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2005年08月31日(水) プロですな。

午前中、家族を病院におくっていく。診察室に入ったら、なんと診察室のベットに中年のおっさんが寝転んで文庫本かなにか読んでいる。

「??」。

一瞬、面食らって「なにこの人?。注射とか待っているのかな?」と思ったが、よく見たらなんとその病院のドクターであった。なんでも、数日前に「椎間板ヘルニア」の手術したところで、とてもではないが座ることができないのだそう。

そうわかって、よくよくみてみたら文庫本ではなくカルテであった。寝ながら椅子にすわった患者に聴診器をあて、問診をするドクター。局所的に90度ゆがんだ世界。

うーん、そんならわざわざ出勤しなくてもいいものを、と思ってしまう。が、患者が待っているからしょうがないのでしょうなあ。いや、すごい根性ですわ。

プロですな。


2005年08月30日(火) 3年目の初任者研

滋賀総合教育センターにて研修会。あ、しゃべる方ね。高校の初任者の先生方を相手に「青年心理学」を教える。

もうこれで3年目になるが、例年はけっこう人数が多い。ところが今年の採用は10人で、あと数年はこの傾向は変わらないとのこと。教師めざすのも大変ね。

さて受講生が10人となると、一方的に講義してもつまらない。のでいろいろやってもらう。といっても、なんだかんだ一人でベラベラしゃべってしまったが・・・。

ところで『青年心理学』といってもひろい。っていうかどこできれるんだ。青年・心理・学なのか。それとも青年心理・学なのか。はたまた、青年・心・理学なのか。どうでもいいわ。

高校にもなれば病理を知っておいた方がいいだろうし、発達障害もある。でも、そういうところばかりで驚いてばっかりでも身に付かないので、ごくごくありふれたこと、すなわち、生徒集団にどう入っていくのかということからやってもらうことにする。

昨年までもそうだったのだが、先生方はいつも熱心に授業を聴いていらっしゃるのでとてもやりやすい。「うなづき」と「笑い」はけっこうあったと思ったがなにか役にたってるといいなあ。


2005年08月28日(日) 別にあんたは偉くない

名古屋までちょっくらお勉強しにいく。はは〜、にゃるほろ〜。そうか〜。「発達障害」について日頃感じていたことがクリアーになった。そして、SCはやっぱりリファーだけではいけないし、それから後が腕のみせどころであるということも確認できた。

SCというと、「リファー」が話題になりやすい。んで「ソーシャルワーク的視点」は欠かせないといわれる。もちろん、それはそのとおりなのだ。そのとおりなのだが、それはまずはじめの第一歩だろう。

だって結局のところ、彼らは学校で暮らさなければならないし、教師は彼らと3年間つきあっていかなければならないし、それはどこに紹介したってそうなのだ。仮に診断してもらったって、彼らはなおらない(だって病気じゃないんだから)。

で、そのときにどうするかっていうことが問題なのであり、そこから彼らの発達や教育をどう支援していくのかということが大事なわけで、それをまかされているのは学校現場だということだ。evidenceという言葉が権威になっちゃいけないということを、しばしばS藤先生はおっしゃる。で、「リファー」「通告」にも同じような臭いを感じてしまう今日この頃なのであった。


2005年08月27日(土) 行為をつくりだす文脈

高校野球の事件は、一見落着したようである。優勝が取り消されなかったのはよかったと思う。

世の中には、強いチームを作るにはちょっとの暴力は仕方がないし、それくらいでガタガタいうなという意見がある。体罰が悪いのは言うまでもないが、まあ、それはそうだし、甘えたこといっててチームのモラルは保てないというのは分かる。チームメートがふざけたミスをしていたら、部員同士でケンカになるくらいの緊張感がなければだめだろう。

でも、僕がどうも疑問なのは、だから体罰を訴えた方がちょっとおかしいんじゃないかとか、潜在的に事件になりうることはいくらでもあるとか、そんな暴力くらい覚悟しなくて甘えたこというな、というようなことを言う人が多いことだ。そういうのはイジメとか少数者の排除につながる論理である。

