ケイケイの映画日記
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2015年03月29日(日) 「ハニートラップ 大統領になり損ねた男」




ヘップバーンにモンロー、日本じゃ八千草薫に吉永小百合と、死して老いて尚映画ファンを魅了する女優さんは数々います。そういう意味での私のアイドルは、小学生の時からずっとジャクリーン・ビセット!本当にずっとずっと憧れの人です。実際の事件を元にしたフィクションで、「未体験ゾーンの映画たち2015」で上映されて、めでたく「ドミノ」以来10年ぶりでスクリーンでビセットに再会出来ました。それに感動してしまって、内容はそんなに面白くなかったけど、大満足の作品(笑)。監督はアベル・フェラーラ。う〜ん、フェラーラじゃなかったら、もうちょっと面白く出来たかな?

次期フランス大統領候補と目される大物政治家デヴロー(ジェラール・ドパリュドゥー)。しかし彼は無類の女好きで、アメリカ滞在中のホテルで、ハウスキーピングの女性にまで無理やり手を出し、訴えられてしまいます。夫が大統領になるのだけが夢の妻シモーヌ(ジャクリーン・ビセット)は、すぐさまアメリカに飛び、デヴロー釈放に向けて動き出します。

2012年、当時国際通貨基金(IMF)専務理事で、次期フランス大統領候補として有力だったドミニク・ストロス=カーンが、滞在中のニューヨークのホテルで実際にハウスキーピングの女性を相手に強姦未遂事件を起こして、起訴された事件を元に、「あくまでフィクション」(と、冒頭字幕で出てくる)で創作した映画。でも制作国アメリカでは未公開、フランスでは有料のインターネット配信だけです。もしかしてカーンが公開出来ないように、裏で手を回したとか(笑)。だってカンヌ映画祭では、特別上映されたらしいしなぁ。

デヴローが空港で捕まるまで、ただの女好きを超えた絶倫ぶりが、酒池肉林的に描かれます。高級娼婦たちは皆モデルばりのスタイル抜群の美女ばかりで、ジュスト・ジャカンの「マダム・クロード」の世界。ぼかし付きのそのものずばりのシーンもたくさんありますが、もぅ〜ドパルドューが太り過ぎちゃって(笑)。彼の全裸なんか出てきた日にゃ、エロスも吹っ飛ばす物凄さ。脂ぎったおじさんならまだ生々しいですが、あれくらい太ってしまったら、例えが適切がどうかわかりませんが、獣姦を観ている気分です。まっ、デヴローはその後「獣(けだもの)」呼ばわりされるんですから、適役だったのかも?

空港での逮捕から妻がフランスから来るまで、警察の様子が描かれます。のどかと言うか何と言うか。テンポが悪くて私はあんまり面白くなかったなぁ。またドパルドューの全裸が出て来るし(笑)。本当にね、目に悪いですよ。太っているのが悪いと言うのじゃなくて、そういう人の全裸を映すのが悪趣味って事で。丁寧に撮っているようで、被害者の黒人女性に聞き取りするのが、男性の刑事だけだったり。日本じゃ女性警官じゃないかな?アメリカもそうだとしたら、演出の詰めが甘い。

対して酒池肉林、強姦未遂を時間をかけて描いたのは良かったです。多分病気なのですね、セックス依存症。本物のカーンは知りませんが、デヴローはそう感じます。台詞でもそう言ってますし。その理由を自分で分析していて、夫を大統領にして、自分がファーストレディーになるのが人生の夢の妻のせいで、そのプレッシャーから自分はセックス依存症になったのだとか。でもね、前妻との間の娘と婚約者を前に、「もうやったのか?」「娘のセックスはどうか?」と婚約者に尋ね、娘も娘で、「もう〜、パパったら止めて〜」とニタニタしている様子は、元々下ユルの血筋じゃないかと思うんですけどね(笑)。

