* 婦人民主新聞縮刷版第六巻(
婦人民主クラブ発行/1976年 5月 14日号より) *
* 不況の中でガンバル *
あさやけ作業所 障害者の労働権保障をめざして
社会参加への道 月給五千円だけれど
「“あさやけ”で私は掃除、割箸の袋入れをしています。楽しいです。歌を歌うのが好きです。お弁当はお母さんが作ってくれます。自動車で迎えに来てくれます。時々、やんちゃを言って泣きます」----あさやけ作業所創立一周年記念の文集にターちゃん(29歳)はこう記している。作業所を訪れた時にも得意のナツメロを一曲、スクッと立ち上がり大きな声で歌ってくれた。ヨッちゃんはヨーグルトのヘラの袋づめ、ターちゃんとジュンとマコは、廃品回収であつめたボロをハサミで切ってウエス(自動車整備工場でつかう布きれ)をつくっている。みんな不自由な手と足を総動員、文字通り体当たりの作業だ(名前は仮名)。
分離されがちな脳性小児マヒなど肢体不自由者と、知恵遅れの障害を持つ人が仲良く“同居”。いつもは十人くらいいるが、今日はカゼなどのために休みが多く、総勢五人、年齢は十八歳から二十九歳まで。
「あさやけ作業所」は三年前、東京小平市にできた「障害者の権利を守り、生活の向上をめざす小平の会(=めざす会)」が運営母体。めざす会は・・・幅広い取り組みを展開するとともに、障害者の要求を掘り起こすため全市に生活実態調査を行った。
この調査結果からきわめて深刻な問題として浮き彫りにされたのが、教育と労働の問題。
その後東京都の実施した「希望する障害児の全員就学」により、教育権の保障は大きく好転したが、労働権に関しては、その行政的施策は極めて貧しく、比較的軽度の障害者には都立の福祉作業所(二十ヵ所)、福祉工場(三ヵ所)があるが、障害の重いものにはほとんど皆無。全員就学による“出口”はできても、“出口”のお先は真っ暗。卒業生の半分以上は公立の福祉工場や作業所からもおちこぼれ在宅を強いられている。
調査から浮かび上がった在宅者の切実な労働要求を行政の無策の前に放置することはできない。
「障害が重いから働かなくてもいいといわれる社会」よりも「障害が重くても働くことを通して社会と結びつき、生きる喜びを感じられる社会」を選び取る「めざす会」の仲間たちは、まず労働の場を確保し、その実践を行政に認めさせようと自分たちの力で作業所づくりにとりくんだ。
折りよく会員の中から「作業所のために自分の賃アパートを二室を提供してもいい」という申し出があり、さっそく設立準備委員会が発足。
メンバー総出での資金集め、小平市の助成金の取り付け、駅頭カンパや、カンパ袋を市内全域にまわしたりで、目標六十万を大きく上回る七十万円を得た。
生活介助者や送り迎えの保障も会員の中のお母さんや青年たちが引き受けた。そして七四年六月にオープン。
仕事の内容は簡単で安全、納期が厳しくない。設備・機械類がないなどの制限から内職的なものしか見つからず、ヨーグルトのスプーンの袋詰めからスタート。今では割箸の袋詰め、雑巾づくりウエスなど。
割箸の袋入れは、一本につき五銭、一日の工賃は一人十円にも満たない(五万円稼ぐのに百万本。この内職では健常者がやっても“最低賃金”にも満たないだろう)。
自立できる賃金は払えないとしても、労働意欲を少しでも保障するために賃金は一律月三千円(この四月から五千円)とした。
「食事代でふっとんでしまう」額ではあるが「“あさやけ”はたんに収入を得る場ではなく、集団の中で働く喜びを感じながら人間としての発達を実現していく場でもあるのです」と作業所設立に意欲的に取り組んできた藤井克徳さん(小平養護学校教諭)はいう。
行政の援助も固定した収入源もほとんどない“あさやけ”の台所はもちろんいつも“火の車”。開設時に五万円で購入したポンコツトラック(“あさやけ号”)による毎月一回の廃品回収、わかめ、コンブの販売、カンパなどでどうにか切りまわしている状態。
しかし、不況下で仕事が途絶えることも。内職問屋に仕事が少なくなると、一つの仕事に半年もかかる回転の遅い身障者の仕事が真っ先に切られ、二月、三月には問屋からの発注がストップしたこともあった。もっと工賃のいい内職もたくさんあるがここにはまわってこない。
東京都や市の助成金も今年度からとりつけに成功はしたものの地方財政危機で当初の予定より大幅にダウンだ。
政府や財界レベルでの“不況脱出宣言”とやらはここでは遠くで響く鐘の音。不況の風はまっ先に弱いものを見舞い、そして去って行くのはもっとも遅い。
しかし作業所の仲間たちはちっともへこたれない。「風当たりが強ければ強いほど、ますますみんなで力を合わせ、それを乗り越えるんです」藤井さんのことばは力強い。一台のトラックの稼ぎが三分の一になれば五倍のトラックをつぎ込む---不況をぶっとばす“あさやけの論理”だ。
昨年の四月から徐々に受け入れ体制を拡大。開設当初の五人の仲間を十五人にふやし、専任の指導員も迎えた。週三回、十時から三時の労働時間も、「もっとサラリーマンらしくしたい」という労働者たちのつきあげで週五日、九時から四時となり、この一月には手狭まとなったアパートも引越し、三軒長屋をぶちぬいた十坪ほどの作業所もできた。
最初のうちはほとんどはなしをしなかった人たちも、次第に明るさを取り戻し、テーブルを指でなぞったり、顔を緊張させながらも精イッパイ自らの要求を主張しはじめている。