-A VAGRANT LIFE IN NEW YORK-
飯沼省



 大晦日

早いです。今年もあと数時間で終わりです。

日本との時差は13時間なので、一足先に新年を迎えている友人達からのe-MAIL年賀状が続々と届く。

日本の大晦日番組で注目していたのが「猪木祭り」である。紅白の裏で、現役を引退して久しい猪木がどれだけ視聴者を惹きつけるのか。「祭り」とは書いてあるけど、これはk-1との全面対抗戦。はっきりいって好き嫌いが完璧に出てくると思うが、見ない人は全く興味がない分野だからね。それはしょうがないけど。

その猪木軍の総大将、つまりメインイベンターに指名されたのが安田忠夫だ。大相撲からプロレス入りし、借金が元でそのプロレス界からも抹殺されかけた男を救ったのが猪木だった。この2年間猪木の下で安田は変わった。

38歳という高年齢からの一からのやりなおし。しかし、メインイベントを務められる程の実績はまだない。当初の予定ではメインイベントは藤田か小川という、言わばスターのはずだった。それが故障や出場辞退となり、苦肉の策として猪木が安田をメインに抜擢した。

発表の際、猪木はこう言っている。「あの馬鹿がどんな戦いを見せてくれるのか興味がある。」とし、「勝った負けたは小さなことよ。己の中にある恐怖に打ち勝ち、勝負の場に出たお前は勝利者だ。」という自作の詩をエールとして贈っているのだ。

生涯で初めてのメインイベント。しかも紅白に対抗して猪木が全精力を注いで開催するに至った大試合だ。下馬評では99対1で、相手のバンナが圧倒的有利。万が一でも引き分けが精一杯だと俺も思った。

世間的には「”やる”と言っただけでも安田株は上がった。それだけでも賞賛に値する。」と。誰もが勝利までは期待しなかったのではないだろうか?

しかし、安田は勝ったのだ!信じられない事が起こった。恐らく一番驚いてるのは本人だろう。借金問題から、別居をしている愛娘を会場に呼び、勝利の姿を見せることが出来るとは本人も思わなかっただろうね。

猪木はこれを「逆境の美学」といい、まさに身をもって我々に教えてくれた男だ。それを出来損ないの弟子である安田が現代に蘇らせてくれた。辛い、どん底で追い込まれた時にこそチャンスがある。それが辛ければ辛いほど逆境のバネは強くなるものだと。勝負の世界でなくとも、この論理は成立する。

年末の大晦日。紅白を見ながら平和に過ごすのが一般的かもしれない。その裏で猪木が仕掛けた壮大なドラマは、本人の予想を越えるドラマを生み出した。場を与えられた安田、場を設けた猪木。ニクイ事をしてくれたもんだ。

この年末に戦いを通して気分を鼓舞されるとは思ってもみなかった。これを自分自身に置き換え2002年に望みたい気分。



2001年12月31日(月)



 紙に書くということ

クリスマスが終わり、26日のBOXINGセール(年に一度のバーゲン・デー)が過ぎると一気に街は普段に戻る。日本という国は正月を一年の起源とするから、クリスマスから元旦三箇日までは休日という感覚があると思うが、こちらではあまり正月は「行事」って感じじゃない。そりゃ、カウントダウンとか除夜の鐘ならぬ花火が上がって”Happy New Year!"というのはあるけれど。それでも1月2日から通常通りの業務が始まる。

日本を離れて何年経ったて、この正月に対する感覚だけはカナダ・ナイズされないね。大晦日には早めに風呂に入って、実家で食事をしたり、年越しそばを食ったり、午前2時ころ初詣に出かけたりするのが俺にとっての正月のイメージだからさ。まぁ、日本に居たら居たでメンどくせ〜な〜。と思うんだけど。

さて、話は変わってタイトルに関係する話。サトくんの薦めでこれからやろうとしていることを紙に書き、壁に貼り付けるというのをやっている。最初はプロジェクトに関するものだけを書き出していたんだけど、最近は一日の行動とか、あらゆることにまで及んで部屋の壁にはずらっと張り紙がされている。

視覚的効果で頭で思い返すよりもはるかに効率がいい。それだけではなく、一度自分の手で書いたことによってイメージがはっきり掴めるという気がする。近年はパソコンのお陰であらゆる書類はキーボードを叩いて入力してきたが、これが自分の頭に取り込まれているか?と言われれば違う気がする。やっぱり単にパソコンのハードディスクに入力してるに過ぎないよな。

よくさ、夢があるなら出来るだけ沢山の人にそれを言いなさいって言うでしょ。それを言うことによって自意識の中で夢が現実に向かって歩き出すのを確認するというけど、これに近いものがある。

