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2005年06月30日(木) あれこれ

昨日はゼミ+会議

ゼミはペット班の発表。ペット・ロスについて。飼い主がその経験をどのように意味付け、どのように乗り越えているのかといったインタビューをする予定である。もうデータを集め始めているのだが、なにせはじめてのインタビューだからどうなるか心配ではある。

計画の進み方ははやくないので、とりあえず10月をめどにして各班がプレゼンテーションするということにしたい。>みなさんよろしく

3,4回生ゼミが終わった後、就職活動がようやく終わったゼミ生が安堵の表情で、今度は卒論をどうしようと相談にくる。最近、ゼミでは3年生の発表が続いており、就職活動をしている4年生は出遅れている。

当初のもくろみでは4回生が3回生に教えるというものだったのだが、むしろ3回生の頑張りに4回生があおられているという感じ。とはいえ、4回生はそれなりによいコメントをするので頼もしい。

うだうだ言いつつ、途中で頓挫していた計画をねりなおして、実験を計画。これまた10月くらいまでには終わらせるようにと言い渡す。


会議がおわって7時頃彦根をでて、仕事がおわった家人をひろって、まえまえから気になっていた近江八幡のBaby net cafeにいってみる。いわゆるカフェなのだが食事も充実している。あれこれ頼んで食べてみる。おいしい。店の雰囲気もなかなかですね。
モフモフ食べて満足して帰宅。


2005年06月28日(火) 何を言うかでなくて、いかに言うかが大事

最近、テレビをめっきり見なくなったのだが、ひょんなことからドラマの『エンジン』を続けて見ている。木村拓哉がレーサーなったもののミスから失職し、親(だと思うのだが)がやっている養護施設にまいもどってきたところからストーリーははじまる。養護施設の子どもたちは、小さい頃に親に捨てられたり、虐待をうけたりと、いずれもひどい過去をもっていて、心理学的にいうならば「愛着障害」をもつ、一筋縄ではいかない難しい子ばかりだ。それが木村拓哉がこの施設に帰って来て以来、徐々に変わりはじめる。

思うに、木村拓哉の魅力は、子どものことを立ち直らせてやろうとか、かわいそうだから面倒みてやろうとか、そういう気持ちをこれっぽっちも持っていないところではないだろうか。彼がやっているのは、自分に正直に生き、施設の子どもにも、いつも直球で自分の信条にしたがって対決するということだ。

さて、このように言うと、「それならば木村拓哉の役のような存在になれれば子どもが救えるのだ」と考える人がでてくるかもしれない。あるいはしたり顔で「あの人が治療的に働いたのはたまたまで、危ないこともあるよ」と否定する人もいるだろう。おそらくそれが常識的な見解だ。しかし、僕はあえて、両方ともそうではないと言いたい。

木村拓哉が素晴らしいか、あやういのかとうことは、そもそも彼だけではなくて、子どもたちが彼のような存在を、そのような人として受け入れたということによって決まっている。あえて彼に素晴らしさ(危うさ)を帰属するならば、それは子どもにとって、かのような役割として受け入れやすい(受け入れにくい)存在であり続けたということだろう。

ある養護施設の指導員をリタイアした人が、現役時代に印象的だった人として「いつも理想論ばかり語る」先生をあげていたのを思い出す。この元指導員さんは普段はそんな理想論が通用するとはまったく思っていないし、実際、その先生は緊急時にはまったく使えない人だったそうだ。しかし、多くの指導員たちは、その先生にはずっとそういう存在であってほしいと思っていたのだそうだ。

ここでも大事なのは語られた理想論ではない(逆に、ノウハウでもない)そうではなくて、そういう先生のことを必要だと認められた指導員と、先生との関係性がすばらしいのだ。日々忙しくて、無力感にかられ、悠長に人の話なんか聞いてる気力も暇もない仕事にもかかわらず、そのような理想論を大事だと思えたのは、指導員の人たちの力だし、その先生の「その場の切実な現実をよく知りつつ、それでも普段はまったく役にたたない理想論を語りつづける」という存在様式がもたらす力であったろう。