当該の事件の詳細はあまり報道せず、殴ったというような行動だけをとりあげるのは本質的でないというようなメディア批判もある。これもイジメと同じである。たいがい事件なんてものは、「なんにもしていないのにいきなり殴られた」なんてことはない。うがった目でみれば被害者もやっぱりよくなかったんじゃないかという情報はひとつやふたつはでてくるものだ。

例えば、犯罪被害者でも、うっかり報道されてしまうと「あの人もそんな人とつきあわなきゃいいのに」なんて思われるような情報がでてきたりするものだ。このように被害者はヴァルネラブルであるという認識があれば、行動だけとりだして判断するのはおかしいというようなことにはならないと思う。

どうせ文脈がないというようなことをいうのならば、このさい、どうして部長がそこで殴らざるをえなくなったのかというように考えたほうが生産的かと思う。きくところによるとチームメートは横でみていて、「殴られてもしかたないような態度だった」とかなんとか証言しているらしい。

ま、この証言の真偽もさだかではないが、もしそうならば「この甲子園をめざして大事なときに、お前なにやってんのや」と言うやつの一人や二人いなかったのかと思うわけである。コーチが見かねて激高するようなかたちで表面化するまえに、本当にどうしょうもないやつだったのだったら、そんな態度をとってる奴は、コーチが何もいわなくても、チームメートとして許さないというようなモラルを部員同士がもっていたらいいだけの話じゃないのか。

どうやら被害者の子はベンチ入りメンバーではなかったようだが、どうせあいつは一軍でないからいいやとか、スタンドで応援してるやつとベンチ入りメンバーは違うと思っているとか、そういうことだったら嫌ですな。

まあ、きっと、そういう単純なことではないんだろうね。野球部のみなさんはいろいろ苦しいのに頑張ってきたんだと思うから、憶測だけで勝手なことをいうのはこれくらいにしときます。


2005年08月25日(木) 英辞郎on the web

こまごまとした仕事におわれる毎日。どうして仕事は等分でやってこないのか、それとも自分の処理能力が落ちているのかと自問してみたりして。っていうか、400字でどんな審査をするというのかと愚痴ってみたりして。

そんな今日この頃、便利だと思ったページはこれ。

英辞郎on the web
英次郎のCDはもっているのだが、これは他の翻訳エンジンに比べても格段にいい感じ。
日本語でも英語でも、打ち込めば勝手に<英和ー和英>してくれる。



2005年08月23日(火) 金太郎飴はどこまでいってもどこできっても金太郎。

再び京都へ。立命館大学でうちあわせ。1時からはじめて4時間以上、たっぷり話した。けっこう充実していたからか、4時間といってもあっというまに過ぎたような気がする。
この勢いでうまくまとまればいいのだが。

ひとつの結論として思ったのは、以下のようなこと。

○○法とか、○△アプローチとか、○×サンプリングとか、近頃いろいろかっこうのいい言葉があるけれども、どんな手法を使おうとも、結局のところ大事なのは1例を丁寧にみるということじゃないか。

何十、何百という事例からでてきたモデルであっても、そのエッセンスを知るには1例で十分なんじゃないか。

分析のどんな段階にいても、もともとのデータとつきあわせたときにうまくいかなかったら、それはどこかおかしいんではないか、と。

「ポキン金太郎、ポキン金太郎」でははないかと。


2005年08月22日(月) ベトナム料理

学生相談。毎年とっている学生相談のメンタルヘルス関連のデータを、保健室の先生にもらう。それにしても、全学のデータをひとりでうちこんでおられるのだから「えらい」としかいいようがない。そんなにたいしたことを聞いているわけではないが、何年かたまればなんらかの傾向がみえてくるかも。

終わってから京都へ。

某先生の指導生会の会食にまぎれこむ。京都は御池でベトナム料理。ネットで探したので実際にどうなのか心配だったが、料理も雰囲気もなかなかよかったので一安心。が、料理が次々にでてきて終盤はみなギブアップ気味。

でも、楽しい一夜がすごせた。


2005年08月21日(日) 日本語ではわかってるつもりなんだが

来月の学会発表にむけて資料を読んだり、レジュメを作ったり。何度いっても国際学会は緊張する(といっても2度目で慣れてる場合ではない)。その直前の国内学会はなんでもないのにな・・・(おいおい、それもよくないだろ)。英語を自由に話せる人はいいですなあ。こっちはポスター頼み。

