Author : yuzu

 


ジョジョの話


ジョジョは順調に消化している。
今、第四期
明日で第五期まで見終えれると思う。このペースでいけば。
あまり話に関係ないかと思うところは飛ばしながら。

第一期は、ジョナサン・ジョースターとディオの石仮面を巡る闘い、それから二人の闘いが終わり
ジョナサンの孫のジョセフ・ジョースターが主人公に。

第二期は、さらにジョセフ・ジョースターの孫の空条承太郎が主人公で、今度はジョナサンの体を乗っ取って復活したディオを倒しに日本からエジプトへ向かう冒険の話。

第三期はその続きで、エジプトにたどり着いてディオと対戦。

第四期は、ジョセフの孫の空条承太郎が、ジョセフの隠し子を訪ね、その町で敵と戦っている。

共通するのはジョースターの血を引く人達には特殊な力があり、ディオとの因縁から逃れられないこと?

第二期からはスタンドと呼ばれる能力が新たに出てくるけど、
第三期までは、ディオを倒すため、あくまで戦闘がメインでしたが、
第四期は必ずしも戦闘が目的ではない場合もあるのね。
レストランのシェフとか漫画家とか

しかも悪人じゃない人はもちろん、悪役として登場したキャラも結構仲間になるんですよね。
これは第一期から共通することで、驚くべきことでもある。
殺されかけたのに、操られてたとか、もう悪い心を改心したからといって、すぐ、仲間として受け入れられる?
現実では絶対ありえないと思うけど、ジョジョの世界では普通にそういうことが受け入れられてるんですよね。
あまりにも普通に行われるので、見ている方がそれが正しいんじゃないかと思わされる。

これも鬼滅の刃の、悪役にも優しい心を向ける
というところに通ずる気がします。

しかし、ジョジョの奇妙な冒険は一体どういう物語なのかさっぱり分からない。

最初は石仮面とか柱の男、ディオという強敵に挑み、時には仲間を失いつつ、初期には主人公も死に、
その妻も、仲間達も寿命でこの世を去り、
次の世代に行ったらスタンドという能力が追加され、もはやジョジョが誰なのかもさっぱり分からないし、
奇妙な冒険の話なの?

ジョジョが好きな人はジョジョのどこが好きなのか。
最初から最後まで全部?
あの世界観?

第三期までは常に敵が狙ってきて、休む間もなく戦闘してるってイメージで、
どれも強敵だから、戦闘シーンも迫力があったし、〜〜している!
とか、なぜかいつも断定形で語られる手法がクセになる感じで、熱いなーと思って見てました。
第四期はなんか違うんですよね。
承太郎が学生服じゃないからかな。幽遊白書の雰囲気に似てるなと思う。
人気作品の要素がかなり入ってる。
だからこれも人気作品だったということは全く否定要素のないところなんですが、
第四期はなぜ作られたのか。見続けたら分かるかな。
だって、第一期では若い頃を描かれていて、第三期までも主要キャラとして登場したジョセフ・ジョースター、二代目ジョジョが
第四期では年をとって、認知症の症状まで出始めてるとか、戦闘にも今のところあまり関わってないし、
死んでないってことはいいと思うけど、あんなに活躍してた人の老いをまざまざと見せつけられるようで、
切ない。

この切なさも作者の意図するところなのかしら。
そうだとすると、やっぱりジョースター一族の奇妙な冒険って位置づけが正しい?


こんなこと考察してたら時間が経っているじゃない。
ジョジョの世界に戻ろう。
しかし映画はどこの部分に焦点が当てられたのか気になる。
戦闘シーンが多くて暴力的だったり、グロだったりするけど、それでも引き付けられるのはキャラが魅力的だからだと思います。
1回仲間になったら最後まで仲間だし、いろいろありながらも仲間であることは変わらない。
みんなテキトーなようでいて、いつも仲間を思い合ってる。
そんな関係がいいのかな。ちょっと羨ましい。




前回の日記はネガティブ全開でしたが、
その後、届いた手紙を読んで心が少し癒されました。
人の言葉ってあたたかい。
読んでて泣いてしまう手紙でした。
そんな手紙を書ける人がすごいのか、何気ない言葉に心動かされるほど弱ってたからなのか
分からないですけど。
ジョジョを見終わったら、手紙と向き合う時間にしよう。
 

2020年05月30日(土)


