TENSEI塵語

2007年01月01日(月) 密度の濃い1年の始まり

今、まだ未明の3時半。
普通は前日分に書くのだが、年も改まったことだし、新しい方に入れよう。

例年どおり、子どもたちと年越しそばを食べながら年を越して、
(妻は年越し前に力尽きて寝てしまった)
新年の挨拶を交わし、しばらく雑談して、彼らがゲームを始めたので、
部屋に戻って「24」を4時間分見た。
2時間分でやめる予定だったし、それくらいの体力しかないと思ったが、
やめられなかった。
今は、もう無理してやめた。

このシーズンは、今まで以上にテンポが速い感じだ。
そして、今までより、事件の背後が錯綜しているようだ。
いつものことながら、ホントに密度の濃いドラマだ。
早くも事件の黒幕らしい人物が仄めかされたが、えぇっ、こいつが??
というような人物だった。
これはあり得ん、まだその上がありそうだ、、しかし、あり得るだろうか?

朝7時に始まったドラマが、夜の11時になった。
あと8時間、、、きょう中には終わらないだろうなぁ。。。
きょうは、見始めた日の日記のようになりそうだ。



【午後2:30 難解なる三上文法】

最近、橋本さんとの間で話題にしている三上文法なるものが、
橋本さんの説明や、紹介してもらった書評ではまだよくわからないので、
検索してみたら「三上章の主語・主題論」というサイトがあった。
記念講演のレジュメのようだ。

・・・・・・・・・・・・・・
【三上章の「主語廃止論」とは?】
日本文には主語と名づけるべき成分は決してあらわれない。
だから「主語」は日本文法に関する限り全く無益な用語である。
無益であるのみならず,正当な問題から注意をそらせる傾向がある点で,
有害な用語である。
主語という用語が一日も早く廃止されるよう望んでやまない。
                   (三上章『現代語法序説』)
・・・・・・・・・・・・・・

「主語」という成分は日本文にはなく、その用語は無益で有害だから、
日本文法から「主語」という用語は廃止すべきである、ということだ。
それで、「主題」という用語なら妥当らしい。

・・・・・・・・・・・・・・
【「主語廃止論」の二面性――主語論と主題論――】
・三上章の主語論(理論的):主語の「〜が」と補語の「〜を」「〜に」
              などを区別しない
・三上章の主題論(記述的):主題の「〜は」と主格の「〜が」を区別する
・三上の主語論と主題論は,次のようにまとめられる。

    三上章以前の考え方           三上章の考え方
     主語     補語       主格(補語)
区別  山田が(来た)そばを(食べた) 補語 山田が(来た)そばを(食べた)
しない 山田は(来た)        主題 山田は(来た)
・・・・・・・・・・・・

う〜〜〜んと、従来の文法では、「は」も「が」も主語を示すんだけど、
三上文法では、「が」は「を」「に」と同じ補語を示す語で、
従来主語と言われていた「〜が」は補語の主格、「〜は」は主題ということ?

・・・・・・・・・・・・・・
【三上章の主語論とは?】
主語(「〜が」)と補語(「〜を」「〜に」など)を
まったく別物として区別する必要はない。
「センテンス中に現れる体言をどうして主語と補語との二階級に峻別するか。
 ヨオロッパ語の建前では
 動詞の活用語尾に干渉する体言と干渉しない体言との区別である。
 近代英語や漢文では用言の前に来る体言と後に来る体言との区別である。 
 然るに我が国語では活用にも語順にもかういふ遮断が求められない」          
                  (三上章「語法研究への一提試」
・・・・・・・・・・・・・・

「僕は漫画が好きだ」の「〜が」と「〜を」「〜に」を区別しないのは
よくわかるが、「今度は僕が行きます」の「〜が」も区別する必要がない
というのは、なかなか難解なところだ。
語順についても、「僕が」は、基本的には「行く」の前にしか来ない。
「行きます、僕が」と言ってもちゃんと通じるんだけどね。
この辺はこんなレジュメではわからないので、原典が必要なのだろうが、
読む暇はなかなかなさそうだなぁ。。。

