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1997年03月31日(月) 入所パーティー実行委員会主催のソフトボール大会


入所パーティー実行委員会主催のソフトボール大会に参加する。ソフトをするのは久しぶりで、自分の運動不足を実感する。入寮したら、毎日のようにバスケをやろうと密かに決意する。

みな運動神経が良い。勉強ばかりしていたようにはとても思えない。修習に入ってからもクラス対抗戦があるらしいという噂。それにしても二次会に出られなかったのが返す返す残念だ。






1997年03月29日(土) 辰巳名刺交換会


午後から新宿にでて買い物。その後辰巳の名刺交換会に出席する。何人かとは、メールアドレスを交換したが、予想以上にパソコンを持っている人が少なかったことに驚いた。二次会もあったらしいが、僕は予定が入っていたためパスする。
そこから吉祥寺にでて、文学研究会のOB会(のようなもの)に顔を出す。出席したメンバーは皆大学院にすでに入っているか、今年入学するものばかりであった。文学部出身者の大学院への進学率の高さはつとに有名だが、それにしても文研の同期で、大学院に進学しなかったものは数えるほどしか居ない。文学をやる人間が企業人として社会にでることの難しさを象徴しているようで、何か複雑な気分になった。






1997年03月28日(金) 芸術の領域論


Mr.Childrenの活動停止前の最終コンサートを見に行ってきた。

別にあまりミーハーなつもりはなくて、純粋に現代に、「生きている言葉」を送り続けているアーチストとして彼らを評価している。彼らの音楽の歌詞はエコーズの影響も多少あるのだろうが、社会派的なものもあり、一方で純粋に人の心を感動させられるだけの美しさと強さを持った歌詞である。(ちなみにエコーズとはこの間芥川賞を取った辻仁成の所属していたバンドのこと) 19世紀の大詩人ポール・ヴェルレーヌの美しい詩に触発されて数々の歌が生まれた時代から離れて、現代は歌こそが詩的なものを表明し大衆に直に詩的感興を与えるほとんど唯一のメディアなのかもしれない。詩も歌が本来の原初的な姿であった。象徴主義が音楽から詩の領域を奪い返そうという運動であったことを考えると、現代では、すでに詩に奪い返す、文学へ奪い返すといったことは放棄されて居るのかもしれない。小説の終わりが叫ばれ初めてすでに久しく、文学誌も次々に廃刊を決定していく現代においては人々にとって文学とはすなわち歌であり、あるいはアニメなどであるのかもしれない。辻仁成がその中で一人逆の道をたどっていることが注目される。アニメに関しても、最近一部で爆発的な流行を見せている「新世紀エヴァンゲリオン」は、その内容がきわめて文学に近接化しており、映画評論や、文学評論の視点から考えても十分語るに値する作品であると思う。ようやくアニメが文学に追いつき始めたのだ、と私などは思うのだがどうであろうか。






1997年03月27日(木) 東大仏文、それは意外にも


本日は卒業式。特に感慨も起きないだろうと思って出席してみたのだったが、ふと気付けば学生時代の想い出が次々とよみがえってきたりして、物思う卒業式となった。

仏文の教授たちと話す機会が持てた。驚くべき事に、我が仏文からはここ3年間連続で司法試験合格者がでているとのこと。うわさでは聞いていたが、いろいろと聞いてみると興味深いことが分かってきた。どうやら、文学部の中でも仏文という学科はきわめてリベラルで、教授たちは全共闘世代で反骨の人々であって、さまざまな意味で社会からずれた位置にあるアウトサイダーの集団(というより個人の集まり)であるという事実だ。変な話だが、自分が仏文にいたわけがようやく分かったような気がした。あらゆる意味で型破りな人間を輩出し続ける場所であり続けてほしいと思う。実社会に役に立つか否かという意味では、おそらく何の役にも立たない研究をする場であるだろう。だが、「役に立つか否か」という尺度だけで物事を判断する人間でこの世の中を埋め尽くしてしまわないようにするために、仏文はこれからもいまの仏文のままであってほしいと強く願う。