ざわざわする。
この数ヶ月ずっと。

コロナもあるし、人間関係も。
好きな人のこともあるし、友達とのことも。

3月のグループトーク。
これが一番かな。

自分のダメなところ、足りないところ、
たくさん考えて、心が疲弊してる。

できないことを認めたら楽になれるよ、って
言葉にとらわれてる。

やっぱりみんな私と関わらない方がいいんじゃないって極論に達する。
私はきっと人を不快にしかしない。
いない方がいい。関わらない方がいい。

ネガティブの極み。

この日記あとで見返したらへこむんだろうな。

手紙を書こうとしてもポジティブな言葉が出てこないし、
私と話しても楽しくないよね、付き合わせてしまってるだけよね、とか

誰かとメールとかLINEとかしても、この書き方はダメだ、って思って
どう返せばいいか全く分からなくなって

好きな人にも距離置かれてるし、もう二度と話せないような気がする。

なんかもう心がもたない。

こういう状態は時間が経ったら解消されるんでしょうか。
誰とも関わりたくない。

今月中はジョジョを見て過ごす。
今日も相変わらず人が死ぬ。

ジョジョって、今まで学生服のイメージが強くて
不良の話なのかと思い込んでた。
でも、学生同士の喧嘩の話というわけではないのね。
能力者達と世界平和をかけた闘いをしてるんですね。
今日中に第二期を見終わって、あと3日でどこまで見れるか。
間に合わなかったらビデオコイン使って残りを視聴する予定。
見れるだけ見たい。
第一期と第二期と設定が全く違ってて驚いてます。
第三期はまた違うのかな。
しかし、その前にディオにたどり着いて倒せるのか。

ざわざわしていた中でも、ジョジョを見る時間は現実逃避できてる、ありがたい。
 

2020年05月28日(木)


なんと5月の日記はこれで 10日目。
こんなに更新したのはいつ以来でしょうか。
ホームページもなくなってしまって、誰の目にも留まることのない。
むしろ、だから気楽さはあるかもしれない。

でも、過去の日記を見ても同じことの繰り返しで、ネットに公開するようなことでもないような。
なので、ここ数日はスマホのメールの未送信メールとしてエア日記を書いていました。
その内容については完全非公開です。
私だけが知る。たぶん

過去の日記を見直していたのには理由がある。
手湿疹がいつ頃だったかしらー?と振り返っていました。
2013〜2014?
結構長い間続いてたのかな。
あれ以降もずっと、手湿疹を恐れています。
左の親指付近にはその後もずっとボツボツしたものが残っていたし。
でも、それは消えて、
今は右手の広範囲と左も少し、荒れてきてて
これが手湿疹にならないといいなあと思いながら見つめる日々。

前回は皮膚科に行って薬飲んだり塗ったり市販の薬も試して全然治らず
医者からは何もするなと言われたけど無理だし、
結局、とにかく水に触らない、水というか洗剤系に、
ということを徹底してたら治ったんですよねー。
洗い物をする時は必ず手袋をする、ということ。
今回もそうしたら治るかな。ひどくならないといいけど、と思いながらもう結構経つ。

未来のためにとりあえず今の状態を記録しておく。


続いての話題は、アニメ。
今更ながら、ジョジョの奇妙な冒険を見てます。
沼ってらっしゃる方がいるので、見てみようかなと。
主要キャラめっちゃ死ぬやん。
ジョジョまで死んだ時にはどうなるかと。
というかジョジョが死んだのにまだ続くんかいと、そういう衝撃もありましたが。
孫世代になっても死にそうにない人が死ぬし、
まだ、その辺までしか見てないので、どうなるのか分からないですけど、
本当にどうなるか分からない。
石仮面の柱の男達を倒してもまだ続くのかしら。

春に、コロナが流行する前に長崎でジョジョ展があっていたらしく、見に行かれたらしい。
その前にはイタリアにジョジョツアーで旅行も。
なぜイタリア?と思ったら、作中でヴェネチアに修行しに行くシーンがあるんですね。
聖地的な?
グッズも高額なものが多いそうで、ジョジョ人気って今もすごいんだなあと。

今のところまで見た感想としては、ヒロアカと鬼滅の刃にも通ずるところがあるなと。
ヒロアカの、力を放出する感じとか、その力が受け継がれるものであるのとか
鬼滅の刃の、呼吸法とか、展開の早さとか。一瞬一瞬で状況が変わっていくのとか。

人気作品には共通するものが多いんだなと思いました。
ストーリーやキャラクターなどは全然違いますよ。もちろん。
ではなくて、オリジナリティはあるけれど、人に訴えるものが同じ部分という気がして。

しかし、ジョジョは、人が死にすぎるところはオリジナリティすぎるかな。
他の作品は大事な人物は死なないですよね。
死にそうなところまで行っても、誰かに救われたり、回避したりするのに、
ジョジョは潔く死んでいく。
子供の頃見てたらどんな影響を受けたかしら。
人は必ず死ぬ、どうやって死に行くか、というところと向き合い、今とは違う道を進んでたりしてたのかな。
全く分からん。
今は、キャラが死んだことに対して特に悲しくも感情移入もせず、そうか死ぬのか、くらいの温度で見ていますが、
子供の頃見てたらもっと衝撃をもしかしたら受けたのかな。
とりあえず続きを見ます。

エールは、休止になったら最初から再放送らしいですね。
うーん、それはちょっと微妙。見る人いる?
最初から見てみよう、って人はいるのかしら。


今月中にAI崩壊を見るかどうかで悩んでる。
AIね、あまり気が引かれないんだけどね
勉強のためというか、理解を深めるためというか。
ジョジョも今月いっぱいだから、ジョジョ次第かな。


タイから帰国されてから全く話せてない。
2週間経ったから隔離期間も終わってると思うけどね、どうしてるかな。
途中連絡しすぎて、しばらく返事できなさそうって言われたから
連絡もできず、ひたすら様子見。
ストレスなの?なんなの?