要は、文脈からはなれてどんな言葉も意味をもたないし、その文脈をつくるのは、必ずしもその場で発せられた言葉の内容ではないということだ、と思う。


2005年06月27日(月) [ 月末予想 ]局所的に仕事がこむでしょう

昨日はやっと大きな原稿を先方に送付したので一段落。・・・するはずだったが、そういえば月末締め切りの原稿を放置してあったことに気づくorz。おお、しかもその月末には、環琵琶湖実習の締めくくりの合宿があることを忘れていた(わけではないが、改めて考えてみればそうだな、と)orz。

とはいえ、一度書いた原稿を、先方の編集方針がかわって書き換えることになっただけ。元になるものはあるので見込みはある。

とりあえず一番の気がかりは、共著者であるT先生にまだ改稿することになりましたともなんとも言っていないことだな。はやめにメールうっとこ。




2005年06月26日(日) パソコンをさがして

家人のパソコンの調子が悪いので、新しいのを買うことに。探すのにつきあって、昨日から滋賀を南から北まで往復しております。んで、今日、ようやく彦根のY電気で気に入ったものをみつけましたよ。散々まよったあげくにVAIOのTypeSに決定。

「Macは選択肢がないから悩まなくていいね」といわれる。いやいや、あるっちゅうねん。ノートやったらiBookにPowerBookに.....。


2005年06月25日(土) 同窓会

夕方から彦根へ。

高校3年生のときの担任の先生と、あと4人のクラスメートと再会。ひとりはこの前のパーティーに来てもらったのだけど、他の人、とりわけ担任の先生にはここのところずっと会っていなかったので、久しぶりにお会いできてうれしい。

ここに書くには障害がありすぎるけれども、いろいろ他職種の人々と話すと、「ええー、そうなんですか」「あ、そうだったんですか」ということがいっぱいあって「へー」とか「ほー」とか言って聞いている。みなさん、全国をまたにかけてご活躍ですな。

それにしても、同窓会というのは不思議な場だ。出会ってみればいつまでたっても高校生の時のエピソードが思い出されて語られる。いままで考えもしなかったのに、ありありとエピソードが思い出されてくる。不思議な想起の力だ。


2005年06月24日(金) 食事のプロと、栄養のプロ

午後はカウンセリング論演習。食生活専攻のみなさんに、ロールプレイをとおして家族療法面接のさわりを体験していただく。

僕らは毎日食事している。おそらく1日たりとも食事しなかった日はないに違いない。ということは僕らはみな食事のベテランだ。ベテランにむかって、自分の食生活をなにも知らない人がえらそうに意見する。抵抗感があってあたりまえではないか。それでなくても、人っていうのは変化に対しては抵抗感をつのらせるものだ。だからこそうまく家族にはいっていくことが大事になるってことではないか、と。


2005年06月22日(水) わけのわからないことをやること

昨日のゼミでは、3回生の「自閉症グループ」の発表。周囲の人々が、自閉症と出会うことでどのように変わっていくのかということをやっていこうという方針が固まって来たようで、ともかくそれはよいことですな。

昨日は名大療育グループ(通称、MRG)の一連発表のなかから、興味をもった論文について発表してもらった。初心のスタッフの成長と、障害をもつ子どもの兄弟の発達についての論文。

MRGは残念ながら3-4年前に終了してしまって今はもうない。在学中は関わっていなかったのだが、いまにして思えば、とても大切な訓練の場であったと思う。若い人(とりわけセラピストになろうとする人)には、分かりやすい(と思えるだけだが)ものの理解ではなくて、自分の想像をこえた、理解しにくいものにアタックしてほしいもんです(・・・と、自分のことを棚にあげていえる立場でもないですけどもね、ええ)。


2005年06月21日(火) 社交場なのか、それともリラックスする場所なのか。

会議×2に、1年生のフィールドワーク。

先週、『A湯』にいったあと、数人は図書館で文献をあたり、数人はもうひとつの『B湯』にいってきたそうな。ここ15-6年のあいだに、銭湯は客離れをくいとめようとリニューアルをしてきた。そのなかの大きなものは、番台と脱衣場が仕切られたことである。いわゆるプライバシーが守られる空間ができたということだ。B湯はちょうどこのリニュアーアルの波にのってこの方式にかわった。『A湯』はその波にのれず、いまでも昔ながらの銭湯の間取り。

