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2003年03月26日(水) ヘロヘロ豚の角煮

 今日は無性に豚の角煮が食べたくなったので作った。
 のはいいんだけど、結局今日は食べることが出来なかった。
 なんてこったい。
 延々、6時間煮込んだので、夜のごはんには間に合わなかったのだ。
 でもいいさ。
 今晩一晩寝かせた角煮は、きっと明日には、
 あたしもう駄目ぇヘロヘロですわぁあーもーとろけてしまうわぁと、
 私に食べられるのを待っていることだろう。
 ふふふ、待っておれ。
 そうそう、私は豚の角煮には車麩をドバッと入れます。
 これが困ってしまうくらい旨いのだ。

 今日は、私が製作管理しているホームページの衣替えもやった。
 と言っても、このホームページはまだ公開して1ヶ月しか経ってないんだけど。
 これは、とあるボランティア団体のホームページで、なんとかコイツも使って普及啓発したい。
 という思いは当然あるのだが、実はこのページをバージョンアップすることで、自分の就職活動に利用しようかと思っている。
 そろそろ活動の時が来たようなので、社会人に復帰しようかと。
 ハローワークは、人人人人人・・・だ。
 でもなぜかみんな、辛く厳しいって顔はしてないのね。
 日本が平和で良かったと思う。

 そういえば、この日記のタイトル「お煮しめ」にしたんでした。
 私がお煮しめを作るのは年1回。正月の時だけ。
 だからしっかり凝ります。
 だしは鶏がらとしいたけの戻し汁。
 具は、たけのこ、レンコン、にんじん、干ししいたけ、こんにゃく、さといも、ごぼう、鶏肉、凍み豆腐など。
 これをそれぞれに煮て、食べる時に合わせて温める。
 自分で言うのもなんですが、うんまいっ!
 年1回の1日がかりの煮物だからかな?
 煮物の脇では黒豆をこれまた1日がかりで煮て。
 豆にシワなし!上手上手。笑
 ホントはシワのある黒豆が好きなんだけど、そういうのは買って食べて、作る時は上手に。笑

 そんなわけで、心を込めて作る年1回のお煮しめのように、この日記も大切に書こうとの思いで付けました。
 たまに「鬼絞め」の文章も書くけど。






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2003年03月25日(火) チルドレン

 子供は愉快ですねぇ。
 大きな古時計の一節。
 ♪いまは もー うごかない このとーけーえいー
 を、
 ♪いまは もー うごかない おじいーさーあんー
 ・・・
 おじいさん死んじゃったんですね。笑
 替え歌なのか、間違って覚えちゃったのか・・・
 おじいさんも、そんなに長生きはできないからね。

 私の好きな子供の詩をいくつか。

 「アイスクリーム」 三樹睦月(小4)

 おかあさんにね
 「アイスクリームを
  二つも食べたら
  どうなると思うの!」
 ってしかられたけど
 そんなことわかってるよ
 体が甘くなって
 やさしくなるんだよ



 「おねしょマン」 佐々木義史(小3)

 ひとりでねていると
 ふとんにおねしょマンが
 はいってきた
 ぼくは
 おっぱらおうと思ったが
 「せっかくきたのだから
  そうかたいこというな」
 といってでていこうとしない
 ぼくは こまったなと
 思った
 あしたの朝
 どうなるか
 おかあさんのこわいかおが
 うかんできた



 「先生」 鈴木康弘(小5)

 じゅ業中に、ぼんやりしていると
 先生のめがねがキラッとひかる
 もう一度ぼんやりしてると
 また
 先生のめがねがキラッとひかった
 今度は前よりもきょうれつであった
 ぼくはいつも
 あのめがねにやられると
 手が出なくなる



 子供っていいなぁ。

 私が小学生の頃。
 毎週日曜日の朝、吉岡たすく先生のテレビ寺子屋が放送されていた。
 好きで、毎週観てた。
 あれって、親とか先生向けだったのかなぁ?
 たすく先生の話で今も忘れられない話。

 小学校の図工の時間。
 自分の家の近所の「近代的になった所」を描いて下さいという課題。
 子供達はそれぞれに、工場や、アスファルト舗装された大道路や、陸橋などを描きました。
 その中にひとり、砂利道を描いた子供がいました。
 あれ?と思い先生が理由を聞くと、つい最近、自分の家の前の道路に砂利が敷かれたのだそうです。
 それを聞いて先生は、描き直しなさいねと言ったそうです。
 たすく先生はその先生に聞きました。なぜ描き直させたのか。
 すると先生。みんなが同じ理解で描いた絵でなければ評価できないので、と答えたそうです。

 これって、先生が正しいんですかね?
 子供の目と心を大人がとうせんぼしてはいけないんじゃないかと思うんだけど。

 私は砂利道の子にもいっぱい褒めてやりたい。 






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2003年03月24日(月) バビロン河のほとりで

 「哀しい歌」

 それは哀しい歌だった
 戦いに負けた人たちの哀しみを
 ありのまま伝えてくる歌だった
 曲名は、スーペル・フルーミナ・バビロニス
 和名は、バビロン河のほとりで
 旧約聖書詩篇第136篇をもとに描かれた
 とても哀しい歌だった

 僕は高校生の時その歌を唄った
 特別キリスト教信者ではないけれど
 詩篇第136篇を読んでみた
 ---バビロン河のほとりに座り
   シオンを思いつつ我らは泣き
   その辺りの柳の木に
   竪琴を立てかけた---
 虐げる者に唄うことを強要されてもなお
 唄うことを拒否した人間がそこにはいた

 暴力や不正で上に立とうとする者は
 他からの暴力や不正によって倒される
 そんな気持ちを込め僕らは唄い
 僕らは哀しい歌で金賞をとり
 笑った


 これは、私が平成2年9月14日に書いた詩です。
 詩というより文ですけど。

 もし、北朝鮮がノドンなり、テポドンなりを日本に発射したら。
 今のレーダー技術では、日本国内での爆発を回避できないそうです。
 北朝鮮の発射したミサイルは確実に日本を破壊します。
 アメリカは当然のように北朝鮮を攻撃するでしょう。
 日本に、お前らも戦えと言うことでしょう。
 いや、当然戦うものと考えているでしょう。