分からないからしんどいな。でもほっとくべきなのか、
きっと今月中は何もしない方がよさげ。
緊急事態宣言が解除されてからの方がしんどいんだけど、、
 

2020年05月27日(水)


最近『エール』を見ています。
志村けんさんの遺作ということもあったので、見てみたらなかなか面白くて。

作曲家をしているゆういちがスランプで、作った曲ことごとくボツになったり、
志村けんには「で?」
って言われたり。家での回想シーンで窪田正孝さんが「で?」って再現したのが、志村けんとシンクロしてたのも面白かった。
そんな状況ではたしてどうやってスランプを抜けるのだろうかと思っていたら、妻のおとの行動力がすごかった。
早稲田の応援歌の依頼で、応援団長に夫の心を動かしてくれと訴えたシーンいい。
心動かされるということがやっぱり人の原動力なのかしら。

はたして来週はどうなるでしょうか。
一区切りついたから、ここまでで見終わるのもありかな。
見るか見ないかは来週になってみないと分からないですが、このドラマも来月までで休止。
新しいドラマがないのは仕方ないけど、新しいドラマが見れないのは寂しい。

その後、テレビでは別の番組が流れていましたが、
ある瞬間に父がパッとチャンネルを変えたら、元サッカー日本代表の武田さんの映像が流れていました。
そこでベストゴールが2シーン流れて、本人が仰るには、ごっつぁんゴールと呼ばれていたそう。
その1つは、かかとにあたって入っちゃったゴールと実況されていました。
しかしご本人は、ゴールを狙っていたのだと仰ってました。
ボールや選手の位置を考えてそこに入ったのだと。
いつもゴールを狙っていると。
なるほど、たしかにそう言われるとそうかも。
そのポジションにいたからゴールが生まれたというのは確かですし。
なかなかあのゴールは見れるものではないなあと思うし、やっぱりすごい人なんですね。
サッカーは長いこと見ているつもりでしたが、選手の動きや、どういう風にして生まれたゴールなのかとか、
解説聞かないと全然感じてないんですよね。
そんな風に計算されたゴールなんだなと、いつも思います。
佐藤寿人とか。

そんなふうにして、私はその番組にロックオンされてまして、
その後始まったコーナーも、そのままなんとなく見ていたのでした。
しかし、ここからが今日のメインです。
そのコーナーは丸山くんの一人飯紹介コーナー?でした。
自分で作った料理を写真に撮って紹介されました。
今日の1品は、トーストに玉ねぎのみじん切りとツナ缶?を混ぜ合わせたものを乗せて、チーズをかけて焼くというシンプルなもの。

今日はこんなシンプルなメニューだったけれど、その前の週などには、もう少し凝ったちゃんとした料理を作って紹介されていたらしい。
それで、丸山くんが、その時のことを振り返って、
作ってる時は良かったけど、その後、なんで1人でこんなもの作って食べてるんだろう、と1人で食べる虚しさがすごかったと仰った。
それも共感できたけど、
他の共演者の人達が、自分もあの後作ったよ、と報告すると、
途端に丸山くん嬉しそうな表情になって、報われる、と言いました。
これも分かるー。

こんなことして何になるんだろう、と思ってやったことが、誰かが認めてくれる、肯定してくれる
それはすごく嬉しいよねー

今日の料理は、男の一人飯なんて、こんなもの、と無理して作ったものでなく、
力を抜いて作った、と弱さを隠そうとせず堂々と見せてくれる姿に好感が持てたし、
その後の共演者との温かいやり取りも、私も救われました。
温かいなーと思ってる間に番組はエンディングを迎えたのですが、締めの言葉がまた良くて、
丸山くんが「無理せずねー」って。

最近、テレビをつけると、リモートなんちゃらばっかり特集されてて、
リモート飲み会、テレワーク、オンラインレッスンや趣味のサークルまで!
みんな新しい生活様式に順応してそれなりに楽しく過ごしてるみたいなのに、
私は全然そういうのには対応できないし、
ダメだなーと思っちゃって、
そういうところからも鬱々としていたのでした。なので

丸山くんの言葉に救われる。
無理せずねー、ありがたい言葉です。
来週も見てみようかな。

次はどんな料理が見られるでしょうか。
めっちゃ気合い入った料理とか出てこないといいけど(笑)
いい具合に力の抜けた料理が見たいです。
 

2020年05月23日(土)

『夜を乗り越える』又吉直樹


『夜を乗り越える』を読みました。

又吉といえば芥川賞受賞者。
なぜ芥川賞を受賞されるほどの本が書けるのか、そもそも本にこれほど親しまれてる方だったのだと
この本を読んで知りました。

なぜ本を読むのか、ということに向き合われていて
本を読むのは、共感と新しい感覚と出会う為、というところが大いに共感できます。

又吉は
太宰治との出会いで大きな影響を受けられたようです。
太宰治の小説のキャラクターに自分を重ね、同じ考えの人がいるということに救われているらしい。
『人間失格』を年に一度は読まれているのだとか。
そして、読む度に新しく発見することがあるらしい。