「は」についての分析はなかなかおもしろい。
「本務」と「兼務」という区別がおもしろい。

・・・・・・・・・・・・・・
【「は」の本務と兼務】
・「は」の本務:題目を提示し,文末と呼応する
・「は」の兼務:「が」「の」「に」「を」を兼務して,
 小さく係って途中で消える

【「は」の本務】
「Xハ」そのものは,文末(活用語尾,またそれに文末助詞などを
加えたもの)まで係ります。
題目と述部とは呼応し,張り合って一文を完成するのです。
日本文法で何述関係と言えるのはこの題述関係だけです。
「ハ」の本務を,すなわちその大きい係り方を見やすくするために,
それを半ば囲みの外に出しましょう。
「ハ」の左半分(漢字並みでは偏)は代行の「ノ」を表し,
右半分(つくり)は息入れの点(とう点,コンマ)だと思ってください。
                   (三上章『象ハ鼻ガ長イ』)

【「は」の兼務】
・左の文から「は」を消して右の koto を取り出す(無題化する)と,
 「は」の兼務がわかる。
  象は,鼻が長い。        → 象の鼻が長い koto
  この本は,父が買ってくれました。→ 父がこの本を買ってくれた koto
  かき料理は,広島が本場です。 → 広島がかき料理の本場である koto

【さまざまな「は」の兼務の発見】
・三上章は,さまざまな「は」の兼務を発見し,それらを統一的に説明した。
Xガ:父は,この本を買ってくれました←父がこの本を買ってくれた koto
Xヲ:新聞代は,もう払ったよ。」←もう新聞代を払った koto
Xニ,Xデ:日本は,温泉が多い。←日本に温泉が多くある koto
T( ):昔は,京都がみやこでした。←昔 京都がみやこであった koto
Xノx:大根は,葉を捨てます。←大根の葉を捨てる koto
                     (「大根の」の取り立て)
モノ:ねぎは,生を食べます。←生のねぎを食べる koto
                     (「のねぎ」の取り立て)
雑例:新聞を読みたい人は,ここにありますよ。
・・・・・・・・・・・・・・

要するに「・・・・こと」でまとめなおすと、
それぞれの文の中での「は」の役割gわかる、ということだ。

しかし、何かよくわからない話に見えてしまうのはなぜか?
言葉というのは、みなで使い合っているうちに変化していくのだろうけど、
使っているときに、我々はそういう使い方をしているのだろうかと、
疑問に思ってしまうからだ。
この三上説では、今まで「主語」と言われていた「〜は」を「主題」とか
「題目」とか呼んでいる。
これが、先日来橋本さんとやりとりしていても、しっくり来なかった。

今、こうしていくつかの例文を読んでいると、
「新聞代は、もう払ったよ」
「大根は、葉を捨てます」
「ねぎは、生を食べます」
のような文の「〜は」はいかにも「題目」(主題)っていう感じがするのだ。
「新聞代のことだったら、僕がもう払ったよ」
「大根について言うと、私は葉を捨てます」
「ねぎについては、私は生のを食べます」
というようなつもりで言うのを、簡便に表現しているに違いないからだ。
「象は鼻が長い」
「この本は,父が買ってくれました」
「かき料理は,広島が本場です」
についても同様である。

また、これはちょっと難しい問題だが、
「日本には温泉が多い」と言わず、「日本は温泉が多い」と言うとき、
本当はその文は「日本は温泉が多い国だ」と言おうとしているのではないか?
言わなくてもわかることは言わずに済ませるのが日本語のいいところだ。
「新聞を読みたい人は、ここにありますよ」についても、
「新聞を読みたい人は、ここに新聞がありますよ、だから読んで下さいね」
とくどくど言わなくても伝わるから、簡潔に済ませているのだ。
こういうのを完結した文として扱うと、おかしなことだらけになってしまう。

そんなわけで、現に我々が「使いつつある言葉」、
人間が「発しつつある言葉」について語っているのかという疑問も湧いた。


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