 私はそれでも戦わない日本を期待します。
 それが理不尽であっても。
 殺戮に殺戮で応戦してほしくはないです。
 その時にならなければ分からないことではなく。
 大事な人が粉々になってもそんなことを言えるかでもなく。
 その時、動じないために今があるから。

 反戦デモに参加する人を揶揄する文章や言葉を見聞きします。
 デモはもっともっと悲壮感が溢れていなければならない。とか、
 平和面の日本のデモはデモではない。とか、
 そんな表現とも出合います。
 日本は平和なのだから、ありのままの姿を出して戦争反対と言えばいいと思う。
 平和な日本だからできる表現を、大事にすればいいと思う。






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 そんな簡単なことでないのは分かります。
 侵攻されたらどうする?
 降伏するのか?逃げるのか?犬死するのか?
 理不尽です。
 でも、地球市民として、戦争はしてほしくないのです。


2003年03月23日(日) 正義のための戦争?ではない

 今回の戦争に対し、自分はどう考え、どう動けばいいのか?
 正直自分の考えがまとまらない。

 エンピツの中では、「Reiko Katoのお仕事日記」に私と似た作者の気持ちが書かれていた。
 また、関連へのリンクも張ってあったので読んでみた。
 とりあえず、色んな人の考えを読んで、戦争について考える自分を持っていようと思う。

 私は自他共に認める短気だ。
 怒り出すと、言葉は荒れ、形相もかなり尋常ではなくなる。
 だから、言葉の暴力に対して抗議をしながら、こちらが言葉の暴力を振るう可能性を秘めている。
 今回の戦争に対する抗議運動の中に、平和を望むために使っているとは思えない言葉も見かける。
 そんなところに自分の姿を見たりもする。
 しかし、優しい言葉でどれだけの思いを伝えられるのかが分からない。
 喧嘩の鉄則として、
 感情には理論で。理論には感情で。というのがあるが、やはり怒りはそれと分かるよう表現して伝わることが多いように思う。
 だが。
 反戦を唱えながら、そこにまた異を唱える人達とのミニ戦争が起こってしまう現実が悲しい。
 黙して語らずがいいのか?

 Reikoさんは御自分のHPのトップに、「13歳のシャーロッテ・アルデブロンがメイン州の平和集会で話した内容」をアップしていた。
 現実を端的に述べ、とても説得力のある文章だ。

 私は骨髄バンクのボランティアをやっている。
 その活動の折々に、ふっと耳にする言葉がある。
 「我々はボランティアだからやれると思うことは率先してやる。国との交渉も、患者サイドに立ってその労を惜しむ気はない。
  でも、なぜもっと患者本人やその家族が表に出て、自分達の置かれている状況をより良いものにしようとしないのか?自分達のことなのに」
 私はそれとは少し違う考えをしているのだが、そうボランティアがこぼしてしまう心理は分かる。
 ただ、患者はいきなり血液の病気になり、分からないのだ。目の前を見るだけでいっぱいいっぱいなのだ。
 だからボランティアが動く。
 しかし、どうしたわけかボランティアは片手間では出来ないほど専門性を持ってもいるので、つい愚痴りたくなるのだ。と思っている。

 そんな骨髄バンクの話とダブらせてイラクという国を見てみた。
 なぜ、国民は動かないのだろうか?叫ばないのだろうか?
 なぜ、アメリカにいる13歳のシャーロッテ・アルデブロンがイラク人の代弁をするのだろうか?
 やはりイラクの国民は分からないのだと思う。目の前を見るだけでいっぱいいっぱいなのだと思う。
 だから、私達は動くべきなのだと思う。
 自分の生活を守りながらでもいい。恋人と楽しい時間を過ごしながらでもいい。何も考えないよりはずっといい。
 戦争はやめよう。戦争はやらない。
 そう、強く強く念じなければならないのだと思う。

 小泉首相を批判することは簡単だ。
 バカ、アホ、鬼畜と言うことは構わない。
 けれど、それとは別に、私達はひとり一人が戦争感をしっかり持つべきなのだと思う。
 でなければ、戦争は絶対なくなりはしない。






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 私はMy登録している作家さんはあまり多くないけれど、(5人)あちこち拾い読みをしていると色々勉強になる。
 でも、これは本当にタイミングがあるなぁと思う。
 最新の日記に書かれている内容が、好きか嫌いか、良いか悪いか、自分にとってためになるかならないか。
 それによって判断してしまうことがあるから。また、判断されてしまうことがあるから。
 全てを見ずして。いや、少なくとも複数の文章を見ずして。

 これはエンピツ内での話だけれど、やはりこの延長上にあるのが日々の生活だなぁと思う。
 とても気を付けなければならないことだと、自分の肝に銘じたい。
 戦争もやはり、ある限られた断面だけを凝視することから始まるのかもしれない。
 そして、凝視した断面がそれ全てであると自分に刷り込み、他を扇動し、悲惨な形に向かうのかもしれない。
 一点凝視の弊害をアメリカの独裁者に語っても聞く耳は持たないだろうが、
 罪のない国民を殺す戦争が正義であるはずはない。

 書くというのは、自分が何を考えているかを教えてくれるから時々驚く時がある。
 なんか、今はそんな気分。

 このエンピツでの日記書きを始めたのは、Reikoさんの文章をたまたま読んで自分も書いてみたくなのですが、やはり書くのはいい。うん!