これで大統領選出馬は水の泡となったと、法外な保釈金(日本円にして一億円くらい?)を払って夫を釈放させた妻は、夫を詰る詰る。夫もお前がプレッシャーを与えたからだと応戦。この夫婦喧嘩シーンが何度かあり、ここは面白かったです。妻はこれまで何度も夫の窮地を救っており、それもこれも夫を大統領にしたいため。大財閥出身の妻は、どうも戦争前後で家系の名誉に傷がついたようで、それを払拭したいがため、デヴローと結婚して大統領にしたかったようです。打算的ですが、夫に対して、妻ならではの愛憎をぶつける様子に、私は共感しました。

途中で何やらセックスや権力について、哲学的なデヴローの自問自答的独白がありますが、全部忘れちゃった(笑)。私がバカなのか、元々空虚なもんなのか、多分その両方なんでしょう。対する妻の「愛の反対側には何があると思う?憎しみではなく無関心なのよ」には、激しく同意。憎んでいる間は、まだ愛しているのよ。「あなたは私に感謝している?」も、うんうんと肯く私。何度もお為ごかしの感謝はしていたけど、妻の鋭い視線から見ると、反論なんかしちゃって、全然反省してないもん。妻の願いの精神科医の治療にも消極的だしね。自分でセックス依存症と言うので、病識があるのかと思っていたら、全然ないわけ。だったら、軽々しく依存症だと叫ぶのは、不遜ってもんですよ。

あの訳のわからん独白も、妻の一刀両断を際立たせるためのもんだったんでしょう。ラストは、夫婦とも「呪縛」から解放される予感を映していました。

名優ドパルドューは絶対痩せるべき。あのままだと生命の危機ですよ。演技がどうのこうの言う前に観客がそこに思考が行ってしまうのは、俳優として如何なもんかと。もちろん演技は悪くはなかったです。

で、ビセットです。本物の「元」妻(映画と同じでこの事件の後離婚)アンヌ・サンクレールがショートカットなのを受けて、多分ウィッグ使用でのヘアスタイルは、若々しくとても似合っていて、「ドミノ」の時より若返ったくらい。相変わらずスタイル良くて、少し膝の見えるタイトスカート姿が素敵です。猛女っぽく演じていないので、返って妻の嘆きが手に取るように伝わってきました。最初この役は、イザベル・アジャー二にオファーがあり、断ったアジャ-二に代わりビセットの期用とか。夫婦役としての相性は、ビセットの方が良かった気がします。




一般的に記憶に残るビセットの容姿は、こんな感じかな?本当に綺麗ですよね。知的でエレガンス、そして暖かみのある美貌であるのが彼女の魅力です。もっとガツガツ仕事をすれば、現在のシャーロット・ランプリング的な立ち位置も可能かと思いますが、ああいう凄みと言うか怖さがないから、ダメかな?(笑)。今も昔も、そういうおっとりとしたところが、大好きです。若い時分はバカスカ脱いで、何でこんな作品に出てるんだろう?と、謎の作品選びもありましたが、それでもノーブルな印象が変わらないのは、御本人の人柄が滲んでいるからだと思います。ちょっと毒のある可愛いお婆ちゃん役は、現在シャーリー・マクレーンの独壇場ですが、ビセットが代われないんもんかしら?これも毒が無いからダメかも?(笑)。恋する彼女を、もう一度観たいな.


2015年03月19日(木) 「博士と彼女のセオリー」




本年度アカデミー賞主演男優賞(エディ・レッドメイン)受賞作。英国紳士は皮肉なユーモアがお好きで、時としてそれが癇に障る時がありまして、それがオスカー受賞時のコリン・ファース。スピーチの第一声が、「これで僕のキャリアもジリ貧だ」。そりゃ頂点に立てば下がるだけですが、この皮肉なユーモア、落ちた候補者に失礼じゃないのか?と思ったのは、私だけだったのかしら?その点、かのウィリアム王子の御学友にして、ホーキング博士と同じケンブリッジ卒のエディは、全身で喜びを表し、本当に微笑ましかった。やっぱ人によるのだと、授賞式を観て、当たり前の事を思いました。この作品も前知識を入れなかったので、予想裏切られた系ですが、やはり素晴らしい作品でした。監督はジェームズ・マーシュ。

