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2002年11月29日(金) 姫だるまの結婚差別問題1950〜1979

 *婦人民主新聞(Women's Democratic Journal)1946〜より
  婦人民主クラブ責任編集
  発起人:羽仁説子 加藤静枝 佐多稲子 宮本百合子ら

(1950年3月17日号)

岡部村に村民大会開く
傷つけられた部落の恋
差別撤廃を叫ぶ解放委員会

 結ばれぬ愛
春まだ浅い中山道の宿場町「暴力の街」で知られた埼玉県本庄町からは目と鼻の岡部村小学校に、さる十二日、五百人近い村民が集まり、村民大会が開かれていた、それは明治の解放令から新憲法の世を通じ、いまもって「エタ、非人」とよび、部落の民をきずつけつづけてきたもの、「破戒」に代表される部落外の人との「結ばれぬ愛」への怒りの本流であった、部落の一青年と、部落外の娘との自由意志による結婚が、娘の両親、村の有力者によって妨害され、ひきさかれ、その後一年にわたって部落民に対する一部の村民の暴力沙汰、威嚇、暴言などさまざまの圧迫が加えられたことに憤慨した村民がついに差別てっぱい、村の民主化のための村民大会をひらくに至ったものである

「今日という日をきっかけにぜひともこの村から封建的な差別観をとりのぞこう」支配階級があやまった歴史をこしらえたために、両親や祖父母は無念の涙を飲んで死んでいった、いまわれわれが立ちあがらなければ子や孫が同じ苦しみに泣かなければならない 数名の武装警官にみまもられ、つめかけた五百の村民が口々に叫ぶ村民大会

 愛情は掟をこえて
ことのおこりは昨年の春にさかのぼる岡部村 茂木六郎氏 宅に長男の婚礼があった夜(昨年三月十七日)突然妹のチイ子さん(二四)と同村の藤崎純青年(二九)が村から姿を消した、藤崎青年は戦後チイ子さんの家に農業の手伝いにゆきはじめてから彼女と深く結ばれ将来を語り合う仲となったが チイ子さんの実兄の縁談に先方が身元調べを行ったので家族が「家の破滅」と部落出身である藤崎青年との絶交を迫りチイ子さんに別の縁談をすすめたことから、この脱出行となったもの、その後仲にたつ人があって二人は村に帰り藤崎青年の家に落ちついたが三月弐七日、藤崎青年が農業組合の役員会に出席中、チイ子さんは家人に連れもどされ伯父の師岡信一氏宅(村の有力者であり農業調整委員)にかくまわれた

 むこっぱの顔
急を聞いてかけつけた藤崎青年にチイ子さんの家人はあくまでも知らぬ存ぜぬの一点ばり、その後みかねた部落代表が、役員会の夜茂木家とけったくして藤崎青年をひきとめた疑いのある真下組合支部長はじめ、かくまった師岡氏に幾度か交渉したが「むこっぱ(部落の蔑称)の顔を見ると(をなご)は逃げる」「チイ子は諦めた、結婚は本人の意思で決まるのだから嫌だといったら仕方がない」という挨拶、間もなくチイ子さんは人づてに「私の気持ちは変わらない」と本心を託して再び村から姿を消した、秋が来てやがてこの問題も立ち消えになろうとした時、村民の須藤重義という男が部落代表に「力をかそう」と茂木家への交渉に買って出たあげくに「人間の一人位殺しても、一軒の家の財産をつぶしても差別したいのが一般大衆というものだ、幾百年の伝統だから、今日や明日直そうとしてもそれはお前らが無理だ」という暴言をはいて去った

 こらえかねた憤り
うっ憤をこらえかねた部落民はこの差別の実状を部落解放委員会に連絡し、村会に訴えて解決法を依頼したので十月末、茂木氏と部落側に和解の手打が行われ、結婚は承認されたが、チイ子さんをかくまっている横須賀の叔父で進駐軍のガイドもしている茂木 健二氏に言われ、十一月二日約束の機木町駅頭に出迎えた藤崎青年は健二氏に「チイ子は諦めた、この傍らにいるアメリカ人のいっていることが分かるか、身の危険をしれ」と文句を並べられ、チイ子さんは話す間もなくジープで走りさってしまった、その後部落の長老が須藤重義に危害を加えられ裁判沙汰となるにおよんで事態は悪化の一路をたどり埼玉県部落解放委員会が中心となって、県社会課、村会を仲にたて、数回にわたっての交渉もらちがあかずついに問題の真相発表、差別てっぱい、村の民主化をはかるための村民大会をひらくに至ったものである
大会は埼玉県水原民生部長、戸根木社会部長、県部落解放委員長 県会議員野本武一氏はじめ三人の県会議員、田島村長、村会議員、関係者が列席してひらかれたが、藤崎青年は「世間から迫害をうけて一年間泣いて暮らした、差別をなくするために身の恥をさらすが正しい批判をしてほしい」と訴え、茂木側からは父親の六郎氏が出席し「村を騒がせ皆さんにご迷惑をかけ心よりおわびする」と挨拶し、師岡信一氏(叔父)は姿を見せなかったが差別の責任をとり一切の公職を辞退した、村民大会は夜おそくまでつづき、差別てっぱいの決議は実行委員選出でもめたため結論をみず、翌日にもちこされた、なお横須賀から呼びよせられたチイ子さんは大会に姿をみせず母親と共に深谷町の某所にかくれていたがたずねあてた記者の問いに答えて次のように語った
「藤崎さんははじめ好きだったが、周囲からいろいろ言われてみると、だんだん気が変わってきた、親や他人様がどうしても結婚しろというのなら顔をたてて結婚してもよいと思っています」
また藤崎純さんは
「チイ子さんをかくし通して、周囲の人々が諦めたと代弁していることに問題があったのです。私としてはチイ子さんが昔の気持ちに戻ってくれれば、結婚してもよいと思っている」
 