どちらがいいということもないし、悪いということもないが、確実にわたしたちはB湯のような空間の方を好ましいと感じてしまう。『A湯』であんなに話しかけてうるさかったおばちゃんたちは、『B湯』にはいなかった、らしい。銭湯が社交場であるというのも、かならずしもどこの銭湯もがそうであるということではないようだ。

そして、ある学生がいっていたことに「なんか、B湯の方が寂しいってかんじだったけど、でもなんか気持ちいいって感じもした」というのはなかなか難しいところをついた発言ですね。人間的なつながりが強く感じられる方がよいから、そういう空間を求めるのか、それとも気持ちのよさを求めるのか。お風呂という空間をどのようなものととらえるのかによって、それもかわってくるのだろうけれども。

でも学生の「決め難いよねー」という感想は、銭湯の今度にとって、少し明るい材料なのかもしれない。


2005年06月19日(日) 科研研究会

day1
分担者になっている科研の全体会に京都大学へ。責任者になってる合宿も、まだまだあると思っているうちにあと1ヶ月もない。発表者のみなさんにかかっている部分は大きいのだが、よい議論がうまれるようにデザインしていけるようにしたいところ。

防災研のヤモリ先生の、防災ゲーム『クロスロード』とナラティブについてのご発表をきく。これは阪神大震災で救助、援助にまわった人たちへの聞き取りでえられたエピソードを刺激として、「こんなときあなたならどうする?」という選択をみんなでする。で、その場で多数者がポイントをもらえ、ポイントが多い方が勝ちというゲームである。ゲームだから楽しみつつ、しかし、しらずしらずのうちに自分だったらどう動くかという未来の時間をイメージすることができてしまうという優れもの。

夜、龍谷大学の松島さんから安部公房『箱男』という小説を教えてもらう。
段ボール箱をかぶって生活する男の話だという。なんだか全然想像つかないぞ。
一度、読んでみようっと。

day2
朝から読書会。Daiute & Lighthoot(Eds)の"Narrative analysis" Sageをよむ。全12章。9時半からはじめておわったのは6時半。もりだくさん。終わるころにはもうヘトヘト。Lighthfootは、青年期のrisk takingについての研究をしていて、某MLですすめられたので昔読んだことがあったので親しみがあった。

読書会というのも、時間が短すぎても長過ぎてもよくない。内容を共有するといっても、なにを共有するのか。なかなか難しいものだ。



2005年06月17日(金) カウンセリング論演習

4−5限はカウンセリング論演習。

本来は食生活専攻の授業。食生活専攻は、管理栄養士養成コースなので、栄養カウンセリングをするためのカウンセリング技術が必須になっているのだ。指定の栄養カウンセリングの教科書をよむと、概論もそこそこに傾聴技法のスキルが書かれ、ついで申し訳程度に心理療法の説明がのっている。

こりゃあ、ダメだろ。

なんのためにうなづいているのか、なんのために「〜ですね」と言っているのかという説明をぬきにして、ただそうするものだからとスキルを教えても、そんなんロボットになったようなものではないか。

例えば、糖尿病のように食べたいけど、食べられない人が食事制限を守るなんてかなりハードなことに違いない。それをカウンセリングっぽく話せば、指導もうまくとおるだろうというような姑息なことを考えてはいけないんじゃないのか。


2005年06月15日(水) 人生経験か、専門的知識か

臨床心理士のblogをいくつか見ていたら、カウンセリングや心理療法は「人間性」でやるのではない。学問的知識と、その腕前でやるものだ。その人が実際どうであるのかということと、心理の腕とは関係がない、というようなことが盛んに主張されている。

もっともな話だと思う。その多くは、カウンセラーは人格者ではなくてはならないとか、人生経験が豊富な人しかカウンセラーになれないといった言説に対抗してのものだから。

カウンセラーの技能はそれだけではないが、人の話を聴くことひとつとっても、人生経験によって力量が高まるなら、そもそも私のような若手はそれだけでハンデを背負っている。子どももいない。死のうと思ったこともない。不登校や非行になったこともない。「そういう人に私の経験がわかるものか」と言われても困ってしまう。