1963年のイギリス。ケンブリッジ大学院で理論物理学を研究するスティーヴン・ホーキング(エディ・レッドメイン)。パーティーで知り合った同じ大学で学ぶジェーン(フェリシティ・ジョーンズ)と恋に落ちます。恩師であるシアマ(デヴィッド・シューリス)からも期待される、前途洋洋のスティーヴンでしたが、ALSと診断され、余命二年と宣告されます。何もかも諦めよとする彼でしたが、添い遂げる覚悟だと言うジューンと結婚。幸いにも病の進行は遅れ、子供にも恵まれた二人ですが、子育てと夫の介護で、ジューンは疲弊していきます。

車椅子の博士として、ホーキング博士は著名な人です。まだお元気(と言うと語弊があるけど)だし、きっと永遠の夫婦愛が描かれるのだと予想していましたが、実はこのご夫婦、離婚しているのですね。原作者は「元妻」のジェーンで、赤裸々な夫婦生活が描かれます。

最初から1/3は、純な可愛いカップルのラブラブぶりが描かれ、微笑ましい限り。後から思えば、赤裸々に描いていたのに、透明感ある清々しい作品に感じたのは、この部分の印象が強かったからに思います。

体は段々動かなくなっていくのに、男性機能だけは大丈夫だと言う不思議。次々に子供に恵まれ、夫の介護と子育てで休む間もないジェーン。彼女のお蔭で夫は研究者として成果を出し、世間に認められていくのに、自分は勉強もままならない。ストレスに押しつぶされそうな彼女に、母(エミリー・ワトソン)は、気晴らしに聖歌隊に入ればと?勧めます。

聖歌隊を指導するのは、ジョナサン(チャーリー・コックス)。彼初登場のシーンでは、私は全然ストーリーを知らなかったにも関わらず、この後何が起こるのかがわかってしまいました。何故なんだろう?今でもわからない。これが演出力って事かしら?

友人として、夫婦の手助けをするジョナサン。子供たちにも父親代わりです。家族で楽しくアウトドアの様子を映し、常にスティーブンの笑顔を映すのに、彼の夫として父親としての、忸怩たる思いが伝わってきます。

私がものすごく憤慨したのは、第三子が生まれた時、スティーヴンの両親が、ジェーンの不貞を疑った事です。姑曰く「私たちには、知る権利があるわ」。そんな権利、誰にもありません。遠方に住んでいたようですが、ほとんど息子の世話もしなかったような両親です。我が息子が「俺の子だ」と言えば、その子は息子の子供で、あなたの可愛い孫じゃないの?原作では、この辺のジェーンの深い哀しみも綴られているのでしょう。

スティーヴンは深刻な状態となり、声を失います。専任の介護人として、魅力的な女性エレインが雇われます。楽になったはずなのに、所在無げなジェーン。そして今度は彼女が、スティーブンが味わったような、妻としての喪失感を味わいます。この辺の夫婦の複雑な心の変遷は、形こそ違え、どこにでもある夫婦の問題です。そう、夫がどんなに偉大な博士だとて、病でいつ命が尽きるかも知れないとて、夫婦の悩みや葛藤は同じくらいあり、美談でも聖人君子でもない、と言う事なのでしょう。

ただ一つ真実なのは、スティーヴンが立派な学者になれたのは、彼に生きる希望を与えたジェーンだと思います。これだけは誰にも出来ない事です。偉大なホーキング博士が、それを一番理解し、感謝している事がわかるラストが、本当に胸に沁みました。夫婦は別れても、家族の愛は残る。それは二人が選択した事です。