 
 その禍根は社会の構造に
  「結ばれぬ愛」の著者ディーン氏の言葉
民主主義の日本にいまなお残る部落問題のかずかずを身をもってつきとめた、テレプレス東京支社長ヒュー・ディーン氏はその著書「結ばれぬ愛」の中で次のような示竣ふかい考えをのべている
「部落社会は日本の反動化にいまなお利用されうる封建制の残骸の一つである、部落社会とはこの状態がつづく限り、民主勢力のの各階層間にうちこまれたクサビとなるであろう、この反動化の力が破壊されるためには、部落民と一般人とか分離する溝が埋められるためには、両者が意識的に力をあわせて行う努力にまたねばならない・・・その禍根は婦人の子宮の中にあるのではなくて、社会の構造の中に存するのである」

 
(1951年7月29日号)

 後絶たぬ部落の悲劇
 傷ついた純潔な魂
 破婚のかなしみから自殺(未遂)
何も知らない純情な少女が部落民なるがゆえに裏切った青年のために処女をふみにじられ、愛情よりも強い差別を生み出す不合理な社会を呪いあたらせ、二十一歳の青春を散らそうとした事件が広島でおこりました。

事件の主は広島市皆実町二丁目宮川忠氏養女正子さん(二一)は市緑地課での同僚藤松隆(二三)と昨年九月頃から愛し合う仲となり、今年に入って急速に結婚ばなしがもちあがりました。ところが正子さんの養母は(正子さんとは叔姪の続柄)十数年前アメリカに在住していたころ、部落民であることをかくして宮川氏と結婚し、現在もなお夫にあかさずにかくしつづけていたために、いま正子さんの結婚問題から部落出身であることがわかった場合、正子さんが不幸になるばかりか、自分たち夫婦の間にもヒビが入ることをうれえ、六月の初め、正子さんを大阪の兄にあずけました。
一方藤松の実家では、正子さんの身元調査をおこなった結果、「部落の娘と結婚すれば子々孫々まで家名に傷がつく」と親戚こぞって反対したので、藤松の意志は一変し正子さんが不在なのを幸いに結婚することをやめました。
だが、なにも知らない正子さんは六月の末たまたま広島に帰る用事ができ、家へも帰らず駅から真直ぐ、病気で寝ているという藤松の家をおとずれました。ところが藤松はすでに結婚する意志をなくしているのに、正子さんの顔を見ると甘言をろうして看護してくれと三日間とめ、正子さんの処女を奪ったあげく、「父から手紙がきて、お前は部落民だから結婚するなといわれた、もう用がないから早く帰れ」と、すげなくつきはなされたのでした。
二一歳になってはじめて自分が部落民だったことを知った驚き、しかもさんざんもてあそばれたあげく男に裏切られた悲しみと怒りに正子さんは苦しんだあげく七月三日朝藤松が出勤した留守中にカルモチンをのんで自殺をはかったのでした。
幸いに正子さんのウメキ声をきいてあわててかけつけた近所の人たちが医者をよんで手当したので、生命をとりとめたが、藤松は部落民の抗議に「部落民を差別するのはなぜ悪い」と暴言を吐き、部落民はもちろん良識ある市民の怒りをかっています。

 未練はない 正子さん談
正子さんは一時にうけた大きな打撃のためにことば少なく、つぎのように語りました。「部落民であるというだけでこんなにまで痛めつけられなければならないのでしょうか。私はもう藤松にはにくしみこそ感じますが、未練はありません」

 許されぬ不合理 父宮川忠氏談
「結婚して二十数年にもなるのに自分の苦しみを夫にうち明けない妻をどなりつけてやりましたよ。もしこんな不合理なことが社会的に許されるならば、日本人は民主主義を語る資格はありません。もうこれ以上正子が味わった悲劇をくりかえさないために、部落の人だけではなく、日本人は闘わなければなりません」


(1970年5月25日号)