それに考えてみれば、誰でも人生で経験できることはわずかしかない。大方は経験したことがなく、想像もつかないことだらけだ。そもそも、1人1人の経験はそれぞれにかけがえのないものだという立場をとれば、この世で共有できる経験などない。それでも、相手のためになろうとするのだから、そこには専門的な知識がいるのは当然のことだ。

てなようなことで、僕は初心の頃、かなり「経験や人間性じゃない」という言説にとらわれていたと思う。恥ずかしながら、かなり感情的に反発していた気もする。

しかし、上記の内容をふまえた上であえていうと、僕は数年前から、「人間性」とまでは思わないが、いわゆる人生経験とか、その人の人となりというのはとっても重要だと思えてしょうがない。

なにも人生経験や人となりがよければ、腕もよいとは思わない。が、人生経験がともなえば、それまでどう頑張ってもトンチンカンな答えしかみいだせなかったことにも、自然と理解がともなってくることがある。まったく専門的知識なんてなさそうなおじさんが、当たり前のように援助的なことをうまーくやってのけているのをみると「こりゃあ、かなわんなー」と感心する。人となりがよくて、ある程度までならうまくやれてしまう人もあるような気がする。

すくなくとも、「経験や人間性じゃない」という言説にとらわれてしまうのは、セラピストとしてはあまりよくないことではないかと思う。それは「人間性だ」という立場にとらわれるのと内容的には正反対だが、形式的には同じことだ。


2005年06月14日(火) やまのゆ

銀座の山の湯へ。女湯ではおばちゃんらに取り囲まれて活発に話していたようだ。男湯ではそんなにベラベラ喋れる雰囲気でもない。のだが、せっかくなので隣にいたおじいちゃんをつかまえてちょっとだけ話をしてみた。

もう何十年もここに通っている。家に風呂はないのだが、歩いてすぐにここにつけるので、毎日こうやって通っている。最近は、まわりでも新しく家を建てた人がいて、そういう人は家風呂にはいるのでここにはこなくなってしまったとのことである。

番台のおばさんに聞いてみると昔は20件からあった銭湯も年々すくなくなって、ここ1−2年のうちに、4件の店が廃業してしまったとのこと。なんと去年このテーマをやっていれば最後の姿がみられたはずだったのだ!!。以前にこれを授業でとりあげたときは、まだ6件の店が営業していたそうだから、それから何年もたっていないというのに。みな、どこでどうしているのかは知らないが、店主が高齢でご隠居になってしまったのではないかとのこと。

行ってみるとすぐに思うのだが、僕たちのように若い世代がはいると明らかに浮いてしまう。銭湯がある場所も、山の湯のつくりも。銀座通りも。別にまったく活気がないわけではないが、学生が「なんかここにくると寂しい感じがするね」というのにも確かにうなづけるところがある。


2005年06月13日(月) 狂気と犯罪

芹沢一也『狂気と犯罪:なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか』講談社+α新書

著者の根本的な問題意識は、「触法精神障害者」というカテゴリーが、どのようにして、現在のようにリアリティをもって世間に受け止められるようになったのか、ということだ。精神障害もまたひとつの疾病に違いない。風邪と犯罪を結びつけて考えることにリアリティがないように、本来、犯罪をなすことと精神障害であることの関連性はないといってもよいかもしれない。にもかかわらず、ということだ。

著者は刑法と精神障害(狂気)、そして精神医学との関連を、江戸時代までさかのぼって歴史的にあとづけている。日本が文明国家となること、そして精神障害者にも人権を十分に認めようとする社会になるに応じて、精神障害者は「犯罪の兆候をもつ人」として問題化されていく。精神医学が世間に認知されるように努力することが、ますますその傾向を強める結果となってしまったという分析はなかなか興味深い。

心理セラピストが、心の悩みをかかえる人を援助しょうとして、世間に診断名や障害についての知識を流布したために、かえって社会問題が当事者の心に還元されるという事態をまねいたこととも通じるねえ。