エディは溌剌とした学生時代から、次第に体の自由が利かなくなり、声の出し方まで病の進行を忠実に表現。最後は声を失い目だけの演技でしたが、確かに素晴らしい演技。オスカーも納得です。でも私が彼以上に心酔して観たのは、フェリシティ。可憐で知的な女学生の純愛から、人妻の苦悩、解放された後の一回り大きくなった包容力を堂々と演じ、立派な女の一代記でした。

赤裸々と言いつつも、本当のところはぼかしているのかも?でもそれでいいのです。誰にも知る権利はない。ジェーンが、スティーブンが、この作品を素晴らしいと絶賛しているのなら、この映画は真実なのだと思います。




2015年03月15日(日) 「イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密」




この作品で本年度のオスカーの脚色賞を受賞したグレアム・ムーアの喜びのコメントは、感動的でした。「僕は16歳の時自殺未遂した。変わり者でどこにも居場所がなかったからだ。僕と同じように悩んでいる子がいたら、変わる必要はない。そのままでいて。居場所はあります。必ず居場所や輝く時が来ると、この壇上から伝えたい」と言う主旨だったと記憶しています。この作品を観るまで、これはムーア単体での経験値からの言葉だと思っていました。でも鑑賞後は、ムーアがこの作品の主人公チューリングに、どれほど自分を投影し、渾身の力で書いたのだろうと、その事にも胸が熱くなりました。戦時中が舞台ですが、今の時代からこそ描けた力作。監督はモルテン・デゥルドゥム。

1939年、ドイツ軍に苦戦する連合軍。勝利にはドイツの暗号気「エニグマ」の解読が重要事項でした。イギリスではMI6の元、チェスのチャンピオン、ドイツ語学者など精鋭が集められ、エニグマの解読に必死に取り組んでいました。その中のメンバーの一人が天才数学者のアラン・チューリング(ベネディクト・カンバーバッチ)。変わり者でチームワークを乱す彼は、人で暗号解読機を作ろうとします。誰も彼を相手にしなくなっていた頃、途中でチームに参加したジョーン(キーラ・ナイトレイ)が、アランをチームに溶け込むように導きます。

冒頭、警察で尋問を受けいる現在のチューリングの姿が映されます。不穏な雰囲気の中、彼の回想が語られると言う形で内容が進行。時代が過去、そのまた過去、そして現在と駆け巡りますが、その都度年度が出るので、迷う事はありません。彼が同僚から浮き上がっている場面から、すぐに中学生時代の回想シーンが始まり、そこから紐解ので、観客にチューリングと言う男性を理解するのにとても効果的で、この手法は成功していたと思います。

現在のコンピューターの基礎を作った人が、エニグマを解読するまでのミステリーだとだけ思って臨んだ私は、予想していたものと大幅に違う内容に、びっくり。確かにエニグマ解読までの苦難を、軍の横やり、忍び寄るMI6の影を、戦時中のイギリスの様相を再現した中、丁々発止のやり取りは、それだけでも見応えはありました。

しかし私の心を捉えたのは、チューリングの特異性です。ただの変わり者とは言えない、アスペルガーを想像させる人です。その他にも同性愛、優秀なのに女性である事だけで差別されるなど、当時のイギリス社会の差別の恐ろしさです。類稀な頭脳である事で虐められ、人づきあいが苦手でまた虐められる中学生時代のチューリング。成長過程で、コミュニケーション能力が封印されるのも当然です。

いつも笑みを絶やさず、彼をチームに溶け込ますべく教育的指導をするジョーン。「男性の中で仕事するのよ。嫌われたら終わりでしょう?」それは何度も苦い思いをして学習した事なのでしょう。チューリングを見抜く事が出来たのは、似たような思いを抱いて生きてきたからだと思いました。

