ある音楽馬鹿の徒然カキコ♪...みゅう太

 

 

また巨星が落ちた・・・ - 2007年04月29日(日)




20世紀最大のチェリストの一人で、
本当に「偉大な」音楽家であった
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチが80歳で亡くなりました。


今まで何度も聴いてきて、色々な思い出がありますが
何か気が抜けてしまって
却って書けません。


これから色んな記事や
様々な人がブログその他で書くでしょうから
私はちょっとだけでやめておきます。。。

初めて聴いたのは
1987年だったかな?
東京文化会館で小澤征爾さん指揮の新日本フィルとやった演奏会、
ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番と
ドヴォルザークのチェロ協奏曲。

小澤さんを初めて聴いたのも丁度この時で
2人が横綱相撲のように、ガッチリと見つめあい、火花を散らしながら
すごい演奏を繰り広げました。

でもこの時ほど
こういう「完全な演奏」「完璧な演奏」があり得るのだ、
と思ったことはありません。
それはあのポリーニのピアノですら凌駕するものでした。
ちょうど(プログラムだったか?)に宇野攻芳さんが書いていましたが、
こういう演奏が出来るのは、
だいぶ肌触りは違うけど、他にはバリトンのフィッシャー=ディースカウくらいしか思い浮かびません。

ほとばしる音楽の勢い、巨大さ、熱さと、
精密なコントロールをする知性、技術・・・。



でも、悲しいですね・・・。

まだまだこれからも聴けると思っていました。
あんなに異様なくらい元気だった人が。



確実にまたひとつの「時代」が遠のいたことを感じます。






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暗夜行路 - 2007年04月22日(日)




今、志賀直哉の「暗夜行路」を読んでいる。
面白い。毎日じっくり読んでいる。

恥ずかしながら、この歳になって初めて読んだ。


私は前にも書いたかもしれないが、
小学生の時はあんなに読書の虫だったにも関わらず、
それ以後完全にマンガに興味が移行してしまって、
一番大事な時期にあまり読書をしなかった。
再び本を夢中に読むようになったのはここ10年ほど。

明治の島崎藤村から現代の村上春樹、山田詠美、江國香織まで色々読むけど、
(海外のものより圧倒的に日本のものが多い)
やはり夜み応えが段違いで好きなのは夏目漱石。

それから程なくいいな、と思うようになったのは武者小路実篤。
(ちょっとこの人の考え方はきれいすぎるきらいもあるが)

そして「和解」で巡りあった志賀直哉。

我ながら面白いな、と思うのは後者2人が「白樺」という同人誌を作った同士であり、漱石の弟子?…可愛いがられていた、という関係なのだ。
(後から知った)

それが私自身の傾向なのだろう。
音楽でもそうだが、色々なものを味わっていくうちに
そういったことは自ずと明らかになるものだ。


さて「暗夜小路」、この主人公・小説家である謙作の性格、物の感じ方、考え方、出来事に対面した時の思考の動き…いちいち自分に似ていて苦笑する。

一体に、優れた文学を読むとき、
自分をその中に見い出すというが(実際そうだ)、
またそういうこととは違って、いちいち謙作のその感じが私に似ているので
却って客観的な心持で「フ〜ムフム、そうなんだよなあ」と読んでいるところである。






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オペラの森「タンホイザー」 - 2007年04月12日(木)

最近は更新がすっかり「たまに」って感じになってしまって
イカンイカンと思うのだが、
気分的にも時間的にもなかなか難しくなってしまって
如何ともし難い。(←シャレではない)


今日、あるサイトを見ていて、
先日行った「東京オペラの森」のワーグナー「タンホイザー」(小澤征爾さんの指揮)のことを書くのをすっかり忘れていたことに気づいた。
(忘れていたから、書かなかったから何だ?と言われそうですが)


