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| 2014年04月24日(木) |
「エピソード教育臨床:生きづらさを描く質的研究」を読んだ |
表題は創元社からでた本の書名です。この本を、編著者の遠藤野ゆり先生より、ご恵送いただきました。遠藤先生と大�狎萓犬蓮�教育哲学がご専門。フッサールやサルトル、ハイデガーといった哲学概念を手がかりとしながら、いじめや虐待、発達障害などのテーマを読み解いておられます。 私は、2年前に沖縄でおこなわれた日本教育心理学会第54回大会で「逆境にある子どもの育ちの軌跡についていく実践:社会的養護と学校のクロスロード」という自主シンポを企画しました。その際、沖縄という遠方でおこなわれるにも関わらず、面識のなかった遠藤先生に出演依頼させていただきました。今から考えれば結構厚かましいお願いであったにも関わらず快く引き受けてくださった遠藤先生にはとても感謝しています。 さて、遠藤先生の魅力は、哲学者の議論をうけての解釈の巧みさもさることながら、その事例記述の分厚ささにあります。本書では自立援助ホーム、児童養護施設、あるいはNPO、学校場面での支援員の実践といった多様な場での子どもとの関わりをしながら、哲学の概念を手がかりとして、その都度だされる子どもの生きづらさであったり、を明らかにしておられます。お二人の他にも、保育場面での関わりを記述された川崎先生、ロジャース、精神分析を批判的に統合しようと試みておられる大石先生の、心理臨床場面をとりあげた章、はたまた広汎性発達障害の当事者であり、大学院生として自らのとらえ方を記述しようと試みておられる磯崎先生の論考など、いずれも魅力的なものばかりです。
ここでは第1章の遠藤先生の記述からその一端を紹介しましょう。
ある小学校5年生の女の子は、名門校に通い、かわいい付箋、きれいな色のペンなど、女の子らしい筆記用具をそろえており、いつもさらさらした髪の毛で登校し、授業中は先生が板書した問題をていねいに書き写す、こういった記述をみて、私たちは何を想像するだろうか。親から大事にされており、おしゃれで、授業をきちんとうけようとする行儀よい女の子像を想像するのではないだろうか。
遠藤先生が第1章のなかで描く高橋さん(仮名)はたしかにそのようにみえる女の子である。しかし、彼女の授業中の様子からは違った側面もみえる。遠藤先生は高橋さんが「ていねいに書き写」した後のクラスを次のように描く。
(口々にクラスメートがすぐに「出来たー」といいはじめる中)高橋さんはノートに問題を書き写すと、きょろきょろするだけだ。彼女はまずとなりの松野君の関をのぞきこむが、「高橋、見るなよ」と一周されてしまう。次に、ななめ後ろの榊君に「ねん、わかんない。答え教えて」と話しかける。榊君は、「えー、簡単だよー」とだけつぶやく。高橋さんは一瞬すねたような表情になり、それからにやっと笑って、榊君の坊主頭をなでた。そして「榊の頭、キモい〜」と言って笑い出した。榊君はめんどくさそうに「やめろよー」と言い、高橋さんの手を払った。大野先生は教室内をみまわりながら、高橋さんのそんなようすを心配そうに見ている.高橋さんはなおも榊君にちょっかいを出すが、榊君は知らんぷりをしているので、やがてつまらなくなったらしい、筆箱をいりじはじめた。・・・
この後、冒頭でのべた高橋さんのもっている色とりどりの筆記用具が紹介される。このような記述をはさんでみると、高橋さんのイメージはもちろん、私が冒頭に示した特徴のひとつひとつの意味づけも大きく変わるのではないだろうか。
クラスメートがすぐさま出来たといいはじめる問題をとけない高橋さんとのギャップ、問題を丁寧に書き写せることと、問題がとけないこととのギャップ、あるいは、問題を丁寧に書き写せることと、他の子にちょっかいをかけて授業進行の邪魔になっている姿とのギャップなどから、私はどこか「痛々しい」印象をうけとってしまった。そして授業に必死でついていこうとするけれど、それが出来ない悔しさ、そこで問題以外の部分でクラスメートに接近しようとするものの、簡単にあしらわれてしまう高橋さんの寂しさが伝わってきた。スクールカウンセラーとして学校におもむくなかで、出会ってきたたくさんの「高橋さん」と、未来の高橋さんの姿がだぶってみえる。
そして、名門校というからには私立の学校なのだろう。入試をうけ、安くない授業料をおさめて、なぜ彼女はこの学校にこなければならなかったのだろう。大事にされ、お金をかけてもらっている様子の高橋さんなら、塾に通っているかもしれないし、家庭教師がついているかもしれない。彼女はそういう時間をどう過ごしているのだろうか。他のクラスメートとのギャップを担任の大野先生はどのように語るのだろう、他のクラスメートは彼女のことをどうとらえているのだろう。高橋さんの態度を心配そうにみていた大野先生は、この後、高橋さんをフォローするでもなく、クラスにむかって授業内容のポイントを話し始める。最初の問題がとけない高橋さんは置いていかれた格好だ。クラスメートも高橋さんの様子にどう接してよいかはかりかね「ひいている」様子が感じられる。高橋さんにどうやったらわかるか教えてやろうというよりは、むしろ足手まといに感じている様子が伝わってくる。もはや、この授業には、高橋さんはいてもいなくても構わない存在になっている。どうしてこうなってしまったのだろう。・・・などなど、いろんな疑問がわいてきて、ぼんやりといろんなことを考えながらこの事例を読んだ。
この後、みかねて近寄った遠藤先生と、高橋さんのやりとりがはじまり、事例は展開していくのだが、本書では解決は語られない。ただ、高橋さんをめぐる教育場面の現実が語られるのみである。答えが知りたい人からすると、「こんな高橋さんにはどんな支援をしてあげればいいのか教えてほしい」「高橋さんの問題点はどういう部分なのか示して欲しい」といった不満が感じられるかもしれない。
けれど、私がここまで読んできたように、このような質的記述から私たちは、高橋さんのような子どもの抱える悩みの深さ、困難の大きさを想像することができるし、どうしたらいいのだろうと想像をめぐらすことができる。そのことで教育問題を、安易なQ&Aとしてではなく、主体的に考えていくことができるのではないかと思う。そこが本書の魅力だと思う。
さて、本書はタイトルにもあるように「質的研究」の本でもある。あとがきで遠藤先生は「数量的研究」と対比して、そこからこぼれおちてくるものを描けるものとして本書の特徴を語っておられる。私は、この対比も、もっともなことだとは思う一方で、この対比だけで本書の特徴を語るのは、やや、もったいないとも感じた。
というのも、どんな質的研究でも、このように読者である私の想像をかきたてるわけではないだろうと思うからだ。単に細かく書けばいいんだろ、と、考える人もいるかもしれないが、初学者が学校にいって教室にいったとしてもこんな記述ができるわけではないだろう。どこに視点をおき、どのようなスタンスでいるかがわからなければ、やはり、このような記述はできないだろうと思う。
そういうわけで、私は、質対量というよりも、著者たちから質的研究の「質」のようなものへの問いかけがなされているようにも感じられた本書でした。教育問題について知りたい人から、実践家の先生方、そして質的記述に興味がある人まで多くの人に読んでいただき、考えていただきたい書だと思います。
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