そういう風に言われると『人間失格』が気になって仕方なくて、
今日借りてきちゃいました。
私は何かを感じられるでしょうか。

他にも又吉が影響を受けた本がいろいろと紹介されています。
紹介というよりも、この本に出会って衝撃を受けた、本は面白い
だから自分は本を読むのだと、
ひたすら、そんなことを書かれています。

なのに最後まで飽きさせない。
同じことの繰り返しのようでいて、読み進めるほどに、理解が深まる。

そして、いちいち書いてあることが興味深く、芥川賞受賞されるのも納得の文才を感じました。
又吉ならではの感覚だなと思わされるところが多々ありました。
太宰には笑いがある、というんです。そう言われると、私も笑いを感じられるのか確認したくなります。
私にも感じられるのか、又吉だから感じられるのか、そんな視点からも読んでみたい。
そして、サッカーをされていた経験もあられるので、ところどころにサッカーと重ねて説明をされてます。
私もサッカーに例えて何かを説明することがあるので、通ずるものを感じます。
それから、たとえが面白い。
全員が同じ考えだったら毒キノコをみんなで食べて全滅とか、
芸術のすごさが分からない人はクマの怖さも理解できず死ぬんじゃないかとか、
本を読むというところで、そんな発想ができるのは芸人さんならではだなと思います。

そして、本や作家さんの紹介のところでも、この人はこんなところがすごいんだ、
自分はこんな時に出会ってこんな影響を受けたんだ、
というのもそれだけでも面白いですが、
又吉が言うには、本のある一部分を切り取るだけではその言葉の良さは伝わらないんだと、
その言葉の意味を伝えるために物語が必要なんだと。
その部分もなるほど、と思えた箇所で、
その視点から考えるなら、なぜ本を読むのか、ということについて、これだけ長く過去のことから関わってきた人達のことから、自分の体験を書き、
だから本を読むのだと説明されているのだなと納得できるし、
本や作家さんの話でも、どういう状況の時にその作家さんや作品と出会ったのか、から書き始めるということも納得できました。

どういう状況の時にどんな本に出会ってどんな影響を受けたのか。
この本は、それを軸に書かれています。

最後の方で、これであと2年は生き延びられる、と書かれていたのが印象的でした。
本を読むのは生き延びるため。

なぜ生きるのか、という言葉もありました。
なぜ本を読むのか、という問に向き合うと同時に夜を乗り越えること
辛い気持ちを抱えて過ごしてきた日々を乗り越えてきたことを振り返られている。
夜を乗り越えることとなぜ本を読むのか、ということが同義というのは共感できるけれど、そのテーマで文章にしてしまうのはすごい。

太宰治と芥川龍之介に、生きてもっとこういうことを書いてほしかった、と述べている箇所も印象的でした。
作家が死なずに生きていたらどんな作品を書いたのか
そんなこと考えられるんだなと。
私が思っていたよりもずっと深く本と関わって生きてこられたというのが
この本を読むと本当に理解できます。

太宰治の他にも紹介されていた本や作者さんがすっかり気になってしまってます。
古井由吉さんという方が特に興味深くて、
今日図書館で借りてきましたが、なんと今年亡くなられていました。
又吉は何を思っただろう。

本の最後で、僕はまた読む側に戻る、という言葉で終わったんですが、
できることならもっとずっと、又吉が本について語る文章を読んでいたかった。

すっかり又吉に気持ちを持っていかれました。
恋焦がれるほどではないけど、今何してるのかなと気になるくらいには。
今日も本を読んでいるのかな。
またいつか本について語ってくれるといいなと思います。



・・・・

ここからは私の話。
なぜ生きるのかというのは私のテーマでもあり、彼のテーマでもある。
だからこそ、この本に共感するところも多かったようにも思うし、
同じ思い?を持っている人が、本を読むことで救われているというのなら
私が本を読むのも、決して間違いではないのだと正当化しようとしている。
私も本で救われるといいのにな。

帰国されてから一度も連絡が来てなくて、かなり精神的にきてます。
このまま連絡来ないんじゃないかと不安。
こんな時どういう立場でいたらいいんだろう。
何しても気分が浮上しなくて、鬱々と過ごしてます。
そんな中で『夜を乗り越える』を読んで、共感したり、新しい感覚と出会ったりしながら
読んでる間はフラットでいられた。
私にとっても本は夜を乗り越えるためのものと言えるけど、
読み終わった今は、又吉の本への情熱がもうどこにも感じられなくて
私は一人なのだと実感して、さあどうしようかと途方に暮れてます。
本には救われるけど、全然救われない。

同じ思いを抱える人の最高峰として又吉直樹を崇めながら生きていくかもしれないです。


それにしても連絡来るといいな。
今の状況はつい悲観的になってしまう。
私も、これであと2年は生き延びられる、って言いたい。
 

2020年05月17日(日)

叔父さんが亡くなってから1年


この日記は5/17の日記、又吉の『夜を乗り越える』感想日記を書いた後に書いてます。

叔父さんが亡くなって1年、早い。
生前の叔父の言葉で印象的なことがあって、
誰かに、地元に戻ってること連絡したらいいのにって言ったら、
病気で弱ってる姿を見せたくないと。
でも、誰かから連絡が来ることを待ってる自分もいると。