2003年03月22日(土) アンビリーバボーな話

 私には、両親がいません。
 で、一人っ子なので兄弟もいません。
 厳密には、父の家庭に異母兄弟が3人いるようですが、会ったことも見たことも煮たことも焼いたこともありません。
 ですが、血を分けた兄弟がひとりいます。
 私が自分の骨髄液を提供した相手です。

 骨髄バンクを通しての提供なので、相手が誰なのかは分かりません。
 分かるのは、私より3つ年下の関西在住の弟ということだけ。
 この弟には、私と同じ血が流れています。
 私は血液型がB型なので、弟が骨髄移植前にそれ以外の血液型だったとしたらB型に変わっています。
 今回は違いますが、もしこれが妹なら染色体上は♀ですが、血液上は♂に変わります。
 患者さんは提供を受けるにあたり、自分の造血機能を全くのゼロにします。血液を造らなくするわけです。
 ゼロにするためには、限界を超える放射線照射と抗がん剤を併用するので、一歩間違えばそこには死があります。
 それを前処置といい、造血機能ゼロになった時点で提供者からの骨髄液を点滴で体に取り込みます。
 その後、提供された骨髄液が細胞分裂を繰り返し、一つ、二つ、四つ、八つとその細胞を増やし、やがて赤血球や白血球、血小板に成長していきます。
 これがあるラインまで行くと、生着といい後はめきめきと元気が出てきます。
 私の弟は無事生着し、新しい血液の元に社会復帰しました。
 なぜ分かるかというと、当時は患者、提供者双方から1度だけ手紙のやり取りが許されており、(現在は2回)その手紙にそう書いてあったのです。
 やった、良かったと思えた、私の宝物の手紙です。

 正直、弟の顔も名前も分からないので実感が湧かないのですが、それでも、私と同じ血を持つ弟がいると思えるのは私を強くしてくれます。
 子供は両親から半分ずつ遺伝子を貰い誕生します。
 だから、母親とも父親とも同じ血が流れている確率はきわめて低いのです。
 なのに、私と弟は同じ血なのです。
 不思議です。とてもわくわくします。
 そんな気持ちになれるチャンスを与えてもらえたことに感謝します。
 弟が苦しんだから出来た経験。だから、とても不謹慎だけど。

 でも、手紙が届いてからこれまでの弟の状況は全く分かりません。
 でも、元気に生活していると信じています。
 私の骨髄液はそんなに軟ではないから。

 外国では、提供後1年を経過し、双方が希望すれば公的な場での対面が許されています。
 日本では対面完全禁止の緩和は期待出来そうにありません。
 でも日本では過去に、公式な場でイレギュラー的に2件の対面が実現し、非公式な場で1件の対面が実現しています。






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 こんな偶然があるのですね。
 本当に、本当に二人は一緒なのですから。

 ある本の最後の部分を読んで、このアンビリーバボーな話を思い出してしまいました。


2003年03月21日(金) [半落ち」と「美女か野獣」

 夕方から横山秀夫さんの書いた「半落ち」を読み始めて、途中、テレビで美女か野獣を観て。
 どちらも、「守るべきもの」と「真実の解明」がキーワードになっていた。

 守るべきもの。
 自分にとってはなんだろう?
 ひとつじゃないからコレって答えは出ない。
 でも煎じ詰めていった末に残るものを考えると、やはり信念なんだろうなぁ。

 真実の解明。
 これも一概に言えなくて。
 自分の知っている世界というか、日々生活している周りの世界では真実の解明を私は望める。
 でも、たとえば政治の世界とか司法の世界とかの上層部と言われる世界に私は真実の解明を望めない。発言力もない。
 どんな世界なのかが分からないから。
 自分の器がまだまだ小さいから。
 あ、これは悪いことをやってる奴を見過ごせとか、くさいものには蓋って意味ではなくて。
 知らなくてはいけないこと、知らなくてもいいこと、知ってはいけないことって確かにあると思うし。
 知っているから救われること、知らなくても困らないこと、知ったがために苦しむこともあると思うし。
 たとえそれが真実でも、全てを知ることが幸せじゃないことって意外と世の中多い気がする。
 また、知らないままそっとしておくことがとても大切な時もあると思う。

 と書いてしまうと、私はわけ知りの事なかれ主義者のようで嫌なんだけど。
 私は、真実はその時々で姿を変える側面も持っているんじゃないかなと思う。
 たとえば、愛する人を守るためだったり。
 会社や、学校や、地域や、友達といった自分の目の届く範囲の仲間を守るためだったり。
 そのためには世間の秩序とか解釈とかをど返しした、違う真実を必死に探す時ってあると思う。

 何か観念的表現ですね。

 私は自分の信念で見る目を持ちたいと思う。
 真実を見極める目を持ちたいとも願う。
 けど、その両者がせめぎ合った時には、どちらかに偏ることを許す気持ちのあそびを持ちたい。
 でないと、自分が壊れちゃうから。


 今日は戦争が始まりましたね。
 反対です。
 日本は被爆国です。
 そして、731部隊が兵器開発のために人体実験を行った汚点を持つ国でもあります。
 だからこそ、戦争反対としっかり発言したい。
 これは私の信念。

 アメリカ(国連)は開戦前に、真実を暴くと言いイラクを査察した。
 そして、イラクは真実を隠蔽していると怒り戦争を始めた。鎮圧だと。
 でも、真実がどこにあろうと、アメリカが戦争を仕掛けなければ生物化学兵器は発射されなかった。
 真実の解明よりも、もっともっと重要なことがあると私は思う。






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2003年03月20日(木) 僕の生きる道 その弐

 昨日のエンピツ作家さんたちは「僕の生きる道」に材をとる方が多かったですね。
 だからじゃないけど、今日も僕の生きる道について。

 私は「僕の生きる道」では、小日向さん演じるドクターが大変気になる存在でした。
 けっして患者を一個のモノとは見ていない、けれどいたずらに患者を自分の方に引きずりこまない小日向ドクター。
 浅からず深からずのそのスタンスを観ていました。

 最終回の小日向ドクター。
 もう先の見えているガン患者が、最後まで生き続けるために外出させて欲しいと懇願するが、ドクターとしてそれを許さない。
 昨日の私はそんな小日向ドクターに失望していた。
 それまでのスタンスとのギャップに違和感を持っていた。
 なぜ、外出を許さなかったのかが分からなかった。

 これはドラマ。深く考えることもない。とは思わなかった。
 ので、今日は昨日の小日向ドクターについて考えていた。
 これはドラマ。視聴者は自由に観て受け取ることが許される。と思う。
 ので、私なりに小日向ドクターを解釈し、私自身に問いかけることにした。

