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2001年05月31日(木) 日々雑感:リクルート活動。弁護士の就職実態。

「弁護士になるための就職活動をする」と聞くと、何のことかと怪訝に思う向きもあるかもしれない。

だが、司法試験に合格しただけで、自動的に弁護士としてのスタートが切れるわけではない。まず、どこかの弁護士会に所属しなければならない。それだけでは勿論駄目で、既存の事務所に「就職」をして弁護士としてスタートを切るのが大多数だ。(もっとも中にはいきなり開業される方もいるが現在は少数である。)

いわゆる大手渉外事務所と呼ばれる事務所が、20名を超える大量の採用者を出すようになったのは、ここ2年くらいのことだ。(現在最大規模の事務所でも、我々の時期は6名しか採用しなかった。)
すると、売り手が圧倒的に有利な市場なのではないかとの疑問を感ずるのは当然である。

現在、司法修習生の数は約1000名である。しかし、実際には裁判官、検察官及び一部の大手事務所に人気が集中する傾向があり、若くて優秀な修習生は、大手渉外事務所、裁判所、検察庁で取り合いになる。一方で、多くの事務所を回ってもなかなか就職が決まらないというケースも出てきているらしい。ロースクール制度が導入され3000人規模に増員することになると、修習生の就職はより過酷になると思われる。

それに伴って、就職活動の開始時期が早まり、事務所によっては弁護士会の取決めよりも早い時期に「内定」を出すところもあるらしい。さらには、合格後すぐ事務所訪問を開始し、修習に入る前に「内定」をもらったとの噂を聞いたことがある。

個人的には、修習に入って実務を経験するまで決められないと思うのが正常な感覚ではないかとも思うのだが、この流れは如何ともしがたい。完全なロースクール制度になれば、修習生の年齢もほぼ揃うので、アメリカのように、有名ロースクールを優秀な成績で出た者は人気の高い事務所へ、という流れができ、必然的に、ロースクール入学が就職に直結することになるであろう。採る側にしてみれば、面接などの主観的な判断よりも客観的な尺度が一つ増えるわけで、これを重視しないわけには行かない。

修習生時代に叔父の事務所を訪問したとき、叔父は、「これまでの時代が一番良かったと思う。君たちの時代は大変だね」と言っていたが、今、その言葉が実感できる。しかし、競争は悪いことばかりではない。アメリカのように、市民がより司法を身近に感じ、企業がより弁護士を有用に使うのであれば、より快適な社会になる可能性もある。

しかし、日本の司法へ与えられる国家予算の少なさは(国家予算の0.39%である!)、どう考えてもおかしい。司法制度全体の改革なくして、企業の自由に動かせる弁護士をより安く雇おうという発想のもとでこの司法改革が動いているのであるとしたら、これは由々しき問題である。別に弁護士あたりの収入が減るというのが問題といっているのではなく、非常に歪んだ形で司法が機能する時代が到来する可能性が強いと思うのである。財務省が裁判官検察官の増員に異を唱えた、との報道がなされ、財務大臣がこれを否定するという茶番劇があったが、憲法をもう一度学びなおして欲しいと切に思う。財務省は、或いは最高裁は、裁判官のみならず、裁判所書記官も足りず、毎日10時、11時までサービス残業を恒常的に行っている現状を本当に把握しているのか、と文句の一つや二つも言いたくなる。






2001年05月30日(水) 日々雑感。:あのbarには今夜も行けない。

システム関連の作業をし、一日が終わる。

意外に思われるかもしれないが、弁護士も、事務所の内部の仕事を分担するのだ。特にここまで大規模化が進むと、もはや普通の中規模の会社と同じである。事務フローの合理化、効率化が目下の課題である。システム関連の環境整備は欠かせない。

弁護士の業界は、普通の会社よりもIT導入が遅れていることも多いと聞く。しかし、最近ではこの業界でも、システム関係は充実していることが業務効率を上げるために非常に重要であることは常識になりつつある。また、対外的な印象を大きく左右するweb siteも、デザイン段階から参加する必要がある。

