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2007年05月03日(木) 愛の反対語は『無関心』です

 「愛の反対語は『無関心』です」
 これはマザー・テレサの至言ですが、骨髄バンクの活動も献血への協力呼びかけも、障がい者スポーツへの支援依頼も、支援費制度の改正嘆願も、とにかく日々の営みの中でこの言葉の持つ力を感じます。

 無
 無かったことにしてしまえば
 関
 関わらなければ
 心
 心をそこに置かなければ
 そんな思いを元に無知(知らないようにバリアを張っていれば)であることは愛の対極にいるということ。
 自分も含め、いまの日本にはこの無関心と無知が蔓延しているように感じるのは俺だけか。

 その考えには賛成である。協力する。
 その考えには反対である。協力しない。
 全ての事象現象に関心を持ち、心を砕き、行動を起こすことは物理的に無理としても、小さくても心の引っ掛かりを持つことは大切にしなければと思う。
 賛成なのか?反対なのか?答えは出なくても引っ掛かりを持つこと。流れが速い世の中にあって、瞬時に判断しなければならない場面も多くなってきているけれども、大事な問題なら無理に結論を出す必要もなく、引っ掛かりだけ持っていられれば自分の中に種は蒔かれる。

 骨髄バンクも献血も、皆さんの愛におすがりするしかないことだと俺は思っている。
 すがるというのは何とも情けないとは思わない。
 賛成し協力してくれることだけが愛ではない。反対し協力を拒まれることも愛の形。
 拒まれるのはきつく辛いことだけれども、そこには関心を向けてもらえた反応がある。
 無関心ではない、無関心ではいられない世界は待っていても訪れない。具体的な動きは具体的な結果につながると信じる。まずは関心を持ってもらうこと。スタートはそこ。

 ところで、愛の反対は憎しみではない。
 憎しみもまた愛の範疇なのだから。
 憎しみを元に戦争が起こっているけれども、愛と愛が殺しあう戦争はあってはならないと思う。そしてこの問題こそ、無関心であってはならないと俺は思っている。


久方 堕世 |HomePage

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