 小日向ドクターは、生き抜くことと、死に逝くことを分けていたのだと思う。
 患者さん自身として最期の日まで悔いを残さず生き抜いて欲しい、という思い。
 ドクターとして最期の時に正面から関わってあげたい、という思い。
 だから、最期の時に向かっている患者に外出許可を出さなかった。ドクターとして。

 私は、寝たきりの母を5年間看病した。
 しかし寝たきりとは、動脈血中酸素が常人の半分しかないという数字からの安全パイ的寝たきりで、機能的に動けないわけではなかった。
 なのに私は、ドクターの指示を守るべく母にベッド上安静を強制していた。
 それにより確かに寿命は延びた。
 しかし、それが正しかったのか、間違っていたのかは分からない。
 母としては、たとえ寿命が少しくらい短くなろうとも四季の景色を見、外の空気を吸いたかったと思う。 
 私は1日でも長く生きていてほしかった。

 これからも遭遇するであろう大切な人の死。
 誰にも平等に与えられている、生まれ,生き、死ぬという事実の前で、自分のとるべき姿をその都度真剣に考えようと思う。
 そして、自分も経験する死。
 その日まで、自分を生き切りたい。






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 そういえば、この頃連鎖的に自殺する方がいますね。
 生きてほしいですね。


2003年03月19日(水) 僕の生きる道を観て

 テレビで「僕の生きる道」を観た。
 観ていたら、ひとりの先生を思い出した。

 名前は佐藤修(しゅう)といった。
 当時は女子高の先生で、合唱部と管弦楽部の顧問をやっており、本人はセロ弾きだった。
 私は違う高校に通っていたので直接指導を受けてはいないが、地区の高校生が集まってベートーベンの第九を演奏するイベントの時に何度か修先生のタクトで唄った。
 その何度かで、私は修先生を大好きになった。

 こんなことがあった。
 それは通し練習で、ホルンが単独で音を出す場面。
 生徒は緊張のあまりその音を出せずに焦っていた。
 焦れば焦るほど、その音は出なかった。
 その場にいた全員が一緒に緊張し、出るべき音を心の中で求めていた。
 すると修先生は言った。
 「大丈夫だよ。その音はみんなの心の中で聞こえているから」
 クサイ…
 しかし、池田満寿夫似の修先生が発するその言葉は、私の涙腺をストレートに刺激した。

 修先生は合唱も管弦楽も、全国大会に何度も導く優れた指導者である。
 もちろん音楽に対しては厳しく、自らの魂の全てを指導に投入している。
 その先生が「大丈夫だよ…」と言った。
 これが深みのある音楽を生むのだと私は感動したのだった。

 私はその後卒業し、修先生が病気らしいと聞いた。
 しかも胃ガンで、夜寝ることもままならず、座ったまま机に突っ伏して寝ているらしいと。
 私には信じられなかった。
 いや、信じないようにしていた。
 だから、あの朝刊の記事はショックであり、深い感動であった。

 記事には、合唱部の定期演奏会でタクトを振る修先生の写真が使われていた。
 修先生はイスに座りタクトを振っていた。
 演奏はレクイエムであったと記憶している。
 そして記事には、この10日後に修先生はこの世を去ったと書いたあった。
 39歳だった。

 どうしても、この定期演奏会ではタクトを振りたかったのだという。
 もう既に、起き上がっていることが痛みにより無理であったのに。
 ここでタクトを振ることは、目の前に死を呼び寄せることを意味していたのに。
 修先生は自分を演じ切ってこの世を後にしたのだった。

 私はその記事を読んで、
 「大丈夫ですよ。先生の心はみんなの中で生き続けますから」
 と言った。

 もう15年くらい経ちますが、先日も修先生を偲ぶコンサートがありました。
 当時の教え子は、それぞれの思いの中で今も修先生を慕い、その教えを実践しています。






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2003年03月18日(火) 健康食品

 自己紹介も終わったので、日記のタイトル変えました。
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 世の中には、健康食品というカテゴリーで分類される食べ物が氾濫していますね。
 サプリメントの類(補助じゃなく、それを主食にしている人もいるし)や、○○配合という本当にごくごく微量の身体に良いとされる成分を混ぜ込んだだけのモノや、全ての原材料を厳選して作られている加工食品や、その幅は広いです。
 さて私は以前、厳選した材料だけで作ったパンを作って売る会社にいました。ホールセーラーです。
 私が入社したての頃は、まだ普通のアンパンやジャムパンを如何に美味しく作るかが課題でした。
 しかし、私が仕事に慣れるのと歩調をあわせて、こだわりパンという大手さんでは手を出しにくい製品作りに重点が移っていきました。
 ま、それに関しては置いておきましょう。

 このこだわって身体に良いパン。
 たしかに材料だけを見ると身体に良いのです。
 でも、あまりに素晴らしい材料を使っているので、値段も高い。
 これを私は、「製品は身体に健康。だけど、価格は不健康」と言い続けました。
 ついでに、味も若干不健康かな。日本のパンとして定着したふわふわソフトなパンじゃないし、じゃあドイツパンのようにハードなパンかというと違うし、材料と勘に頼りすぎる技術のダブルパンチでボソボソのパンですから。

 では、このこだわったパンはなぜ作っているのか?
 身体に良いものをみんなに食べてもらいたいからです。
 大手製パン会社社長のコメントは秀逸です。
 「私は自社製造のパンは食べません。色々添加物が入っているからね。でも、お客様が欲するから作っています」
 このコメントが、企業のトップから発せられるのも問題ですが、せっかく作っても値段が高額で簡単には購入できないのも問題ですね。
 みんなに食べてもらいたいのに。

 このこだわりって言葉。何かそれ自体が付加価値として認識されていたりしますね。
 でも実は、こだわりっていいことじゃないんですよね。
 こだわると、そこに停滞して前進できなくなるわけですから。

 こだわって作っている食品の多くには、次のことが言えるようです。
 ・まず、どれだけこだわって材料を厳選しているかの能書きを読まなければならない。
 ・食べたいという欲求からではなく、頭で理解して食べなければならない。
 これじゃ、本当の身体に良い食じゃないなぁと思うんですね。
 事情により、厳選した材料での食しか摂取できない体質の方は別ですよ。