メールサーバーの異常などの対応で追われ、本来の仕事が、若干ビハインドになりつつある。

あのbarに今夜も独りで行こうと思っていたのだが、今夜はもう無理かな。







2001年05月29日(火) 随想:五月祭/ジジェク「脆弱なる絶対」

先週末の日記より。

「久しぶりに本郷に向かった。文研の後輩の出店を冷やかしに行くためだ。

五月祭(「さつきさい」、ではない。「ごがつさい」と読む。)で、構内は賑っていた。一種の祝祭的雰囲気。だが、虚構の祝祭空間にしては、出来が悪い。祭られるべきものがないのは当然だが、全力で祭る演技をするほどのウィットすらない。いつものことだ。

極めて細々とながら、何とか続いている文学研究会の後輩たちと話す。
束の間のかみ合わない会話。もう8年になる。仕方あるまい。
アイスパインなるものを売りつけようと連呼する女子学生たちを見ていると、軽い眩暈を感じる。曇天の空。

私の長居すべき場所ではないことを再確認する(判っていたはずではなかったか?)。赤門を通過し、祝祭空間の呪縛から逃れ去る。

学生時代の行きつけの古本屋を再訪。
スラヴォイ・ジジェクの本を発見し、手に取る。
スロヴェニアのリュブリアナ大学の主席研究員である彼の著作は最近日本で翻訳され、精力的に紹介されている。ラカン論を彼独自の立場で編みなおした「幻想の感染」は、すでに持っているが読みきっていない。

青土社から上梓される彼の翻訳は戸田ツトムの装丁だ。ほとんど純粋に装丁に惹かれて購入。
「キリスト教の遺産と資本主義の超克」という思わず赤面しそうなサブタイトルが付けられているのが難点だ。というより、ジジェクをもっともらしく読む行為自体が、既に赤面すべき行為なのかもしれない。

日暮れ頃、舞い戻る。見ると、後輩達が、四角い缶を前に途方に暮れている。
聞くと、ホワイトガソリンであるという。綿飴の出店をしていたため、発電機用のガソリンを購入したが、余ってしまったらしいのだ。処分に困る。ガソリンスタンドで処理を頼むべきだ、とありきたりな助言をする。

文学とホワイトガソリンのイメージが、安田講堂のあるこの地で、一つの焦点を結んだが、いまは滑稽というしかない。

日、暮れて、帰る。平凡な一日。」






2001年05月27日(日) 書評:佐野眞一「誰が「本」を殺すのか」

佐野眞一「誰が「本」を殺すのか」読了。

気鋭のノンフィクション作家、佐野眞一によるドキュメントである。大宅賞を受賞した後、最近では一審無罪の後、異例の勾留を認められ、高裁で有罪となったネパール人の被告人が関係する「東電OL殺人事件」のルポが評価されている。この「誰が「本」を殺すのか」も、至るところで平積みにされているのを見かける。それも、息が長い。意外に関心を持っている層が存在していることに驚く。

タイトルはいささか刺激的にすぎるきらいはある。だが、盛んに議論される再販制度の廃止や、本離れ、読書離れ、従来型書店の廃業の激増などの事情を考えると、「本」をめぐる書店、流通の状況は筆者の問題意識通り、一種の危機的状況にあるといっても過言ではなかろう。(余談ではあるが、本離れというのは、正確な用語ではない。硬い本から離れているだけであって、柔らかい本は売れに売れている。たとえ活字ばかりで埋め尽くされた本であっても。)

次の一文が、端的にこの危機の状況を指し示している。

「私は、これを「本」をめぐる文化状況論として書いたわけではない。「本」の世界に今起きている事件ルポルタージュとしてこれを書いた。いま「本」を殺そうとしているのは、誰なのか。出版社なのか編集者なのか取次なのか。それとも書店なのか図書館なのか書評家たちなのか。いやひょっとすると私を含めた著者たちなのかもしれないし、意外にも読者なのかもしれない。」

