ケイケイの映画日記
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2004年08月30日(月) 「カーサ・エスペランサ 赤ちゃんの家」

トム・クルーズとニコール・キッドマンの離婚の際に、彼らが養子の親権をめぐり泥仕合をしたと言う話に、少々違和感を抱いた方も多かったのではないかと思います。日本と言うか東洋人的感覚では、血のつながりはとても大事で、なさぬ仲や養子と言うと、親子と言えど一歩も二歩も引いて考えてしまうのが、一般的かと思います。このお話は南米のとある国に、養子をもらい来ている女性達の群像劇を描く、ジョン・セイルズ監督の久々に劇場公開作です。

女性達は年齢も生活レベルも全て異なりますが、それぞれ人には言えないものを背負っており、赤ちゃんを育て母になることで、違う自分に生まれ変わりたい、きっと今ある苦しみからも解放されるのだと信じているようです。

彼女たちの背景なのですが、私は子供も3人産み育て、流産の経験もあるし、結婚生活も22年になろうとしているので、少しだけ見え隠れする事情に、1を見れば5も6も感じますが、人によってはだいぶ説明不足と捉える方もおられるかと思いますが、私には彼女達の必死さが素直に胸に沁み切なくなります。

しかしこの彼女達の思いは甘いのだ、ともセイルズは語ります。このとある国は、チリがモデルらしいです。劇中、「わが国の一番の輸出品は赤ん坊。」と言うセリフが出てきますが、養子をもらうために金銭が動き、形は養子ですが人身売買とも言えます。

街には失業者が溢れ、年端もいかない少女が堕胎より出産して子を「売る」ことを選び、何とか労働にありついている若い娘たちは、軒並み養子を出した経験があり、養子として選ばれなかった子はストリートチルドレンとして生きて行かねばなりません。明日の糧のため今日を働く、その日暮らしの人々。そんな切羽詰った暮らしをする人々から見れば、どんな事情を抱えようと、子供を待つ間、何日も異国のホテル暮らしが出来る余裕のある彼女達は、ただの金持ちのアメリカ女なのです。

ではセイルズは、彼女達を糾弾しているのでしょうか?
私はそうは思いませんでした。時折挿入される赤ちゃんたちの愛らしい姿は、思わずスクリーンに手を伸ばし、抱きしめたくなるほどです。寝ているときは、赤ちゃんは体中が呼吸しているようにお腹が大きく動きます。子供達が生まれたての時、ああこの子は生きているのだと、飽きることなく眠る我が子を私は見つめていたものです。たくさんの事に絶望し、裏切られた思いを抱える彼女達に、女性の最後の砦とも言える母性を溢れさせることで、子供を持つことで強くなって欲しい、セイルズはそんな願いを込めて、彼女達のあえて無自覚な傲慢さも描写したのだと感じました。

子供はその親を求めて、この世に出てくると聞いた事があります。しかし、その親から縁を切られた子はどうするればいいのか?子供が幸せになれば、人身売買でも良いのか?ぐるぐる頭をかけめぐる思いに、私は答えが出せません。でもただ一つ、母になりたいと切望する彼女達に、甘いと言われようが、赤ちゃんを抱かせてあげたい、その思いだけは深く残った作品でした。


2004年08月24日(火) 「華氏911」

自分は鷹か鳩か?そんな明確なイデオロギーさえもっていない私でも、銃を自由に所持することや、イラク戦争にはもちろん反対です。「ボウリング・フォー・コロンバイン」では、その主張は全面支持でも、あまりの強烈なムーアの個性に食あたり気味となった私ですが、ドキュメントも主観があるのだ、とそんな当たり前の事を改めて教えてくれた、貴重な作品でした。

今回は売り物の突撃アポは控えめで、ドキュメンタリー映像をつないでいく
構成です。ブッシュ大統領を引き下ろしたいための作品と聞いていたので、今回は面白おかしく大統領をコケにした映像も、ムーアに免疫が出来ていたためか、幾らか間引いて観る事が出来、素直にムーアの主張も受け取れました。

