<沖縄・いくさ・愛国心:上>指揮官の遺族
遠く那覇市街を望む小高い丘は、湿った風が吹いていた。豊見城(と・み・ぐすく)市との境に広がる海軍壕(ごう)公園。沖縄戦で海軍の拠点となり、一帯で約4千人が死亡した地に今月13日、遺族ら約90人が集い、祭壇に花を手向けた。
大田豊(61)も兄姉とともに参列した。61年前のこの日、「鉄の暴風」と形容される米軍の猛攻撃で敗色濃厚となる中、この場所で自決した父、実を思い、黙祷(もく・とう)した。
海軍少将、大田実。沖縄戦で約8千人を指揮した。自決1週間前、海軍次官に電報を打って県民の献身的な協力を伝え、《沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ》と訴えたことで知られる。
豊は4男7女の末っ子として生まれた。父はすでに沖縄での激戦の渦中におり、一度も会うことはなかった。
長じて選んだのは、その父と重なる海上自衛官の道だった。「誰かが努力しないと、平和は守れない」との信念からだ。
自衛官になってから沖縄戦の資料を読んだ。圧倒的な兵力差を知りながら戦わざるを得なかった状況。日本軍が乳幼児を含む住民を殺したという事実にも、戦争の厳しさを実感した。
「戦争は悲惨。子や孫が悲劇に巻き込まれないことを願うだけだ」。海軍壕公園を無邪気に駆け回る2歳の孫を見て、改めて思った。
一方、教育基本法を改正し「愛国心」を盛り込むことに違和感はない。「自分の国を愛することができなければ、よその国を愛することもできないだろう」
東京の小学校教諭、牛島貞満(52)は26、27の両日、豊見城市の長嶺小学校に招かれ、平和授業を担当する。テーマは「牛島満と沖縄戦」。
沖縄守備軍約10万2千人を率いた陸軍中将、牛島満は祖父にあたる。最後の激戦地、糸満市摩文仁(ま・ぶ・に)で6月23日、自決。その日、日本軍の組織的抵抗は終わったとされ、戦後、犠牲者を悼む「慰霊の日」と定められた。
沖縄には、なかなか足が向かなかった。20万人を超す死者を出した沖縄戦の指揮官の孫という立場が、心を重くした。
94年春、教材研究を兼ねた同僚らとの旅行で、初めて沖縄を訪れた。摩文仁の旧平和祈念資料館に行くと、祖父の最後の命令が展示されていた。
《最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし》。
この命令で多くの県民が命を落とした、という解説に衝撃を受けた。
その夏、再訪した沖縄で、戦跡の案内者に「自分でおじいさんのことを調べることが大事」と言われた。防衛庁図書館で資料を読みあさり、祖父を知る沖縄の人や家族に話を聴いて回った。
「子ども好きのいい人」。人々の話から浮かび上がる祖父と、多大な犠牲を強いる命令を出した陸軍中将。調べれば調べるほど、二つの像はずれていった。
この数年、沖縄や東京で児童と一緒に沖縄戦を考え、おぼろげながら答えが見えてきた。「天皇への強い忠誠心が、目の前の住民を見えなくさせたのではないか」
住民ではなく、天皇と大本営を向いた祖父。教育がそうさせたと思うだけに、国を愛せよと取り立てて教えることには強い危惧(き・ぐ)がある。
牛島は思う。「愛する相手は強要されるものではなく、大人の姿を見て子どもが考えるものではないか」。(敬称略)
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愛国心を巡る議論が盛んだ。国を愛するとは何か。61年前、激しい地上戦を体験した沖縄で、愛国心はどう受け止められているのか。23日の「慰霊の日」を前に考える。