それにしても、英語に翻訳してみると、いままでいかに自分がいい加減な文章を書いているのかということがわかる。もちろん、そうでなければ書けないことというのもあり、例えば実験研究のような定型があるものではないという難しさはある。でも、だからこそというべきか、レトリックでごまかして、本当に自分がいいたいことが明確になっていないことを自覚させられる。

英語がしゃべれないのは、英語がわからないから(というのはもちろんあるが、それ以上に)、話す内容が日本語でもよくわかっていないことに原因があるといわれることがある。まさに、そのとおり。いますぐ英会話が上手になるとは思えないので、少しでも発表内容を咀嚼しようと思う。

あ、でも「笑い飯」がでてるやつもみないと、、、。


2005年08月20日(土) 休日の研究室

朝から研究室へ。よく考えてみればいろいろ〆切がせまっており、悠長にかまえていられないことが判明する。9月の後半から半月(日本に)いないので、早め早めにせねばならぬ。で、土曜日は冷房がついてないのでちと蒸し暑い。むしろ廊下のほうが涼しい(なぜか廊下は冷房がついている、なぜ?)。

研究室でいろいろと資料収集、見直し、準備作業にとりかかる。しかし、少しやると行き詰まるので、まだ猶予のあることに手をつけてみたりする。来週の会議の資料など作ってみる。まだ、全体像は決まっていないのに大げさという気もしないではないが、とりあえず問題提起すべきはすると・・・。


2005年08月18日(木) 批判するのはわるくないけれど

SCを少しやった人に話をきくと「学校の理解がない」「学校の先生はSCの使い方をわかっていない」といった批判がでる。

SCはたしかに、もっぱら教師コンサルテーションや、外部ネットワークとの連携をとるのが仕事であるという見方ができるし、それなのに学校では一日中、特定の生徒の対応をしてくれと頼まれると「ええ、それでいいのか?」と動揺する気持ちはよくわかる。どうも、自分がいま困った状況にたたされているようだ、ということを認識しないでいるのはマズい。

しかし、SCに対してでなくても、クライエントというのは一般的に、セラピストの実像からは離れたイメージを持ってやってくるものだし、それはそれで何にも悪いことではない。単に、それは僕らのやっていることとの実情と違うというだけのことだ。

そもそも、セラピーでなくても、僕は昔の友だちがやっている仕事内容を正確に認識しているわけではない。タレントのマネージャーになってる人がいるが「みんな、俺の仕事を華やかだと思ってるんだろうけど、わかってないな〜」と心のなかで思ってるかもしれない。それは知らないんだからしょうがないことだ。知ってみて、ようやく相手に何を求めたらいいのか分かってくるというものだ。

疑問なのは、おそらく個人心理療法をやっているときに、相手方がセラピストの実像からはなれたイメージを自分に投影してきたとして、そのときに「わかってない」と嘆くセラピストはいない。また、言語的な関わりができそうもないクライエントに、「言葉でのやりとりができないなんて」と腹をたてるのも変だ。それなのにどうして学校の場合には、「わかってない」とブーたれることになるのか、僕はよくわからない。


2005年08月16日(火) 疾病性と事例性

「疾病性」と「事例性」という言葉がある。疾病性とは、つまり精神科的、あるいは心理療法的にみて、問題の水準が重いか軽いかというような判断であり、事例性とは、学校のなかでおこる問題として、それが重大かそうではないかということになる。

このうち、事例性も高くて、疾病性も高いケースをSCが見立てそこなったら、それは教員にも明らかになってしまうから、これをやると非常に都合が悪いのは言うまでもない。けれども、りょうしゃが一致しないケースというのは学校のなかにいくらでもある。

例えば、「発達障害」であっても、多少のトラブルはあるもののなんとか普通学級でいけるという場合、疾病性(発達障害に疾病性という言葉はそぐわないが)という点では問題であっても、事例性という点では、それほど問題ではないということになる。「とりあえず、なにもおこさないから」「やんちゃしてる子に比べれば静かにしてるだけマシ」といった判断で、相対的に手つかずになるだけだ。その子の身になってみれば、静かだからといってそれですんでしまうという対応ではよいわけはない。

