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2005年11月23日(水) 働く権利を訴える身障者若林君/別府に身障者工場 水上勉氏ら




* 婦人民主新聞縮刷版第四巻( 婦人民主クラブ発行/1968年 12月 6日号より) *

* 働く権利を訴える身障者 *
“能率低下”は口実
ほとんどが家族にたよる


 厚生省のしらべによると、全国には十八歳以上の身障者が百四万八千人いる。そのうち就職しているのが三九.三%であとの人たちは就職も出来ず、生活保護を受けるか家族に扶養されている。その上、就職率は年々悪くなる一方である。
 やっと就職できた人でも、常雇いになっているのは二八.三%にすぎず、多くの人が日雇いとか家業の手伝いをしている状態である。
 働いている身障者の収入は、平均二万二百五十二円。一般の人の半分以下という低いもの。授産所で仕事をしている人の収入はもっと低く、月額三千円から五千円くらいで、とても一人で生活できる額ではない。

 このような状況の中で、若林君(日本社会事業大学四年生)は今年の一月、都立の府中療育センターの採用試験を受けた。若林君は脳性マヒのため、手の障害で記述試験が思うにまかせず不採用となった。
 当局は若林君に対して「あなたを雇うと能率がおちるので、税金の無駄使いであり、都民のみなさんに申し訳ない」というのである。
 この言葉は、自分で働いて生活したいという若林君の基本的で切実な願いを踏みにじるものであり、また働きたいと願う多くの身障者に対して重大な侮辱でもあると同君は考えた。

 そこで若林君は六月、渋谷公共職業安定書と都立身心障害者福祉センターの“職能的判定書”をもらった。それによると、「脳性マヒからくる全身的運動感覚の諸障害があるため、手指の精細な動作を要すること(書記的業務)、敏捷な処置運動を要すること、精密な視力、聴力を要することなどは、仕事を考える場合に除外すべきだが、それ以外は特に不可能という仕事はない」とみとめ、「大学教育を直接生かすとすれば、障害者施設の指導員や関係団体などの職員が考えられる」といっている。そしてこうした仕事以外では「軽労働の仕事につくことができる」というのである。
 職業の適性については、「知的判断のいる仕事には入ってもよいが、肉体的には軽労働の仕事が適当」と判断している。

 若林君はこの判定書をもとに、身障者の不採用の口実である「能率の低下」とか「税金の無駄使い」ということを問題にして、各所で身障者の就職について訴えている。
 
 身障者であっても普通の人と同じように働き、生活する権利がある、というのが基本である。だから、職場を保障するのは政治や行政が責任を持つべきである。なぜなら、からだが不自由なのは個人の責任ではないからである。またできる仕事を精いっぱいやって、普通の生活を営める賃金を身障者にも保証されてよいはずだ。しかし現在、民間企業の職場の労働条件は劣悪なので、就職できてもなかなか働きつづけられない。公共の機関は率先して身障者を雇用して、その労働権を守るべきであると若林君は主張している。

 若林君の話:「これは自分個人の問題ではなく、全身障者の問題です。私はいま、�/Χ醗堕蟒蠅反半稱〇礇札鵐拭爾糧縦蟒颪砲發箸鼎い董∋笋鯏堽�府中療育センターの福祉指導員として採用して欲しい��都の職種のなかで、脳性マヒをはじめとする身障者のできる仕事を、身障福祉センターが徹底的に調査し積極的に雇用の道をひらいてほしい、と要求しています。もしこの就職が三月までに決まらなかったら、失対で働こうかと思っています」

 労働省安定局業務指導課炭田さんの話:「労働省としては身障者の雇用促進のために、雇用主には職場改造費を融資したり、身障者で事業を始める人には資金の貸付をしています。雇用促進法もありますが、この法律は雇用を強制するものではなく一人でも多くやとってほしいとおねがいするものです。身障者雇用促進のPRがまだまだ足りません。ただ、重い身障者の就職はまだまだです」







* 婦人民主新聞縮刷版第三巻( 婦人民主クラブ発行/1965年 9月 26日号より) *
別府に身障者工場
水上勉氏らの計画で

 身障者だけが集って商品を製造し、販売し、自活してゆく“工場”を別府に造ろうという計画が中村裕別府整肢園長や作家の水上勉氏によってすすめられています。
「身障者に働く場所と憩いの場所を」という主旨で、それぞれの特技を生かして商品をつくり、自立できる収入を得られるようにしてゆこうというものです。
 一億八千万円の予算で、別府市内の七百坪の国有地払い下げを申請中で、さしあたり市内の結核療養所あとに義肢、補装具、車イスの組立工場をつくる予定です。
 この「別府身障者リハビリテーションセンター」は米国の善意工場、英国の国営保護職場を参考にして、豊富な温泉のある別府に設立を企画したものです。仕事の内容は一般家庭の不要家具、衣料、電器製品を下取りし、それらを修理更生し低価格で販売するもので一般の善意と協力を求めています。

 中村氏と水上氏は十八日に厚生省に計画実現についての援助を要請し、国有地の払い下げ、建設の際の国庫補助が得られる見通しがつきましたが、第一期工事費一億一千六百万円のうち、千五百万円が不足のため、各方面に資金の協力を求めています。

 水上勉さんの話:陽のあたらない身障者に希望をもって生きてもらうよう、この施設を「太陽の家」と名付けたいのです。私は日頃からなぜもっと会社や役所で身障者を使ってくれないのかと不満に思っていました。皆さんの協力をお願いします。