でも、僕は社会問題が精神医学化されることにしろ、心理学化されることにしろ、それ自体が悪いとは思わない。そうするよりも他に手がない状態で、よりましな未来を予見できることならば、やった方がいいんじゃないかと思う。ただ、問題はそういう選択をするときには、常に時代的な制約がはたらいていて、「いま、ここのこの状況ならば」という話になっているはずなのだけど、不思議とそういうのは忘れさられていくのであるね。

で、時代的な文脈は忘却され、なんだか当然の前提にしてしまうと、後世ではいろいろと実態にあわないことがでてくるのは当然で、だからいろいろとよくないことがおこるんじゃないか、と。心理学化にしても、精神医学化にしても、そもそもなんである時点で、そういうことをやろうということになったのかを歴史的に位置づけて考えることが必要じゃないかと思いますよ。この本でやってみるみたいに。


2005年06月11日(土) 規範意識、進級するほど低下

昨日の日記で書いた研究が、今日の京都新聞でとりあげられた。以下は電子版から引用

規範意識、進級するほど低下 : 滋賀の小中高生を調査

 授業中の居眠りや髪の毛を染めるなどの他人に迷惑をかけない逸脱行為について、滋賀県内の小中高生の規範を守る意識は進級するほど低落傾向にあることが、県総合教育センター(野洲市北桜)が昨年度実施した意向調査で浮かび上がった。

■他人に迷惑でないなら…

 規範意識の調査は、少年犯罪の増加を受け、子どもの実態を客観的に把握するのが狙い。子どもの規範意識に対する保護者の意識も合わせて調べようと、小学5年と中学2年、高校2年の児童生徒各約1000人と、その保護者計約3000人を無作為に選んだ。回収率は児童生徒97%、保護者85%。

 児童生徒の回答を見ると、年齢が上がるほど規範意識が低下する傾向を示した。逸脱行為のうち、「掃除当番などクラスの仕事をさぼる」など自分が不利益を被る行為や、万引などの触法行為では「絶対いけない」「いけない」との回答者が、各学年とも8割を超した。一方、他人に迷惑をかけない行為に関する規範意識は進級するほど軒並み低落。例えば、授業中の居眠りで「絶対いけない」「いけない」との回答者は、小学5年の89%から高校2年の43%に低下した。他人に迷惑をかけない行為に対し「注意する」「友だちによっては注意する」との回答も、高学年ほど顕著に下がり、自己中心的な傾向が浮き彫りになった。

 一方、保護者の逸脱行為に関する回答は「絶対いけない」「いけない」がともに9割近かった。調査を担当した北川幸希研究員は「部活動やボランティア活動を通じて、児童生徒に集団の一員としての自覚を促し、規範意識を育む必要がある」と話している。


まあ、間違いではないけど、どうもこういう書かれ方は違和感あるなあ。


2005年06月10日(金) 規範意識の研究発表

昼から滋賀県総合教育センターの研究発表会にいく。1年間、一緒にやってきた研究なので、最後にどのようにプレゼンされるかとても楽しみにして会場にむかう。私は研究委員の先生がご発表され、それを聞いて「ご指導」するのである。まだまだ若手の僕が「指導」などと何をえらそうにという感じではあるが、役目なので偉そうにしゃべってきた(笑)。

しばしば「規範意識が低い」「規範意識の希薄化」などといわれるが、そこではあたかも規範意識というのが存在し、若者のそれは量的に目減りしているかのようにとらえられる。しかし、それは大人の目線からの引き算でしかない。規範意識は希薄になっているというよりも、むしろ別種のものになっているといった方がよいと思う。私たちが規範意識が希薄化したというとき、そこで言及される規範意識とは、たいていの場合、青年のなかにみる大人の不安の投影ではないか。

でも、だからといって私たちは勝手に若者を判断し、断罪しているのかというとそうではない。若者は変わっている(それは必然である)。問題はその変化をどのようにみるのか、だ。なにかが変わっているとすれば、それは何なのか。若者にはいったい何が見えていて、どのような論理に駆動されて今を生きているのか、彼らの目線から問い直してみることが必要である。今回の調査結果は、私たちの勝手な不安の投影をすることをやめ、実際のところ子どもには何が見えているのかを探る手がかりを提供するだろう。