 確かに、無添加の食品であれば、身体の中で異常を起こす確率は減ります。
 それを私は、「口に旨い食品より、身体に旨い食品を」と表現していました。(我ながら、かぁっデタラメだなぁと思って使ってました)笑
 が、目で見て「食べたい」食べてみて「美味しい」と食事するのが一番身体には良いんですよね。
 これは、けっして栄養士さんが長生きとは限らないことからも明かだったりします。

 世には、色んな身体に悪い物質が溢れています。
 大気中にも、食品にも。
 でも人間には自浄作用があり、その活性化にはストレスの軽減も大事な要素です。
 食べることで、要らぬ能書きに縛られちゃストレスが増えますって。
 これは身体に良いんだって思い込むのにもストレスが発生しているわけですし。
 だから、過ぎたるは及ばざるが如し健康食。
 身体に悪い物質を取り込んでしまったら、それは貯めずに排出してあげればいい。
 食べたいものを美味しいと感じて食べて、その際に取り込んでしまった悪いものは、森林浴なんかで排出するのが賢明な健康への道なんじゃないのかな。

 これが、10年勤めた会社を辞めるに至った、理由のひとつでもあります。
 自分が惚れ切れない製品を売り込むのって、凄いストレスでした。






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2003年03月15日(土) 落ち穂拾い

 ミレーの名画「落ち穂拾い」
 夕暮れの農園で、3人の農婦が落ち穂を拾う姿を描いた有名な絵画。
 のどかで、いい絵だなぁと感じていた。 
 しかし、そこに描かれていたのは、そんなことではなかった。

 当時のフランスは一九世紀で戦乱の絶えない激動の時代。
 フランス革命の後も七月革命、二月革命で、王政打倒まで国内は戦火で乱れ、その後も普仏戦争まで勃発した。
 そしていつの世でも、戦乱などで社会が疲弊すると困窮するのは庶民、つまり弱い人々。
 実は、「落ち穂拾い」に描かれている3人の女性は、夫を亡くした未亡人たち。
 働き手を失った婦人たちは夕方近隣の農園で、農家の収穫後わずかに残された落ち穂を、生きるため必死に拾い集めた。
 それが、あの絵の構図だという。
 そして当時フランスの農村には、すべてを収穫せず、落ち穂を畑に残しておく習慣があった。
 少しでも誰かの助けになればという、ささやかだけど温かい思いやりの上で。

 そう、「落ち穂拾い」は、弱者をさいなむ当時の生活の厳しさ、それに負けずに必死に働く姿の気高さ、そして疲弊した世情でも失われない農村の優しさを、1枚の絵に凝縮したものなのです。
 だからこそ、あの絵は心にしみる傑作と評価されているのでしょう。

 さて、農家が落ち穂を残したような思いやりのことをホスピタリティと言います。
 ホスピタル(病院)、ホテルの語源です。
 自分の取り分を減らしてまで、さりげなく自然体で他人を思いやる心という意味です。

 なかなか実践は難しいことです。
 が、そう思ってしまうのはなぜでしょうか。
 おそらく、難しいのではなく、難しく考えているからだと思います。
 同じ時代に生きたのだから、特定の誰というのではなく、広く思いやりの気持ちを持てたらもっと実り多いでしょうね、自分自身。


2003年03月14日(金) 離職 充電 転職前

 前の会社を辞めて13ヶ月が経過しました。
 予定では、9ヶ月で次の仕事に身を置くはずだったのですが。
 焦っても仕方ないと思ったのと、ボランティアで月の半分以上は何らかの「ボラ業」生活を自ら買って出たところもあって、まぁ年度替りまでしっかりこなそうと思ったのでした。

 もちろん、次に何をしようかとか、何がしたいのかとか、何が出来るのかとか考えていました。
 しようと思うことは、人と人の間に入った接着剤的な仕事をしようと。
 したいと思うのは、創造的な仕事が出来たらいいなと。デザインやイベント関係の仕事。
 で、出来るのは?ハローワークの求人から引き出すと、上の思いを満たしてくれるものって少ないな、と。

 おそらく周りの人、よく私を知る人は、「福祉の仕事」をやればいい、合っていると考えていると思う。
 自分でもそんな仕事は好きだし、やりがいもしっかり見出せると思う。
 でもたぶん、そんな環境に自分を置いたら私は自滅すると思う。
 やりたいことと、やれることの狭間に入り込んで身動きが取れなくなると思う。
 法の縛りとか、福祉という本来オープンであるべきはず世界の閉鎖的環境とかに順応するのが極めて難しいと思う。仕事となると。
 だから、ボランティアとして外から複視眼的に観ている方が合っているような気がする。
 やりもしないで分からないことではあるんだけど。

 私の友達に、大学時代の終わり、福祉関係の仕事をめざしたくて教授に相談した人がいます。
 その教授は盲目。
 教授は私の友達に言いました。
 「キミは福祉を外から見て、それをキミの言葉として世間に知らせる仕事につきなさい」と。
 だから友達はアナウンサーになり、それも福祉の心を語らせたら右に出るものはいないくらいの本物になりました。
 この友達を見ていると、教授のアドバイスは見事だなと思います。
 もし友達が福祉にどっぷりと浸かっていたなら、福祉がなんであるかを見失っていただろうと想像させるほど、友達はマルチにものごとをやれる人間なのです。
 私はそんな風にマルチな人間ではなく、ズボラな人間ですが、私もまた福祉を見失うほど視野狭窄な性格を持っているのです。

 ビートたけしが昔言ってました。
 「自分にとって何が天職かなんてわからねぇ。おいらはたまたまやる仕事が上手くいくだけで、これが天職なんて思ったことねぇよ」と。
 私もそんな風に考えたいなぁと思っています。