* 婦人民主新聞縮刷版第六巻( 婦人民主クラブ発行/1976年  5月 14日号より) *

* 不況の中でガンバル *
あさやけ作業所  障害者の労働権保障をめざして
社会参加への道     月給五千円だけれど

 「“あさやけ”で私は掃除、割箸の袋入れをしています。楽しいです。歌を歌うのが好きです。お弁当はお母さんが作ってくれます。自動車で迎えに来てくれます。時々、やんちゃを言って泣きます」----あさやけ作業所創立一周年記念の文集にターちゃん(29歳)はこう記している。作業所を訪れた時にも得意のナツメロを一曲、スクッと立ち上がり大きな声で歌ってくれた。ヨッちゃんはヨーグルトのヘラの袋づめ、ターちゃんとジュンとマコは、廃品回収であつめたボロをハサミで切ってウエス(自動車整備工場でつかう布きれ)をつくっている。みんな不自由な手と足を総動員、文字通り体当たりの作業だ(名前は仮名)。

 分離されがちな脳性小児マヒなど肢体不自由者と、知恵遅れの障害を持つ人が仲良く“同居”。いつもは十人くらいいるが、今日はカゼなどのために休みが多く、総勢五人、年齢は十八歳から二十九歳まで。

 「あさやけ作業所」は三年前、東京小平市にできた「障害者の権利を守り、生活の向上をめざす小平の会(=めざす会)」が運営母体。めざす会は・・・幅広い取り組みを展開するとともに、障害者の要求を掘り起こすため全市に生活実態調査を行った。
 この調査結果からきわめて深刻な問題として浮き彫りにされたのが、教育と労働の問題。

その後東京都の実施した「希望する障害児の全員就学」により、教育権の保障は大きく好転したが、労働権に関しては、その行政的施策は極めて貧しく、比較的軽度の障害者には都立の福祉作業所(二十ヵ所)、福祉工場(三ヵ所)があるが、障害の重いものにはほとんど皆無。全員就学による“出口”はできても、“出口”のお先は真っ暗。卒業生の半分以上は公立の福祉工場や作業所からもおちこぼれ在宅を強いられている。

 調査から浮かび上がった在宅者の切実な労働要求を行政の無策の前に放置することはできない。
「障害が重いから働かなくてもいいといわれる社会」よりも「障害が重くても働くことを通して社会と結びつき、生きる喜びを感じられる社会」を選び取る「めざす会」の仲間たちは、まず労働の場を確保し、その実践を行政に認めさせようと自分たちの力で作業所づくりにとりくんだ。
 折りよく会員の中から「作業所のために自分の賃アパートを二室を提供してもいい」という申し出があり、さっそく設立準備委員会が発足。
 メンバー総出での資金集め、小平市の助成金の取り付け、駅頭カンパや、カンパ袋を市内全域にまわしたりで、目標六十万を大きく上回る七十万円を得た。
 生活介助者や送り迎えの保障も会員の中のお母さんや青年たちが引き受けた。そして七四年六月にオープン。
 仕事の内容は簡単で安全、納期が厳しくない。設備・機械類がないなどの制限から内職的なものしか見つからず、ヨーグルトのスプーンの袋詰めからスタート。今では割箸の袋詰め、雑巾づくりウエスなど。

 割箸の袋入れは、一本につき五銭、一日の工賃は一人十円にも満たない(五万円稼ぐのに百万本。この内職では健常者がやっても“最低賃金”にも満たないだろう)。
 自立できる賃金は払えないとしても、労働意欲を少しでも保障するために賃金は一律月三千円(この四月から五千円)とした。
 「食事代でふっとんでしまう」額ではあるが「“あさやけ”はたんに収入を得る場ではなく、集団の中で働く喜びを感じながら人間としての発達を実現していく場でもあるのです」と作業所設立に意欲的に取り組んできた藤井克徳さん(小平養護学校教諭)はいう。
 行政の援助も固定した収入源もほとんどない“あさやけ”の台所はもちろんいつも“火の車”。開設時に五万円で購入したポンコツトラック(“あさやけ号”)による毎月一回の廃品回収、わかめ、コンブの販売、カンパなどでどうにか切りまわしている状態。

 しかし、不況下で仕事が途絶えることも。内職問屋に仕事が少なくなると、一つの仕事に半年もかかる回転の遅い身障者の仕事が真っ先に切られ、二月、三月には問屋からの発注がストップしたこともあった。もっと工賃のいい内職もたくさんあるがここにはまわってこない。
 東京都や市の助成金も今年度からとりつけに成功はしたものの地方財政危機で当初の予定より大幅にダウンだ。
 政府や財界レベルでの“不況脱出宣言”とやらはここでは遠くで響く鐘の音。不況の風はまっ先に弱いものを見舞い、そして去って行くのはもっとも遅い。

 しかし作業所の仲間たちはちっともへこたれない。「風当たりが強ければ強いほど、ますますみんなで力を合わせ、それを乗り越えるんです」藤井さんのことばは力強い。一台のトラックの稼ぎが三分の一になれば五倍のトラックをつぎ込む---不況をぶっとばす“あさやけの論理”だ。
 昨年の四月から徐々に受け入れ体制を拡大。開設当初の五人の仲間を十五人にふやし、専任の指導員も迎えた。週三回、十時から三時の労働時間も、「もっとサラリーマンらしくしたい」という労働者たちのつきあげで週五日、九時から四時となり、この一月には手狭まとなったアパートも引越し、三軒長屋をぶちぬいた十坪ほどの作業所もできた。

 最初のうちはほとんどはなしをしなかった人たちも、次第に明るさを取り戻し、テーブルを指でなぞったり、顔を緊張させながらも精イッパイ自らの要求を主張しはじめている。




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