叔父さんとは長い間、離れ離れで生きてきたので、あまり、話をしたこともなく、
何を考えているのか、いつものらりくらりとかわされ
全く分からない人だった。
けど、その連絡の話に関しては通ずるものを感じました。
自分からは連絡しないけど、誰かから連絡が来るのは待っているという辺り。
まあ、私は待ってても連絡してくる人はいませんが、
叔父さんは亡くなる前に連絡してくれた人がいて、
その人が会いにも来てくださった。
そのことで叔父さんも救われたんじゃないかなと思ってます。

なんで、という言葉を巡り悩んだこともありました。
私は叔父を理解したくて、発していたけれど、叔父さんにとっては責められているように感じていたらしい。
思えば私はこの辺りから自分のダメなところをより自覚して悩むようになった気がする。
地元に帰ってから1年経たずの他界となってしまったけど、濃い時間でした。

でも、叔父さんが亡くなったことは悲しかったけど、
去年より今の方がきつい。
叔父さんが亡くなった時には彼が私の話を聞いてくれたので、救われたんです。
今は、その人が不在で、心の安定が保てない。
改めて大きな存在だということを実感しています。


猫のターちゃんが他界してからも1年。
ターちゃんにはいまだに会いたいなと思う。
今いる猫もかわいいけど、ターちゃんは特別なかわいさがあった。
ニャッニャッ、って鳴く声が今も聞こえるんじゃないかと思ってしまう。
ニャーじゃなくてニャッって鳴いてた。
なんであんなに早く逝ってしまったのかな。
会いたいな。
 

2020年05月15日(金)

久しぶりに散歩に行ったお話


久しぶりに散歩に行った。
最近、手紙を出しに行く(しかもこれもまとめて1回とか)くらいしか外に行ってなくて、
すっかり引きこもり化していたさ中の久しぶりの散歩。

今日は快晴なので日傘を差して。
外に出ると猫が近寄ってくる。
もし着いてくるようなら断念、と思ったけど、ついてはこず、お別れして。


近所の人に会う。
犬の散歩中でした。
挨拶のみですれ違う。

うちの周りは田んぼと用水路ばかり、少し遠くに車の行き交う音くらい。
そんな道を歩いていくと物産店を通るけれど、今日はシャッターが閉まっていました。
今日が休みなのか、自粛中なのか。
その反対側の土地には船がたくさん停めてある。
漁に出ない船?
今日は結構たくさん停まってました。
停めてあるという表現でいいのかな、車と同じ感覚で停めてあるという言葉を使ったけど。
さらに進むと、坂道があって、そこを上り切ると有明海に通ずる川の河口に到着。
干潟の海なので、ムツゴロウがたくさんいます。
時間帯によっては船が行き交うけど、今日はお休みかな。
もう帰ってきたのかもしれません。船が停まってたのはどっちなんだろう。

春に通った桜並木の木々はすっかり緑に。
その緑の下を半分ほど歩いたところで、階段を下りて沿岸部へ。
ムツゴロウがぴょんぴょん跳ねる音と、波が静かに打ち寄せる音。そしてたまに通る人の気配。
それくらいの静けさの中で、考えるのはやはり祖母のこと。
よく連れてきた場所なのでですね。
祖母が生きていた頃、何度も何度も訪れました。
あの頃は私もよく散歩をしていた。
祖母の気分転換の為にとばかり思っていたけど、今思うと私の健康の為にもなっていたのかな。
祖母が亡くなってから散歩に来てない?と思いきや、
昨年の今頃は、あの彼と会う日に向けて体力維持とダイエットのため、よくお散歩していた。
ということは秋までは定期的に来ていたことになりますね。
それ以降、お散歩に出る頻度がぐっと少なくなって
コロナ騒動に突入して、ますます引きこもりに、という今。

そんなことを考えつつ、再び歩き始める。
名残惜しくて、あちこちムツゴロウが見えるスポットを巡りつつ、離れる。
すると、先程、犬の散歩をされていた近所の人が、道の向こうから現れました。
今度は少しお話を。
なんでも、犬が病気で5分しか散歩できないそうで、しかし飼い主の方が5分の散歩では足りず、犬から見えない道を通って散歩している、とのこと。
犬が見たら吠えるのだそうです^^;
犬を飼ってるとやっぱり散歩が日常的になってて、健康に良さそうですね。
猫を飼ってると散歩に行かなくていいから5分では足りないという発想がまず出てこない。
大変だなあと思いながら、すれ違うも、私ももっと歩かねばと触発されて、
普段なら曲がるところをまっすぐ進んでみました。
そうすると、田んぼの中に川(やっぱり用水路というべき?)が現れ、
左手に水を見ながら歩きました。
決して綺麗な水ではないですが、水がある光景はいい。
だから散歩の時には海を見に行きたいと思うし。