1997年03月26日(水) 文学研究会という場


昨晩から友人の家に泊まり込み、だらだらと過ごす。The Towerというビル建設シミュレーションゲームにはまって、まるまる一日つぶしてしまう。その友人は自分で設立したコンピューター関係の会社のディレクターという肩書きを持っているそうで、演劇もやれば、宮沢賢治も語れるし、小説も書くは、まさに多芸多才を絵に描いたような人物である。僕の居た東大文学研究会(略して文研)というサークルは、多芸多才、複雑怪奇な人物が割拠する東大の中でもとりわけ「妙」で「変」な輩が巣くう、奇妙な場だった。彼もまた、ここの出身である。いずれここから作家でも多数輩出するようになれば、と期待しているのだが、なかなかそうはなりそうにない。いずれ、文研に関しても書くつもりだ。数限りない伝説の生まれた場所なので、それだけでも十分におもしろい読み物になるような気がする。






1997年03月25日(火) 夢、戦争の夢


昨日の反動で、今日はなんと昼過ぎ2時まで爆睡。夢を見た。僕の夢はたいていの場合、ちゃんとストーリーがあって、まるで映画を見ているようで自分でも楽しいことが多いのだが、今日のもそんな感じだった。

時は第二次世界大戦の末期(のはずだ)。場所は日本。かなり大きな飛行艇の中で僕は帝国海軍のパイロットであった。と言ってもその飛行艇を操縦しているわけではなくて、自分の飛行機が故障してしまったため、使える零戦の残っている基地に運ばれていく途中だ。その飛行艇には小さいながらも蔵書室やバーのようなものまであって(もちろん薄汚れた暗いイメージのものだが、)どうやら高級官僚のために作られたらしい大戦前の遺物のような代物だった。僕はもう死ぬことが決まっているので、最後の楽しみと思って飛行艇の中を見て回る。そこでおきまりのように、飛行艇で働いていた少女とあわい恋に落ちるのだ。お互いの心が通じ合えたと思ったまもなく、米軍の飛行機による攻撃が加えられる。僕はその飛行機の正体を知っていて、(新型の飛行機で、零戦でも振り切れない)直感的にこの飛行艇はもうダメだと悟る。そこでどうしたか。

あるまじき事か、ぼくはそこから一人で逃げ出してしまうのである。小型艇のようなものでひとりだけ。この行動は飛行場がもう近くてそこでゼロに乗り換えて、迎撃しようと考えたためであったのだが、十分非難に値する行動であった。でもそれしかみんなが助かる方法はなかったのだ。結果としてぼくはその小型艇で何とか着陸に成功するが、零戦に乗り換えるまもなく、飛行艇は撃墜されてしまう。ただ、かなり海面近くで速度も遅かったせいか、不時着のような形になっていて、3分の1位は助かって海面に浮いていた。彼女もその中にいた。

僕はほっとするが、案の定彼女は僕を非難する。それは軍国主義的な意味合いの非難かと思ったが、そうではなく、彼女を置いて一人で逃げたことへの非難だった。そして、あなたが死ななくてよかった、と泣き出す。そのとき僕は何ともやるせない気分に浸りながらも、「お国のために」と言う言葉が彼女の口からでなかった事をほほえましく思ったのを覚えている。僕はもうすぐ死ぬのだろう。誰も見守るもののいない零戦のコックピットの中で。でも、この少女の言葉を胸に僕は死ねるのだろう。それを考えると僕は幸せだ。

そこで目が覚めた。






1997年03月24日(月) 答案添削


今日は朝から答案添削に追われる。どうも僕は人より要領が悪いのか、答案添削にものすごい時間がかかるのだ。一通添削するのに平均で20から30分かかっているので、とても割に合うバイトではない。というわけで、夜9時の締め切りぎりぎりまでかかって何とか仕上げる。辰巳の係りの人に「答案が真っ赤ですね」と言われる。ふつうどのくらい書き込むものなのだろうか?






1997年03月23日(日) 演劇と雨と必然性


今日は朝から雨。にもかかわらず、友人の劇団の旗揚げ公演を見に大塚ジェルスホールまで出かける。なかなかおもしろかったが、学生演劇の域を脱し切れていない気がした。あれだけの個性的なキャストをそろえたのだから、脚本をもう少しましなものにした方がよかったのではないだろうか。そう思うと残念である。なにより登場人物が皆心に傷を持っているのはよいのだが、その傷が必ずしも観客に納得されないような類のものでしかなく、自己満足的な悩みの中で物語が展開してゆくのには、どうにもなじめなかった。「必然性」という要素があれくらいのまとまった保守的な演劇の中では不可欠なのではないだろうか。






1997年03月22日(土) 引越し準備


引っ越しの準備を始める。4月7日に入寮なので、(ちなみに修習開始は8日)急がなければならないが、一向に進まない。一方で、WebSiteコンテンツの調整をする。「これも引っ越し準備」と訳の分からないことをいいながら、リンクのうまく行かないところを設定し直す。が、どうもうまく行かない。






1997年03月21日(金) 小説の続き

掲示板に行くが、誰も書き込みをしていない。そういうものかもしれない。いくらか問題提起をすれば、書き込みされるのだろうか?