後半は一転、ムーアの故郷ミシガン州フリントの貧困の様子や、戦争で負傷して障害者となった退役軍人の保障の少なさ、イラク戦争に借り出される兵士たちのこの戦争への疑問など、真面目な映像が綴られます。特にフリントでは失業率が高く、高校卒業後は軍隊へ入る事が最高の選択だと言うのは
衝撃でした。底辺の者が命を張るのは国家ではなく富める者のため、と言うムーアの主張は、大昔の事でなく今の現実なので、胸に突き刺さりました。

愛国者と言うと、好戦的な人のように受け取られそうですが、ここまで自分の主張を貫くのは、ムーアが命懸けで国を憂いているように感じ、彼は愛国者なのだと感じました。オリンピックで素直に日本選手を応援する反面、多分住めば違和感もいっぱいあろう、韓国の国籍も捨てられない矛盾を抱える
私は、韓国人ではなく「在日韓国人」と言う立場の人間で、真に愛する国のない、浮遊した寂しさがあり、ムーアが羨ましく感じました。

小中学校では通名をやめ本名を名乗り、あなたの出自に誇りを持ち生きましょうと教えて下さっていますが、大人になり社会に出ると、何故日本人にならないの?その方が生きるのに楽よ、あなたのためよと言う重圧が待っています。月9に初の在日が主人公の作品が出来ようと、韓流などともてはやされても、現実は違うのだとマスメディアの裏を見て、その裏の動く利益を冷静に感じている私は、ここで偏ったムーアの演出にハッとします。

彼の一方方向だけを向いた演出は、まさかここまで真実ではないでしょうと思わすのに充分。と言うことは、今流れているマスメディアだって、全部鵜呑みにしちゃいけませんよ、と言う反語なのか?きっとそうなんでしょう。
思っていたよりずっと知性のある人なんだ。だいぶアプローチは違うけど、
ミロシュ・フォアマンの「ラリー・フリント」も思い出しました。


2004年08月19日(木) 「ふくろう」

普段の月はだいたい週2本のペースで映画館に通っていますが、今月は夏休みやお盆などで、まだ2本しか観ていません。午前中だけとは言え仕事を持つ主婦が、月7〜8本映画を観ていると書くと、まるで何も家事をしていないように思われそうですが、(まぁ、大した事はしちゃいませんが。)
実際は末っ子が学校から帰ってくる午後3〜4時までには帰宅し、土日祝に出かける時は、家族がみんな出払った後、これまた末っ子が帰宅するまでに
帰るという、ほとんど綱渡り状態で観ていますので、一旦綱から落下すると中々上れません。

何故そんなにしてまで観るかと言えば、映画が好きだから。ただそれだけです。今20歳と18歳の上の息子達が4歳と2歳の時、初めて「東映まんが祭り」に連れて行った時、映画館で観ると言うところまでやっと漕ぎ着けた、と思わず感激して泣いてしまい、子供達をびっくりさせたこともあります。

私がこの作品を観たかったのは、前々回書いた「鬼婆」の新藤監督が、同じように貧困にあえぎながら、たくましくしたたかに立ち向かう女性二人を現代に甦らせた設定だったからです。演じるのは大竹しのぶと伊藤歩。
去年の「阿修羅の如く」でも、ラスト、小林薫が「女は阿修羅だな・・・」とつぶやくその姿を、4姉妹で唯一感じさせた大竹しのぶは、ここでも超快(怪)演です。設定は37歳で、正直無理がありまくりのしわしわ目尻でしたが(製作時45歳)、いくつになっても可愛い声とカマトトな風情は、年を取ると獰猛さがプラスされ、怖い系一歩手前のお色気を醸しだし、カモにした男みんながなびいてしまうのは、納得の魅力でした。

娘役の伊藤歩は、この作品で初めて観ました。大竹しのぶと対等や食う演技をする若い女優はいるはずもなく、居たとしても怖いので、彼女のような涼しげな容姿の素直な感じの人が演じる方が、ブラックユーモアの毒が上手く中和されて、良かったと思います。