いつも曲がる道を曲がらずまっすぐ進むと、こんな景色を見ながら散歩できてたのか、と
新たな発見でした。
祖母が生きていた頃に、この道を進んでみれば良かったな。
ちなみに、曲がった先には右にも左にも田んぼしか見えない光景です。
道はでこぼこしていて、車イスで進むにはなんとも通りづらい道でした。
その道にも足元に季節季節で草花を見れたりはしていましたが。

そのまま道に沿って歩き、川は途中でお別れ。
ブドウを栽培されている箇所を通り過ぎると再び川のある道に。
あとはその水を見ながら歩くと家の近くに戻ってきます。
晴れた日には、水面に木や建物(ぽつりぽつりとある程度)が映り込むのを見るのが好き。
ポチャンという音は、魚か亀。
亀かな。
水面に顔を出している亀が水に潜る音。
たまに人が近くを通り過ぎても気にせず泳いでる亀も。
亀が泳いでるのを見るのも好きです。
亀はかつて祖母が飼っていたので、祖母とのお散歩の時にも、亀を発見すると笑顔になっていました、

やはり散歩に出ると祖母のことを思い出す時間も多かったですが
今日も家の周りはとても平和でした。

近所の人ももう家に戻られていて、庭仕事をされてました。
犬は姿を見せず。

数軒進んだところにうちの猫がいました。
一瞬警戒されたけど、にあん、って呼ぶと、近寄ってきてじゃれる。
なんてかわいいんでしょう〜(キラキラ)
さあ帰ろうねーと言いながら帰宅。
私が歩き始めるとちゃんと家まで一緒に歩いてくれる。
出がけについてくるかな?と危うかった猫です。
もしかして待っててくれた?
本当に癒される。

という久しぶりのお散歩でした。
今日は文章の練習を兼ねて。
 

2020年05月13日(水)


今って、コロナ関連の実態はどうなってるんだろう。
だいぶ新規感染者数は減ってるような気がするけど、死者数は日々増えますね。
重症者がどれくらいいらっしゃるのか。
軽症と呼ばれる方達も、やはり高熱が続いてる人がまだ多いのか、
最近もうその辺りが追えてない。
石田純一さんはまだ闘病中?
私の県では数名いた重症患者さんがICUを出られたそうな。
このまま皆さん無事に快方されるといいですが。

そして帰国者の方々は。今も2週間隔離生活なのかな。
やっと先日帰国されたようなのですが、その後返信が来ない・・・
一体今どんな状況なんだろう
帰国できた報告の前にストレスという言葉が出ていました。
さっそく大きなストレスに苛まれてらっしゃるのだろうか。
心配。
何年も続いてきた関係ではあるのに、やっぱりこうして連絡がちょっとでも途絶えると
あーもう絶対来ないって思ってしまうんですよね。
返信があったとして、どんな言葉をかけたらいいのか悩む気がする。
向き合いたいと思ったばかりなのにもう自信がない。
こんなだから返信がないのねきっと。
寄り添うとは。
 

2020年05月12日(火)

記録しておこう


ふと過去の日記を見直していて、肝心なことを日記に書いてなかったことに気付く。

その時はあえて書かなかったのかもしれないけれど、今、記録しておきたい気分なので。

3月に祖母と叔父の合同での一周忌を済ませました。
お寺で親戚が集まって、本堂では間隔を空けて椅子が並べられていて
読経だけで即解散。
お寺の方ではお茶を用意して下さっていたけれど、親戚の皆さんが遠慮されました。
コロナの影響、あちこちで感じていました。
もしこのウイルスの流行が今年でなく昨年だったら、私達は二人を看取れなかったかもしれない。
もしくはコロナに感染して亡くなったかもしれない。
そう思うと今年で良かったとも思ったりする。
どなたかにとっては今年も重要な年で、こんなことになって何もかも台無しになった人もおられるでしょうが。

そしてその翌週には友達の出産祝いに行きました。
その友達が来ていいって言ってくれたから行ったけど、怖かった。本当に。
赤ちゃんと出産直後のママにもし万が一のことがあったら責任取れないと思いまして。
幸いなことに無事に何事もなく日々は過ぎました。

そうか、この二つのこと、
記録してなかったのは、もし後から何か重大なことになったら怖い、と思ってあえて書かなかったんだ。
そうだった。

無事に何事も無かったと言えるようになった今、記録するというのは間違ってなかったのですね。

天祢涼さんの『葬式組曲』という小説を読みました。
この世界では、あえて葬式をしないことが定着していて、
しかしそんな中でも葬式をあげる人達がいて、
彼らはなぜ葬式をあげるのか、その意味に迫る作品でもあるのかも。
こんな曖昧な表現なのは、この捉え方が正しいのか分からないからです。

読み始めて、この設定に気付いた時には、今のコロナ禍に通じるものがあるかなと思いましたが、
あえて葬式をしないことと、できない
のとでは全然重みが違う、と
志村けん、岡江さんのことを通して思いました。
 

2020年05月08日(金)

GWは夕食作りに悪戦苦闘していました


世間では自粛期間で料理の回数が増えることを悩みとされていたようですが、
うちではそうではなく。
平日は自粛期間だろうと、食材配達業者から食材が届くので、レシピ見ながら、作ればいいわけですが、
休みの間はそれが来ない。
何を作るのか、ということですよ。それが悩ましいことでした。
一からメニューを考えて作って人数分に振り分けて、という作業のしんどいこと。