所詮頭の中にある状態というのは存在しないのも同然で、脳と体の同期が成立しにくいと思うんだよね。もちろん脳から体に指示が降りるわけだけど、ここに紙に書いたような目標があって、それを目で見ることによって脳+視覚のダブル効果になるわけだ。更に手で書いたことを考えれば脳+視覚+運動の3っつの効果がある。

俺は元来なまけものだから、頭の中で「あ〜、今日は英語の勉強2時間しようかなぁ」なんて思っても絶対に出来ない人間。ほんと頭の中だけだからさ、そう思ってるの。だから体はいつまでたってもダルイし、脳からの指令だけでは動かないことがほとんど。

それを改めるには、この書いて貼るってことが一番のような気がする。頭の中で構築した無理やりな方法論があったとしても、一個ずつ書き出して筋道を整理していくと、意外にも「あ、できるかも!?」と思うようになってくる。

あとはそれをどこまで実行し、信じる事が出来るかなんだよね。思い込みは得意なほうだから(笑)出来ない訳がない!と、その紙を見ながら暗示をかける毎日です。

2001年12月27日(木)



 クリエイトする

今日はクリスマス。全く関係ねぇです、とばかりに徹夜明けです。

イベント関係、他を全てストップして久々に絵を描きまくった。2月に予定しているバレンタイン・ショウへ向けてだ。急遽、年内中に書き上げなくてはいけなくなったので。

俺は絵描きだけれども、何かを創る立場から言うと「物をつくる」=「クリエイト」するとも言えなくも無い。このクリエイトって言葉は文字通り言うなら「創造」という意味で、神様などか何も無いところから突然ものを創り出すことを指すのだが、近年では「クリエーター」という職業も耳にする通り、非常に幅広く使われている単語だ。

この情報社会において、真の意味でクリエイトすることは不可能で、どっかから借りてきたアイデアを上手く作り変えたり、無意識に影響を受けているにもかかわらずそれに気付かずに放出してる場合がほとんどだ。

あらゆる意味という点では「言葉」だって世代によって次々に新しい言葉が作られ、普遍化していくという点ではクリエイトだ。お母さんが新しい料理のレパートリーを思いつく事だってクリエイトになる。という事は誰だってクリエーターだということにもなるね。

何が言いたいかっていうと、クリエーターなんて職業は成り立たないってこと。そもそもそんな肩書きを頂戴してるアホがいるから間違っているんだけどさ。

絵の世界なんて小さいものだから、常に何かを焼き直したり、理屈を変換させることで成り立っているもの。絵を描いててどーしようもないジレンマに陥ることも多い。これは決定的に新しいものなんて生み出せるわけがない、と思うことに起伏する。

では、何をどうすれば自己の表現として世に送り出せるのか?要は「絵を描く」っていう作業は2の次で、ほとんどの時間は頭の中で過ごすことになる。それがイメージとなって固まったときに初めて筆が持てるんだ。
そして現代的に”クリエイト”された作品(とでも呼ぼうか)は作者の責任という名のサインをすることで世に出される。ここが一般の人がおこなうクリエイト作業と違うところだ。普通の人が新しい造語をつくったからといって、それを商標登録する必要はないが、我々の場合それに付随して責任というものが付いてくる。

例えば、世間を騒がすような問題を提起した作品の場合、その制作意図や注釈を要求される。それが仮にも大して意図をもった作品でなくてもだ。だからクリエイトした作品を造語と同じように垂れ流しするということは許されない。

過去に、あるアーティストが個展で実弾を展示し、それを観客一人一人に持ち帰ってもらうということをやった。結果、その展示を許可したギャラリーのオーナーは銃刀法違反で逮捕されてしまうのだが、ここで重要なのは責任の所在ではなく、芸術の存在意義そのものだ。

オノ・ヨーコはこれを「芸術とは何かを新しく生み出すものではなく、今あるものの価値観を変えるためのもの」と言い切った。分かりやすく言えば、今ここにいると思っているが、本当はあそこにいるのかもしれない。とか、天井だと思っていたが、実は床だった。という風に、今までの価値観を変える切っ掛けとなるものが芸術の役目だと。

これを踏まえて前出の事件をみると、逮捕した警察側はあくまでも「実弾」を使った。という極現実的な見解によって権力を使っていることが分かる。これは一般の方からみても当然の逮捕だと思うだろうが、芸術の存在意義からみれば制限ということになる。

「価値観を変えること」が芸術に託されてるとしたら、その表現手段を現代の社会によってコントロールされているとも言える。社会は時代と共に移ろい、よって法律や倫理も変わってくる。それに対抗するのが芸術か?そんな流行歌のようなものではない。世の中の都合で隠されている本質を暴く。というか、問題として提起していくのが芸術の一端である。それを真面目にやったら「芸」にはならなくて、多少のユーモアと美によって親しみやすく提示するから人々が共感するんだ。