私がびっくりしたのは、御年92歳の新藤監督の性の描き方の巧みさです。男を家に連れ込んでは体を与え、その後殺して有金残らず頂戴してしまうのですが、一戦交えた後、必ず母親の口紅が取れ化粧がはげていました。最後の方は選手交代で、娘がお相手するのですが、その時も同じです。そして毒薬の入った酒を持って待っている方は、ちゃんと口紅がついている。92歳にして、この観察力には脱帽してしまいました。

全体に一幕の舞台のようなのですが、ラスト近くの怒涛の展開は、舞台化された方が合い、さぞ面白かろうと思いました。村に帰ってきた少年のお話しは少しお涙頂戴が過ぎる気もしましたが、よくよく考えれば行政の手助けを受けようと思えば、その知識がなければ何も出来ません。荒れた土地に閉じ込められた人々に、その機会はなかったろうと思います。その他、母娘の毒牙にかかるのは、全てお上の側やそれに順ずる男たちで、この母娘がこうなった責任の所在は国にあると、女達に叫ばせています。

「人間は色と食(しょくとしょく)に欲がなくなったらおしまい。」と言う言葉を、受付をしている病院の先生から聞いたことがあるのですが、なるほど、「鬼婆」同様また女二人に、生きることとは食べることなりとでも言うように、ガツガツ貪り食わせていました。だいたい高齢の夫婦は夫が先に亡くなると、妻は生き生きしだすのに、その反対はすぐ後を追うように亡くなると言いますが、新藤監督、まだまだ元気で撮り続けて下さるようです。


2004年08月08日(日) 「誰も知らない」

打ちのめされました。今のところ私の今年のNO.1作品です。

チラシに書いてある荒筋は以下です。
都内の2DKアパートで大好きな母親と幸せに暮らす4人の兄妹。しかし彼らの父親みな別々で、学校にも通ったことがなく、3人の妹弟の存在は、大家にも知らされていなかった。ある日、母親はわずかな現金とメモを残し、兄に妹弟の世話を託し、家を出る。この日から、誰にも知られることのない4人の子供達のだけの”漂流生活”が始まる。

この作品は16年ほど前、実際に東京で起こった事件をモチーフにして作られています。この作品の事を知った時、一番自分で恥じたのは、この事件のことをすっかり忘れていたからです。当時は自分の子を重ねて、この子たちの状況を案じていたはずが、結局何かをした訳でもなく、忘れ去っていた自分。そんな私のような感覚に捕らわれた方も多いのではないでしょうか?私より一つ年下の是枝裕和監督は、そんな彼らを忘れずに構想15年、この作品を作りました。それも美しく力強く彼らを褒め、こういった事件に胸は痛めるけれど、何をすれば良いかわからない私に、答えまでくれました。それは子供は国の宝として、育児放棄した親に代わり、社会が子供の面倒を見るという欧米的な考え方ではなく、親子の結びつきが濃い日本の国に馴染む、私にも出来ることです。

下の3人の存在は秘密なので、引越しの時小さい子二人は、スーツケースの中から出てきます。そして年のころなら5年生くらいの妹は、夜になるまで
繁華街で待たされ、一目につかないよう家に入ります。大変ショッキングな出だしなのですが、母子でゲームしているようで楽しそうです。

家では色々決まりごとがあり、いずれも長男以外の子供達が人目につかないようするための、母親の身勝手な決まりなのですが、子供達は屈託なく素直に母親に従います。そしてその子供達の素直さを納得させるような、母親の躾の上手さが伺えるのです。どの子にも平等に声をかける、一緒に遊ぶ、約束を守れた子にはきちんと褒める、母親が教えたのでしょう、子供達は字も読め上手に絵も描き、自分で勉強していいます。私はびっくりしました。良い母親なのです。それなのに、何故この母親は当たり前の出生届も出さなかったのでしょうか?