「そこは”ありがとう”でしょ?」「あれが恋の駆け引きと言うのよ」「ジョーンが皆に何かをプレゼントしろと言ったから」と、言わなくてもいいのに、チームのメンバーに林檎を配るチューリング。ジョーンに対する信頼は、「彼女が好き」な事に尽きる。loveではなくlike。チューリングが如何に類まれな頭脳を持とうと、一人でエニグマ解読は出来なかったはず。チームプレーの勝利を生んだのは、私はジョーンの力だったと思います。彼女の接し方こそ、生きにくい障害を抱える人たちと共生する心髄だったと思います。

心が通いあったメンバーとの友情や絆、エニグマ解読までのスリリングな様子、国を守るために100人の命を捨てる残酷さをを映しながら、常に付きまとうのは「嘘」。メンバーの中の嘘、国を守るための嘘、信じさせるための嘘、誰かを守るための嘘。チューリングの苦境に対して、ジョーンは「私ならあなたを助けられたのに、どうして呼んでくれなかったの?」と言う。しかしそれも「嘘の証言」なのです。

一つ嘘をつけばまた嘘をつかなければ行けない。束の間、友情に恵まれたチューリングを待ち受けていた無聊を慰めたのが、「クリストファー」と名付けたマシンであった事を描いた場面は、カンバーバッチ渾身の演技と相まって、号泣しました。最後まで彼の傍にいた「クリストファー」。何週も人生を回っても、チューリングの傍らにいたのは、最初から最後まで「クリストファー」だけだったと言う痛ましさ。これはマシンであったからでは、ないのです。

オスカー候補になったカンバーバッチは、今回クールな部分を見せる事もなく、時には無様で(マシュー・グードに俺の方がハンサムと言われるし)、理解されない天才の苦悩を好演で、彼の別の魅力を観た思いです。キーラはここ数年、本当に立派な女優になったと思います。コスプレから現代ものまで、様々なジャンルの主役を張り、充分な成果も出しているのに、ちっとも大女優然とはせず、新鮮味と軽やかさがずっと持続しているのがすごい。「私に花束はないの?」の、クスクス笑いながら手の平でチューリングを包み込む暖かさにも、とても感動しました。

チューリングにはコミュニケーション不全以外にも、秘密にしていたことがあります。そのせいで、エニグマ解読のお蔭で終戦は二年早まっただろうと言われているにも関わらず、彼の功績は長年封印されたいたそうです。何の罪科も無い事にも関わらず。自分を偽らず、嘘のない人生を歩めたら。自分が自分らしく、あなたがあなたらしく生きる人生を尊重したい。ムーアの脚色とスピーチは、この思いに尽きるのでしょう。

重厚な作りの中、イギリスらしい皮肉っぽいジョークにニヤリとする時が多々あり、一瞬の休息になる演出も洗練されていました。老若のイギリスイケメン俳優大集合の様相もあり、重たい話だと敬遠せず、今を生きる私たちだからこそ、観なくてはいけない作品だと思います。


2015年03月13日(金) 「ソロモンの偽証 前篇 事件」




宮部みゆきの全六巻の大長編が原作。子育て経験のある者からしたら、とてもリアリティのある画面が繰り広げられ、懸命に真実を追求する中学生たちの、純粋でまっすぐな面差しが、眩しく輝いている作品。監督は成島出。

時代はバブルの頃。雪に覆われた中学校の敷地内で、同中学の柏木が転落死いているのが見つかります。第一発見者は同級生の藤野涼子(藤野涼子)と野田(前田航基)。警察は自殺と判断しますが、同級生が殺したとの怪文書があちこちに届き、学校は混乱。その後次の死が起こり、業を煮やした生徒たちは、自分達で裁判を行い、事実を究明しようとします。

この手の作品では、年齢のずっと上の俳優が中学生を演じる事も多いのですが、この作品はほぼ役柄と同年代の無名の子役たちが演じ、それがとても新鮮です。ほぼ素人に近い子も多数ですが、みんなびっくりするほど自然な演技。主演の藤野涼子は、この年齢に似つかわしくない落ち着きと、背筋の真っ直ぐな理知的な雰囲気が、たくさんのライバルから選ばれただけある大物っぷりです。主演として堂々の存在感で素晴らしかったです。