一方、事例性が高いケースの場合、学校の先生はあらかじめ経験的に対処方略をもっていることが多い。だから事例性の高いケースならば、疾病性についてのSCの見立てがザルであっても、それなりに対応されてしまってメデタシメデタシになる。SCが役にたっていると思っても、実は先生が有能なだけであったということもありえるのはこのような場合である。これは学校は困らなくても、専門家としては非常に都合の悪いことだと思う。

さて、SCは学校内のリソースをつかって、これをうまくコーディネートして問題を解決するということが仕事であることを考えると、一番難しいのは、やはり疾病性が高いが事例性が認識されないケースをどうするか、ということだろう。いままさに学校として困っている喫緊の課題をスルーして、このようなケースへの理解を訴えても、学校をトータルとしてみればあまり援助的にみえないかもしれない。コストパフォーマンスがあわないということもある。











2005年08月14日(日) 投影法、その後

先日、投影法についてえらそう(?)に語っておいてなんだが、別に僕はロールシャッハテストそのものを妄信しているわけではない。大学院時代「なんでも自由に発言してください」という教官の促しをまにうけて「あのー、インクのシミでどうして性格がわかっちゃったりするんですか」と発言し、教室を一気に凍りつかせたのは私である。

思えば、そのとき読んでいたのはシャハテルの『ロールシャッハ法の体験的基礎』というものであった。シャハテルという人は、ロールシャッハテストというものが、投影法というよりもむしろ、知覚の検査であり、テストというより方法であるという立場をとっている人である(と、今はわかってるんだけど)。

このような理解は、先日の研究会で読んだワイナーの本もふくめて、ロールシャッハテストについての常識的な見解といえる。もちろん、テストへの反応内容を「無意識」「深層心理」と結びつけて解釈する人たちもいるし、まったくそういった意味解釈がロールシャッハテストから排除されているわけではないが、そうした内容に偏った解釈は全体的にみれば、あまり信用されていないはずである。

であるから、まともにシャハテルの本を読んでいれば、そんなアホなことをぬかさずにすんだものを・・・と、いまさらながらに冷や汗もので思うわけである。


2005年08月10日(水) 泳ぎをアフォードするもの

昨日は、夜半ごろになってようやくあとがき脱稿。そのときは夜に書いたラブレターは、翌日読み返すと送れなくなるからいま送ってしまおう、などと思っていたのだが、ラブレター(書いたことないですが)とあとがきは違うということで、次の日にみなおして送ることにする。

が、、、、朝みなおしたらやっぱり送れない内容でしたorz。で、昼頃メール。

さて、心理テスト(主に投影法)についていろいろ議論があるみたいである。そのなかに投影法は精神のX線写真ではないというものがある。

X線写真としてとらえると、投影法はいろいろ問題がある。というのも、このメタファーでは、心というのは観察にさきだってあることになっている。それを正確にうつしとることができるのが投影法ということになる。でも、投影法にかぎらず、心理テスト一般において、心とはそのようなものではないだろう。

私は、学生に説明するとき「泳ぎに自信がない人を、プールに放り込むようなもの」と言っている。泳げる人は、水がアフォードしてくるものにのってなんとか泳いでもどってくることができる。泳げない人は、水がアフォードしてくるものをつかめないので、手足をばたつかせておぼれていく。その溺れるありさまは、おそらく個々にユニークなものだろう。

実生活で、その人たちは、まさに大海原で溺れている人たちだ。そのような「溺れ」の過程をみるのが投影法だと思う。この人がどれくらい泳げないのか、そしてそれはなぜなのかを知るためには、擬似的に、安全なプールで、再び溺れかけてもらわなければしょうがない。

もちろん、そこそこ泳げる人ならば、自分の泳ぎについての内省報告ですむかもしれない。また、なぜうまく泳げないのかそれほどわからなくても、とりあえず私たちと一緒に泳いでいるうちに、自然とうまく泳げるようになるだろうし、溺れそうな時はこちらにも察しがつく。

