| 2003年01月10日(金) |
姫だるまの冤罪事件1950〜1963 |
☆かわいい訴え 松川事件 四つの坊や(1950-04-08/婦人民主新聞)
幕合に松川事件の家族武田やす子ちゃん(四つ)が”うちのおとうちゃんはれっしゃてんぷくはいたしておりませんから はやくかえしてください。みなさんおねがいします” 静まり返った観客席からは啜り泣きの声が聞こえ公判闘争後救援資金として一千一百円余が集められた
☆裁判長を励ましてください 松川事件武田被告のお母さん(1950-10-07)
松川事件の被告として死刑を求刑されていた武田久さん(三二)のお母さんシモさん(六〇)”・・・武田死刑というのを聞いて思わず「無実のものが死刑とは不当だ。私は武田の母だ」と怒鳴ったら 他の家族の人たちも口をそろえて「私のむすこも無罪です」「ヒトゴロシ」と叫びだしました。・・・裁判長さんのところにもお願いに行って「正しい被告だと思えばこそこの一年を夢中で闘ってきました。ぜひ公正な裁判を」と頼んだらニコニコして聞いてくれました。みなさんからも長尾裁判長さんにハガキを出して激励して頂きとう存じます」
☆むじつの弟があわれ ほんとがほんとで通じる世界を!(1951-03-11)
・・・私も家庭内にては経済的、精神的の大きな圧迫を受け、末の弟は肺結核にて入院しました。・・・一九五〇年一月末には、末の弟もただ一人の兄の無実を信じ「しっかり闘ってくれ」とただ一言残し、冷たい雨の夜この世を去りました。・・・何かのまちがいではあるまいか。まさか裁判官が良心を失うわけもあるまいと自分の耳を疑うほどでした。しかしこれは現実なのです。私はあまりの憤激に涙さえ出ませんでした。・・・一九五一年一月 花井はつ江 毛沢東主席 宋慶齢女子 御許に (松川事件は国外の反響が大きく、ことに中国では副主席宋慶齢女子をはじめ婦人団体労働組合からたくさんの抗議、激励がよせられた)
☆一老婆が松川被告へ寄付 どうぞ大切ないのちをむだにしませんように(1953-10-11)
”・・・仙台市宮城高裁鈴木裁判長様 どうぞとうとい生命をお守りください。そうして正しくさいばんなさってたすけてあげて下さい。切に切にお願い申し上げます。どうぞとうとい生命をむだにしませんようにおねがい申し上げます。私は力のないばばで御座いますが じっとしてはいられないような気が致しますが、力の無いばばでは致し方なく、この中に弐千円入れてありますれば誠に勝手ながら・・・松川事件の方々どうぞおからだを御大切にお心を大きくしっかりと生き抜いてください。ばばもかげながら祈って居ります ばばより”
☆子ゆえに泣く松川被告の妻 無実を訴えて九年間(1958-10-26)
太田澄子さん(三七) ・・・なりふりかまわずカラカラ笑っています。これでも人にかくれてなんぼ泣いたかしらね。それも子どものことばかり・・・第一審の判決「無期懲役」の意味を理解できない子どもたちが、ラジオニュースで「おいらの父ちゃんは帰ってくる」と躍り上がって喜んだと聞いたとき「子どもたちをこんな苦しい目に合わせて」と初めて本気の怒りが湧いたのです。・・・初めて青森の街頭に立ったとき、いくらしゃべろうと思ってもしゃべれず 涙をぽろぽろこぼして黙って立っていました。その晩は 解ってもらうために出てきたのになんでしゃべれないかと眠れませんでした。・・・長男の昭君は十歳、雅子ちゃんは七歳、公則君は四歳でした。・・・友だちには「列車を転覆させたやつの子どもだ」といじめられても「母ちゃんにゆったって心配かけっから」と黙って我慢しているのでした。人からその話を聞いたときも泣かずにはいられませんでした。・・・
鈴木八重子さん(三八) ・・・「調べればわかることだから、すぐ帰ってくるよ」と建てかけた家の門から信さんを送り出してから、人生はがらりと引っ繰り返りました。・・・死刑判決のニュースが流れ、三年生の信行君はどうしているだろうと受け持ちの先生は教室の入り口まで来ました。信行君は宿題を無心に黒板に写していました。先生はそのまま何も言えず職員室に引き返してしまいました。・・・「子どもの大切な父ちゃんを死なせてたまっか」二人の息子をおばあちゃんにあずけて外まわりばかりしてもいられないと二九年の十一月、自宅で昆布巻屋を始めました。・・・
☆全員無罪 渦巻く喜び(1961-08-13)
・・・「勝った!ありがとう!よかった!」と言葉にならぬ言葉をはいて手を振り、何度も頭を下げる被告の家族たち。「よいしょ、よいしょ、勝った、勝った」とたまりねて胴上げを始める若い青年たち。高裁前に繰り広げられる歓喜の群集の光景に、電車から降りた三人連れのおばあさんが足をとめ、話を聞いて「まあそうかね、おっ母さんら、そらうれしかろうよ」と一緒に目頭をふいていました。