新聞批評も出たし、たくさんのブログでも紹介されているから、
好きな人、興味ある人には「いまさら・・・」と言われそうだが、
演出(ロバート・カーセン)が例によって、今はこういうものでないといけないんだ、
と言わんばかりの、物語の設定を無理やり変えてしまう思い切った斬新な舞台だ。
一歩まちがえれば、斬新どころか陳腐になりそうな上演だったことを日記として残しておきたかったのだ。

今回は、中世ドイツの詩人であるタンホイザーたちが画家という設定に変えられ、
「肉欲と精神的なものの相克」「女性による救済」という物語が
卑猥?ポルノ?女性の裸を描く画家がついには芸術家として認められる、
といった、とってもわかりやすい絵解き話に置き換えられていた。
(↑私はものすごく簡略に書いていますので、詳しくはこれから出る音楽雑誌などで読んで下さい)


こういう、よく最近では「読み替え」と言われる、
作品の中に流れる、潜むテーマを思い切って設定を変えたりすることで視覚的に示していく、
という演出は、やりすぎて、時としてわざとらしくてうざったく、閉口することがあったり、
時としてすごく新鮮でハッとさせられることがあったり、
結局はその演出家の才能や力量で結果が大きく違うものなのだけど、
今回のカーセンの舞台は・・・まあよく出来ていた部類でしょうね。
これだけ設定を変えているのに、首尾一貫して世界を新たに成り立たせてしまうのは、やっぱり感心しないではいられない。

上手い「例え話」にしちゃったもんだな、と思う。

正直始まった時は「またこんなのか。」と思ったけど
彼の構想を理解するとっかかりを見出せば、
あとは結構自然について行けて、終ってみれば面白かった!見事につじつまがあって解決した!めでたし!
という具合だった。
(ごめんなさい。見てない方にはわかんないですよね。)

「新・タンホイザー」という別の作品を観たとでもいえばいいのかな、この感覚。


でも、このオペラ、こんなに単純明快にわかったようなつもりになっていいのか?
ということと、
例えば「巡礼の合唱」のメロディーなんかが序曲をはじめ、随所で流れる中、
やっぱりこの中世風・教会風の旋法にこの現代的な舞台・衣装は合わないだろ、無理があるだろ、
と抵抗があったりもして、結構複雑な思いだった。

それと全体の構想が思い切ってる割には、各キャラクターの造型は意外にありふれいていて、新味に乏しいのでは・・・。


面白かった、といえば小澤さんの指揮するオーケストラ。

小澤さんを聴くのは、まさしく前回の「オペラの森」での「エレクトラ」だったから
丸2年ぶりだ。

元気になって良かった(^^)

病気をしてそうしようと思ったのか、
ウィーンのオペラで何かをつかんだのか、定かでないけど
「あれっ?」と思うくらい随分動かない指揮ぶりになっていた。

そして彼の指揮で引き出される音が以前にも増してしなやかで、
ふくらみのある、ふくよかに歌うものになっていたのが嬉しかった。
オペラによりふさわしいものになったというか。


「面白かった」というのは、そういうふくらみのある響きを出しているにもかかわらず、
小澤さんが指揮すると、普段聴かれるワーグナーとは「異質」といってもいいくらい
透明で近代的な音がするということ。

この透明さは前回のR.シュトラウス「エレクトラ」を瞬時に思い起こさせ、
人によっては「こんなのはワーグナーじゃない」と言われそうだけど
ここまで見事に小澤色(私はこれこそが日本独自のオーケストラ・サウンドと呼びたい)
で成り立っているオケの音を聴いて感嘆しきり。

素晴らしく厚みがあるし、ワーグナーの音楽特有の腹の底から響き渡る重低音から、妖しくキラキラと輝く高音まで、これは超一級の指揮者と超一級のオーケストラじゃないと出せない立体的な見事な音にはマチガイないのだが、
普段聴くワーグナーとは全く「色」が違う。

