TENSEI塵語

2015年03月02日(月) この半世紀(2) 電話 -その1-

私が初めて見た身近な電話は、使い方がわからないまま進化しました。
たぶん、電話局の接続する係の人を呼び出して、番号を言うかどうかしてつないでもらっていたのだと思いますが、小学校にも入っていない幼児には使いようのないものだったのでしょう。

そのうち電話はダイヤル式に変わりました。
1から0(10)までの穴に指を入れて放して戻る仕組みになっていて、その戻る時間によって1から0までの数字を機械が知って、10桁の電話番号を認識して接続してくれる、つまり、手動接続から自動接続という仕組みに変わりました。
何でこんなめんどうな説明を書いてしまったのかと言うと、すでに、今、このダイヤル式電話を知らない人たちがいるということをわざわざ皮肉めいて伝えるためであります。
そして、「三種の神器」とは比べ物にならないほど、この電話文化の変遷はめまぐるしいものだったと思います。

仮にこのダイヤル式家庭電話機の始まりを私の小学生時代の最初とみなすなら、その始まりは51〜2年前になるのですが、その頃はまだ「呼び出し電話」の時代でした。
私の家を例にすると、町外れの坂の上に数世帯の住宅があって、その辺り10軒ほどの家が、坂の中腹にある県会議員さんの家庭電話を呼び出し電話として頼っておりました。
だから、よほどのことがないと電話をかけたりしないわけですが、その電話のある家の人は、雨降りだろうが夜だろうが、呼び出して欲しいと言われた家に出かけてその家の人を家に連れて行って、、、なんて、今思うと想像不能ではないかと思われるようなシステムの中で電話を利用していたわけです。
しかし、我が家の場合でも、その後岐阜市内に引っ越した後もこのシステムが続き、およそ10年後の高校1〜2年生のころまで呼び出し電話でした。
それはたぶん、我が家が警察官舎の長屋の中にあった関係で、官舎仲間の取り決めの中で呼び電に頼っていたせいで、世間的には普及率はかなり高まっていたのではないかと思います。
しかし、その後もかなり長い間、学校に出す書類などでも、住所の後の電話番号欄に、○で囲んだ「呼」という欄があったものです。

とにかく、電話設置にかかる費用が高かった、ということも覚えています。
我が家に電話が入ったのが、高1の頃だったとして、43年前とします。
それから1浪して上智に入ったころ、上智が他の大学に比べていち早く学費のスライド制を採り入れ、学費が高いと言って親から文句を言われてしまったのですが、母に言わせると、そのころから給料も上がったので、何とか学費を払い続けることができたということでした。
その大学の4年目にそれまでの間借り式の下宿屋が廃業したので、普通のアパートに引っ越したところ、母が連絡しにくくなったことを嫌がって、私の部屋に電話を設置してくれました。
それが今から35〜6年前として、その時で13万円だったか、18万円だったか、13万円プラス何万円だったか、よく覚えてないのですが、とにかく、当時の私の生活水準で見ると目から玉が飛び出るような金額だったのを覚えています。
解約する時には返って来る、預金か保険金みたいなものだとも教えられて、それならいいか、、と当面の慰めにはなったのですが、、、今はそんなお金が返って来るようなことにはなってないのではないか、、、何かよくわかりません。
・・・とにかく高かったんですね。

さて、就職して仕事を始めるようになると、外でも電話をかけたくなります。
公衆電話というのは、まだ家に電話がなかった頃から必需のアイテムだったのですが、仕事が忙しくなるにつれ、公衆電話よりも、車の中に居ながらにして通話のできる電話を持つのが夢になりました。
しかし、それは意外と早く実現されました。

私が最初の携帯電話を持ったのは、20年前か21年前か、、、au がまだIDO という名前のころでした。
最初の費用が5万8千円くらいだったかと思いますが、それはとても安いと思いました。
今と比較すれば、通話しかできない電話に5万円以上も払うなんてアホ、と思われそうですが、そして、もう1〜2年待てば、最初の費用0円の時代もすぐにやって来たのですが、それは後からわかることで、その時はとにかく、どこでも連絡を受けることができ、どこからでも連絡することができる携帯電話の登場に、ひたすら感心しておりました。

携帯移動電話は、登場した後およそ十数年のうちにずんずん進化してしまい、今では私のような年寄りには実体のつかめないほど多機能な道具に進化してしまいました。。。


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