その点、私たちを訪ねてくるのは、かなりのカナヅチと考えて間違いない。内省報告では、そもそもこの人たちの溺れの過程にせまれない。そして、一緒に泳いでいるうちに、ありえないところでいきなり溺れはじめ、あっというまに沈んでしまったり、こちらに必死で抱きついてきて、自分まで溺れてしまうことがある。

さて、プールにつきおとされたら誰でも混乱する。だから、このテスターだったら本当に危なくなったら助けてくれるという信頼がなければならない。危なくなった時に助けてもらえそうになければ、テスティーは水に入ろうとしないかもしれない。

重要なことは、泳げるようになるには、まずは溺れることをおそれずにバタバタしてみるしかないということで、それには勇気がいるのだ。まず、自分がどれくらい泳げないのかを他人に示すのは心理的にも肉体的にもしんどいものである。プールにしても、跳び箱にしても、逆上がりにしても、だいたい失敗して痛い目にあうことがわかっているのに、あえてやってみようとするときはどういう時か考えてみるとよい。最初の失敗をしたときに「この人に教えてもらったらできるようになるかも」と思うから、人は二度三度と失敗するのがわかってるのにチャレンジするのではないだろうか。その一回目の失敗がテスト場面ということだ。投影法が「いじわるでしんどいもの」であるのと同時に、とても治療的であるというのはそういう意味だと思う。


2005年08月08日(月) SCの腕のみせどころとは

昨日の書き込みで、教師の手におえないものこそSCの腕のみせどころと書いたが、よく読み返してみると、ちょっと問題がある言葉だと思ったので補足。

SCというのは、まずもって学校の問題を、学校のなかにすでにある解決力をつかって、よりましなものにしていくことが役目だと思う。むろん、新しい知識を提供したりはするが、それはいまある力がより効率的に使えるようにコーディネートするためなんじゃないかしら。

というわけで、本当の本当に教師の手に負えないようなケースは、専門の施設にすみやかにリファーすべきである。その病理を見分ける眼をみがいておけということだ。


2005年08月07日(日) ロールシャッハの研究会

8月の6日、7日と、とある研究会に参加。主催しているのはロールシャッハテストの大家。噂にはきいていたが、とても厳しいが、いちいちまっとうな主張をされる方である。御歳82歳とは思えぬ迫力に圧倒される。

2日間の勉強会で印象に残ったのは、「教育現場にいってるからって精神病理がわかってなくていいということはないのよ。病院にはドクターがいるから、あなたたちが頼りなくてもいいかもしれないけど、学校にはドクターがいないんです。」というのと「誰も診断がはっきりつくようなものを心理士に検査オーダーしたりしないのよ。オーダーされるということは、それなりにドクターも迷うような難しいケースです」というもの。

前者は、もちろんよく心得ているつもりだが、ほんとにそうだと実感。いや、ほんと自分がしっかりしてなくてボヤボヤしていたら、学校ってどんどんそのままですぎてっちゃうのよね。

そして後者は、学校の先生の手に負えないケースっていうのこそ、スクールカウンセラーの腕の見せ所というメッセージとしてきいた。SCがすぐに見立てがつくようなケースなら、そもそも学校にはすでに対処方略がいくつもある。極端なはなし、SCが役にたってると思っていても、それは、先生が有能だからというだけかもしれない。



2005年08月05日(金) 東京行き

昼まで校正をするも、どうもいろんなことにいまさらながらに気付いてしまひOTL。しかも学校に持って行ったフラッシュのファイルが文字ばけしている。うぁぁぁ、なんでじゃぁぁぁ(泣)。

というわけですっかり予定がくるったままうろうろ。昼から会議。消耗するが、ちょっと先がみえるのでまだましか。

終わって図書館でしらべもの。図書新聞は1999年までしか収蔵されておらず。ということで、後はちょこちょこ自分のしらべもの。

ゆっくりもしていられない。あらかた必要な情報を仕入れたらいそいでうちに帰り、きえたファイルを復元せねばならん。さいわい本体は無事だったのでコピー。そして駅へ。

明日から研究会なので、今日は新幹線に乗って東京へいくのだ。


途中の電車には、長浜の花火大会にいく浴衣カップルでいっぱい。女の子の浴衣はいいが、横の彼氏のジンベイはいかがなものか。ま、どうでもいいんだけどさ。僕はわざわざ混雑するとこいく気がしないです。