事件に翻弄され、学校も警察も当てにはならないと、自分たちで真実を知ろうとする生徒たち。う〜ん、素晴らしい自立心。固唾を呑んで見守るとは、この事かと思う程、中学生たちの日常を追っただけなのに、ものすごい緊張感が持続します。涼子の「血だらけの心」と言う台詞が心に残ります。大人になると、血が噴き出すと修復が難しいけど、中学生は、まだ自力で治して、人生の糧に出来る年齢です。

でも優等生だった娘(涼子)が裁判で真実を追求したいと母(夏川由衣)に相談すると、「いいの?学校に反抗して内申書に響くよ。志望校目指して学級委員もずっとやって、勉強頑張ってきたんじゃないの?」と言う台詞に、本当に胸が突かれます。観ている分には、涼子たちを応援出来るのですが、これが我が子なら、このお母さんの言う通りなんです。中学校って何なんだろう?我が子が中学生だった時は遠い昔なのに、今更ながら考え込んでしまいました。

私も大人になった子供たちから、中高生の時の出来事を聞き、私はいったい子供の何を観ていたんだろう?と、その節穴っぷりに、情けなくなる時があります。そういう親の至らなさを容赦なく映す画面。しかし分岐点に来て、それぞれ違う方向に向きだす親たち。子供の自立心が芽生えた時、親はどう対処するのか?信じて見守る。これがどんなに難しくて大変な事か、この作品を観ても、子供にはわからないだろうなぁ。

父親・夫から妻子への暴力、男子から女子への暴力、教師から生徒への暴力。この作品は暴力に溢れています。不承不承でも、それは暴力ではないと、言い訳が通った時代なんだと痛感します。そう思うと、今の時代は良い時代です。

色々な謎を含んで終わった前篇。次に繋げる壮大な予告編としては、上々の出来だと思います。後半で「真実」は解明されるのか?原作を読むのは、後編を観てからにしたいと思います。


2015年03月06日(金) 「きっと、星のせいじゃない」




ノーマークの作品で、お友達に誘われての鑑賞でしたが、これがとても拾い物。若々しく瑞々しさに溢れながら、プライドと知性に溢れた語り口が、ただの難病物とは、一味も二味も違う感動を呼びます。この手の作品は、真摯な登場人物の生き方に、気が付けば観客の方が励まされるのですが、この作品はそれがありません。ただ見守りたいのです。最後まで主体は、死を受け入れている彼らでした。あくまで難病はモチーフで、恋愛映画の秀作です。監督はジョシュ・ブーン。とっても素敵な作品です。

17歳のヘイゼル(シャイリーン・ウッドリー)は、末期がんで余命いくばくもありません。ローティーンの時に発病し、今は学校も行けず、肺の機能低下のため、酸素ボンベが手放せません。母(ローラ・ダーン)の懇願で、若いがん患者の集まりにしぶしぶ参加。そこで骨肉種で右足の膝から下を切断したオーガスタス(アンセル・エルゴード)と出会います。リアリティ番組と通院だけの日々だったヘイゼルの毎日は、ガス(オーガスタスの略称)と過ごすことで、彩り始めます。

恋する事でお互いが傷つく事を恐れるヘイゼルと、堂々と駆け引きなしに、彼女に愛を告げるガス。如何にも若い子同士の、純粋な感情のぶつかり合いを、ネットやラインをアイテムに使って、ユーモラスに愛らしく演出しています。

年齢以上の落ち着きで、達観したように死を受け入れるヘイゼル。13歳で危篤に陥った彼女の回想が描かれますが、その時母親が、「もう頑張らなくていいのよ」とヘイゼルの手を握り、その後夫(ヘイゼルの父)に取りすがり、「もう母親何て辞めたい」と号泣するのです。もちろんそれは、愛しい娘の苦しむ姿を見るのが辛い、母心が言わせたものです。しかし何故ずっと娘の手を握り締めないのだろう?と私は不思議でしたが、それはヘイゼルも同じなのです。ヘイゼルの心の底はずっと、この孤独な感情に束縛されていたと思います。