というようなこともしゃべったつもりだったが、うまく伝わったかどうか。まあ、役目は果たせたかな、と。また、今後ともよろしくお願いします。それにしても滋賀県に来てから、世間は狭いなと感じる今日この頃。悪いことはできませんな。




2005年06月09日(木) 語りに耳を傾けるにもほどがある?。

非常勤。要領がわるいのか、それとも求められてるものが過剰なのか、今日も残業。
残業ついでに社長にコーヒーをおよばれ。社長の将来構想をうかがう。そのうち話は、社長の実践的知識にふれる物語へ。僕もこの手の物語をきくのは好きなのでついついインタビュアー調になってきいてしまう。おお、これをビデオにとっておきたいぜと思ったりして。すると、僕の会いの手でツボを刺激された社長はますます話しはじめ、気づいたらコーヒー1杯で2時間半も。

ま、たまにはいいよね(と、言い聞かせる)。

話はかわって、最近、この日記に検索サイトからおいでになる人が多くなった。で、そのなかに多いワードの組み合わせがこれ。<レポート×教育心理学><卒業論文×心理学><質問紙×なんらかの心理をあらわす言葉>。

どうやら世の中、レポート提出に追われたり、卒論を書かなければいけないと焦りはじめたり、ついては質問紙やりたいんだけどなんか参考になるサイトないかなーと思ってる人が多いのではないかと推測。

残念ながらうちのサイトをみてもそういうのに答えはないと思うよ。








2005年06月07日(火) サッカーにスポッター

今日のyahooのニュースを見ていたら、ジーコの秘密兵器と題する記事があった。サッカーにアメリカンフットボールで使われるスポッターシステムを導入して成功したという話だ。


ジーコ監督は現役引退後、ブラジルでスポーツ大臣に就任し、世界のさまざまなスポーツに接してきた。その際にジーコ監督の印象に一番残ったスポーツは、「アメリカンフットボールだった。サッカーにも取り入れられると確信した」。
ヘッドコーチにはスタンド最上段に陣取ったスタッフからフォーメーション等のアドバイスが無線で送られ、選手にもレシーバーで伝達される。同様のシステムはサッカーよりいち早く、バレーボールにも導入された。ブラジルでバレーボールは、いまやサッカーと並ぶ人気競技。ジーコ監督も「とにかく監督が的確に指示を出せるところがうらやましい」と、日本で行われたバレーボールW杯では、仙台へも視察に出向いて無線の効用を確認していた。
そしてW杯予選では、トランシーバーが存分に活用された。ホットラインを手にスタンドの最上段に上がるのは、ジーコが信頼する実兄のエドゥー・テクニカルディレクター(TD)。エドゥーTDは3日のバーレーン戦でも全体が見渡せるメーンスタンドの後方に陣取り、ベンチのカンタレリGKコーチに絶叫調で指示を送っていた。
サッカーは上から見るとよく分かる。敵の陣形の変化を見て、誰を投入すれば一番効果があるのか。カンタレリGKコーチから兄の伝言を聞いたジーコ監督は、これを参考に次の打つ手を決める。ジーコ監督に意見をいえるのは、この実兄だけなのだ。そしてエドゥーTDは試合終了直前にスタンドを降り、勝利の瞬間にジーコと抱き合い、称え合うのが儀式ともなっている。




なるほど。

アメリカンフットボールではたしかにスポッターがとっても重要な役回りを果たす。いまどき大学生のチームならスポッターがいないチームなど考えられないし、高校チームでもちょっとまともなところにはスポッターがいる。それくらいアメリカンフットボールというスポーツにスポッターは欠かせない。

というのもアメリカンフットボールはグラウンドレベルではいったい何が起こっているのかほとんどわからない。鳥の目と虫の目みたいなもので、高度に組織化されたプレイをしているだけに、フィールドで何がおこっているのかわからないというのは致命的だ。

サッカーでもフォーメーションがあるということを、最近になってやっと知ったのだが、代表チームのように高度にシステマチックなフットボールをするなら、やはりアメリカンフットボールのようなスポッターは役割を果たすだろう。