地方自治体で異なりますし収入制限もありますが、母子家庭には医療費無料・母子手当て・就学援助など、金銭的に様々な手助けがあります。むろんこれらだけで生活は出来ませんが、出生届けを出し戸籍を作れば、母親の助けになることもあります。しかし出生届けを出せば、当然就学通知が来ます。長女・京子に「学校に行きたい」と言われ、「学校なんて面白くなよ。お父さんがいない子は苛められるよ。」と言う言葉にヒントがあるかと感じました。

丸ごと母親だけを信じる彼らのまぶしいくらいの素直さは、他人と比較した事がないと言うことも、起因しているように感じました。子供とて幼稚園や学校に行くと、人間関係を学んできます。その中には友人達との比較もあるでしょう。そして子供には当然の反抗や怒りなどの感情も芽生えるかと思います。母親は丸ごと自分だけを信じなくなる、それが怖かったのではないかと感じました。しかし大変間違った愛情の出し方ですが、世間で言われたような、男にだらしない鬼のような母とは、私は思えませんでした。

母親を演じるYOUは、バラエティーでお馴染みで本職の女優さんではありませんが、御存知のアニメ声や年齢不詳の雰囲気が現実感のなさを強調し妖精が年を取った雰囲気は母としての母性を感じさせ、気持ちを汲んであげたくなる、絶妙のキャスティングと思われます。

カンヌで主演男優賞を取った柳楽優弥が、長男・明役です。母親に捨てられた後、彼は必死になって生活全般から心のケアまで、弟妹を守ろうとします。見事な長男ぶりなのです。そして年の頃なら13くらいの彼に、男として家族を守る誇り高いものも感じました。そして下の二人の天真爛漫さに比べ、上の兄姉の乏しい感情の出し方に、自分たちでは気づかない、彼らが過ごした日々の厳しさも感じました。

母親ばかりば責められた事件ですが、そうだったのでしょうか?明の姿をクローズアップすることで、是枝監督は無責任で何もしない彼らの父親達の行為を、同じ男性として、静かに観客に問いかけているように感じました。

お金が底をつき電気も水道も止めれ、公園のトイレで用を足し、公園の水道で水を汲み洗濯する日々。夜は明かりもありません。しかし空のカップ麺で草木を育て、上の子は下の子の面倒を見、コンビニ店員の好意で賞味期限切れの食べ物をもらって飢えをしのぐ彼らのたくましい生命力、太陽の下の嘘偽りのない笑顔、せっかく出来た友人の誘いに乗らず万引きもしなかっ明。この正しさは何なのか?

彼らほどではなくても、明たちのように子供だけで過ごす日々が多い子たちが、私の周りでも自分の子供を通じて何人も通り過ぎました。お母さんが帰って来ないため、夜までうちで過ごさせたり、お昼ご飯を作って食べさせたり。しかし私は心配こそすれ、その子達にそれ以上の事はしてあげられません。

みんなみんな素直な良い子たちでした。そして本当に誰もお母さんの悪口を言わない。学校に来なくなったそんな中の一人を案じ、一生懸命になっていた担任の先生が、我が家で過ごすことも多かった、その子の様子を尋ねに来られたこともあります。先生は「悪口を言わないのではなく、恥ずかしくて言えないのですよ。」そう仰いました。私も同調しました。そして世間と同じように私も心の中で、そのお母さんたちを裁いていました。子供の世話はしても、そんないい加減な母親とは接したくない、そう思っていました。目の前の現実に惑わされ、そんなお母さんを孤立させてしまっていたのです。

私は間違っていました。うちの子もその子たちも明兄弟も、そして子供はみんなみんなお母さんが好きなのです。心の底から好きなのです。だから悪口を言えないのではなく、悪口などないのです。こんなお母さんに育てられたのに、こんな素直な子に育った、のではなく、このお母さんが生んで育てたからこそ、この子たちはこんなに素晴らしい子なのです

