♀つきなみ♀日記
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2002年07月15日(月) パクリ屋のコウベに、銭宿る@著作権とパブリック・ドメイン

暑い!!!        財布の中身は寒いけど(^^;;

それはともかく、昨日のNHKスペシャル「変革の世紀」なんだけど、どうも取材と視点が今一だった。海外取材中心で目が飛び出しそうな予算使っているんだと思うんだけど、今市どころか、小山までも届いていないよね。遊園地で遊んでいる場合じゃないんだってばさ(ローカルネタ)日光まで行ってけっこうと言わせなきゃ、もったいない。ってせめて東武日光線までは入れよ。ってそう言えば小山の隣の真岡の福田武隼市長が首長所得栃木県一、7837万円の所得で話題になってますね。って関係無いけど。

何故イマイチなのかと言えば、著作権期間延長の推進派と今回違憲裁判を起こしている両極端な取材を中心に番組を構成しているので、かえって現在の著作権ビジネスにおける問題点を摩り替えてしまったきらいがある。それ以前の問題として、知的所有権の区分と特性について誤解を与える部分がかなり見られた事が残念なんだよね。そして、日本の状況と混同してしまう危険性も感じる。

知的所有権についての細かい事は、前に書いたんでそちらを見ていただければ有り難いんだけど、今回の番組で視点が欠けているのは著作権上の「パブリック・ドメイン」自体の定義なんだよね。このあたりが、混乱していた。

当たり前だけど、合衆国憲法に定義されていた時代の知的所有権対象は「有形態」だった。本は出版物で、音楽は譜面とレコードで、映画はフィルムで、アイディアは具体的な形態を持って著作権として認められ、保護される時点で、何らかの投資が行われ、それを享受するためには何らかの代価が必要とされた訳なんだよね。そして一定期間、保護された著作権は一般に公開される。

「公開される意義は、そのアイディアを元にさらなる創造が行われる」って言うのは、保護派も公開派も異存は無いようなんだけど、どっこいここに現在の著作権ビジネスの落とし穴があるんだよね。

よく例に挙げられる「LINUX」なんだけど、これは間違いなく著作権を公開した基本構造に数多くの発想が加わって、創造されている。これは間違いない事実だ。じゃ、作成が終わって、確定した作品として存在する「小説」や「映画」の著作権が公開されて、どんな創造物が生まれていくって言うんだろう?

出版物著作権については、この日ファイルの6月4日付けで少し整理したんだけど、著作物が、現在合法的に公開されている事を逆手に取って、それをビジネスにして創造では無く利潤をあげる傾向が強くなっているんだよね。それが原因で絶版してしまう書籍もあれば、著作権の僅かな収入で維持されていた研究機関や記念館が、著作権切れと同時に閉鎖に追い込まれるケースは少なくない。そして資料は散逸して新たな研究は出来なくなったりしているんだよね。法人で借金してたりすると、担保で抑えられちゃうし。「資料」が「書画・骨董品」になっちゃうんだよね。頑張って収集している研究機関もたくさんあるんだけど。

公開された、言い換えるとパブリックド・メインを非営利で使うことには大賛成なんだけど、そこから利潤を上げるんなら、何らかの形で元著作権者に還元する流れがあってもいいんじゃないかいって事なんだよね。あるいは著作権整備に。

著作権法が想定していた時代の流れを、この数年は遥かに超えてしまっている。コンピュータプログラムから、文書表現物、音、映像、彫刻までが「著作権」という、未だに一元的な世界規模の登録機関さえない状況である事自体が、今や問題であって、登録、あるいは登記が必要な他の知的所有権との法的関連を、更に判り難くしていて係争が増大している。一元的なあるいは縦横的な著作権管理団体さえ日本には存在していない。

審査する機構も貧弱で、完成品のコピーあるいは無断使用にだけは異常に敏感になりつつあるんだけど、世界的に見ると、明らかな盗用、アイディアの流用などが氾濫し、パブリック・ドメイン以前の問題がまったく解消されていない。そしてそれの殆どが利潤に結びついている行為となっている。

知や文化を創造するための、コモンセンスとして、優れた著作物が共用される事が重要である事は論を待たないとは思う。しかし、それが利潤を生み出す限り、知や文化として独立したものであるかは、別の議論が必要となる。

私的な意見としては、カテゴリーを明確化した著作権法の抜本的な改革、そして国際条約としての一元的な批准無くして、パブリック・ドメインは夢物語となる。利の前に性善論はあまりにも無力だ。

なんちて<=おい!

