おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざ
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2006年11月30日(木) 訃報ジッソー君

実相寺昭雄監督までもが。………
今年の死神はオタクの魂コレクターか??


2006年11月16日(木) お前が地獄を見て来い!

 帰ってきたらあっちでもこっちでも石川賢訃報の噂で持ちきり
 どうやらニュースソースはこれらしい
http://www.takachiho-haruka.com/
 信じぬ、たとえ人にトマスと罵られようと信じぬぞー!夏休みは永遠に続くのじゃー!(意味不明)冥福なんて祈ってやらねえよおお!
 とにかくゴルフが極めて体に悪いスポーツであることが判明。地球環境における弊害もさることながらまさに悪魔のスポーツである。
 実際問題高千穂と豪ちゃんの訃報よりよっぽどショックがでかいよ。今年は訃報がいやほどある年だがこれほどの衝撃はほかに無いかも知れん。賢先生無くしてこれから誰が我々に地獄を見せてくれるのか。平野耕太があの冥府魔道をもう二十年間続けない限り不可能である。
 正直小学生の頃「ウルトラマンタロウ」を読んだ時には怖くてトイレいけなかったよおおお。うちには大都社のマシンザウラーもあるというのに。
 今夜は魔獣戦線読んでおとなしく寝ますくすん


2006年11月15日(水) 急用

というわけで今日は失礼


2006年11月14日(火) 怪獣落語

瀧川鯉朝師匠の怪獣落語の会に新宿百人町のネイキッドロフトへ。けっこう迷う。
 前座は聞き逃して、まずは鯉朝師匠の新作落語。続いて怪獣絵師・開田裕二氏との怪獣トーク。中入り後は二つ目(名前忘れた)のバルタン星人の新作落語。トリには師匠の古典「うん回し」のパロディ「怪獣うん回し」風邪引きの上に全くの心配なので間違うこともおびただしい。
 終演後師匠も囲んで十日ぶりにギネスを二杯。10時ごろに解散。平日の夜遊びはこんなもんか。


2006年11月13日(月) 吉村昭『落日の宴〜勘定奉行川路としあきら〜』読了

 吉村昭はやはり良いのう。この硬質体で事実を淡々と連ねていく文体に慣れたら司馬遼太郎なんぞはもはやお子様ランチですよ。
 幕末、ペリーの来航と同時に日本におとづれたロシア大使プチャーチンとのやり取りを中心に川路の人間像を克明に描いていく良作也。


2006年11月11日(土) 講談社教養文庫『ナポレオン』上下読了

 今週一杯の通勤読書で完読。
 ともかくも原資料を多々駆使しているのでナポレオンたちの肉声が聞こえてくる。特にセントヘレナの島流し中の発言の数々には切ないものがある。
できれば各会戦ごとの戦闘描写がもっと欲しかったが。