私に出来ることは子供の世話でなく、私も持っていた世間の敵意に囲まれたお母さんと話しをすることでした。ここしろ、ああしろと教えるのではなく、天気の話、子供の話、学校の話、取り留めない世間話でいいのです。この人は話しかけたら喋ってくれる、そう思ってもらうことですた。「今日の晩ご飯、何にするの?」そんなありきたりの会話をかわし、夕食を作ることを思い出してもらうだけで良かったのです。どんなにごちそうを用意したとして、その子たちの母親の握るおにぎりに、かなうはずがないのですから。

この作品はまぎれもない日本映画です。この情感、美しさ、誰を責めるのでもないのに、切々と観客の心に問いかける静けさ。ハリウッドでも韓国でもイギリスでも、決して作れない作品です。柳楽クンの受賞は、この作品に携わった人全部への御褒美かと思います。


2004年08月05日(木) 「鬼婆」

この作品は最近観たものではなく、5月に十三の第七藝術で、新藤兼人特集でモーニング上映された時に、改めて観た作品です。何故今頃思い出したように書くかというと、昨日アップした圧倒的に感動した「清作の妻」の脚本が、この作品の監督・新藤兼人だからです。「鬼婆」の方は、同じ圧倒的でも衝撃の方。この作品は高校生の頃地元のUHF局で観て、脳天を叩き割られた如くの衝撃を覚えたものですが、よほどショックだったのでしょう、今回再見してみて、細部に渡ってほとんど覚えていました。とにかく乙女心を震撼させた作品でした。

時代は室町の不安定な戦国時代、若い男は武士以外も農民とて戦場に借り出され、貧困な農村は女子供と年寄りだけです。この作品の主人公である嫁(吉村実子)と姑(乙羽信子)は、落ち武者狩りをして生計を立てていました。ある日息子の親友のハチ(佐藤慶)が二人の前に現れます。
そして息子は死んだと言います。

今回再見してみて、佐藤慶が声と言い容貌と言い、竹中尚人にそっくりなのでびっくりしました。しかし、変だけど実は結構いい人のポジションの竹中尚人と違い、佐藤慶は昔も今も佐藤慶。親友の母と嫁を陰ながら支えて、嫁への思いをひた隠しにすると言うような男の純情は見せるはずもなく、姑に隠れて嫁に言い寄り、姑など捨てろとけしかけます。

お腹に響くような力強い和太鼓の音をバックに、平然と人殺しをする嫁姑の姿にもショックを受けますが、当時思春期だった私を何よりびっくりさせたのは、女性の性欲を題材にしていたからです。心より体の方が反応するのは男性だけで、女性と言うのは愛がないと、そういう行為は出来ないのだとずっと思っていた私は、夫が死んだと言うのに悲しむ間もなく、さっさと姑の目を盗んで、ハチに会いに行く嫁に仰天。しかしもっとびっくりさせたのは、姑です。

演じた乙羽信子は製作当時の1964年頃は40前後。役柄と同じくらいでしょう。男の出来た嫁に嫉妬し、大木に抱きつきながら煩悩のため身悶えするのです。そして果敢にもハチにアタックするのですが、当然相手にされません。乙女であった私の思考では、もう女でないような年の、それも姑と名がつく女が男の体を求めるとは・・・と頭の中は!?!?!?の嵐。

演じる乙羽信子は、私が子供の頃はホームドラマの優しいお母さん役を演じていた人で、それでなくても口裂け女のようなメイクの彼女には違和感ありまくりだったのに、ちょうどその頃50の坂を越えた彼女は、妻子持ちの三橋達也の愛人でありながら、若い男を誘惑して破滅させる役をドラマで演じ、その他にも男出入りの激しい情熱のフラメンコダンサーの役など、狂い咲いたようにおばさん役から見事現役の女に復帰。どうして年が若かった石井ふく子シリーズがおばさん役で、50を超えた時の平岩弓枝シリーズで現役に返り咲くのか、私の頭は混乱でぐちゃぐちゃになっていた時でした。

