『..............そこへいくと庭つくりはまったく趣きが違う。広く”聖なるもの”ー成長と生誕と死ーに向かって開かれているからだ。花々の一つ一つがその短い生命のサイクルのうちにすべての神秘を包んでいる。 庭のなかではわれわれはけっして死から、あの肥沃で、すこやかで創造的な死から、遠いところにいない。』
そう、季節が終わって植物は死ぬ。その死を私は彼女の言うように肥沃ですこやかというふうには受け止めきれていないのだとふと思う。植物を抜いたり、始末したりするのがいやでその時は植物に対して心を閉ざしてしまう私は植物の死を忌み嫌い、自分とはかかわりのないことだと思い込もうとしているのだ。
しかしこれは正しくない。育てるのであれば、その死も引き受けるのでなければならないだろう。そこのところに逞しく、潔く向かうというのが植物への礼儀だろう。今はだめでも、そのようにきっぱりしたものを持てるようになりたい。このことは子育てにも通じるのだろうか、大人になりかけた息子たちに接する母としてはきっぱりとした厳しさが欠けているように思う。

植え込みを終えて、しばらくはなみずきの下のテーブルで本を読んだ。目を上げると、夏の間豊かな緑の木陰を提供してくれた葉は秋の色になり、方々には美しい赤い実がたくさん付いている。実は冬の間の小鳥たちの食べ物になるのだろう。
散っていこうとしている葉の側には新しい春の葉と花の芽がすでにふくらみ、これから来る冬の向う側にある春を待って待機している冬が、そして春が来る。


たりたくみ |MAILHomePage

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