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2012年05月18日(金) 児童青年精神医学会から声明

日本児童青年医学会が、大阪維新の会の条例案について声明をだしました。多くの方がご存知のとおりこの条例案は廃案になりましたが、一般の人々から当事者家族に対する誤解をうむ内容を多く含むものです。私は学会員ではありませんが、多くの方に知ってもらいたい内容であると考えて紹介させていただきます。学会サイトからみられますので、ご興味のある方はみてみてください。

私としては、もちろん、子どもにとって暮らしやすい社会にしていこうという主張には賛同しますが、そのための方法は非常に不適切だと考えます。たぶん、この条例に関わっている方々のなかにも、支持しておられる方々のなかにも、子どもにとってよかれと思うからこそ動いておられる方がたくさんおられるのではないでしょうか。これまでにも同様の議論が繰り返しおこっており、一般の人々のなかで誤解が根強くあることのあらわれだと考えることもできます。

よかれと思ってやったことが逆効果になったら悲劇ですよね。私たち研究者も、いろいろな媒体で、もっと社会に発信していかねばならないと考えます。





2012年05月13日(日) キャラクターが勝手に生きてくれるということ

朝の連続テレビ小説の『カーネーション』は大変人気があったそうですね。ご多分にもれず、私も毎朝のようにみていました。その脚本を担当した渡辺あやさんのインタビューが、カーネーションのサイトにのっています。渡辺さんにとっての脚本はという問いに対して、彼女は以下のように答えています。

 私にとって脚本を書くことは、頭の中にいるキャラクターが自然と会話をしていて、まるでひとりでセッションしているような感じなんです。・・・・(私が)やりとりを側からのぞいているような気持ちでいると、好きなようにやってくれます。すべてのキャラクターが自分の中で勝手に生きてくれていますから・・・起こっていることをひたすら書き留めていくという作業ですから、脚本がうまくいった時ほど、私は何もしていない感覚になるんです。

これは渡辺さんだけではなく、しばしば、有名な作家がいうことと共通していますね。いわくキャラクターが勝手に動きだすような作品はうまくいくといった言説です。ここではキャラクターは作者がつくっただけの存在ではなく、つくりだした作者でさえも予測できない、なにかをもったものになっているというわけですね。もちろん、それを考えているのは作者なんですけど、それでも主体性はキャラクターの方にあるような、そんな体験をしておられるということでしょう。

その人らしさとか、その人のパーソナリティなどというものは、おそらく、この水準でとらえなければならないのではないか、と思います。あの人は○○という職業だ、○○タイプの性格だ、○○障害だと、既知の言葉をあてはめて理解しているうちはまだまだで、そこにあてはまらない何かがみつかり、自分にはわからないけれど、あの人を動かしている「なにか」があるということに気付くとき、人はそこにその人の「その人らしさ」をみいだすのではないだろうか、と思うのです。

このようにとらえれば、インタビューのなかでインタビュアーがうまく理解できないなと思うこと、インタビュイーもまた上手く語れないと感じていることは、インタビューの失敗ではない。むしろ、その人らしさへ到達するためのきっかけになりえると考えられます。

バフチンのいう「対話」というのも、こういうことを指しています。すなわち、つねに理解の途上にたちつづけ、境界線上の対話を続けることだけが、彼(女)を知る方法であるわけです。 もちろん、そのための具体的な方法はいろいろと工夫されないといけないでしょうが、ともかく方向性としてはそうじゃないか、と思っています。






2012年05月12日(土) 先生の考えはもう古い?

いよいよ3回生のゼミ配属も決定されて、2012-13シーズンのメンバーが確定しました。
今年は卒論生6名、3回生7名、院生2名の15名体制でのぞむことになりました。

私立につとめておられる先生方からしたら「すくなっ」という感じかもしれませんけれど、中高の1クラス分くらいが1学科の私たちからすると、多い部類です。これ以上はちょっと無理です。

そこで残念ながら面接でセレクションをかけることになってしまいます。でも、面接すればしたで皆さん魅力をもっておられて、この学生と2年間すごすとどう育ってくれるのだろうかと楽しみになったりするわけで、実際のところセレクションは難航をきわめます。本当なら全員とりたいところではあるけれど、自分の能力不足で、途中で放りだしてしまうことになったらもともこもありません。

今年は(ここ数年ずっとですが)数名の方にはお断りをせねばならない状況なわけですが、そういうわけで、決して切り捨てているわけではありません。それぞれ他のゼミにいっても十分やっていけると考えて、教員の総意として調整しているので悪しからずよろしくお願いします。

さて、我がゼミではフィールドワークやインタビューを方法論として卒論をかくものが多い。まあ、ボスがそういう研究ばっかりやってきたわけだから、そうなってしまいますね。ただ、質的研究というものをあまり安易にできるものとは思わないで欲しいし、理論的な部分でもちゃんと考えてほしいと思う訳です。というわけで、このまえのゼミでは南博文先生の「事例研究の厳密性と妥当性についてー鯨岡論文(1991)をうけて」という論文を私から紹介しました。これは発達心理学会と発達心理学研究ができた当初、盛んだった「意見論文」のなかでかなり熱くかわされた事例研究とは何かということについての議論の一部です。僕はリアルタイムではこの論文をフォローしていたわけでありませんが、院生の頃、質的研究を志すものとしてこの論文を何度も読み返したものでした。

ところで、この論文の発行年をみると1992年とあります。もう20年も前です。ゼミ生が産まれるかうまれないかという頃に公刊されているわけですね。私のなかではまだまだ過去にはなりきっていないのですが、学生にとってはだいぶん昔だなあと思ったかもしれません。心理学においては、しばしば、最新の知見というものが重視されます。私も卒論を書いたとき、Chase & Simonによる知識のコンパイルに関する論文を引用したのですが、それがでたのが1973年。我ながら「古典や」という感じでした。いまのゼミ生にとってもそういうもんなんでしょうかね。

もちろん、方法論の洗練は大事だとは思いますが、いつまでも質的vs量的だとか、質的研究はーとか言っている場合でもないのかもしれません。



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