本質を暴く。なんて多少大げさな事を書いたが、常識だと思ってる物を、全く反対からも見る事ができる?出来たら面白いよ。というくらいに取ってもらって構わない。そういう意味でジョン・レノンの「Imagine」を聞くと面白い。あれってすごくアートな歌なんだって思うから。

ってことで、取り止めが無くなってきたのでこの辺で・・・

2001年12月25日(火)



 逆提案を受ける

今日のトロントは結構寒かった。しかも雨。新作用の材料を仕入れにQueenへ出た。何だか毎日このギャラリーディストリクトへ通ってる。

えっと、昨日は日記を付けなかったんだけど、かなりBIGな話が舞い込んできた。諸事情があるんで名前は出せないけど、日本ではカリスマ的な人気を誇り、去年(?)惜しくも解散してしまったBandのメンバーだ。

当初、俺が出品を依頼していたのはボーカル担当の人物だったのだが、ギター担当の人物が非常に興味があると名乗り出てくれた。彼のWeb Siteを覗くと、平和問題に積極的に取り組み、収益を寄付する活動をおこなっていた。しかも、ほぼ俺が”LET'S HAVE A DREAM !"で目指す主旨と同様の運動だったのだ。

その彼らとは、俺が日本で音楽関係をやっていたころから面識はあったのだが、あっという間に音楽シーンのトップへ登りつめてしまってからは全く交流がなかった。また、こんな場面で再会できるとも思ってなかったので、運命は不思議だなと思った。

マネージャー曰く、彼の方が適任では?と問い掛けられたので、こちらとしてもNOという理由はない。しかも、そのWeb Siteを通して我々のキャンペーンT-シャツを販売+イベントの模様をネット中継するという提案を逆に受けたのだ。

うーん、事が大きいだけに慎重に対応していきたいと思う。とりあえずこれからまた作業に入りますんで、短いですけどこの辺で。クリスマスは全く無視です!

2001年12月23日(日)



 Gallery District

朝一番で銀行に行く用事があり、ダウンタウンまで行った。帰りは家まで歩くんだけど、ちょうどQueen Stにも用事があったんでQueenのギャラリーディストリクトと呼ばれる辺りを通った。

クリスマス・セール(?)をやっているギャラリーが多かったけど、どこもガラガラ。数軒入ってギャラリスト達と話してみたけど、みんな厳しいと言っていた。まぁテロの影響だけじゃないけど、消費自体が落ち込んでいる証拠だろう。

以前ポートフォリオを見てもらった某ギャラリーでは、どの作品も30ドル〜200ドルの値段が付けられててビックリした。安すぎるってことで。そんで受付のMさんと話したら、それでも売れないって。あんま安すぎてもねぇ・・・やっぱ値段と作品が釣り合ってないと客も手が伸びないと思うんだけど。

彼女曰く、俺の作品をこのセールに出さなくて良かったんじゃない?って。そんな値段で売れたって嬉しくないでしょ?と。ごもっとも。出さなくてよかった。

ギャラリーを出たところで、別のギャラリーから出てきたPatに偶然会った。彼女は雑誌Artfocusの編集長で、去年の同雑誌主催のショウではアワードをもらったんだ。その後も偶然Casa Cafeで会ったり、彼女自身の個展にも顔を出したりして親交がある。

せっかくだし、ってことで近くのスタバでお茶した。とりあえず、オノ・ヨーコの一件を話して協力を受けることになった。取材をはじめ、宣伝の部分でも力になってくれそう。でも、今年のArtfocusのショウに何故出てくれなかったの?としつこく言われた(笑)そうとう根に持つタイプ。別れ際に最新号をくれた。どうもありがとう。

気付いたらほとんどのギャラリーに入ってた。New Yorkから帰ったばかりの頃は、トロントのギャラリーはシケてるなぁ、と感じていたが、こうやって改めて立ち寄ってみると小粒ながらいいギャラリーもたくさんある。この町でアートをやってこれたことに喜びを感じたし、これからもっとトロントがアート界で重要な都市になってもらいたいという願いもある。

願わくば、俺が率先して盛り上げてゆければいいのだけれど・・・


2001年12月21日(金)



 Carry that weight

昨日は日記を付ける心境になれなかった。今日も同じ気分・・・

昼にヨーコさんのスタッフから電話があった。直々にカナダまで掛けてくるのはよっぽどの用件。内容は書けないけれども重要な話だった。いつもなら拙い英語でも一生懸命説得に当たるところだが、今日はそれが出来なかった・・・。