片肺の機能していないヘイゼルは、階段を上ったり立ち続ける事が苦痛です。しかしアンネ・フランク記念館で、意を決した彼女は、最上階まで上ろうとします。辛くて息の出来ない彼女は、上り切れるのか?固唾を呑んで見守る私でしたが、頑張れと応援する気が起きない。いつでも止めていいのよと、見守っていただけ。本当は止めて欲しいとすら思う。ただ階段を上るだけ。たったそれだけが、こんなにも切羽詰った気持ちにさせるなんて。「ゆっくりどうぞ」と言う見知らぬ男性の声が、空間を豊かに包みます。

最上階まで上り切ったヘイゼルが、ガスに抱きつきキスすると、周囲の人々が拍手する。それは私たち観客の代わりなんだな。肉体や精神を傷つける恐れから、彼女が解放された瞬間だから。愛するヘイゼルの気持ちを、ガスが受け止めたから。そのキスには、豊かな愛が溢れていたから。

不完全な肉体に宿る健全な男女の愛。しかしそこから急転直下、物語は急変化します。支える相手が入れ替わるその力強さに、恋と愛の明確な違いを感じさせられました。

ヘイゼルの父(サム・トラメル)が、「誰かを愛して良かっただろう?」と言うと、肯くヘイゼル。今の彼女ならきっと、あの時の母は、世界中で一番愛する者を失う苦しみに耐えられなかった、だから愛する夫にすがったのだと理解出来るはず。お互いを思いやりながら、ピリピリとした感情の交換をしていたはずの母と娘。大らかなこの父はきっと、二人を温かく包み込む潤滑油であったはずです。

主演の二人は日本では馴染が少ないでしょうが、これから大活躍するはず。地味目の印象ですが、その分賢さが際立ち、好感の持てるカップルです。ウィレム・デフォーが、ゲスト的に出演。ヘイゼルの愛読書の著者で、彼女は結末を教えて欲しいと熱望しますが、それは書きたくても書けなかったのですね。真の意味での、二人のキューピッドです。

この作品に高潔な印象を受けるのは、死に近づく若者たちが、自暴自棄にならず、最後まで人としての自尊心を大切にした事にあると思います。それを教えたのは親の愛。報いたのは子の親への愛。生への希望は男女の愛。愛・愛・愛。愛とは何か?教えて貰える作品です。




2015年03月01日(日) 「アメリカン・スナイパー」

先のオスカーでは六つのノミニーのうち音響賞だけ受賞でしたが、クリント・イーストウッド監督作品では、最大の興行収入をもたらしているそう。オスカー前に一般人に誰が主演男優賞を取って欲しいかとアンケートしたところ、ダントツでこの作品のブラッドリー・クーパーだったとか。観終わってその事を知りましたが、ものすごく納得出来ました。色んな感想があるようですが、私は反戦でも好戦でもなく、イラクで戦った事への複雑なアメリカ人の心が、綿密に映されていると感じました。そういう意味では、とてもアメリカ目線のように思えます。原作は主人公であるカイル・クリスの手記です。

平凡な一般人であったクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)は、祖国アメリカを守る事に意義を見出し、過酷なネイビーシールズで訓練を受けます。その時9.11が発生。国を守る事に一層の使命感を持つクリス。やがてタヤ(シエナ・ミラー)と結婚。新婚間もない妻を置いてクリスは出兵。狙撃者として超人的な腕を持つ彼は、米軍史上最多の160人を狙撃。味方からは「レジェンド」として称賛される一方、イラクの反政府勢力からは懸賞金をつけられ狙われます。帰国すれば妻子との温かい家庭をもちながら、過酷な戦場との行ったり来たりの生活は、やがて彼の心を蝕んでいきます。