ただ、アメリカンフットボールではプレー毎にプレーヤーの交替が可能である。チームによったら特定のポジションの選手を3人ひとくみくらいでローテーションで出場させる。ローテーション制で交替した選手に次のプレーをもって入らせるためだ。こういうことは、サッカーでは交替はそれほど自由ではないからできないから、スポッターシステムがジーコ監督の采配にそれほどの影響力があったのかどうかは疑問だ。むしろ、ゲーム中に選手にかけるアドバイスの方に威力を発揮したのではないかしら。

 それから、ジーコはトランシーバーを競技場に持ち込んだということだが、アメリカンフットボールのゲームでは、どれだけハイテク機器が導入されようとスポッターだけは有線である。これは無線で電波を飛ばした場合、他チームに傍受される危険があるからだ(実際、アメリカではそれが大問題になった)。サッカーではアウェーではどんなトラブルがあっても不思議ではないと言われる。トランシーバーの周波数をあわせることくらい簡単だろう。その点、どう工夫しているのか不思議である。

 もうひとつ、ともするとアメフットは戦術のゲームなどといわれるけれども、他方ではexcution(遂行)のゲームといわれる。つまり、コーチがしばしば「エックス(X)とオー(O)だけではゲームに勝てない(アメフットで戦術をかくときには、攻撃選手を○、守備選手を×印であらわすことが通例である)というように、1対1で勝つことがまず必要とされる。

サッカーの日本代表では中田が「フォーメーションは関係ない。1対1で勝てないとダメ」といったとかいわないとかが話題になっているが、上述のようなアメリカンフットボールの考え方をふまえるとなるほどなーと思える。要は、どんなシステムをとるにしても、それを「やりきる」ということが大事だってことですね。


2005年06月06日(月) 授業案を書くリソース

ゼミ生が教育実習にでているので、巡回指導のために京都まで。高校はこだかい丘の上にあり、炎天下歩いていたら死にそうになる(大げさ)。

学生は今日がはじめての授業だったらしく、緊張して落ち着かない。
しかし、担当の先生によると「最近は、指示待ちで積極性のない人が多いのですが、積極的にオリジナリティのある授業案を自分から考えてくれるのでたすかってますよ」とのこと。学生は学生で「丁寧に教えてくれるから助かってる」と。ほめあう関係というのはよいですな。

当人は学校祭の委員だったので「進行表とか書くの得意です」とのこと。なるほど。授業も、まあ、いうたら、デザインみたいなもんですからね。なにがどんなところでリソースになるかわからないもんですね。














2005年06月05日(日) 学習科学とテクノロジ

わけあって放送大学の『学習科学とテクノロジ』を読んだ。中京大学の三宅なほみ先生と、白水さんによるもの。中京大学のゼミにはほんとに何回かだけ参加させてもらったことがあるが、大変、刺激的である。先日紹介した『未来の学びをデザインする』も同じような立場にある著者なので、最近は、学習環境のデザインに関する本ばかり読んでいる。

状況的学習論というのは考え方は面白いのだが、「で、どうすんの」という突っ込みを入れられやすい分野ではある。学習が社会的に構成されているというようなことは、議論の出発点ではあってそこからどんなデザインなり教授法なりが生み出せるのかということの方が大事だ、と思う。もちろん、批判的にあるデザインがどのように組織されているのかを読み解く作業とセットにしていないといけないとは思うけれども。

両方の本とも、学習を状況論的にみるとどうとらえられるのか、ということを超えて、では、どのような解決策が描けるのかということを考えているというところが僕には好感がもてる。



2005年06月04日(土) こころの進化

心の仕組み



実家の書棚の整理を手伝って、スティーブン・ピンカーの心の仕組み(上中下)をもらってくる。ピンカーは、心の計算論者で、聖徳論者の一人。で、いまはやりの進化心理学的な考え方ももっている人。マスターに入るくらいのころに同じくNHKブックスからでていた『言語を生み出す本能』を読んで以来、この人の名前は聞いても本を読むことはなかった。下巻の解説では、生物としての人間という視点をもつことの大事さを、東大の長谷川寿一先生が書いておられる。