しかし、ぱくりまくっているデ★★ニーの話題が絡むから、意味不明になるような気もしたのが本音だったりもするんだけどね。


テキスト庵

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2002年07月06日(土) 終戦翌年1946年の七夕の願い。平穏な暮らしと豊饒への祈り

七夕に 逢いたや 異国に散りし良人(ひと)
  三途渡りたや  我を子が止め

1946年の旧暦7月7日(新暦8月3日)、今は無いある新聞にこの歌は掲載された。それは投稿されたものではなく、百貨店に飾られた短冊に綴られていた歌で、一枚一枚笹から外される時に心打たれた一店員が、新聞社に持ち込んだものだった。

数々の大切な人達との別れを経て、前年に戦いは終わったものの、外地から引き上げてくる人の波は続いていた。満州、及び中国北東部へいた日本からの移民と、ソ連(当時)軍の参戦によって寸断された指揮系統から取り残された部隊に所属する徴兵された市民達は、シベリアや、一部蒙古国境地帯に抑留され、名簿さえ整備されえないまま、日々は流れていた。

七夕は、本来旧暦で行われていた。由来には諸説あるが、中国の宮中で行われていた天帝の娘であり、織物の達人であった織女にちなんで、祭壇に針などを供えて工芸の上達を願う星祭り、「乞巧奠(きっこうでん)」が奈良時代に渡来し、日本の土着信仰と融合して、現在の形態へ変化したという説が有力である。

現在の七夕のメインと言えば、牽牛と織女の年一度の逢瀬の話なのだが、今に伝わる文書での初出は「詩経」であるとの説が強く、東南アジア一円に広がる同様な説話はこれが原点であるとの説と、インド起源説と、インドシナ半島起源説にはいまだに結論は無い。

詩経におけるこの話は、天の河を挟んで相対するところまでとなっていて、年一度の逢瀬となるのは、中国の六朝時代(3世紀以降)であると思われている。って言うか他の東南アジアの国にはこの時代の石碑以外の文書はほとんど残っていない。

日本における七夕の原型は、7月7日に処女である機織り女が、水辺に祭壇を設け、水の神に織り立ての新布を捧げ、客神を迎える行事であったと言われている。梅雨の時期の現在では判り難いのだが、旧暦の7月7日は8月初旬の炎天の時期であり、降雨と豊饒な水の恵みは、作物には欠かせない待望の物であった。

特に東北御出身ご方々には存知の方も多いと思うが、この地方を中心に「ネムリ流し」の祭事がある。これは、睡魔を様々な形の人形や、竹等に託して、川に流した行事であるとされ、「ねぶた祭り」の唱え言葉の原形である「ねぶた流れよ、まめ(勤勉)の葉よとまれ」が本幹を表し、田植えを終え、秋の刈り入れまでの勤勉を誘い無事息災を祈る農耕祭の色彩も強い。

別系統には6日の晩から7日の朝にかけての、笹を川に流す物忌みと禊の行事であったともされ、これは年越し(恵方来神)の神事に先立って行われる準備に対して、盂蘭盆会の先行行事として行われていた記録も散見される。これは盛夏に多かった疫病を防ぐ物忌みの行事とも言われ、ここでも流されるのは笹寿司を例に挙げるまでも無く、腐敗を防ぐ薬効を有する笹の葉であった。

仙台の「七夕」、青森の 「ネブタ」、弘前の「ネプタ」、秋田の「竿燈」、能代の「七夕燈籠」などは、共に東北中心に分布する「ネムリ流し」の祭事に連なる系統と言われている。この祭祀の変遷も、土着の信仰が神道と関連されて成立した説話や、道教や儒教の祭祀の色濃い中国の宮廷行事、そして仏教の浸透、神道との習合という多重な伝承世界を持つ、日本的な世界観の現れの傍証ともなっている。

大切な人々がいて、大切な暮らしがある。形は変遷してきたが、七夕のこの日も、この国の人々は天に、地に、水にそして目に見えぬすべての恵みに感謝して日々を暮らして来た。短冊に綴った言葉達は、その日思った大切なものたちだった。

還って来なかった夫には、もう逢えはしない。河を渡りたいとさえ願ったその女性の日々を支えるのは、母と慕う子供達であった。

今年の旧暦7月7日は、奇しくも終戦記念日である8月15日にあたる。風化する戦争の記憶は表面的な事象の検証に流れがちだ。私は、その日々を暮らした、短冊に願いを込めた人々の想いから、もう一度様々な事を学びたいと思っている。


テキスト庵

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