この疑問から出発し、筆者は地道なインタビューを繰り返す。「本」が作られてから読者の手元に届くまでの過程を分析していくうち、どこか一箇所が目詰まりを起こしたのではなく、「本」を巡る構造的に極めて硬直的なシステムが存在することが発見される。この意味で、このルポは、発見の物語でもある。

電子図書館について、基本中の基本であるランカスターの著書への言及がなかったのは意図的なのか、疑問に思わないでもない。図書館への理解についても、少々過激でバランスを失した見解を述べているのも気になる。

だが、総じて、すばらしい出来映えであると素直に感心してしまう。筆者は、ドキュメンタリーのセオリーどおり、足を使って取材を重ね、場合によっては、再取材も積極的に行っている。インタビューの数には、筆者の手抜きをしない姿勢が現れている。また、現在の本をめぐる構造的状況の一面を語ることのできる重要人物をインタビューの対象として選択している点は、高く評価される。紀伊国屋の松原「閣下」のインタビューは、もう少し長くても良かったように思うが。

私が通いつめていた盛岡市の「さわや」という書店の店主が数々の伝説とともに賛辞で紹介されているところも、気に入った。あの本屋はいま、どうなっているだろうか。ページを繰る手をふと休めて、思い出にふける。








2001年05月23日(水) 東京リーガルマインド対アドビシステムズ他2社

ニュースになったので既にご存知かもしれないが、あえてここにも記しておく。

司法試験予備校として有名な東京リーガルマインド(LEC。筆者も講座を受講した事がある)が、高田馬場西校において(筆者が受講したのは正にここである。)コンピューターソフトを不正にコピーして使用していた問題をめぐり、米国の大手ソフトメーカー3社が約1億1400万円の損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁はLECに計約8500万円の支払いを命じる判決を言い渡した。

法律予備校が、法律違反を組織的にやるということ自体、一般の感覚からすれば何ともしまらない話ではある。Incognitoと呼ばれるソフトウェアを用いて、同一シリアルナンバーでもLAN上に存在できるような仕掛をしていたそうだ。

被告側の主張は、その後、不正使用を止め、正規に購入した製品をインストールし、使用していたのであり、ライセンス契約は将来のみならず、一度インストールする事により過去にも遡って損害を治癒するとの主張であった。

組織的なソフト不正コピーで損害額を算定した判決は初めてのことであり、損害額の算定についての判断は注目に値する。

本判決は、損害額を「弁論の全趣旨」から小売価格としている。
これは、使用者が受けた利益を損害額と推定するという著作権法第114条の適用の結果と考えられる。しかし、小売価格の1.5倍の損害額を主張した原告の請求は退けられた。

ここに、疑問がある。ライセンス料自体は、小売価格よりも低いはず(すなわち流通過程に消える部分があるので、ソフト会社に入るライセンス料は実質上かなり低いはず)であるので、被告は、「被告が受けた利益の額」を争う方法が考えられたと思われる。なぜ被告はこの点を争わなかったのだろうか?(「弁論の全趣旨」から判断されているところをみると、争っていないのであろう)

興味深い判決なので、是非、ご一読を。






2001年05月22日(火) リニューアル

年初からの仕事が一段落したので、HP開設以来ほとんど手をつけなかったページも含めて、リニューアル作業を進めている。

ここで活躍するのは最近購入したMacromediaのDreamweaver 4/Fireworks 4である。(「夢紡ぎ」と「花火」とは、なかなか卓越したネーミングではある。)

これまでは、メモ帳でタグを書き、ペイントで作った画像をフリーソフトでGIFに変換して、フリーウエアのFTPソフトでアップロードしていた。簡素で、表示が速く、テキスト主体のページ作りを心がけた結果なのであるが、考えてみると、実に経済的である(プロバイダー料金と電話代だけだ)。

人に聞かれて「メモ帳でHP作成している」というと、皆意表を付かれた顔をする。私がHP作成を始めたころは当然のことだったはずなのだが。ところが、あるとき、小説をHTML化する際、かなり長い段落の修正等が含まれるため、手間を惜しんでWord2000の機能を使用してHTML化してしまった。今思えば、あの時、魔が差したのだ。見かけ上は、ごく普通のページが作成されるので、省略化を図る意味では便利であった。他のページも合わせる必要が出てきたため、Wordを用いてページを修正するということをしていた。