 色々やってみたいな、というよりも、やれる自分になりたいなって、かなりレベルの低い話ですけど。笑






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2003年03月13日(木) 石川洋さん

 私の好きな詩第2弾です。



 偉くならなくていい
 立派にならなくていい
 お役に立つ
 人になることである




 おっかさんに
 尻をふいていただいて
 育ててもらった私達は
 おっかさんの
 お尻の世話が
 出来ない間は
 一人前だと思ってはならない
 一人前づらをしてはならない
 親不孝なわたしは
 親がして下さったことの
 万分の一もお返しが出来ない

 せめて
 おっかさんが
 して下さったように
 人にお返しを
 させていただこう



 このふたつの詩は、石川洋さんのものです。
 現在、京都で仏教を通した心の浄化に尽力されています。

 こんな詩が書ける人を尊敬します。
 こんな詩を実践するその姿に感動します。

 私は自分のお寺さんの花祭りにすら参加したことのないいい加減者です。






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2003年03月12日(水) 坂村真民さん

 私の好きな詩です。



「二度とない人生だから」

 二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛を、そそいでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳を
かたむけてゆこう

二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないように
こころしてゆこう
どんなにか
よろこぶことだろう

二度とない人生だから
一ぺんでも多く
便りをしよう
返事は必らず
書くことにしよう

二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
 できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう

二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう

二度とない人生だから
のぼる日しずむ日
まるい月かけてゆく月
四季それぞれの
星々の光にふれて
わがこころを
あらいきよめてゆこう

二度とない人生だから
戦争のない世の
実現に努力し
そういう詩を
一篇でも多く
作ってゆこう
わたしが死んだら
あとをついでくれる
若い人たちのために
この大願を
書きつヾけてゆこう




 作者は坂村真民さん。
 現在94歳。
 まだまだ現役です。

 この詩は、さとう宗幸さんが曲にして唄っています。
 聞く度、いつもいつも私は大泣きしてしまいます。
 理由なんてなく、とにかく涙が止まらなくなるのです。
 いい曲です。






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2003年03月11日(火) 福岡の夜2

 福岡の2日目。

 前日、味処清水で知りあったお客さんも試合の応援に駆けつけてくれ、ガンガン応援。
 しかし、頑張れニッポンコールも虚しく、日本の勝利を見ることは出来ませんでした。
 これにて日本女子の4位が確定。
 シドニーパラリンピックでは銅メダルに輝いているだけに、今回の4位は選手としても不本意。
 仕方がない。次のアテネパラリンピックでファイト!

 試合会場を後にした私達は、レンタカーを操り一路博多へゴー。
 ホテルでしばし休息の後、市内観光へ出発。
 まぁ、時間もなかったから観光はほんの少しで、いよいよ夜の部へ突入。
 まず、福岡はモツ鍋の発祥の地と聞いていたのでその筋の店を探すが、ない。
 複合ショッピングセンターの偉そうな人に聞いても、モツ鍋屋なんてないなぁと言い。
 タクシーの運転手に聞いても、あんまり聞かないねぇと言う。
 んー?
 その後得た情報によれば、福岡がモツ鍋の発祥の地というのはデマで、福岡は地鶏だとのことだった。

 とはいえ、私たちのお腹と舌は「モツ鍋」を迎え撃つ準備が完了していたので、何とか京風モツ鍋屋を見付けビールをグビグビ。
 さて次は…と迷いもせず、やはり博多にきたら中洲でしょーと、いざ中洲へレッツゴーゴー。
 ところが時は台風による雨が降ったり止んだりの悪条件。
 川沿いには予想通り屋台がない。
 んーんーここまで来て中州を味わえないのか。
 カムオン中洲の暑い夜インおバカな5人組!
 しかし屋台がないことには暑い夜を演出できない。
 よし、次の橋まで行って屋台が出ていなかったら、あきらめてふぐをお召し上がりになりましょうと向かった橋。
 ありましたよ、橋の向こうに屋台が、2台。
 これよこれ。暑い夜にするぞーとやきとりとおでんの店に乱入。
 でも、ここで私にはいや〜な予感があったんですよ。
 私が座った斜め48度上方に、「おでん1個300円」と書いてあった。
 で、注文はセットのみですと店のお兄さんが言う。
 んー?これってもしかしてぇ…。

 結局、すごいバカ高い料金を取られました。
 おでんの大根1切れ300円。
 げげげげげぇーーー。
 やられたぁ。
 しかも、大して美味しくなかったし。
 心臓から1センチ離れたところを射抜かれた気分。
 でも、中洲の夜を、たった2台しか屋台が出ていない中洲の夜を、貸切のように占領できたんだからまぁいいかぁ。
 これも想い出だぁね。

 でもさ、このままやられっ放しは心が重いじゃないですか。
 だから、ふぐも食べちゃうことにしました。
 それも、5人で小さい皿1皿だけ。笑
 まず、1人1枚を均等に堪能する。
 その後はじゃんけんで、勝った人が好きな枚数食べる。
 当然、じゃんけんの掛け声は静かに静かに厳かに。
 さて私は何枚食べたか。
 最初の1枚プラス、じゃんけんで勝って1枚の計2枚。
 私はずっとグーだけを出し続けたのでした。
 なんかね、みんなが楽しんでくれれば私はそれで満腹って感じだったから。
 いやぁ、楽しかったです。
 でもこのふぐ屋さんでそんな食べ方する人はいないんでしょうねぇ。当たり前か。
 じゃんけん大会の中盤頃、店の女将さんらしき人が私たちのテーブルを見にいらっしゃいました。
 で、何を挨拶するでもなく、全く困ったものでという顔で戻っていかれあそばされました。笑
 いいじゃん。せっかく遠く離れた福岡まで行ったんだから。

 ほんと、福岡はいいところでした。
 また行きたいなぁ。






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2003年03月10日(月) 福岡の夜1

 昨年は8月の末、福岡県は小倉と博多に行きました。
 身障者スポーツの国際大会があり、その応援で。

 いやはや、私が行った時はかなり大きい台風が大暴れの最中でした。
 でも、大会自体は室内ですから問題はなかったんですけど、移動時が大変でしたねぇ。

 まず初日は応援を終えて、夜は小倉の居酒屋さんで明日に備えた応援準備会。という名の大酒飲み。
 しかし、初めての地ゆえまるで勝手が分からず、ガイドブックから見付けたお店に電話。
 運良くお店に空きがあるというので、私たち5人は雨の降る中でかけました。
 しかし、しかし、どこをどう歩いているのかも分からない。
 電話で大体の位置は聞いたものの、なかなかたどり着かない。
 もう帰ろうかぁ、と5人で言い始めた時、目的のお店が現れました。