ピンカーが社会構成主義的な考えをもっている人たちのように相対化を繰り返しているのでは前進はないというのもわからないではないけど、生物学的な制約がある程度みつかったとして、それが人間(に限らないのかもしれませんけど)の多様な認識機能のどのあたりまでを説明するのか疑問ではある。それに、生得的にいろんなことが決まっているのに反論することもないが、社会構成主義者もまたなんの前提もおかないわけではない。

 どうも社会構成主義者というのは、何もないところから、言葉によってなにかが作り出されると信じている人だと思われているようだけど、それは誤解である。例えばウィトゲンシュタインの「ウサギーアヒル図形」が、視点によってウサギにも、アヒルにも見えることから「うさぎも、あひるも視点しだいで作り出される」と主張するからといって、そこにウサギにもアヒルにもみえる図形を構成する線や点はあるに違いない。

 要は、議論の出発点として、どこまでを「ある」ことにしておくか、そしてそれを自覚しておくかという問題ではなかろうかね。


2005年06月03日(金) 教育実習をみにいくことに

朝、竹下先生のインファンクラブに顔をだそうとするも、遅れていったのでどこかでお散歩されているらしく出会えずorz。来週は出張だからいけそうもないのだが・・・・。

そして、研究室で原稿書いていたら電話が。ひょんなことから来週も高校に教育実習生を見にいくことに。どの大学も教育実習先を見回っているらしいのでうちもできるだけのことはせねばなりませんな。いろんな高校の授業がみられるのは楽しい(やってるのは指導生なんだけども)。県外の高校だけど、調べてみたらわりと近くてよかった。それにしても、このまえ行ったところより電車の所要時間が短いってどうよ。

ショッピングの人類学について少し気になって調べてみたら、いろいろあるんですな。

こんなのとか、こんなのもある。後者は『なぜ、この店で買ってしまうのか』の作者へのインタビュー。前者のblogの作者はどうも見覚えあるとおもったら、前者は『想起のフィールドワーク』(新曜社)に書かれている方だった。なんと、そんなこともされているんですな。


2005年06月02日(木) みかわ屋

非常勤。担当の社員さんは午後から出張とのことで朝の会議がおわると早々にお出かけになる。今日は内勤の社員さんが多い日。午後は、忙しさオーラをだされている背後からそーっとしのびより、遠慮深く声をかけると同時に、図々しくお隣にすわったりしてお仕事の邪魔をするお話をきく。ま、主観的にはよく働いたかな、と。


2005年06月01日(水) テキストが消える!未来の学び

せっかくテープおこししたファイルが一部消えてしまう。あぁぁ(涙)。
すっかり意気消沈して本を読む(いや、別に消えてから読んだわけではないんだが)

美馬のゆり・山内裕平『未来の学びをデザインする:空間・活動・共同体』東京大学出版会

状況的学習論の知見を引用しつつ、具体的な学習環境のデザインの実践例が記されている。昨日の日記でとりあげた本で提起された問題の、実践編みたいな感じもする。

空間、活動、共同体という三つのキーワードで新しい学びを提案しておられる。これまで学習というと、学校の教室のような空間で、先生の言うことをきいて知識を貯えるという活動を、基本的には誰の助けも借りずに一人で達成するものだと思われてきた。

これに対して「未来の学習」にとって必要なのは、他の学習者が何をやっているのかということであったり、教員が何をやっているのかというようなことが必要なときにわかったり、コミュニケーションが図れる空間である。そこで、目標が明快で、活動そのものが面白く、葛藤が含まれているような活動をすることになる。その際には、目標が共有され、全員に参加の方法が保証されており、共同体の記憶が保存されているような、そんな共同体が必要になる。こういう学習環境をデザインする人が、今後求められると著者はいっている。

ところで、学習というのを広くとらえれば、スクールカウンセラーは、学校で教員の「不適応生徒への支援」という学習課題へのとりくみをデザインする人といってもいいかも知れない。そのような意味で、本書の最後に、はこだて未来大学での「コミュニケーション・ライブラリー」が作られた経緯が書かれているのだが、これはとても面白い。


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