久しぶりに答練の答案添削を受け取る。(答練の答案添削とは、司法試験用語で、言ってみれば、模擬試験の答案の添削のようなもの。合格者が添削することになっている。)しばらく間が空いたのですっかりやる気をなくしているのだが、本当に久しぶりに中島成先生の授業を聞いて見た。一カ所どうしても理論上問題があると思われる解説に出くわすが、ほかは非常にわかりやすい。ただ、どんどん関係のない(自分の興味に従って)議論に突入してゆくのには参った。

小説の続きを書きたいのだが、なかなか暇がない。長くするのであれば、それなりにペースを組み直さなくてはならないし、どうしたものか、思案中といったところ。友人に村上春樹の「羊をめぐる冒険」に似ている、と指摘される。たしかに、見知らぬ男が訪ねてくるという設定も、誰かを探しに行くという設定も似ているような気がする。しかし探求型の小説では似たような設定は多く見かけるし、精神的な旅であるという点は明らかにそれと異なる。僕の小説における主人公はもっと内向的で、アクションはほとんど起こさない。内面的な旅を経て、問題を解決しようと言った態度が一つのテーマであるので、必然的に描写の方向性に違いが出てくる(はずだ)。それに僕が村上春樹を意識しているのは間違いないとしても、より強く意識しているのが庄司薫(やはり東大出身の芥川賞作家で、「赤ずきんちゃん気をつけて」を書いた。僕の所属していた東大文学研究会の大先輩に当たる)なのだが。

なんにせよ、続きを書かねば始まらない。週一とか月一とか決めて連載にでもしないとなかなか進まないような気がする。月一にしようかな。






1997年03月20日(木) 白表紙、すなわち民訴の予習

友人に日記リンクスに登録しろ、と迫られるが、まだ日記のコンセプトが固まっていないので、しばらくの間は見合わせることを決意する。

今日は銀座で買い物。4月から必要になるスーツを買った。ハード面での準備は整いつつあるのに、ソフト面での準備は未だ全く進んでいないのが現状である。

つまり、民事訴訟法の勉強が全く進んでいないのだ。

ちなみに司法試験では刑事訴訟法・民事訴訟法のいずれか一つを選択すればよく、私は刑訴を選択したのだが、もう一つの訴訟法である民訴を研修所に入るまでにはマスターしておく必要があるのだ。

知人に聞くと、もうすでに開き直って、白表紙(研修所で使うテキスト)を開かないことに決めたとか、民訴は研修所に入ってからやるとか言っている。一方で、もうすでに白表紙を全部読破した強者もいると聞くから驚く。僕はと言えば、ごらんの通りWebSiteに明け暮れる毎日で、とてもとても民訴なんてやってる暇があるわけない。

「僕が猫語を話せるわけ」は一向に進まず。当初八章構成を考えていて、もうすぐ完了に近づくはずなのだが、延ばすこともできるのでどうしようかと考えているところ。もともとは「文学派」という同人雑誌を本郷で旗揚げしてその締め切りに間に合わせるための構成で、本当は超長編にしたかったのだ。

しかし、「文学派」もあわれ2号で廃刊の憂き目を見ることになってしまった今だから、いっそプルーストの「失われた時を求めて」ばりに長くしてしまおうか、と野蛮な考えを起こしつつある。






1997年03月19日(水) コンセプトカラー



表紙をデザインしてみる。僕のもっとも好きな詩人の一人であるアルテュール・ランボーの有名な手紙の一節をデザインの中に組み込んでみて、フランスの国旗であるトリコロールの「青・白・赤」(bleu,blanc,rouge)を配色してみたのだが、我ながらなかなかにクールなデザインになった。コンポジションのような趣がある。友人の反応もおおむね好評。

ちなみに、デザイン中のフランス語を訳すとこんな感じである。
「私は詩人になりたいのです。だから、「見者」となるべく努力しています。それは、すべての感覚の大がかりな混乱によって未知なるものへ到達することです。「我思う」というのは間違いで、「私は思わされている」というべきでしょう。」
もちろんこれはそのままの一文ではなくてつぎはぎのものであるが、おおむね彼の詩的理論の根本的部分に触れていると言えると思う。






1997年03月18日(火) 祝!東京大学文学部仏文学科卒業確定!