Wordで作成したページをアップしてから気づいたのだが、ソースを見ると、不要なタグが相当数書き込まれてしまっている。気づいたときは時既に遅し、一旦Wordを使って修正してしまったHTMLをメモ帳で元に戻す作業もこれでは時間がかかりすぎて無理である。不本意ながら、WordをHTMLエディターとして使いつづける羽目になった。

一度使ったことのある方ならお分かりだろうが、WordでHTMLを編集していると、頻繁に強制終了する。また大変に重い。変なタグは満載である。GeneratorタグにはMicrosoftWordと表示される。METAタグには、悪意としか思えないリンクまで入っている。タグをチェックしながら進めなければ、危なくて修正すらできないが、そのたびごとにメモ帳を開かなくてはならない。うかつにWordを閉じるときに保存を選択しようものなら、全ての苦労は全く無に帰する。せっせと外したタグが再びびっしりと書き込まれたソースを見てげんなりするしかない。ここまでくると一種の悪夢である。

Dreamweaverはこの点、Wordタグを削除するという画期的な機能が付加されている。しかも、無意味なタグをほとんど生成しない。かつ、タグによる編集と、ブラウザライクな編集とを併存させる事ができ、ブラウザチェックをしなくとも、同時に編集を進められる。また、Fireworksは、テキストから画像を生成し、ブラウザに依存しないページの見せ方が可能となる。(この日記のヘッダーや、タイトルなどはFireworksでわずか五分ほどで作成したものである。)

というわけで、にわかDreamweaver愛好家として今回のHPを作ってみたのだが、いかがでしょうか。この調子だと、そのうちFLASHまで購入しかねない勢いである。(誰か止めてください)。






2001年05月06日(日) 書評:笠井潔「薔薇の女」

矢吹駆シリーズの第三弾である。

結局このシリーズを全部読んでしまったことになるのだが、どうにもこの巻は読み心地が良くない。以前に評した「サマーアポカリプス」の方が読み物として数段優れている。

この巻において笠井は、より複雑な手口が構築され、単なる利欲犯ではなく、臨床心理学的犯罪の要素を絡み合わせている。これらの組み合わせは若干ありきたりではあるが、それ自体責められるべきものではない。問題は、むしろ、プロット自体の構造に求められるべきである。

以下は、若干ネタばらしにもなるかも知れないので、これから読もうと思っている方はここまでで止めておくべきと思う。

このシリーズ第1巻「バイバイ・エンジェル」において設定された「ニコライ・イリイチ」なる人物との間の高尚な次元においての対立は、この巻においても維持されているが、この人物との対決は、より間接的で、曖昧なものに終始している。この戦略は、しかし、この小説においては二重の意味で誤っていると思われる。

一つは、この小説は、読者にニコライ・イリイチの影を強烈に感じさせる必要がある。この巻を3部作の第3作として読ませる場合も、独立の小説として読ませるためにも、この点は十分考慮される必要がある。そして、ニコライを人を魅了する圧倒的なカリスマ性を秘めた人間として描く以上、他者を通じて犯罪を実現させる場合においても、単なる利欲犯的な理由を超えた何かを描写することは不可欠である。
この巻にもっとも欠けているのは、これである。

もう一つの理由は、恐らく笠井の主要な意図の一つは、イデオロギー的対立を超えたより高次元の善悪の対立(というよりある種の悪と別種の悪の対立)を描くことにあると思われるが、この点に関する言及が、一部の直叙を除けば全くなされていないことである。「サマー・アポカリプス」においてくどいくらいに叙述されたはずのものが、今回は、その全編を通じて全く現れていない。笠井ほどの筆力のある作家であれば、特殊な類型の犯罪を通して、この点を描き出すことくらい容易のことのような気がするのだが、残念というほかはない。

続編を書くとしたら、どのように描かれるのか、その点のみが楽しみな小説であった。







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