先週土曜から振り返ると
土曜は弟が事前予約してオードブルを買ってきて、母がそうめんを作ってくれました。
日曜は母がたけのこご飯を炊いて、あさり、とたけのこを使ったおかずとお吸い物を作ってくれました。
月曜は、土曜の余り物と、日曜のたけのこご飯の余りと、チキンカツを揚げて。
昨日は、豚丼と、ほうれん草とウインナーと卵の炒め物、豚丼はその後、母好みにとろみをつけられた私の料理ではないものとなり、
母が卵スープを作りました。
今日は、買っておいたギョウザを焼いて、ギョウザに取り合せるに相応しいものは?と考えて作る予定。
今のところ、皿うどん。

本当はもっと違うメニューに挑戦したいけど、取り合わせを考えるのも面倒で、つい似たメニューばかり。
皿うどんでなく焼きそばでもいいけど、麺が冷凍されてて、解凍するのがめんどくさい。
ちゃんぽんでもいいけど、どれも大して変わりない。
しかし、こうして悩み始めるとあれもいいこれもいいと、かなりの時間が費やされる。
もういいの、皿うどんで!と割り切る強さを持たなければ。

しかし、麺類以外でギョウザに取り合わせられて、豚肉を使えるもの、そして簡単に作れるものって何かあるかな。
ロールキャベツ、簡単って聞くけど、作ったことないんですよね。
簡単に作れるんかな。
キャベツともやしもあるからお好み焼きとかも作れそうだけど、
ギョウザとは合わないような。
キャベツともやしと豚肉で、とんぺい焼きとか
野菜炒めは一番簡単で早く作れますけどね。
ただ、野菜炒めは味付けがいつも一緒になるから、あまり作りたくはない。
一緒でもいいなら、野菜炒めばかりの毎日でもいいけど。
というか、皿うどんとか焼きそばとかちゃんぽんは野菜炒めと麺を取り合わせたようなものですね。
それでメインになるんだから、やっぱりメニューとしては優秀だな。

とりあえず今日はギョウザを焼くんだから。
そこだけは譲らないようにしよう。

その後は明日は食材がくるから、また土曜日は、シチューか肉じゃがを作ろうかな。

料理ってなんでこんなにめんどくさいんでしょうね。
料理というか、メニューを考えるのがめんどくさすぎる。
誰かメニュー、というか、最適な取り合わせを教えてくれる人がいたらいいのに。
一人暮らししてたらこんなことで悩んだりしないだろうし、そもそも自炊してなさそう。
世の女性たちは毎日、毎食、料理を作ってるなんてすごすぎます。

と、こんなことを書いていたら足の甲に猫が倒れるようにして寝ました。ころーんと。
猫は今日も平和だな。



先日のあつ森の件、やはり私がプレイすることはなさそう。
じゃあプレイしてなくてプレイする気もないのに、なぜ話題にしたのか
思い至ったのは、私の興味のある話題かもしれないと思ったから?
私のテリトリーに歩み寄る姿勢を見せてくれたってことかと。
そうだとすると、それはとても偉大なことじゃないの。
本当に?
その視点から改めて振り返るとたしかに思い至ることたくさんありました・・・
サッカーのことも猫のことも本のことも、
あれもこれも私じゃなくあちらから歩み寄ってきてくれた結果なの?
そういうことであれば、私の今までの行動は反省することばかりだ。

恋愛テクニック系のサイトでよく、相手から返信をもらいやすくするには、
というところで、
相手の好きな話、興味のある話をする、というのが紹介されてます。
それと一緒ではないか。
あつ森という言葉に対して私が取った奇行。
たしかに興味のある話は返信しやすいものですね。
ということは、私ももっと相手の好きなものを追求していくべきなのか。
ネガティブになってる場合じゃないじゃない。
この一連のことに思い至り気付けた流れはきっと、とても大きな意味があるはず。
成長したいな。
 

2020年05月06日(水)


あつ森って楽しいのかしら。
最初本当に何の略か全く分からなくて調べました。
正式名称は
あつまれどうぶつの森
らしい。
どうぶつの森、前から名前だけは聞いてたけど、ノータッチで、
(そもそも私の趣味は極力お金をかけないがモットーであるので)
あつ森と言われても、と思っていました。
そういえば、よく見ているゲーム実況者さんが最近、あつ森ばかり配信されている。
と気付くも、それでも、一体何がそんなに楽しいのか?という体で。
(あまりにも配信本数が多くて見る気になれない笑)


その内容概要を知ったのは朝のテレビ番組内で取り上げられていたので。
なんでも、オンラインで自分以外の人の島を訪れて、ユーザー同士で同じ空間を共有して遊べるのだとか。

私もスマホのアプリで、
(あつ森みたいにユーザー同士で同じ空間を共有することはできないけど、)部屋をカスタマイズしたり、
人の部屋を訪れたりできる、というアプリをやってるので、その紹介を見てやっと少し興味を持てたのでした。

コロナが流行し始めた頃、
現実では自粛生活で鬱々としていたけれど、そのアプリ内では何も起こっていないかのような、いつもと変わらない人達と世界があって、
その変わらなさにすごく救われました。
あつ森にハマる人もきっと、そういう理由もあるのではないでしょうかね。

あつ森でオンラインデートをしてる人達もいるらしい。
オンラインデート!羨ましい!

