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Montgomery Book

第5章 (3) ヒロインに友あり
 女性どうしの友情の機微を細やかに描いた文学作品というものは、ジャンルを問わず、男性の友情を描いた作品に比べて、多いとはいえない。誤解を承知でいえば、そもそも、女主人公にちゃんとした同性の友人関係があることすらめずらしい。ヒロインたちは、苦境に陥ったとき、なぜか頼れる同性の友人がいない。これは不自然なことである。'女の友情は長続きしない'などとさげすまれ、利己的で浅い関係の代名詞にもされるが、こうした迷信めいた認識が、書物を通じても世間一般にひろめられている。それだけ、女性の人間関係は複雑といえるのではないだろうか。

 たとえば「魔女ジェニファとわたし」(カニグズバーグ著)のように、少女の友情そのものがテーマとなった作品もあるが、このような本は、他者との関係をゼロから考え直す機会ともなりうる。このテーマに大っぴらに真剣に取り組んでいるものとしてすぐ思いつくのは、日本の少女漫画である。そして、この分野、「女の友情」に関して、モードは小説界で質・量ともに第一人者といってよい。モードのヒロインたちが経験する友情は、彼女たちのもって生れた個性に応じてさまざまであり、同じパターンはほとんど見られない。「アン」でいえば、恋人ギルバートよりも、アンの友人たちのほうが個性的なほどである。

 モードは、出会った瞬間に終生の友として誓いを立てた'アンとダイアナ'というシンボリックな腹心の友には、ダイアナが先に結婚したことで取り残されるアンの悲哀以外にこれといって複雑な友情の機微は味わわせなかった。ダイアナをグリーン・ゲイブルズにお茶に招き、いちご水とまちがえて果実酒を飲ませたことで引き起こされた別離も、アンとダイアナの反目ではなく、周囲の力によるものだったし、進学したアンと、家に残って結婚する道を進むダイアナとの間に、私たちが心配するようなすれ違いすらも、ほとんど起こらなかった。

 だが、アンは中学教師時代、同僚であるカザリン・ブルックという気難しい女性と根気強く接して信頼と友情を得たし、また、夢の家での隣人レスリー・ムアとの友情も、一筋縄ではいかない複雑なものだった。非のうちどころない幸せに包まれているアンが、かつて孤児だったという事実が明かされることや、アンが女性としての苦しみを経ることなどで、相手との距離が急速に縮まっている。これらはどちらかといえば、読者にとっては既知の、いわばアンの'切り札'を既に私たちは知っており、その意味で安心して読めるのである。

 一方、エミリーの場合はどうだろう。エミリーには、母方のマレー家に引き取られてから得た、イルゼ・バーンリという親友がいる。彼女と出会うまでに、浅薄でずるい少女たちを信じて裏切られたエミリーは、本当の友を探し求めていた。

イルゼはエミリーと同じく母を亡くしており、それ以後娘をかまわなくなった父と暮らしている。黒髪で繊細なエミリーと対照的に、金髪ではなやかなイルゼは、かんしゃく持ちで、エミリーを『こそこそするあほう鳥』などとののしる。モラルに縛られずしたいことをして育った活発な少女イルゼとエミリーの友情は、まず、出会ってすぐに決裂し、かと思えば問題は何事もなく解決するというように、エミリーが振り回され、読者もいっこうに予測がつかない。

 ともに下宿して町の高校にも一緒に通うのだが、二人が経験する思春期の、冷たく、不安に満ちた仲違いや、氷が溶ける瞬間のカタルシスは、「エミリーはのぼる」の大きな柱である。おそらく、陰と陽のように、似て非なるもの、互いを補い合うような、しかも根本的に同じ空気を吸っているような要素があってこそ、こうした関係は成り立つのかもしれない。

 私はこのイルゼに思い入れがあって、エミリーの友として彼女を登場させてくれたことを、モードに深く感謝している。エミリーへの共感とは別に、イルゼへの共感もまた強いからである。はっきりと顔のイメージがあるほどだ。二人が本当に大人になって、恋愛問題で悩むようになるとまた別の問題も生じるが、高校生活を送る少女たちの人間模様への容赦ない洞察は、時代を越えた同性ならではの視線を感じる。

 実際、いつも一緒にいる女の子どうしは周囲の女の子から特別な目で見られるし、親しいグループのなかにあってさえ、そうである。自他ともに認める親友関係は、一度の喧嘩もなく続いていくというよりも、危機を乗り越えてゆくところに成長もあるのだと、モードはいっているようである。おそらく永久に壊れてしまったと思われる女性の親友どうしの仲違いを目にする機会は、冒頭で宣言したことと反して、現実には多々あるのだが。

二人の人間がおたがえに大すて好きでなえ場合は、喧嘩も大すたことではねえだ。じきに仲直りができるだからね。だけんど、パツイとピー子みたえに仲のええ者同士の場合は、ふかあくこたえてすまうから、容易にゃ忘れられなえだ。

ジュディばあや/「パットお嬢さん」

 ジュディばあやがいみじくもいうように、「ふかあくこたえて」しまうと、もとの関係に戻ることは難しい。逆に、二度と顔をあわせなくても不自由しない程度の友人と、そんな喧嘩はしないものだ。銀の森農場の姉妹、ヒロインのパットと妹のピー子(レイ)は、ずっと仲良く暮らしてきたが、レイが大人になりかけた頃、ある男性との付き合いが原因で深刻な喧嘩をしてしまう。そしてその喧嘩が終わったとき、ピー子も大人への階段を登り、やがて人生のパートナーを見つけ、家族から巣立ってゆくのである。

 パットは幼い頃に、ベッツという無二の親友を病気で亡くしており、大人になるまで同性の特別の友人を持たなかった。後に、ベッツの空家に越してきたスザンヌ・カークとも深い友情を持つが、やはり、パットの場合は、家族の和をもっとも大切に思っているようだ。モードは、「パットの中には、わたしが描いた他のいかなる女主人公にも増して、わたし自身をたっぷりと注入しました。」(/「モンゴメリ書簡集(1)」より)とペンフレンド充てに書いている。ここでいう'わたし自身'とは、世界の美しさを心底愛しながらも、エミリーのように作家をめざす野心的な少女とは異なる'わたし'なのだろう。

 兄弟姉妹のいなかったモードにとって、第二の家庭であった親類のキャンベル家には、大好きなアニーおばさんと、その子どもたちがいた。ことにモードの親友で、若くして病死した末娘フリード・キャンベルとの関係を思いながら、パットのベッツへの思いや、妹レイとの絆をたどってゆくと、モードが人生で経験した感情、パットの世界にある独特のムードが、癒されるようなやさしさをも伴って胸に迫ってくる。

 人生の、対人関係のパターンがつくられるまでの時期に、同性の友だちとお昼を一緒に食べたり、遊んだり、勉強したり、傷つけあったり、かばい合ったり、恋愛や人生の悩みを相談しあったり、悪いことを試したり、泣いたり、死ぬほど笑ったりした人は幸せである。おそらく、女性も男性も、そういう同性だけの時間を過ごしながら、社会的に成熟した大人になりうるのかもしれない。
参考文献
2002年04月20日(土)


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Keika