☆松川事件 事件の概要
1949年8月17日午前3時過ぎ、東北線の松川駅−金谷川駅間で上り列車が脱線転覆し、乗務員3名が死亡した。捜査当局は解雇反対および工場閉鎖反対等の闘争中であった国鉄労働組合員および東芝松川工場の労働者の犯行とみて次々と逮捕、合計20名が起訴された。
第一審の福島地裁は、検察側の主張をほぼ認めた形で、5名を「死刑」、5名を「無期懲役」、10名を有期の懲役とし、全員有罪の判決を下した。
控訴審の仙台高裁は、一部を否認し3名の無実を認めたが、他の17名に関しては死刑4名を含む有罪判決であった。
「無実の者を殺すな」という大衆的裁判批判の盛り上がりもある中、最高裁は謀議存在の事実認定に疑問を呈し、また重要なアリバイに関するメモの証拠価値を認め、原判決を破棄し仙台高裁に差し戻した。
差し戻し審の仙台高裁は”全員無罪”、検察側による再上告も最高裁が棄却し確定となった。
略歴
********************************************************* 1949. 8.17---列車脱線転覆で乗務員3名死亡 9.10---赤間さん逮捕される 9.19---菊池さん逮捕される(後日一旦釈放) 9.22---鈴木さん・本田さん・佐藤一さん・阿部さん ・二宮さん・高橋さん・浜崎さん逮捕される 10. 4---杉浦さん・太田さん・佐藤代治さん・小林さん ・大内さん逮捕される 10. 8---菊池さん再逮捕される 10.17---二階堂武夫さん・二階堂園子さん逮捕される 10.21---武田さん・斉藤さん・岡田さん・加藤さん 逮捕される 1951.12. 6---第一審判決(福島地裁)・・・ 全員有罪(詳細下記) 1953.12.22---控訴審判決(仙台高裁)・・・ 17名有罪 (詳細下記) 1959. 8.10---上告審判決(最高裁) ・・・ 高裁へ差し戻し 1961. 8. 8---差戻審判決(仙台高裁) ・・・ 全員無罪 1963. 9.19---第2次上告審判決(最高裁)・・・ 検察側の上告を棄却 *********************************************************
個人別判決詳細 第一審判決 控訴審判決 差戻審判決 鈴木 信 さん 死刑 死刑 無罪 本田 昇 さん 死刑 死刑 無罪 杉浦三郎 さん 死刑 死刑 無罪 佐藤 一 さん 死刑 死刑 無罪 阿部市次 さん 死刑 無期懲役 無罪 二宮 豊 さん 無期懲役 無期懲役 無罪 高橋晴雄 さん 無期懲役 懲役15年 無罪 太田省次 さん 無期懲役 懲役15年 無罪 赤間勝美 さん 無期懲役 懲役13年 無罪 武田 久 さん 無期懲役 無罪 ---- 斎藤 千 さん 懲役15年 無罪 ---- 岡田十良松さん 懲役12年 無罪 ---- 浜崎二雄 さん 懲役12年 懲役10年 無罪 加藤謙三 さん 懲役12年 懲役10年 無罪 佐藤代治 さん 懲役10年 懲役10年 無罪 二階堂武夫さん 懲役10年 懲役7年 無罪 小林源三郎さん 懲役7年 懲役7年 無罪 菊池 武 さん 懲役7年 懲役7年 無罪 大内昭三 さん 懲役7年 懲役7年 無罪 二階堂園子さん 懲役3年6月 懲役3年6月 無罪
☆男性と松川事件
元被告 赤間勝美さん 吾子よ、朗らかに(1963-09-22)
十七人が十四年目に青天白日となった。その間 数億の金がかかった。日本の裁判は実に金がかかる。松川事件元被告の赤間勝美さんは、差し戻し判決の年に生まれた子どもに克朗と名づけられた。誰よりも朗らかな人になってほしいと思ったからだ。二十歳から33歳までの年齢を自分が過ごしたような恐ろしいことのない世の中をつくりたい、こんな目に決してあわせたくないと子どもの顔を見るたび思われた。
作家 廣津和郎氏 物事リクツが通るようにしたいんだ(1956-09-09)
「物質的援助がいちばん大切」と言い続けて、著書「松川裁判」の印税の半分、講演の謝礼全額、その他有形無形のものを寄付。「この国には本当のことにぶつからないで、とことんまでつきつめず、すぐ落語のオチをつけて片付けてしまう習慣がある。一生懸命に大真面目に考え、真っ向きってものを言えばわかる世界があるんだ。・・・人間は強制収容所のようなこともやるが、そうでない面もある・・・」
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