このイベントにとって今は凄く重要な時期。返答ひとつで開催不可能という事態もあり得る。そんな大事な時に、精神的に落ち込んでいる場合じゃないんだけど。とにかく電話では自分の意志を十分に伝えることが出来ず、一方的に言い負かされた格好になった。

電話を切ったあと、すぐに英文レターを書いてFAXで相手に送ったのだが、やっぱり直接話したときに残る印象は消えないと思う。こんなやつが主催するイベントなのか?って思っただろうな。

Junoに渡す原稿を昨日から作っているんだけど、それも一向に進まず。誰かのヘルプが欲しいと心底感じる。今まで気付かなかったけど、背中の荷物は結構重かったんだな、と他人事のように思えてしまった。

2001年12月20日(木)



 電話責め

今日は朝から電話ばかりだった。色んな用件の、色んな人たちからの電話。一つずつ電話を掛けている間にも、留守電が10件以上溜まっていく・・・

11時にOCSのP氏が家へ訪問してくるはずだったのだが、その時間すら忘れてしまい結局彼をロビーで待たせてしまった。彼と部屋で商談を始めても、ずっと電話が鳴っている。気を使ってくれて早めに商談をすませてくれた。

彼はナイスガイで、興味深く話を聞いてくれたし、Beatlesファンというのも手伝ってスポンサー契約を結ぶことができた。わざわざビジネス用のアカウントも開いてくれることになり、ほぼ予定通りの条件が結べた。

その後、また電話をかけまくる。ほとんどの用件が済んだのが午後2時。なのにまだ留守電が入っている。そうだ、13時に来客があるのを忘れていた!慌てて携帯電話にかけると、諦めて帰るところだった。また引き返してもらい、謝った。

そんなこんなで電話に振り回された一日だった。3時半にKくんから映画を誘われてたけど、ドタキャンも止むを得なかった。ちょっと気分転換したかったけど、無理だね・・・

どの電話も大事な用件ばかりだったから、ダイヤルを回している間に頭を180度切り替えなければまともな話は出来ない。それが本当に今日は難しかった。思わず電話機を投げつけてしまった・・・


2001年12月18日(火)



 ARTIK(T-シャツカンパニー)との交渉

今日のトロントは5℃。昨日までよりもちょっと暖かくて、雪が雨に変わった。

ちょっと寝坊したけどT-シャツ会社とのミーティングのためにダウンタウンまで行った。マネージャーのMr.Rは約束の時間に来たものの「30分待ってほしい」と言って出掛けてしまった。しょうがないんで近くでコーヒー飲んで時間をつぶす。

約一時間後にやっと話ができたんだけど、やっぱ厳しいね。最初は何とか完全無料でT-シャツを100枚作ってくれるように押したんだけど、制作原価の1/3は支払うことになりそう。そのかわりマージンは支払わないことを了承してもらった。
う〜ん、どうしよう。決断は保留にしてきた。この原価をカバーしてくれるスポンサーを他に確保しなきゃいけないし。

最終的には自腹ってのも有りだけど、今後の出費を考えるとここで自腹を切ったら後が続かないしね。あくまでも掛かる費用はしょうがない、それをどこのお金で支払うかがイベントのポイントになってくる。

国際交流基金の図書館へ行き、日本の雑誌をチェックする。結構日本のアート・シーンも面白くなってきてるなぁ。今まで日本になかったタイプのプロジェクトやショウが目に付いたのだが、奈良さんと村上さんの独壇場すぎる印象を受けた。やっぱ、日本は「それ一色」になってしまう国だからしょうがないんだけどね・・・
とりあえず出版社とライターを一通りメモして、来たるPress Releaseに向けて照準を絞る。

帰りにSpin Galleryに立ち寄り、Junoに書類を渡そうと思ったが彼もアトリエに缶詰で制作に入ってるそうで、共同オーナーのHと談笑。「ヨーコ・プロジェクトはどうだい?とんでもない大物にチャレンジしてるな!」と先制パンチ。そうだよ、あんた達の協力も必要なんだよ!と胸の奥で叫ぶチキン野郎のオレ。

家に帰るとヨーコさんのアシスタントC氏から留守電が残ってた。NYからわざわざ掛けてくるというのは急用かと思い、すぐにFAXを流すが既にClose。明日連絡を取ろう。

明日は午前中にOCSのA氏が家まで来てくれてのスポンサー交渉。これから細かい資料をつくります。

では、See you tomorrow!

2001年12月17日(月)



 These Days

久々の更新になります。これだけ長く期間が空いたのは初めてですね。心配してくれる人もいますが、大丈夫です!力強く生きてます!