 がらがらっとお店の入口を開けてびっくり。
 カウンター席のイスが全てカウンターの下に押し込まれていたのです。
 確かに電話で、車椅子1名います、と言ってはおいたけど、まさかこんな形で通路を確保していてくれるなんて、一同感動です。

 もうそれからはどんちゃん騒ぎです。
 しかも、お店のご主人がまたいい人で、その奥さんもいい人で、たまたま居合わせたお客さんもいい人で、みんなで大盛り上がり。
 もう、最高の夜でした。
 味処清水の益々の繁盛を私たち5人は心から祈るのでした。

 ちなみに、あまりにお世話になったので、自宅に戻ってからこちらの名物を送ったのですが、そのお返しにって、ブラックタイガーが100尾以上送られてきました。
 なんだか、ホントに世の中いい人っているんだなぁとただただ感動する、私でした。






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2003年03月09日(日) 回文 逆さ言葉

 回文。
 上から読んでも、下から読んでも。
 では。


●大臣の皆さんへ。変さ、並みの、ん〜爺だ。

  だいじんのみなさんへ。へんさ、なみの、ん〜じいだ。


●良い「愛」「恋」は、憩い合いよ。

  よい「あい」「こい」はいこいあいよ。


●「イク!」ドクドク「イ〜」


●食いついて「いいか?」とか言いて、いつイク?

  くいついて「いいか?」とかいいて、いついく?


●紀子妃殿下。王冠で妃高貴。

  きこひでんか。おーかんでひこーき。


●読めや!『イラク、爆雷やめよ!』

  よめや!『いらく、ばくらいやめよ!』


●む!うどん粉のコンドウム。

  む!うどんこのこんどうむ。


●玉に瑕。疼きに股。

  たまにきず。うずきにまた。


●ヨ〜ロレイヒ〜、いれろ〜よ。


●恋しい恋しい娘。

  こいしいこいしいこ。


●カニ旨い!が、今ウニか?

  かにうまい!が、いまうにか?


●「よく聞け!」「聞くよ!」

  「よくきけ!」「きくよ!」


●川の岸に咲く草に、四季の和歌。

  かわのきしにさくくさに、しきのわか。


●恋し仲、君見つめる目、友達だ。求める目罪、ミキ哀しい娘。

  こいしなか、きみみつめるめ、ともだちだ。もとめるめつみ、みきかなしいこ。


●にくの王様さ、大乃国。

  にくのおおさまさ、おおのくに。


●くどい梅毒。

  くどいばいどく。


●老婆のバーロー!(ばかやろう)

  ろーばのばーろー!


●何点制?はらたいら居たら、はい1000点な。

  なんてんせい?はらたいらいたら、はいせんてんな。


●海綿体、短命か?

  かいめんたい、たんめいか?


●指でビュ!

  ゆびでびゅ!


●小谷実可子。髪にタコ。

  こたにみかこ。かみにたこ。


●見て、三波春夫がおるは。皆見てみ。

  みて、みなみはるおがおるは。みなみてみ。


●ん〜ベンケイシー。欲しい検便。

  ん〜べんけいしー。ほしいけんべん。


●桑田真澄がミス。また沸く?

  くわたますみがみす。またわく?



 濁音は気にしなければ、まだまだこれまたむかーしに作ったものがたくさんあります。






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2003年03月08日(土) 創作いろは歌

 いろは歌です。
 48文字を1字ずつ。
 では。


娘がケツ振れば、何もやらぬ楽しい男、焦るべきね。エロ見て、指チンポ周り押さゑ、う、ゐくぞよ!

  むすめがけつふれば、なにもやらぬたのしいおとこ、あせるべきね。えろみて、ゆびちんぽまわりをさゑ、う、ゐくぞよ!



聖母へ。威張る親、惑う民、逃げぬ悪、荒ぶ夢も、シオンの広ゐ声で、それらわ力強き胸なり。

  せゑぼへ。いばるをや、まどうたみ、にげぬあく、すさぶゆめも、しおんのひろゐこえで、それらわちからづよきむねなり。



校則問題で、日和見な師は許せぬ!をまえ愛ねゑの?無知悟れ!藪へ逃げ終わらす気か?ボロめっ!

  こうそくもんだゐで、ひよりみなしはゆるせぬ!をまえあいねゑの?むちさとれ!やぶへにげおわらすきか?ぼろめっ!



へぇ、カラヤンのタクトは、直純より夢あるね。技も豊富で、背広脱ぎ毎日つれゑ稽古し、無想。

  へぇ、からやんのたくとは、なおずみよりゆめあるね。わざもほうふで、せびろぬぎまいにちつれゑけゐこし、むそう。



見栄っ張り政治家へ。人真似やめ、素朴に歩こう。脆ゐ権威わ脱ぎ捨て、自負を復習ゑ。おのれ、弛むなよ。

  みえっぱりせーじかへ。ひとまねやめ、そぼくにあるこう。もろゐけんいわむぎすて、ぢふをさらゑ。おのれ、たゆむなよ。



明日からわ満ちぬ世。大変やろけど、星降る夢を胸に生きなはれ!そこゑ掌の上咲く陽も降りまっせ。

  あすからわみちぬよ。たゐへんやろけど、ほしふるゆめをむねにいきなはれ!そこゑてのうえさくひもおりまっせ。



「ぬわあ、ほしが一斉にちれーだなゐ(東北の方言:きれいだね、の意)」「でも見ろや、今朝はを前よりめんごぐ(東北の方言:可愛い、の意)ねーべ」「むふ、キス許そー」「うひー、オラとえーの?」