余談ですが、この時期「寺内貫太郎一家」などで素敵な優しいお母さんだった加藤治子も役柄が、灰になるまで女一筋に転換した時で、20歳くらい年下の松田優作と濡れ場なんぞ演じていました。今から思うと、還暦では十朱幸代、4〜50代では、黒木瞳、かたせ梨乃など、生涯現役のような女優さんが増えた今、彼女たちはその先駆者だったのかもしれません。

この作品では、ヌードや盛りがついたとしか表現しようがない濡れ場も出てきます。思春期ではわかりませんでしたが、二人の女性の裸は、この作品ではものすごく語るのです。若い嫁の体は、女としての勢いを感じさせ、フェロモンなどと、生易しい表現でないセックスアピールを振りまき、まさに牝。何人でも子供が生めそうです。対する姑の体はしなびたなすびのよう。自分の遺伝子を残したいと言う牡としの本能は、当然若い女に向かいます。愛を抜きにした生物としての性的欲求を表現するのに、これ以上のものはありません。

その他、寝る時に鼾はかくは、ご飯を食べる様子はかっ食らうと表現がぴったりの嫁姑、しかし人殺しはしても、それより楽な生き方に思える、体を売ると言うことはしないのです。自分の好みの相手なら愛がなくてもなのですが、食わんがために体なんぞ売るかの気概が、その様子を下品さより生命力に溢れたたくましさに感じさせます。

嫉妬と嫁に捨てられると落ち武者狩りの生計が立てられない姑は、手に入れた鬼の面で、嫁を脅かしハチの元に行かせません。そして・・・・・、

どうぞラストはお確かめになって下さい。40年も前描かれた強くて怖い女二人、強くなったと言われる現代女性もたじたじです。


2004年08月03日(火) 「清作の妻」(日本映画専門チャンネル)

この作品の監督・増村保造の作品は何作か観ていて、いずれも大変面白く観たのですが、一番観たいと熱望していたのが、この「清作の妻」。期待にたがわぬ作品で、大変感動しました。

時代は明治、主人公お兼(若尾文子)は生家の貧しさのため、年端も行かぬ10代後半から、妻に先立たれた60過ぎの老人の妾になっています。その老人が急死し、老人の遺族から大金の手切れ金を手にしたお兼ですが、長患いしていた父も亡くなり、残った母の希望で、故郷の農村に帰ることにしました。
久しぶりに故郷に帰った母子を、お兼が妾あがりだと知る村人は蔑み村八分にします。意固地になったお兼も、畑を耕すでもなく村に溶け込もうとしません。そんな村に、勤勉で誠実、軍隊でも模範兵で通した村一番の青年・清作(田村高広)が除隊してきます。

お兼の母の急死の際、火事と葬儀は村八分から除かれると言うのに、誰も手伝おうとせず、彼女をわけ隔てなく受け入れようとする清作は、野辺送りまで親身に手伝います。これがきっかけとなり、二人は接近、好きあうようになり、母や妹、村人中の非難をよそに、二人はお兼の家で生活を始めます。

当時の感覚では、妾、それも老人の慰み者になっていたお兼には、もう2度と堅気の女としての幸せは望めなかったのでしょう。そういう立場にいる者を見る、好奇と侮蔑の入り混じった村中からの目を向けられるお兼が、捨て鉢な感情にかられるのが、手に取るように伝わります。
そんなところへ手を差し伸べた清作。初めて自分が好意を寄せた相手に、思いのたけをぶつけるお兼は、いじらしさを越えて情念の塊です。好きな男に守られ幸せにしてもらう、そんな女としての当然の願いもあきらめていたのでしょう、観ていて胸がいっぱいになります。

仲睦まじいと言うより、愛欲に溺れているような日々を送りながら、徐々に夫婦らしくなってきた二人に、清作への召集令状が届きます。時は日露戦争の頃です。清作が出征した後、毛嫌いされる清作の母や妹のご機嫌を伺い、あからさまにからかい侮辱する村人に健気に応対し、必死に清作のいない日々を耐えるお兼。そんな中、戦争で負傷した清作が治療を済ませ、一時村に帰還する事になりました。清作を囲み、村中の人が集まり宴会が行われる中、「もっと大けがなら、清作も除隊出来たものを。」という誰かの言葉を耳にしたお兼は、あろうことか、清作の両目を五寸釘で突き刺します。