ただ、物理的にパソコンに接することが出来なかったので、それもまた良い機会だったのかもしれないね。日記に付けない間にも、イベントへ向けて進展がたくさんありました。

まず、日本から参加してくれる著名人が数グループ決定したこと!まだ名前は発表できませんが、年齢問わず誰でも知ってる方々です。本当に嬉しい。っていうか俺みたいな無名のアーティストの言葉に耳を傾けてくれたことに感謝します。

毎日、祈るような思いでメールや手紙を出し続けてきて良かった。でも、一つの言葉の食い違いからダメになるものだから、それこそ一通一通慎重に書いてきました。それが良かったのか、ただの運なのかは分からないけどね。

そして、そのアーティスト達に、こちらから送らなきゃいけないパッケージがあって、通常の郵便で送ると送料だけでも莫大な金額になってしまう。だから宅配会社にスポンサーになってもらうことを思いついた。

そこで、先日行ったNYで協力してもらうことになったOCS社が生きてくる。トロントにも支店があって、ここに掛け合ってみる価値はありそうだ、という事で電話してみた。いきなりのアポなしTELだったので、暫くたらい回しされたが、セールスのMr.Aが話を聞いてくれた。
最初は煙たそうに聞いてたが、彼の方から「そちらの自宅へ行って、直接話を聞きたい」と言ってくれた!これは予想外の好感触。それとも俺の英語があまりにも意味不明だったのか?まぁいいや。火曜日の朝に自宅へ来てもらう事になった。

T-シャツ会社のMr.Rからは一向に返答が無かったので、こちらにも催促の電話を入れた。やっぱり向こうからは電話する気が無かった様子で、用件もほとんど伝わってなかった。でも、しつこく食い下がったので、渋々ながら面会をOKしてくれた!これは明日の朝一番の約束にしてもらった。早い方がいいから。

あと、個人的には以前One of a kind showをボランティアで手伝ってくれた田中くんが家に遊びにきた。久々の再会だったが、来月頭に日本に引き揚げるというのを知らされ、ちょっと寂しくなった。カナダに住む意味がないから、と言っていたが、彼はどこの国でも通用するスキルを持っているから、その意味では納得できる。この国に縛られる必要も無いんだからね。でも、寂しい。

こっちに来てから沢山の友人が出来たが、こういう別れも含めて日本へ帰る人を見送る時は辛い。なんだか取り残されていく錯覚に陥る時がある。
帰りたくて帰る人や、残りたくても帰らざるを得ない人それぞれだから、そんな感情を持つのはおかしいが、みんな「卒業」していくんだな、と思ってしまうのだ。
俺にもそういう日が来るのだろうか・・・


2001年12月16日(日)



 誕生日

12月10日をもちまして28歳の仲間入りです。ということは30代へ秒読み段階で、人生の流れの速さを実感してしまう。

本当、歳を追うごとに1年が短くなる気がする。特に去年と今年。振り返るのは嫌いだけど、せっかくだからちょっと振り返ってみようか。

トロントに住み始めたのが2年前の1999年。出発前の日本では渡加が決まってたので、ごく親しい方々を招いての結婚式を挙げた。司会は篠田恭子さんにやってもらったり、打ち上げでリッキーさんのRevolverと共演したり、Handysにも祝ってもらったな。

その後一ヶ月でトロントへ。本当に貧乏で、金なくて極寒のセントローレンス・マーケット前で路上で絵を売ったり、地下鉄の通路で絵を売って捕まりそうになったりした(笑)

ホステル時代に知り合ったキョーコちゃん(何故か俺の周りには゛キョーコ”さんが多い)にユキさんをはじめて紹介されたのもこの頃。そこからはユキさんと二人三脚で「Annex Patio Show」や「Humber Bay Art Biennale」に出展。ここから俺のトロントでのアート・キャリアがスタートした。

その出展がきっかけで、雑誌ArtfocusのPatから推薦がきた。11月の同雑誌主催エキシビションで初のアワードをもらった。年末にはアワード・ショウという形でスターバックス・コーヒーでの展示。それを見に来たCasa Cafeのオーナーから個展の依頼があったり、数珠つなぎにキャリアが転がっていった。オノ・ヨーコさんに手紙を出し始めたのもこの時期。

同じ頃、One of a kindのディレクターからも声が掛かり出展の打診があったが、資金面から一度は辞退。しかし、潮見台応援団のおかげで出展することが出来た。この時は嫁さんも一時帰国してて、大変な時期だった。作品制作のために何日も寝なかったり、当然ご飯とかも三の次、四の次だったからボロボロになった。
このHPを立ち上げたのもこの時。ショウに間に合わせる為に必死に作ったなぁ。

4月には初のソロをCasa Cafeでやった。8点中5点が売れて大成功だった。何よりもここのオーナー家族との交流が生まれてよかった。レイチェルとアレックス夫妻に、アイザックとジョンという2人の息子。よくタダ飯くわせてくれたし(笑)
その後、ユキさんを紹介して彼のオープニングで演奏もした。