  「ぬわあ、ほしがいっせーにちれーだなゐ」「でもみろや、けさはをまゑよりめんごぐねーべ」「むふ、きすゆるそー」「うひー、おらとえーの?」



 他にもむかーしに作ったものがありますが、とりあえずここまで。






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2003年03月07日(金) 不満 県庁マン

 先日、ボランティアのお仕事で、山形県庁に行ってきました。
 他県までボランティアが出張するなんて…。
 でも仕方ないんですよねぇ。
 業務を遂行する財団が非力だから。
 それに、私の住む県は今年度、厚労省からモデルケースの指定を受けて(非公式)ボランティアが業務の新しい形の構築をやってましたから。
 その構築に当たってのノウハウを、山形県庁の担当者と日●の担当者にレクチャーするのが出張のテーマでしたから。
 わけが分からない人が行くより、苦労した人が行く方が意味はありますからね。話は見えるし。

 ところが、私は驚いた。
 いまどき、あんな県庁マンがいるとは。
 いや、いるんだろうなぁ。他にもたくさん。
 まず、ボランティアをなめている。
 私は一応今回、財団の(でもボランティア)立場で行きましたからまだ良かったけど、地元のボランティアについては完全になめている。
 ボランティアが何を言う、って感じ。
 そして、専門畑に行くまでの仮配属なのか、可もなく不可もなく業務をやればいいって考えがありあり。
 全くやる気なし。
 ボーっとして。人の話なんか聞いてない。
 あれじゃ、山形県民がかわいそうだ。

 ああいった税金泥棒(古い表現)の役人は、上からの話にはことごとく弱いのが常。
 上意下達で動かすしかない。
 財団へのレポートにはそう書いた。

 まったくねぇ。頑張ってる役人さんをたくさん知ってるから、ああいった役人はどうにかして排除してやりたい。
 とはいえ、自分の専門エリアに配属されれば水を得た魚化するのかもしれないと思うと、組織ってやつのシステム自体を何とかする方が先なんでしょうねぇ。
 これは大仕事だけど、安定期から下降している日本には必要な棚卸作業だと思う。






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2003年03月06日(木) 高校新聞

 私は高校3年生の時に学校新聞の編集長をやっていた。委員会活動として。
 よって、編集長には「主張」という囲み記事の文章を書く義務があった。
 ちょっと紹介しちゃいましょう。

「情熱の軌跡を残せ」
 人の一生において、何にでも興味を持ち、そのことに打ち込むことのできるのは今の時期ではないだろうか。若い心と体をもってすれば何にでも打ち込めるはずであるし、それが当然だろう。
 打ち込むといっても、見た目だけ、うわべだけで終わっている人が多いのではないだろうか。何の熱さも感じないで、ただ自分に課せられたノルマの消化にのみ若い時を使う。こんな消極的な若い心や体ではたしてよいのだろうか。
 興味を持つといっても幅広いので、具体例を挙げてみると部活動がその良い例だろう。毎日授業が終わり放課になると行われる部活動であるが、放課になったということは、自分で自由に使える時間になったということであろう。
 授業中はある意味で自分の欲求を抑えなければならない面もあるかもしれないが、それならばなおさら、自分の持っているありあまる自己表現の欲求を表にムキ出しにすべきではないだろうか。
 辞書によれば、命がけで物事をすることを「一生懸命」と記している。今の無理のきく時にこそ、この一生懸命が大切なのではないだろうか。
 一生懸命と似た言葉に「まじめ」という言葉がある。これも辞書によれば、真剣な態度と記されているが、「一生懸命」に比べ、消極的で、ノルマの消化をするだけのことと定義できるのではないだろうか。
 また一方には、学校生活においても、私生活においてもまるで意欲を示さず、ノルマさえも果たさない人がいるようだ。そしてそれを当然だとさえ考えている。そんな人や、生活全般において情熱をかけて何かをやっている人をあざ笑い、自分は何もせず、ただ毎日の生活を送っている人も少なくない。そんな熱を感じない冷め切った若い心や体では、これからの人生は暗闇であろう。
 自分の一生をひとつのストーリーと考えるなら、死ぬ間際に振り返れば、やはり主人公は自分だろう。どんな物語の主人公でも必ず燃えきっているし、それと同じように、自分の一生のストーリーの主人公も燃えるべきではないだろうか。
 「燃えきる」「命がけで物事をする」ためには、まわりの人の言うままにノルマを消化するだけではなく、その消化したものを、若い心や体で別の違うもの「活力」「忍耐力」などに高揚すべきだろう。また、その昇化する作用こそが燃えることであり、一生懸命な姿となるのではないだろうか。
 本校生の現状を考えると、「まじめ」と「一生懸命」の違いを論じようとしても無駄かもしれない。何も使用としない人が多過ぎるからだ。
 とかく、無気力、無関心、無感動と批判されがちななかで、自分の殻に閉じこもったり、消極的な態度をとるののではなく、若い今のありあまるエネルギーを使いきって、自分の人生のおける主人公の存在を明確にし、自分自身の内だけにでも、その情熱の軌跡を残しておくべきではないだろうか。
 「やればできる」に価値はない。「そのうちやる」と考えるのも、危険だ。若い時は、どんどん過ぎ去って行くのだ。

 今読むと、何と自分を擁護するような内容かと恥ずかしくなる。笑
 部活動ばかりやっていた自分を。

 この文章は、私の許可を得ることなく教頭先生が地元の中学校に講演に行った時に使ったそうである。
 勝手なことを…笑
 なぜかえらく教頭先生はこの文章を気に入っていたようで、私も当時は嬉しかったけれど、こうして読み直してみると我田引水な感があっていささか、困ったなぁ、だ。 






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2003年03月05日(水) 書き始めてみましょう…か

 日記って、人に見せるものなの?とも思う。
 でも、書きたいことをランダムに書いて、ランダムに読んでもらえばいいか。ま、深く考えないようにしよう。






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 ぼちぼち、思うこと、考えること、悩むことを書いていきたいと思います。

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 「変人」とは、おかしいことではないらしい。
 変人と呼ばれるには、まず「普通」の人になって、その上で自分のキャラを開花させることらしい。


久方 堕世 |HomePage

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