あふりかくじらノート
あふりかくじら



 あらすかくじらの夢追憶。

ちょっとだけ、いいことがあったりもする。
桜の咲いた、雨の日。

小学校六年生のときに父の仕事の関係で移り住むこととなった
米国アラスカ州アンカレジは、わたしにとってはじめての
海外だった。
英語もわからない普通の一小学生が現地の学校に入り、
これまた「英語がわからない。」という事実を良く飲み込めない
アメリカの子供たちに囲まれて、過ごした。
もちろん苦労も多かった。
でも、多くのことをきちんと覚えている。
友達も、できた。
最初は身振り手振り。辞書を使ったり絵を書いたりのコミュニケーション。
それからだんだん話ができるようになった。

日本がよく見えてきた。
「文化の違い」を肌で感じて、ぞくぞく身震いをした。
嬉しいこと、哀しいこと。なんてきれいな二年半だったんだろう。

アラスカのうつくしさ。
それはそれは、素朴で壮大で、空が大きくて山が白い。

いま、アフリカとわたしのことを考えている。
アラスカにいる知らない誰かと、どこか少し分かり合えることができた。
それだけでわたしは、地球が丸くてじわじわとなかなか沈まない
夏のアラスカの太陽を思い出し、心の中にその風景が蘇った。

書くことって、大変。
わかりあえることって、ほんとうに大変。
でも、自分の心の青空みたいな部分を切り取って誰かに渡すことだって
できるはず。

いつか、あのフリーウェイを気持ちよくとばして走りたい。
きれいな山々まで。青白く輝く氷河まで。


2002年03月22日(金)



 その一瞬に、人生を考えた。

どきどきした。
こんなの、初めてかもしれない。
その一瞬。

ひさしぶりに会う友人と秋葉原をひたすら歩き回り、
怪しげな秋葉原人類に紛れてジャンク屋散策。
カゴの中をあさる午後だった。

偶然に入ったあるカフェで、それはおこった。

18歳の大学入学当初、あるサークルに入ったことがある。
詳しく話せばたっぷり一週間はかかるけれど、とにかくその経験は
すさまじかった。
いってみれば、秋葉原人類のサークル。
なんというか、当時は「若かった」のかもしれない。
自分と、まったく釣り合いの取れない世界とのギャップに、
バランスを崩していた。ノイローゼみたいなもんだ。

あれ以来、あのサークルをあんなふうにやめて以来、もう
誰とも連絡すらとらず、まったくつきあいはない。

わたしの人生はあの後大きく変わり、アフリカ研究の道へ。
恩師に出会い、ベッシーと出会い、ボツワナへ行った。
180度違った世界。
わたしは、大学を出てあるIT業界のベンチャー企業で働き、
それから英国の大学院に進学した。
ぐるぐる、ぐるぐる。

あのころの自分が、自分のうちからあふれ出るものを
コントロールできなかった弱さが、思い出される。

そのカフェには、あのサークルで一緒だった女の子がいた。
まだ、あの世界にいた。

最初、驚いて顔を背けた。
あのときのノイローゼみたいなものが、いま、恐怖症と
似た種類のものになっている。
もちろん、いまとなってはそんな自分の感情に負ける自分ではないが、
あまりにも違った世界まで来てしまったわたしは、まだ何年も前の
あの世界に住んでいる彼女をみて、思わず逃げそうになった。

もう、何を説明する必要もないし、何を説明しようとも
理解できない部分がほとんどなのだ。

だったら…。
でも…。

一緒にいた友人が会計を済ませ、レジの向こう彼女がそれを担当した。

わたしは、しんとした気持ちになった。
わたしに気づかない彼女が、レジに打ち込み、あけ、札を受け取り
小銭を渡す。
顔を上げた。

二秒、時が止まった。
6年分くらいの時が流れた。

わたしは微笑むと、さきに店を出るエスカレーターへと向かった
友人の後へ続く。

え、もしかして?

声にならない表情。

くだりのエスカレーター。
乗りながら、わたしはふっとうつむき、
それから彼女に向かって微笑むと、もうすぐ見えなくなる彼女に
手を振った。

彼女は、あっと声を上げ、満面の笑みで手を振り返した。

それで、終わり。
話すことなんて何もない。
ただ、あのあともがんばって生きてきたよ。
それだけのこと。

わたしは今年、26歳になる。



2002年03月19日(火)



 交通安全のハートのこと。

今更ながら高校生らに混じって自動車教習所に通っている。
昨年12月の自分の誕生日から始めて、仕事をしながら
ゆっくりゆっくり通っている。

なんてきちんとしたところなんだろう、と思う。
法律と密接にかかわりあった学校であり、最近特に厳しくなっている
免許制度なのだから、時間厳守から何からすべてけじめをつけて
きちんと成り立ったところである。

面倒見がひたすら良い、というのはわたしの通う教習所に
限ったことではないのかもしれない。
教官それぞれがきちんと、しかし自らの経験に則った親身になった
授業をしてくれる。

今日の学科は、感動してしまった。
いつも、はっきりいって口の悪い感じの否めない教官。
彼の授業だった。タイトルは「事故の悲惨さ」。
わたしは彼の態度を、けっこう気に入っていた。
軽そうに見せかけて、誰よりも真剣に生徒のことをかんがえ、
誰よりも心を込めた仕事をしている。
その微妙なバランスが、彼にとって天職ともいえる教官の仕事。

バイクの事故で当時16歳だった弟を亡くしたことが、彼が
教習所の教官になるきっかけだった、とさりげなくその
トークにいれる。
酔払い運転にはねられて亡くなった当時19歳のわたしの友人を
思い浮かべた。

今日の授業。
教科書なんてほとんど使わず、教官が免許をとった若き日のこと、
弟のこと、たくさんの事故のこと、人生のこと、そして何よりも、技術をこえて
心で運転をするということを、彼は語った。

ほんとうにほんとうに、わたしは「安全運転の大切さ」を
腹の底のほうにしっかりと植えつけられたようにさえ感じた。

昨年、約八千七百人が死んでいる。
わたしは、わたしがいつか免許をとって心で運転をすることで、
脳裏に蘇るあの友人の死をおぼえ、もっともっと安全運転を広めたい。

どこかの標語や免許センターにある「安全運転」ではない。
自分の中にある、ハートを。

2002年03月07日(木)



 また、くじら胃袋なのよ。

やられた。
退屈で死にそうで、このまま点滴の針を右腕にぶっさしながら
おばあさんになるかと思った。
胃袋、やられた。
病院に三日も足止め食らった。

窓の外にゆれる梅の花の形や、病院のBGM、点滴の成分から
ポカリスエットの成分、同室の人の家族構成から、
誰が一番騒がしい看護婦かまで、おぼえた。限界。
入院されている皆さんのお気持ちがちょっとわかった。

病院という中で、患者というのは患者というカテゴライズされた
生物なのである。・・・というのはさておき。

派遣社員の契約は二月末までだから、
わたしはまたこれでフリーだ。
つまり無職だ。

アフリカとは関係のない、アカデミックな世界とは関係のない、
ビジネス、それも金融だったけれど、それでもけっこう
楽しんだ。ありがたい。
入院欠勤ごめんなさい。

誰かのメールマガジンを読んで、ちょっと元気でた。
物書きたる自分のことを思い出し、お手紙に自信を持つ。
ありがとう。
そんなメルマガを書きたい。




2002年03月01日(金)
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