この時の経験から、ギャラリーでの展示よりもカフェやレストランでのショウに拘りが生まれ、「My Favorite Oasis in Toronto」というイベントに発展。その第一弾としてBrown Stoneでの展示が決まった。

このBrown Stoneのオーナーも非常に可愛がってくれた。初めて店に行った時、ただ話を聞いてもらうだけのつもりが「今からこの絵を持ってきてくれ!」と言われ、タクシーで取りに戻って、その日からショウがスタートという驚く展開になった。一ヶ月の展示のあと、「君の絵をずっと飾っておきたい」と作品常設を依頼された。今でもここには5〜6点の作品を展示してる。

次の会場、Peter Panが9月に決まった時は嬉しかった。ここは立地も良く、客層も品が良いので難しいと思っていた。案の定ここは専属のギャラリストが作品を提供していたので俺みたいな飛び込みは受け付けていなかった。訪問したときはオーナー不在で帰ろうとしたら、店員の子が俺の作品をどこかで見たことあると言ってきた。それでその子が仲介役になってオーナーに作品を見せる機会を作ってもらったんだ。やっぱ、人との縁はどこにあるか分かんないね。

10月に入ってオノ・ヨーコさんから返事がきた。俺の発案したプロジェクトに許可が下りた!そこからは他のものは全部後回しにしてこれだけに力を注いだ。今でもそう。11月末にはNYへ出向き、ヨーコさんの自宅であるダコタへも行った。新聞社や坂本龍一さんとのコンタクトも取れた。

そして今、誕生日を迎え数週間後には2002年が迫ってきた。まだまだ頑張らなきゃいけないな。それを後押しするかのように今日、アントニオ猪木さんの事務所からあった!!

順調そうに見えるトロントでの活動も裏を返せば、それだけ私生活も犠牲にしてきたと言うこと。その代償はあまりにも大きいが、もう進んで行くしかないんだね。もとの世界へ戻る橋が掛けてあったはずなのに、ふと振り返るとその橋が取り外されていた。それが現実だった。

俺が選んだ、進んで行こうとしてる道は間違いなのか自問自答する夜もある。そういう時思い浮かぶのは猪木の「道」という詩。これがいつも心の支えだった。

この道をゆけば どうなるものか
危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし
踏み出せば その一足が道となる
迷わずゆけよ ゆけばわかるさ
       By 猪木




2001年12月10日(月)



 Lennon Tribute Concert

夕方、嫁さんとチャイニーズを食ってからCollege x Spadinaにあるライブハウスへ行って来た。そう、昨日はジョンの命日ってことで毎年恒例の「John Lennon Tribute Concert」が行われた。

去年まではEl Mocamboというハコで開催されてたのだが、今年になってEl Moが潰れ(トロントで、これ結構大きな話題になっていた。)Silver DollarというBlues専門クラブに場所を移しての開催。

店に付いたのは20時過ぎ。オーガナイザーのオヤジが「El Mo!」という手書きのT-shirtsを着て酔っ払っていた。ちょっと笑えた。きっとEl Moスピリットを受け継いでいるんだな、と。

出演バンド・トップは3人トリオの若者。”I'm Losing You"と"Yer Blues"を独自のアレンジで演奏。なかなか好感がもてた。2組目は最悪。"Lucy in the sky〜”のイントロで大失敗。早く終われって会場中の誰もが思ったに違いない。その後まぁまぁなバンドが続くがイマイチぱっとしない。

そして遂に当たりのバンドが登場!これもトリオでギターボーカルが女性。まずジョージの"All Those Years〜”をドラムの汗かき男が熱唱!この時点でムムッと来た。続いて”Eight days a week""Don't let me down"と続き拍手喝采。極めつけはジョンの"Starting Over"またもドラムの汗かき君の熱唱!彼はメインパートを歌いながら、同時に自分でコーラス・パートも歌うという離れ業をやってのけ、俺の本日ランキング1位に!いや〜、ルックス悪いけどファンになった。

その後"I am the walrus"や"A day in the life"、"Tomorrow never knows"といった難易度Aランクの曲をやるバンドもいたが、あくまでもチャレンジの域から抜けないバンドが多かった。

後半、例の「El Mo」T-シャツのオヤジが泥酔状態で飛び入り"Revolution"でステージを破壊する勢いで熱唱。これは熱かった。場内にテンガロン・ハットを被った7人組が居るのに気づいていたのだが、彼らも出演者だった。こいつらがまた最高!

テキサス辺りの荒くれBARで鍛え上げられたパフォーマンスは伊達じゃない。カントリーバージョンの"And your bird can sing"一発で会場の空気を持っていった。途中、バスドラがどんどん前へ動いてしまって演奏できる状態じゃなくなった時も平然とソロ回しで乗り切り、観客のほとんどが気付かないんだもん。凄い!