逃げ出すお兼を、たくさんの男の村人がこれでもかこれでもかと、殴り続けます。いくら何でもか弱い女を大の男が血みどろになるまで殴るとは、凄惨すぎる場面です。同じ増村作品で「赤い天使」を観た時、こんなすごい反戦映画はないと、私は衝撃を受けましたが、この作品では反戦はあまり感じません。感じたのは群衆心理の恐ろしさ、いじめ、差別などです。自分より辛い蔑む者を作り、自分はあの人たちより上の人間。そう思うことで卑しいプライドを満たす人々。このシーンは、鬱積した気持ちをお兼のしたことを言い訳に、爆発させたように思います。

この作品に描かれる貧困はなくなったように思う現代ですが、この構図は子供から大人まで社会に地域に学校に続いています。恐ろしいのは物が満たされていても、心の飢えが続くことです。この作品は1965年の高度成長期に作られています。明治を引用しながら、なくならない人間の深い業のようなものを感じました。

では清作は何故お兼を受け入れたのでしょう?彼は人々から「村一番の青年」「村の英雄」「模範生」と賞賛され、人より一段も二段も上の人間であるという自覚があったはずです。そういう人間は、お兼のような可哀想な女に優しくしなければならない、そういう思いあがりが彼にはあったのではないでしょうか?女性に初心だった清作が、情熱をぶつけるお兼の肉体に溺れているという、周りの見方はあたっていたように思うのです。

お兼は清作にそばにいて欲しかったから両目を潰したのではありません。周りからは認められない名ばかりの妻でも、自分を差し置いて、出征のための身支度を母や妹に手伝わせる無自覚な残酷さをみせる清作が、「もう2度とみなの顔を見られないかもしれない。」とつぶやくのを立ち聞きしたからです。恋しい男が死を覚悟して出征していく、その気持ちに耐えられなかったのです。清作がどんな姿であろうと、生きていて欲しかったのです。

お兼は2年の刑期を言い渡され、清作はお兼と謀って兵役逃れをしたと村中から思われ、英雄が一転、卑怯者として扱われます。ここにも清作に対しての嫉妬を、都合よく自分たちで解釈して爆発させる怖さを感じます。お兼に対して憎悪を募らせる清作。

2年の刑期を終え清作に会いに帰ったお兼は、どんな目に遭わされてもいい、償いに殺してくれと清作に懇願します。すると清作は、「よう帰ってきてくれた。俺にはお前しかいない。」とお兼を抱きしめます。お兼と同じの孤立したひとりぼっちの立場になり、今までの自分の偽善や傲慢さに気づき、お兼の今までの辛さが身に染みて理解出来たと話すのです。ここで私は号泣が止まらず。両目を失なった清作は、心の目が開いたのです。人からはお兼は、将来を嘱望された青年を、あばずれ女の自分にお似合いなよう、社会から突き落としたように見えたでしょう。しかし魔性の女に見えるお兼は、実は清作には菩薩だったのです。お兼のしたことは、決して肯定されるものではありませんが、心からお互いを理解し求め合う二人の抱擁に、私は崇高さを感じずにはいられませんでした。

人からは地獄に落ちた男女に見えることでしょう。しかしラストシーンで、清作の手を引き一緒に田に出たお兼が、夫の見えない目に見守られながら、一心に田を耕す姿に、その言葉から連想する甘美さやただれた肉欲、辛い行く末は感じられず、力強く爽やかな、そして穏やかな暮らしを予感させるものでした。情念の塊のような狂おしいお兼を見せ続けられ、こんなカタルシスと癒しを感じさせられるとは、思ってもいませんでした。そんなに数は観ていませんが、私には一番好きで感動した増村作品です。この日記をお読みになって興味を持った方は、是非是非一度ご覧下さい。


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