祝!東京大学文学部仏文学科卒業確定!

同じく卒業確定した友人と話していたのだが、これからの日本の経済状況は5年から十年の間に激しく変化するのではないだろうか。政府が最後の切り札として場に出そうとしているカードは「日本版ビッグバン」であるが、その骨子が経済界、特に金融業界の規制緩和にあるのは周知の通りである。

その某都銀に就職が内定している友人との一致した結論は、イギリスが80年後半に進めていた規制緩和は結局海外資本の急激な流入を呼び、国内資本が駆逐されて、金融機関(特に銀行)の看板の掛け替えという事態を招いた(これをウインブルドン現象という。ウインブルドンでイギリス国内の選手がほとんど活躍しないことからこう名付けられたらしい)。

日本政府の対応としては次の二通りが考えられる。一.イギリスの轍を踏まないように消極的な規制緩和にとどめて、結局形式的な名前ばかりのビッグバンにしてしまうか、二.景気回復と日本経済の根本的な建て直しを期待して、大がかりな規制緩和を行う。この前者を選択した場合、おそらくその場合は持ち株会社は認められるものの、連結納税制度は不採用となり、「なまぬるい規制緩和」との印象を与え、外国資本の流入といった現象すら起きないであろう。現状とほとんど変わらないのであれば、日本の金融市場は魅力がないのである。(だいたい参入するメリットがそれほどない以上、銀行だって営利を目的としているのだからこれは当然の結果である。)政府が考えるように金融業界再編の契機となるかもしれないとの期待は甘すぎるであろう。第二の選択。この荒療治を導入した場合、その具体的な手法は、デリバティブ解禁や、金融商品の自由化、証券業務の自由化、生保損保業務の自由化、などによる銀行業界・保険業界・証券業界の統一・再編成や、持ち株会社・連結納税制度の導入・法制化、独占禁止法の強化・見直し、公正取引委員会の権限強化・外国資本導入の際の様々な障壁の除去作業などなどの方法によるものになるだろうが、既成の金融機関の大半がイギリスにおけるように外国資本の参加に入る事態にもなりかねない。それでもイギリスはイギリス人の国内雇用の維持のためにそれを甘受し、国際的な競争力と引き替えに自国資本の金融業界を手放したのだ。日本の現状では、それを甘受するほどの切迫感は未だにないし、相変わらず大蔵省や日銀は国民にこのままの状況でも「緩やかな景気回復基調」にあるのだから大丈夫、との認識を植え付けようとしている。しかし、現状はかなり悪化しているし、アメリカに次いで、イギリス、ヨーロッパ共同体各国が国際的競争力を備えたいわば次世代の金融状況に適合させようと苦しい努力を続けているのに、日本だけがなにもしないで行くといずれ海外資本の浸食を例の「外圧」とかで押しつけられてこちらがイニシアティヴをとれないまま次々と搾取されていくのが落ちだろうと思われる。

水道橋の駅の明かりが映る神田川を茫漠と眺めながら、僕らはしばらくこの国に生きることの難しさを考えていた。おそらく。






1997年03月17日(月) コンテンツ拡充中

HTMLにも徐々に慣れてきた。WebSiteのコンテンツが充実しつつある。
グラフィックが弱いのは「テキスト中心」というコンセプトがある以上ある程度は仕方がないと思っているが、そのうち飽き足らなくなるかもしれない。

朝日ネットの個人ページからの紹介文の文字化けが直らない。何度確認しても設定は間違っていないようだ。果たして直るのだろうか。

風邪を引いてしまったようで少々寒気がする。おかげで書きかけの小説も全然進まない。







1997年03月16日(日) 司法修習日記:WebSite公開

ようやくWebSiteの主要な部分が完成する。3月5日から始めた作業だから、約10日間もかかってしまった計算になる。

PCを買ってから約二ヶ月で念願のWebSiteが持てた事を素直に喜びたい。アドバイスしてくれた友人に「自分をほめたいと思います」などと口走りそうになるが、さすがにこらえる。

周りの修習予定の友人を見ていると、半分以上が国外に脱出している。今後はまとまった休みが取れないことを念頭に置いた行動であろう。海外旅行の代わりにPCを選んだ自分としてはWebSiteでも作らないとやりきれない。

野望を秘めて、日記の第一日目を終わりにしたい。







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