ということで、深夜2時まで盛り上がりました。本日の一位は”汗かきドラム゛君!二位は”テキサス荒くれバンド”特別賞で「El Mo」T-シャツオヤジで決定!

来年は出演者として頑張ろう!


2001年12月09日(日)



 John Lennon

今日12月8日はジョン・レノンの命日。

先日訪れたダコタ・ハウスの入り口で凶弾に倒れたのだ。21年経った今でも世界中からファンが集まり、セントラル・パークにある「ストロベリーフィールズ」で追悼を行う。先月末のジョージの訃報も重なって、よりしめやかに行われたのだろう。

今現在、自分自身の個人的な問題があったりして「追悼」は出来なかった。毎年ビデオやCDを聞きながら「Oh〜John!」と悲しみに暮れるのだけど・・・
そのかわり、明日トロントで行われる「ジョン・レノン・トリビュート・コンサート」に行きます。

去年までは、El Mocamboというクラブで開催されてたんだけど、今年潰れちゃってね。別な場所で開催なんです。まぁ、トロントのミュージシャンが次から次へカバーを演奏するんだけど、去年は質悪かったんであんまり期待してない。

その翌日の10日は俺の誕生日!あ、Soul Beautyさんとも同じ日だった!結構いるんだよね、同じ誕生日。早く30代になりたい俺としては嬉しい日だ。

今日はトロントめちゃくちゃ寒かった。午前中に家を出てサトくん家へ。ユキさんともそこで落ち合うことになってて、頼んでいた書類を受け取った。そしたら太っ腹の料理人サトくんは、俺らの為にパスタを作ってくれた!美味かった。

しばらく雑談プラスミーティングをしてユキさんは帰った。その後は”ビジネスマン”サトくんと相談事。というより人生論を熱く語って終了。ダウンタウンまで戻ってきた。イベントの心配事もあるし落ち着かないので早めに帰りました。

なんかさ、色々と重なる時は重なるよね。今俺はいくつ重なってるんだろう?すべてが現在進行形のものばかり・・・。気分はLet it be〜って感じかな。

2001年12月08日(土)



 スポンサー廻り

いや〜、ここ2、3日HPにアクセス不能になってたんで戸惑った方もいたでしょう。ごめんなさい!実はwww.tomolennon.comのドメイン・ネームって今までレンタルだったんですよ。それが期限切れでアクセス不能になってたんです。

これを機に、正式にドメインを所得したのでその開設作業等で時間が掛かってしまいました。これからはトップに変なバナーなど無く運営していけます。それが何より嬉しい。

NYの滞在記のアップもまだ終わってないですが、着々とイベントへ向けて進行してます。今日はスポンサーを募りにダウンタウンへ出かけました。

まず「ARTIK」というT-シャツ屋さん。ここはオーダーメイドでT-シャツを作ってるんだけど、イベントのスポンサーとして無償でキャンペーンT-シャツを制作してくれるように頼んだ。例の如くアポなし。マネージャーは不在だったので、とりあえず捲くし立てるようにイベントの概要を説明。あとはヨイショで寄り切った。
後日マネージャーとのミーティングを約束してもらった。

最初は「そういうのは難しい。無理なんじゃないか?」と言ってたカート・コバーン似のニイちゃんも、最後には「頑張ってくれ」と自分のE-mailアドレスを渡してきた。俺はそっちの気はないんだけど・・・

続いてトロントで唯一のビートルズ・ショップである「BEATLEMANIA」へ突入。以前からこまめに顔を出してたので、会うなりオーナーのPeterが「Hi, How have you been, tomo?」と聞いてきたので非常にスムーズに話が出来た。Peterはかなりエキサイトして、「何かの形で絶対協力させてもらう!」と言ってくれた!かなり手応えがあるので、後日改めて時間を割いてもらうことにした。確か以前は「俺はあまりヨーコのことは好きじゃない・・・」なんて言っていたはずだけど・・・

その後「Pages Book Store」へ。ここはトロントで唯一と言っていいくらいアート系の書籍が充実してる本屋。何冊かヨーコさん関係の本を買ったのもここ。アポなしだったので、ちょっと待たされたけど良く話を聞いてくれた。やはりマネージャーが不在だったので書類を手渡してくれるように頼んだ。

一介の店員でも何らかの役割があると思い、マネージャーに話すつもりで説得してみた。やっぱりどんな小さな部分からでも信頼関係を築くのは大切。どこで世話になるか分かんないしね。