透明無色なワーグナー。


私には大いに新鮮な魅力があったけど。
そして興味深く思った。

よく小澤さんが言う「ボクは実験をしてるんですよ」という答えのひとつが
これなんじゃないか、と思ったりもする。



ところで歌手はいいのと悪いのと色々。
タンホイザーのステファン・グールド(私はカナダ人なのだからスティーヴンと読むんじゃないかと思うが)はヘルデン・テノールらしい素晴らしい声。
ここ数年、かつてルネ・コロ以外まったくワーグナーを歌うテノールがいなくなってしまった頃を考えると、クリスティアン・フランツだとかロバート・ギャンビル、ロバート・ディーン・スミスとか、安心して聴けるヘルデン・テナーが何人も出てきた最近は嬉しい限り。

エリーザベトのムラータ・フドレイも、かつてのシェリル・ステューダーを思わせる強く透明でよくのびる声。役にふさわしい凛とした清純さ。
ヴェーヌスのミシェル・デ・ヤングは知名度の割には「こんなもんかな」という感じ。
これだけ名のある歌手が冒頭からいきなり裸で出てきたのには驚いたし、その体に似合った妖艶な声だな、とは思ったけど。

あとはまあまあ。
もっともヘルマンを歌ったバスの地声のようなノド声のような響きがイヤだった。


全く感心できず、残念だったのは合唱。

この人たちにはハーモニーを作ろうという意識がないのか。
各人がなりたてるだけで、ハーモニーからおのずと生まれる音楽のふくらみがまったくなくて、やかましくザラザラ耳障りだけだった。







...

祝!A.シフ、久々の来日 - 2007年04月05日(木)



先日、●●音楽事務所から(←別に隠すことないんだけど)
家に送ってきたDMに嬉しいニュースが。


2008年3月、ピアニストのアンドラーシュ・シフ来日。


いや、メチャクチャ嬉しい。
大ピアニスト、9年ぶりの来日である。


時々日記に書いているように、
私が現存のピアニスト中、最も好きで尊敬しているのが
ポリーニとシフ。


ポリーニは2年に1度くらいの間隔で来日しているが、
シフは9年ぶりだ。


なんといっても1997年、東京オペラシティのオープニング・シリーズで
彼がやったシューベルトのピアノ・ソナタ全曲演奏会+ペーター・シュライヤーとの3大歌曲集での体験が忘れられない。
(私は計9回のうち、4回行った。)

「シューベルトはどんな音楽を書いた男だったか」
ということを絶対的な世界をもって私に教えてくれたシリーズだった。
そこにあたかも演奏家が介在しないような、
シューベルトの音楽そのものだけがホールに存在し、
それが私たちに向かって語りかけてくる、といった体験だった。
(この言い方は海外でもシフの論評によく出てくる)


モーツァルトとはまた違ったかたちで、
喜びも楽しいことも、すべてはかなく哀しみの色を帯びてしまう、
まさにシューベルト自身が言った
「僕は楽しい音楽など一度も聴いたことがない」
という言葉がそのままあてはまるような音楽。

彼の好きなベーゼンドルファー・ピアノの甘く歌うようなトーンが
シフの演奏をますますそうしたものにしていた。


その2年後にやはり東京オペラシティで聴いた、
前半スカルラッティのソナタを13曲、
後半ハイドンとシューマンのソナタというリサイタルも忘れられない。

まるで宝石箱から様々な色や形をした光り輝くダイヤやらルビーやらサファイアを取り出して見せてくれるようなスカルラッティと、
いつもの機知に、より率直さが勝ったハイドン、
激烈だけど響きの均衡を決して失わない、情念が怪しく底光るような瞬間が明滅するシューマン。

全く違った3者の対比と、一貫した流れの両立。


シフの類稀な変幻自在なタッチが、そういう演奏を可能にする。
鍵盤芸術の粋をここに見た気がする。

そしてシフを他のピアニストと区別する「静けさ」のオーラ。

鳴っている音よりも、あたりに漂う静けさの方が雄弁に語る音楽。



何で9年も来なかったんだろう?

もっとも毎年リリースされるCDでは、ベートーヴェンのソナタの目の覚めるような素晴らしい演奏を堪能していたけど。


でもやっぱり実演に接したかったから
ともあれ、めでたい。





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