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Montgomery Book

第3章 (8) 日本の引力
 オリエンタルなものへの憧れ、なかでも日本への想いは、作品のあちらこちらに、ちょうど桜の花びらを散らしたように、そっと置かれている。まるで地球の反対側にある日本と、見えない引力でつながっているように。

イルゼは吉野紙と安物の飾りもので、妖精のつばさをこしらえ、…

「エミリーはのぼる」

 イルゼが妖精のつばさをつくった吉野紙は、原作ではtissue paperとなっている。いわゆるティッシュ・ペーパーは和製英語で、本来は薄葉紙を指す。ラッピングや衣類をくるんだりするのに使うあの薄い洋紙である。和紙の世界では吉野紙といえば、古くから奈良県に伝わる楮紙で、漆や油の濾し紙に使われ、薄くやわらかく層を成し、引っ張りに強いのが特徴。けれど、吉野紙と訳したほうが、薄様紙よりもしっくりする。

今日、デイビーからキッスのシンボルとして十字が十辺書いてある葉書と、プリシラから「日本にいるあたしの友達」が送ってくれたという紙に書いた手紙を受け取りました──それは亡霊のようにぼんやりと桜の花をちらした絹のような薄い紙です。そのプリシラの友達という人をあたしはもしかしたらかんぐり始めております。

アンの手紙/「アンの幸福」

 先ほどの吉野紙とちがって、こちらは本物の手漉き和紙にちがいない。絹のように薄いというと、かげろうの羽と呼ばれる半透明の典具帖紙だったのだろうか、それとも、字が書けるほどの厚さなら、顔の油取りにも使われたつややかな雁皮紙だったのだろうか?そしてまた、薄く漉いた楮紙だったのか?こんなちょっとした記述から、モードがほんとうの和紙を目にしていたことがわかって、紙好きにはうれしいのである。

 '96年の7月、高知県の伊野町にある土佐和紙工芸村で、「ふれあい─和紙と出会ったカナダのアーチスト達は…」という、土佐和紙を使った作品の展覧会が開かれていた。実は私は、本業とは別に、地元で土佐和紙の普及や販売にもかかわっているので、興味を持って会場を訪ねた。ここで私は不思議な出会いに胸踊ったのである。

 展覧会は、カナダのトロントにある和紙店のオーナー、ナンシー・ジャコビ氏と、その店に土佐和紙を輸出している高知側が企画したもので、ジャコビ氏と輸出側の紙会社の若い女性オーナーMさんの熱意が結んだ成果ともいえる。海の向こうで和紙がこんな風に使われているという新鮮な驚きがあり、すばらしい内容だった。長年にわたるジャコビ氏の尽力で、カナダの作家たちはかなり上質の手漉き和紙を手に入れているという事実は意外でもあり、高知での開催後、9月にはトロントでも開催されるということだった。

 会場には和紙を使ったアートや手づくりの本など、21人の作家の作品が並んでいた。私が目を留めため息をついたのは、トロント在住のドン・テイラーさんによる手製の装丁で印刷・製本された「赤毛のアン」だった。表紙は革と和紙(渋紙)で装丁され、見返しにも和紙のコラージュが施されている。外箱も凝ったつくりだ。

 しかし、見つけたのはそれだけではなく、隣にあったのは、ロバート・ブラウニング(1812-1889)の「ピッパが通る」("Pippa Passes")の手書き本、手づくりの一品ものだった。「赤毛のアン」の巻末には「ピッパが通る」からの引用があり、縁が深いことで知られている。(「神は天にあり、世はすべてよし」とアンはそっとささやいた。─「赤毛のアン」より)こちらはレッジ・ビーティ氏(トロント在住)の作品で、茶色い渋紙にホワイトで文字を手書きしたセンシティヴな美しさを漂わせていた。作者はこの両者の結びつきを知っていて製作したと思われるが、それにしても、こういう巡り合いはめったに無い。モンゴメリをめぐる縁のようなものを感じずにはいられなかった。これを目にした日本人は本当に少ないはずなのだから。

 そのころ、私はトロントが特別な街であることに、そんなに敏感ではなかった。モードが牧師である夫の赴任先を転々としたことは知っていたけれど、トロントとその近郊に、1911から1942年に亡くなるまで暮らしたことは、その当時は重視していなかった。結婚後のモードにとって、もっともなじみのあった大都会がトロントだったのに、である。

 さて、作品のなかで日本に関するエピソードとして圧巻なのは、「エミリーの求めるもの」に登場する、本物の日本のプリンス。あろうことか、彼はエミリーに求婚し、断られてしまう。彼はめずらしく名前がないのだが、エミリーのまたいとこのルイズ・マレーという人物が日本に20年以上も住んでいて、クリスチャンとなった王子と知り合い、ブレア・ウォーターへ連れてきたという設定。英語は堪能で、"やぶにらみのとまどった顔の黒い髪の毛を繻子のようにすべすべととかしたプリンス"である。

 やがてエミリーを親しく訪ねるようになったプリンスは、一族に伝わる緑色のヒスイの蛙を贈る。その意味は、プロポーズ以外にありえなかった…エミリーの一族は恐慌に陥る。結局、プリンスは、武家の娘との結婚が決まり、5週間で去るのだが、ヒスイの蛙はエミリーに残していった、というもの。日本のプリンスが王妃にと願うほどの魅力がエミリーにあるという荒唐無稽なエピソードだが、そういう恋愛事件もエミリーならではで面白い。

 他にもエミリー・シリーズでは、「この冬はどこへいらっしゃるの?」とエミリーにたずねられたディーンは引き止めてほしくて、「日本へ。まだ一度も行ったことがないからね。特別に今行きたいこともないけれど、ここにいたって仕方がないもの。(略)」と答えている。(「エミリーの求めるもの」より)ディーンは毎年秋になると海外へ長い旅に出るのだった。その後、エミリーとディーンが婚約し、新居にする予定だった「失望の家」にディーンが持ち込むこまごまとした宝物のなかにも、日本の瀬戸物製の緑のフクロウや漆器などが含まれていた。

 もし、などというのは空想に過ぎるかもしれないが、モードがもしも、日本に来ていたら、どんな見聞禄を書いたことかと思うのは楽しい。海を越えて出かけたのは新婚旅行の英国・スコットランド一度きりだったとはいえ、機会があれば日本にも来たかったことだろう。彼女の生きた時代、日本に関する情報はごく少なかった。けれど。モードは私たちが思う以上に、日本の情報を知っていたのかもしれない。村岡花子氏が最初に赤毛のアンを訳出したのが1952年、すでに1942年にモードは世を去っているが、アンが英語で出版されたのはずっと早い1908年。ということは、モードのもとには、英語で書かれた日本人のファンレターだって届いていたかもしれないのだから。そう、桜の花びらを散らした優雅な便箋に、したためられて。
参考文献
2001年09月05日(水)


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Keika