明日もスポンサー廻りしたいとこだけど、手持ちの資料が切れた。ユキさんに追加で印刷してもらう必要があるので、とりあえず電話だけでアポを取り付けようと思う。

あとは、先週スポンサーをお願いしに行った「Loomis And Toles」という画材屋に電話して、思案結果を聞いた。すると、そこのマネージャーJohnが気を利かせてくれて、本部のあるモントリオールに書類を転送してくれていたのだ。数日中にこの本部から連絡があるはずだ、と言われた。
何とかなればいいなぁ。

2001年12月06日(木)



 張り紙の効果

家財道具をちょっと処分しようと思ってビラを作ってみた。それを日本食品店とか日本の本屋に設置されている掲示板に張り出してきたんだけど、速攻反響があって驚いた。

まず、トロントにある老舗の日本食品店「S」へ。店長さんに「ビラ貼らしてください。」というと、「マイクロウェーブある?」って聞かれた。「ありますよ」と答えると「あと、この炊飯器も欲しい」って即決された。貼る前に決められて嬉しいんだけど、拍子抜けした。

次に日系の本屋へ。ここでも店員に「貼っていいですか?」と聞くと、「食器とかありますか?」と逆に質問された。またも即決!こういう所の店員ってやっぱ得かも。良いものが市場に出る前に抑える商人のように思えてきた。まぁ、こっちは誰が買っても良いのだから早い方がいいし。

夜、家に帰ると早速「S」の店長から電話。今から取りに来るとのこと。家族3人で乗り込んで来たのだが、アレもコレもで結構買ってもらった。世間話をしてて思ったのだが、伊達に海外で事業を起こしてるわけじゃないね。彼らのバイタリティーとか、今回の張り紙みたいなものでも速攻喰らいついてくるし、チャンスを逃さないガメツさとか。

悪い意味じゃなく、見習わなければいけないね。どうしても日本人気質でカッコつけてしまう所ってあるじゃない?そんなの絶対損だよね。俺もガメツくいこう。

他にも電話が2件くらいあった。貼ってから数時間でこの効果。原始的だけどもかなり有効な手段だと実感しました。


2001年12月03日(月)



 Forever George

11月29日午後1時30分(日本時間30日午前6時30分)元ビートルズのジョージ・ハリスンが他界しました。

Beatlesは俺にとって宗教であると言っても過言ではない。楽曲、歌詞、軌跡、個人のキャラクター。どれを取ってもそれ以上の存在は有り得ない。

ジョン・レノンがこの世を去ったのは1980年12月8日。当時俺はまだ7歳で、記憶の片隅にも当時の想い出はないから、ジョンの場合はあくまでも”後追い”でしか悲しみを経験していない。今リアルタイムで、そのメンバーの1人がまたこの世を去ったという事実は筆舌に尽くしがたい。

近年のジョージに降りかかる災難は、報道されているだけでも「肺の撤去」「喉頭癌」「家に侵入した強盗に胸を刺される」等、明るい話題は殆ど無かった。そして俺がNY入りする数日前までジョージはNY市内の病院にて最後の望みを賭けた放射線治療を受けていたのだ。

新聞ではその病室にポールとリンゴが駆けつけ、ジョージの余命一週間という宣告に号泣したという記事が報道された。心の中では「こういった報道はしょっちゅうあるし、今回もガセネタだろう」とタカをくくっていたのだが・・・

ジョージのBeatles時代の傑作としては、広く「Something」や「While my guitar gently weeps」だとされるかもしれないが、俺のフェイバリットは「If I needed someone」と「Savoy Truffle」である。

前者はアルバム「Rubber Soul」に収録。イントロの清々しいコード・ワークは何度聴いてもワクワクしてしまうし、ジョンとポールが裏方にまわってジョージを盛り上げるコーラスも素晴らしい。アレンジでの効果はもとより、うん、何と言っても楽曲自体が最高だ。

後者の「Savoy〜」は「White Album」D面に収録。馬鹿馬鹿しい歌詞(チョコレートの包装紙に書かれている語句をそのまま羅列)に反して、全Beatles楽曲中もっとも”黒い”ホーン・セクションが登場。後のソロ活動を思わせる味わいのある曲だ。Beatlesらしくないという言葉は存在しないかもしれないが、ジョージの楽曲をアルバム毎に取り上げていくと彼の持ち味はそこにあったと言えるかもしれない。

偉大なLennon/McCartneyコンビの影に悩み、自己の個性の確立に必死だったBeatles時代のジョージ。そんな本人の想いとは裏腹に、Lennon/McCaコンビにはな
い新鮮な風を送り込んでいたのは他ならぬジョージの楽曲であることは明白だ。

ここで延々とジョージについて語ることも悪くはないが、今は天国の彼に祈りたいのと、ジョンが迎えに来ただろうか、と想像を巡らせることにしよう。


2001年12月01日(土)
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