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2005年11月03日(木) 障害者差別と女性差別





* 婦人民主新聞縮刷版第五巻( 婦人民主クラブ発行/1972年 12月 1日号より) *

* 人間らしく生きたい * 

 障害者差別と女性差別  施設の中から訴える  みんなは自由に選べるのに  入浴のせわは男性職員が

(十一月三日アジア婦人会議シンポジウムにて)

東京府中療育センター在所生有志グループ にったきぬこさん



 わたしは、にんげんであると、どうじに、しょうがいしゃであるとどうじに、おんなである。
 にんげんであるならば、いきることをぜんていとし、きょういくは、とうぜんのごとく、けっこんなど、そくばくをうけず、じゆうにせんたくできる。
 おんなであるならば、みなりにきょうみをもったり、はじらいをもつのが、とうぜんであろう。
 しかし、わたしは、にんげんとしていきることをひていされ、したがって、おんなであることもひていされるのである。これが、けんぜんしゃと、しょうがいしゃのちがいである。
 わたしは、げんざい「ふちゅうりょういくせんたー」というところにはいっている。いきることをひていされたにんげんは、いまのところ、しせつしかないのだ。いや、しせつしかないとされているのだ。
 しょうがいしゃだからといってなぜ、しせつへ、ほうりこまれなければならないのか。あなたたちはこれを、どうかんがえているのか。
 わたしたちしょうがいしゃを、「やっかいもの、じゃまもの、やくにたたないもの」として、しゃかいのすみへ、すみへと、おいやってしまう。それは、こっかけんりょくだけではない。それは、あなたたち、けんぜんしゃなのだ。

 にんげんというげんてんからみれば、わたしたちだって、おなじにんげんなのだ。なのに、どうして、これほどまでに、さべつされなくてはならないのか。
 しょうがいしゃは、しせつでくらすのがとうぜんだと、しせつにはいっていれば、おなじようなひとがいて、ともだちもできるからしあわせだと、よのなかのひとはいう。たにんのいしによっていれられて、なにがしあわせなのか。よのなかのひとは、しせつのなかはしらないのだ。

 しせつのじったいとは・・・・・・、わたしのいるせんたーでは、きしょうは5じはん、それからはじまり1にちじゅう、じかんでこうそくされ、たべて、ねて、だす、それだけでおわってしまう。
 すこしでも、じぶんのいしをだすと、「あんたたちは、たべるしんぱいもないし、ねるところのしんぱいもない。わたしたちは、いくらはたらいても、そのほしょうがない。それなのに、もんくをいうなんてぜいたくだ」とか、「わたしたちのぜいきんでいきているのに」とか、「くにはどうして、むだなぜいきんをつかうのかしら、はたらくのがいやになるわ」といわれる。なぜに、こうまで、しいたげられなければならないのか。

 また、せんたーでは、にゅうよくのとき、かいすいぱんつひとつのだんせいが、わたしたちをだしいれする。からだをあらわれるときもある。いじわるなしょくいんは、わざと、そうしむける。わたしは、そういうひとのきがしれない。もし、じぶんが、わたしたちのたちばでそうされたなら、ないてもなききれないだろう。
 わたしがにゅうしょして三かめ、にゅうよくびだった。かいすいぱんつひとつのだんせいが、たっていた。ふしぎにおもっていた。はじまったらでていくのだろうと、おもっていた。そのうちはじまり、二〜三にんに、うむもなくぬがされ、だいのうえに、あおむけにねかされてしまった。
 わたしは、としごろになってからは、ちちおやとだって、はいったことはない。それなのに・・・・・・。わたしは、そのひ、しょっくでねこんでしまった。しょくじなんてのどをとおらない。
 それから、わたしは、にゅうよくをきょひしつづけた。と、どうじに、にゅうよくかいごを、じょせいにしてほしいといいつづけた。
 しかし、しょくいんは「あなた、いれてもらうだけでも、ありがたいとおもいなさい。はずかしなんて、わがままよ」という。おんなとして、はじらいをもつことは、わがままなのであろうか。

 にゅうしょして、やく一ねんぐらいたったあるにゅうよくび、しゅにんが、わたしにむかって、「きぬちゃん、もうなれた。もうなれてもいいじきよ。あなたはひとよりものわかりがいいんだから」といってきた。
「なれたってどういういみ」かと、ゆびもじでききかえすと、「そっそれは・・・」とにがわらいして、いってしまった。「なれた。なれろ」とは、いったい、どういうことなのだろう、おんなとしてのかんじょうや、いしきを、すべてすてろと、いうのだろうか。それでは、あまりにもひどい。
 しかし、なおも、それへのこうげきがかけられる。おんなとしてのしるし。ははとなるためのあかし。せいり。わたしにも、それがある。あって、とうぜんなのだ。しかし、しょうがいしゃ、とくにじゅうどのじょせいに、せいりがあるのが、おどろきであるらしい。
「なんで、こんなからだにあるのかしら。おまけにながくて・・・。とってしまえばいいんだよ。そしたら、こっちだってらくだし、じぶんだって、きをつかわなくってすむ。だけど、やだねえ・・・」とまいつきのようにいわれる。あんまりいわれるので、いちじ、なやみになやみ、とってしまおうかとも、おもったことがあった。
 わたしは、かていにいたとき、おんなとして、とうぜんあるものと、おしえられた。しかし、せんたーでは、きいだとしかおもわれない。しせつとは、だんじょのくべつをなくし、ひにんげんあつかいし、なにがしたい、なにかがほしいという、どんなちいさなようきゅうでも、すべて、うばいさられてしまう。

 ながくはいっていると、じぶんのいしをあきらめきって、ださなくなってしまい、ただ、たべて、ねて、だす、それだけのせいかつになってしまい、いかされたにんげん、いきたにんぎょう、にされてしまう。
 わたしは、かずしれず、そういうひとたちをみてきている。わたしも、そのうちのひとりになろうとしていた。しかし、わたしにはそれが、がまんできないのだ。
 はいじんどうようにされてしまうのが・・・・・・。わたしは、しせつのなかで、にんげんとしていきるため、おんなとしていきるため、むこうからいわせれば、はんこう、わたしからいえば、とうぜんのようきゅうとして、たたかってきた。しかし、しょうがいしゃにはとうぜんのことが、なにひとつとして、なされていないのだ。
 なぜに、ここまで、わたしたちしょうがいしゃは、さべつをされなければならないのか。しょうがいしゃさべつされ、なおも、じょせいさべつをされている。
 わたしはうったえたい。じょせいかいほうとは、なんなのか。じょせいさべつとは、いったい、なんなのか。あなたたちは、おそらくわたしたちしょうがいしゃの、おかれているげんじつなど、しらないだろう。



「障害」者施設の中でこのような女性差別が行われていたことを知らなかった自分自身に怒りを向けるしかありません。





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