2005年08月04日(木) skype

科研研究会の報告書のうちあわせをするために、はじめてネット会議というものをやってみる。もう、けっこう有名なのかもしれないがスカイプをつかって。

12月の研究会で発表するのだが、記憶が新しいうちになんとか形にしておいたほうが良いということで、3人で時間をあわせて2時間ばかり合宿のふりかえりをした。九州と京都、滋賀をむすんでの会議。これがなければわざわざ新幹線とか飛行機とかにのっていくということになるところ。世の中便利になったというかなんというかである。

それにしても自分の研究室でお二人の声が聞こえるというのはけっこう面白い体験。ただ、学生などが研究室をおとずれた時、パソコンにむかっているだけに見えるわりに、猛烈にしゃべってる姿がみえるのはやや異様か。また状態を説明しづらいというのも、ある。「あ、いま会議してるから、用事はまた後で」といっても「?」ということになりかねない。ちょっと工夫が必要ですね。

そういえば12月にはもう一本別の発表もしなければならない。なんだかんだと予定って黙っててもはいってくるものですね(しみじみ)。






2005年08月03日(水) インタビューイ体験?

GTAの木下先生の講義があるというので京都大学へ。ついでに(というかむしろこちらが本題であったが)、荒川さんと待ち合わせて先日の合宿のフィードバックインタビューをとる。

インタビューイもインタビュアーも、いずれも本来ならばインタビュアーである。お互いに受け答えを聴きながら「へえ、そうするんか」なんて思ったりなんかへんな感じ。


2005年08月02日(火) 別に旅費をけちってるわけではない

朝から会議。

その後、パソコンの前でいろいろ事務仕事する。荒川さん@京都、徳田さん@九州とで、旅費と移動時間をつかわずに会議する方法を画策中。

問題は、私がマックユーザーってことかしらね。むう。どこにいっても「ただしMacintoshには対応しておりません」ってなんだよ、もう。プリプリ。

ふてくされてVivaCity裏のBRASIL2000でガラナのペットボトルを買って帰宅。ここでもまた、店のおばちゃんは猛烈にポルトガル語で話しかけてくるが、あいまいな微笑を返すのみ(涙)。ああ、ポルトガル語、もうすこし話せれば楽しいんですのになあ。

で、帰宅して気をとりなおして調べてみたら、なんとかうまくいくようなのでひと安心。実際にうまくいったらご報告します。しかし世の中、便利になったというべきか、どこにいてもつかまる世の中になったというべきか・・・・・・。


2005年08月01日(月) 大学の心理学化

(我が大学のことをいってるのではありません)大学相談室につとめるいろんな人と話す機会がある。そこで思ったことは、どうも多くの社会学者が猛烈に批判しまくる「心理学化」は大学の先生のなかでもっとも進んでいるのではないだろうか。

中学や高校の先生には、たしかにカウンセラーを魔術的なものとしてみて、そのように接してくる人はいる(例えば、「せんせい、僕の夢の分析してくださいよ」など)。けど、(僕の経験には偏りがあるだろうが)それは一種の社交辞令みたいなもので、「先生、大学院でられてるんですか。かしこいんでしょうなあ」とか「先生、A型ですか。きちょうめんなんでしょうなあ」と言語行為の機能としてはほとんどかわらない。だから、それに本気でとりあったらえらい目にあう(肯定したらビビられたり、気味悪がられたりするし、否定したらしたで恐縮されたり、萎縮されたりする)。

で、話がズレたが、そういうものであって、先生方はたいてい本気(マジ)の話のときは僕らにおまかせにはしない。話さえまわってこないこともあるはずだ。経験上だが、「あの子にはこころのケアが必要だから、カウンセラーにお願いするのがベストだ」といったような対応はすくないと思う。そして、その方が僕らも働きやすい(個人差あるかもしれないけども)。

どうも、大学の先生が、もっとも心のケアを実体化し、信奉しているんじゃないかと思えてしょうがない。



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