冒頭クリスが幼い時のカイル家の生活が描かれ、父から人には羊・狼・番犬の三つがあり、何があっても家族は守るべしの教訓が説かれます。それがクリスの心の底に常にあったのは明白です。恋人に裏切られ、その痛みを払拭するのに、「国を守る」と言う名目の軍隊に志願するカイル。あのまま恋人と結婚していたら、レジェンドは生まれなかったのですから、人生とは不思議なものです。

9.11が如何にアメリカ人の心を結束させたかを、クリスとタヤがテレビに見入る様子で充分わかりました。シールズの過酷な訓練は何度も映画で目にしますが、「同じ釜の飯」と言うのは国を問わないのでしょう。のちの展開から、描く必要性ありと思いました。

最初の狙撃の後、仲間からの称賛に戸惑いを見せるカイル。狙撃したのは爆弾を持つ女子供でした。味方を救ったとは言え、戦場で初めて「殺した」のが屈強な兵士ではなかった事に屈託を感じる彼。ヒーロー扱いされる事に違和感があるのです。

数度の派兵と交互して、妻子との家庭生活が描かれます。安堵に満ちた家庭から、もう行かなくても良いのに、憑かれたように志願してイラクに行くカイル。当然家庭の雲行きは怪しくなり、諍いが絶えなくなります。妻の行かないでくれの願いは当然で、実際にあちこちの家庭にあった事なのでしょう

「ハート・ロッカー」の主人公とカイルは、似ているようで違うと思いました。カイルには「戦争は麻薬」的な、陶酔感がないのです。生死を賭けた戦場に何度も志願する様子は狂気をはらんではいますが、「君は俺がいなくても大丈夫だ。俺が死んだ後は再婚してくれ」とは、妻に向けたカイルの言葉。一見無責任ですが、家庭と国とを秤にかけて、クリスは自分がより必要とされるのは「国」だと思い込んだんだのでは?国と言うより、有体に言えば仲間を救いたい、でしょうか?使命感にガチガチに縛られている。心が蝕まれていたなら、そこだと思います。

たくさんの命を落とした同僚、とりわけバディであった結婚間近の同僚の負傷に焦点を当てたのは、それを言いたかったのかと思いました。国を守ると言う大雑把な感情は、兵士が一人死に二人死に、敵への直接的な憎しみを植え付けたのだと感じました。これは味方からはレジェンド、敵からは悪魔と称されたカイルを象徴するように、相手側にも同じ感情が生まれていたと思います。

ブラッドリーはプロデューサーも兼ね、イーストウッドの監督を熱望したそう。かなりウェイトを増やし、屈強なシールズになり切っていました。クリスの心の感情をとても誠実に熱演。シエナは気丈で賢い妻を好演。「俺が死んだら」の台詞も、この妻なら立派に子供を育ててくれると言う信頼感が言わせたものです。そういう妻を、男性関係が派手で、そのせいでキャリアを躓かせたシエナが好演とは、感慨深いものがありました。「フォックス・キャッチャー」でも明るく可愛い奥さんぶりが印象的だったシエナ。これからの彼女に期待したいです。

その他のキャストは、地味な配役ばかりでしたが、それは意図したものでしょう。アメリカ人に圧倒的に支持されたのは、クリス・カイルに自分自身、あるいは夫・息子・隣人が重なる。伝説のスナイパーであるはずが、アメリカ人がすぐ想起出来る「誰かに似た人」であった事でしょう。そこにイーストウッドの非凡な演出力があるのだと思います。

クリスが亡くなった事は知っていましたが、あんな亡くなり方だったとは。これも戦死だと思いました。死ぬ前に束の間でも、平穏な家庭生活を送った事は、彼にも妻子にも、せめてもの救いだと思いたい。好戦でも反戦でもないと書きましたが、個人的にはやはり反戦映画だと思います。


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