2006年11月05日(日) とにかく

かえってきました。疲れたので寝ます。


2006年11月03日(金) それでは

今夜から日曜日の晩まで帰省しておりますんで失礼


2006年11月02日(木) ウィーン美術アカデミー名品展へ

今日は仕事が速く終わったので新宿・損保ジャパン美術館へ。
 まずは目玉のクラナッハ数点。やはりこの不健全なエロス・ずばり言ってお色気漂う妖絶かつ退廃的な女性像には惹かれるものがある。まだまだ中世の色濃いこの時代にここまでエロスを正面に押し出しただけでもクラナッハは巨人というべきであろう。その一方でガチガチの堅物のルターとはザクセンで親友になってたというのも不思議な話。クラナッハの筆によるルターの肖像画はドレスデンで見たがそういう目で見ると「このエロ親爺が」と思っていそうに見えなくともない。またクラナッハ画のヘラクレスという珍しいものもあったがやはりこれには人間向き不向きがある、と思わざるを得なかった。
 そしてレンブラントの「若い女性の肖像」ほとんど黒と白でかかれたこの作品にもなんとも清楚な美しさが白い襟巻きに象徴されている。さらに背景の黒にもレンブラントらしい暖かさが。
 さらにはムリリョの「サイコロ遊びをする少年達」。いかにもムリリョらしいよれよれの服、薄汚れた手、泥まみれの足と庶民の少年の姿を真正面から描いた作品。ただオートガイダーでは「貧しい子供の純心無垢さを捉えた……」とか行っているが違うのではないか?サイコロ賭博をする少年たちの真剣なまなざしを見よ。この小さな賭博士達のしたたかさこそがこの作品のテーマであり、天使でも悪魔でもない貧民達の実情を暖かく見守っていることこそが「無原罪の宿り」で聖母の清らかさをも描くムリリョの本性ではないか。
 後気に入った作品を挙げると18世紀のオランダ画家ルーテルブールの「難破船」。フランドルからはいった海洋をテーマにした絵画も少なからずあったがこの絵が一番気に入った。難破して暗礁の上で絶望的な生存への戦いを続けつつ天に祈る5人の船乗り。彼らに差し込む光は天からの救いなのか。その姿には神々しさすら感じる。似た構図の絵としてロマン派の「メデューサ号の漂流」が連想されたが「メデューサ」には絶望こそあれ大自然に立ち向かう人間の崇高さはない。私は神に戦いを挑む人間、といった「アマデウス」的テーマが好きなのもあるがこの作品を高く評価する。
 面白かったのがヤン・フェイト「猫の秀作」。ガイダーは「思わず撫でたくなるような……」と解説していたがとんでもない。この絵を見て私は「猫というのは小さな野獣なんだなあ」と再認識したほどに荒々しい猫の姿、といってもそこはやはり飼い猫の限界でやんちゃとしかいえなのがかえって微笑ましい。それと対照的に真向かいに展示されたのがヤン・ウィルデンス「乳を飲ませる牝虎」これこそ撫でたいような毛並みの良さを感じるのは、授乳という母性を全面的に押し出している母の姿であるからだろうが、その視線の鋭さは我が子の為なら命がけで戦う決意を秘めた野獣の母の姿でもある。この2点の展示は計算の上なのだろうか。
 夕飯にタイ料理を食ってかえる。

追記.今げっぷしたらタイのスープの激辛成分かなんかが鼻の粘膜にまで込みあがってきたよおいてええ!


2006年11月01日(水) 丸山真男『「文明論之概略」を読む』読了

この2週間の通勤読書で上中下巻を読了。
大学時代は挫折したんだけど、今読むと丸山の解説文は平明で分かりやすい。
 後世の「脱亜論」のイメージが強くてどうも福沢は好きでなかったのだが、最近『風雲児達』に登場してきて興味を持ったのが再読の理由。
 ポイントとすべきところは色々あるので箇条書き
 あらゆるものは楯の両面、誉め様もけなしようもある、という福沢が「怨恩」つまり他人に嫉妬するあまり自分のレベルを上げようとは思わず、他人を自分のレベルに引き摺り下ろす感情だけは救いようがない、とするあたりは『福翁自伝』に出てくる長崎遊学時代のエピソードと照らし合わせると興味深い。
 福沢の唱える文明の水準とは、一部トップのものではなく社会全体の教養水準にあると考え、明治維新以降ますます知力の中央集権化が進んだことを批判するあたり、一生在野の批評家・教育者として過ごした福沢の面目躍如か。
 明治初期の段階で「国体」を論じ、政府と国民を切り分けて検討していったところなど彼の頭の切れ味を感じさせるし、この時代西洋崇拝にも走らず、和魂洋才からも卒業し、「今は」「国家の独立」のために「今は」西洋の文明に学ぶべしとする、西洋文明そのものも相対化しえる骨太の知性はやはり明治最大の知識人というほかはない。
 それだけに「今は」脱亜入欧論を作って彼が死んだことは日本のために惜しくてたまらず、彼に対抗できる理性でもってして「国権主義」似た移行できる知性の持ち主の登場は昭和の石橋湛山まで待たねばならなかったのは日本の悲劇であったか。


べっきぃ