しかし、スイッチも持ってないし、島を開拓したり、自分でデザインしたり、私には向いてなさそう
と思い、やっぱり私には関わりないことにすぎなかったのでした。

それなのに今日、どこで買えるの?と調べ、定価を調べ、抽選販売のサイトに申し込んでみたり、
(当選したとしても買うとは限らない)
あつ森セットなるものがあることを知り、オンラインでやる為にはオンライン登録が必要で料金が発生するということ、
その月々の価格の違いやら、というところまで調べてしまった。
ちなみに楽天では時々、入荷されているらしいです。
今は注文できない表示になっていたけれど、そちらもお気に入りに登録してしまったという。

この心変わりは何かと言うと、
あつ森はやってるのかと問われたから。
タイにいても、あつ森フィーバーが伝わってるんですね。
まさかあつ森というワードを聞くとは思いもよらず。
それで、つい、一緒にできたらいいのにな、オンラインデートできたらいいなと浮きだったのでした。

やってない、と答えたら、この前(昨年秋)会った時に私が見せたスマホのアプリに似てると思ったから聞いてみた、とのこと。

とりとめもないやり取りだったのに、忙しい日々でも私が見せたアプリを忘れず覚えててくれたようです。
なんだ、ちゃんと私、存在できてるんだ。
と。
この感覚何度も経験してるのに全く慣れない。
なんて不思議なこと、といつも思います。
本当に不思議。

きっと忙しい人だからスイッチを買うことはないはず。ちゃんと現実も見えてます。
私があつ森をプレイする可能性は1%あるかないか。限りなくゼロに近い。
コロナが終わるまで会えないのだろうと思ったばかりだから余計にオンラインデートという、響きには憧れるのですけどね。
 

2020年05月04日(月)


今日のちびまる子ちゃんを待ていたら、紙芝居と水飴の話だった。
これってとても昔に放送されたものでは?
子供の頃、水飴に憧れてて、
たぶん、この回を見たからだったんじゃないかと見ながら思いました。
グルグルと回して透明になった水飴をまるちゃんが食べた時の幸せそうな顔。
一体どんなに美味しい食べ物なんだろうと思っていた気がする。

しかし、なぜこの作品は長く愛されるんだろう。
私は、まるちゃんがいつもお姉ちゃんやお母さんを怒らせることばかりして全然反省しないのがあまり好きではないのだけれど。
まさに今日、お姉ちゃんが言っていた、
まるちゃんは要領よく笑って誤魔化して生きていけるけど、まじめにやってる自分は要領よくなくて割を食ってばかりで、イライラする、と
いうのが、とても共感できる気がする。
でも、子供の頃、そんな要領の良さを身につけるのも大事なことだったのかもしれない、と今は思う。

最近本当に感じるけど、私はなんでも自分のせいのように思ってしまう。
たとえば他人が怒ってるのも、誰かとやり取りしてて連絡が途絶えるのも。
きっと、相手の事情もあるとは思うけど、あれがダメだったかも、やっぱり私に至らないところがあったんだろうな、って思ってしまうのよね〜

メールのやり取りをしてた二人からも連絡来なくなった。
たぶんもう返信来ないんだろうなって思ってる。
せっかく分かり合える人と出会えたかなって思ってたけど、
もしかしたら、この人たちも私とのメールでしんどくなったのかも
って思ってる。
私から新たに連絡する気力もないし、
寂しいけど仕方ない。

誰かと知り合ってもこんな風にあっさりあっけなく途絶えてしまう
と思うと知り合うのも怖くなる。
けれどまた誰かと性懲りも無く出会うのかも。

きっと、二人のことは忘れても問題ないんだろうな。
というか早く忘れるべき案件かも?
でも、あの子のことはやっぱり無理。
最近はほぼ毎日やり取りしてたから、2、3、4日と返信来ないだけで、来ない日が長くなるにつれて
やっぱり私ではあの子にふさわしくなかった、とか
もう連絡来ないんだろうなとか思ってヘコむ。
だからといって私から連絡する気力もやはり無いんだけど、ひたすら沈む。
あと1週間経ったら連絡してみようかとか思ったりしながらなんとかやり過ごしていたら
タイムラインに投稿がされていて、なぜか
それを見ただけで涙が。
理屈じゃないってこういうことかな
たしかにそこに彼がいるということ
そして、コロナが終わるまで会えないな、ということ。
なぜこんなに私の心の中にいるのか
何年も考えてるけどさっぱり分かりませんが。
その後、私宛にも連絡が。
そんなことになってたのね、という内容で、
だから連絡する余裕なかったのね、と。
きっとそれなら私から新たに連絡しなくて正解だったはず。
コロナの影響でなかなか大変な状況になってらっしゃるようです。
どんな言葉をかけてあげたらいいのかな
 

2020年05月03日(日)


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