きっと どこかで
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2005年05月14日(土) 実母死去その日(長い一日その1)

私は、その日から、2泊3日出張の予定を、前日にキャンセルし、仕事も休んで、母に付き添うこととした。

前日も、危ないと呼び出され、病院に行ったばかり。朝、病室へ行ってみると、血圧が下がり始めていた。尿も、きのうから全く出ていない。がん細胞が膀胱付近を圧迫している為、出ないのだ。朝、付き添いを父と変わるからという話をして、父には、家に帰って、ちょっと休養をとってもらうつもりだった。(まさかその日に亡くなるなど、まだ思っていなかったので)

お昼頃、母の病院の近くに勤めている、妹(私の)が来た。
また、自分もがんで、自宅療養中の、おばがお見舞いに来てくれた。

妹には、尿がもう全く出ていないこと、血圧が下がってきていることを話した。危ないのかもしれない、とはなんとなく思ったが、考えたくない心境だった。

お昼すぎくらいから、血圧が少しづつ下がってきていた。4時くらいに、担当の医師が、危ない症状が出ているので、家族に知らせるようにと言われた。

父からもらったリストで、公衆電話のところに行き、順番に電話をかけて行く。

その電話をかけているその時、担当医師が私のところへ近づいてきていた。
電話をするのを一人終えた後、一言、「たった今、息をひきとりました」・・・。

びっくりして、思わず受話器を落としそうになったが、「そうですか・・」というだけで言葉が出てこない。

信じられず、一旦母のいる病室へ戻る。「ほら、もう息をしていないでしょ」確かに。顔の色も一気に、白くなっている。死んだ人の顔を何人も見ているので、そうなのか・・と思った。私は、母は、やっと楽になったんだろう・・と思った。

そうだ、今の連絡を、もう一度しなおさなくては、と思った。父も妹ももう出かけたらしく、電話が通じない。そうこうしているうちに、父や妹がやってきた。もう亡くなったことを伝えた。

主だった親類には、電話で連絡。旦那は、すぐに病院に来てくれた。夕方だったので、子供と一緒に、病院へ来た。

母は、もう自宅へは帰らず、葬儀社へ行くという話になっていた。父が、葬儀社へ、連れて行ってもいいか、確認の電話をした。葬儀社から、迎えの車がくるらしい。

母の荷物があるので、手分けして持って帰ることにする。

そうこうしているうちに、母の弟にあたる方(おじ)がやってきた。近くの職場に電車通勤している。

葬儀社から、迎えの車が来て、病院の方から、葬儀社の方へ、母の引渡しが行われた。そして、お世話になった、担当医師の方々、看護師の方々へ、お礼の挨拶。私は、よくしてくれたと思っているので、ありがたいなと思っていた。もう、ここに来ることもないのだと思い、最後の挨拶、という気持ちだった。引渡しの時は、担当の医師の方も立ち会うのだなと思った。それが、最後の誠意なのかなと思った。

私達家族は、母の荷物を自宅に持って帰り、食事をして、その後、葬儀社へ行くということとした。

まず、職場の上司に連絡。とりあえず死亡したという連絡のみだけど。詳しいことが決まったらまた知らせてくれと言われた。何かしてくれるつもりなのかな、と思う。

私は、とりあえず、これからしなければいけないことを考えていて、母の死について、考える間はない状態だった。


2005年05月09日(月) 実母死去その日(前日のこと)

今月末で、実母死亡の百日目(百か日)を迎える。

今日は、母が亡くなった前日頃の事を書いてみようと思う。

その日も、何回目かの医師からの呼び出しがあった。「もう危ないから、(死ぬかもしれない)家族やきょうだいに連絡をしてください。」というもの。ガンの末期で痛みが強かった為、痛みを感じなくする為に、眠らせる薬を使っていたので、もう、話すことも出来ない状態が続いていた。

その日は、口から白っぽい液体があふれてきていて、看護師さんが、吸引の処置をしていた。まあ、身体の中から出る膿のようなものだろうか。

ちょうど日曜であったので、私は子供を連れてすぐに病院へ行った。この状態を子供はどう感じるかは分からないが、死へ向かう人間の様子を、知っておくのもいいのではないかと思った。

翌日から、私は、2泊3日の予定で、出張に行くことになっていた。母の様子がこんな感じなので、行くかどうか、ずっと迷っていた。職場の上司、母の担当医師、父、旦那、妹など、いろんな人に相談したが、まだどうなるかわからないのだから、出張に行ってもいいのではないか、という人と、もう危ないのだから、やめておいたほうがいいのではないか、という人と。

迷ったが、結局出張をやめることを、出張前日の夜に決めた。旦那には、「親がこんな状態の時にまで行かないといけないような大事な内容の出張なのか?この出張を断ったら、後の仕事がやれなくなるのか?」と聞かれ、考えてみたが、今回の出張は、同じ職場から、もう一人出席するし、新しいシステムの操作研修への参加なので、私が行かなくても、困ることはないなと思った。ただ、キャンセルの手続きなどが面倒ではあるが・・。

まずは、上司に連絡。「そうか、キャンセルの手続きはきちんとしておけ」という返事。飛行機会社、ホテルに連絡。後、一緒に行く予定だった人にも連絡。「やはりな、私も、行けるのかどうか心配していたんだ」という返事。上司には、母の側に付き添うため、しばらく休みをもらいたいという話をして、了解をもらった。

そして、ずっと付き添いをしている実父に、明日は私が替わるからと話をして了解をもらった。

結局、次の日の夕方に実母は息を引き取ったわけであるが・・・。
続きはまた次の日の日記で。


2005年05月01日(日) 実母その後

お久しぶりの日記である。

忙しかった・・それが書けなかった理由。

2月の半ばに終に、実母は天国へ旅立って行った。悲しいという思いはとっくの昔に通り過ぎていた。死が近いというのは、もうだいぶ前からわかっていたことだから。最期のあたり、薬を使う直前はかなり苦しそうだったので、もう、治ることのない病気ならば、楽にさせてあげてもいいのではないかと思っていた。

でも、本人は、意識のなくなる直前まで、治ることを信じていた。その為にと苦しい治療も受けていたが・・。

亡くなる直前は、実母への交代の看護、亡くなってからは、いろいろやることがあって忙しいのだ。よく、49日が済むまでは、喪に服して・・というが、それこそ、喪に服している間、毎週のお参り、実母が無事にあの世に行けるようにということらしいが、これもあるので、忙しい。実母の遺品の整理・・。こちらは、まだ半分も手付かずだ。

私も仕事をしながらの身なので、土日休みの時くらいしか、出来る時がない。

49日が過ぎて、週に1回のお参りがなくなって、ちょっと時間に余裕が出来た気がする。

最近になり少し実母のいない生活に寂しさを感じるこの頃である。今まではそれすら感じる余裕がなかったのだから。

私の一番の理解者、相談相手だった。母に相談していれば間違いない、そう思ってやってきたのに、これから、自分で判断していかなければいけないのだと思うと、ちょっと不安、でも、もう私もいい大人なのだから、いつまでも人を頼ってはいけない、そういうふうに思う。

どこかで、私達を見守っていてくれているのだろう、そう信じていたい。


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