 ”部落差別とは何か”柴田道子さん招き第一回講座
婦民ホール。参加者三十名。
年間三十名もの部落青年男女が、結婚差別によって命を絶っていく現実。
「おれは、夢と人間を奪われた。人間のしあわせが粉砕されない社会は、いつやってくるのだろう。おれにはわからない。おれはただ部落民であるということのみをのろい悲しむ。何といわれようがおれにはだめだった。二人の愛情がどんなにかたくても”部落”という二文字には勝てなかった。また二人でどんなに努力し、苦しみもがいても、このカベだけは破れなかった。
部落の青年男女のみなさん、まちがっても一般の人たちを愛人にもつな、そして恋をするな。その愛情が深ければ深いほど・・・差別、部落とはそんな生やさしいものではない。おれは身をもって体験した。
部落へはお嫁にやれないという人たちや、そういう社会に対し、おれは死をもって抗議する。おれは恋に破れて死ぬのではない、恋には少なくとも勝利した、しかし社会の古い封建制には破れてしまった。(中略)
同じ国の人間が同じ国に生まれて税金を納め、あらゆる義務をみんなといっしょにつとめているのに、おれたちの部落の何が悪くてこんなにきらわれるのであろう・・・おれにはわからない。
生きていたい、K子と晴れて結婚したい・・・だがいまはもう生きる頼りの糸さえ切れてしまった。泣くだけ泣いた。やさしかったK子の顔が浮かんでは消えてしまう。(中略)
もし許されて二度生まれてくることができたなら、どんなところでもよいから部落でないところへ生まれてきたい。」
女性の差別を許さず、女性解放を闘う私たちは、あらゆる差別を許さず、自らの人間的感性を洗い出し、研ぎ澄ましてたたかいを前進させたい。


(1976年4月23日号)

 部落差別を裁け
  久世結婚差別事件 京都府協議会

「久世結婚差別事件」とは部落女性中村道枝さんが、六年間結婚を前提に交際してきた高木信夫から結婚の意志がない上、口ぎたなくののしられ、ナイフで高木をさし、結果高木が死んだというものです。
この公判闘争を始めてから、いろんな事実を知り、信夫と高木の家族、道枝さんの勤めていた日本板ガラスKKの差別に対し、怒りがこみあげました。「結婚するまでは・・・」と九回もの中絶をさせられたこと、毎月道枝さんの収入の中から何万円も信夫が使っていたこと、その上いざ結婚の話になると母親と家族の意志で、他の女性との見合い、結婚話が進んでいたなど決して許せないものです。さらに公判廷で高木の母と姉は「部落はこわいと世間は言っている。差別したつもりはない」と居直りました。
公判闘争は部落差別を裁かずして道枝さんを裁くことはできないことをかなめに、差別糾弾をかかげて闘っています。公判では解放同盟婦人部長川本さんによる部落差別の結果としての結婚差別の実態、そのたたかいについての特別弁論がありました。婦人民主クラブは水平社以来の解放同盟に学び、日本の婦人運動を新たな質に押し上げる意気ごみです。

  *判決日1977年3月30日
   主文 被告人を懲役二年に処する。
       未決勾留日数中三〇日を右刑に算入する。
       この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。
       押収にかかる小型刺身包丁一丁を没収する。


(1979年2月2日号)

「部落青年とはダメ」
 本籍地に戸籍照合 親が仲を引き裂く 品川結婚差別事件
 
 解放同盟品川支部 差別性を暴く
これは、自分の娘の交際相手が部落青年であると知った品川区に住むY家が、その青年の本籍地に、差別的な戸籍照会の要求を出したことに始まりました。請求を受けた和歌山県田辺市は手紙の内容に問題があると市町名で返信を出したところ、昭和五十年五月六日付けで次のような手紙が入って再度の請求があったのです。
 
 家中で縁談に反対
Y家の手紙の内容は次の通り(原文のまま)
「わたくしの長女、M子二十四歳がA殿三男、B殿二十一歳と、昨年八月ハワイ旅行の折に知り合い両方で結婚したいと申しましたので、わたくしどもで大阪へ嫁入りとなればA殿の敷地の中に長男次男三男と同居と聞き、昭和四十九年十二月、東京より身元調査を依頼しましたところ、B殿より父が部落出身と電話があり、わたくしどもでも大変驚き、家中で悩みました。
B殿は十七歳のとき、自分の家柄に興味を持ち調べて知ったとのことです。それより悩みに悩んで一生結婚はしたくないと心に誓ったとの事です。
娘は私立の初等科、中等科、高等科、私立女子大(四年)と進み何不自由なく大きくなり、わたくしどもも花嫁姿のみれる日の一日も早い事を願い、いつくしんでまいりました。
家中の相談の結果、この縁談は反対と娘より伝えさせましたが、それより二人は親にかくして交際を始め、昭和五十年三月、失意のあまり(娘は)ロサンゼルスへ行ってしまいました(六ヶ月ほどお互いの心をみつめるため)
先方の長男のお嫁さんから、四月電話で何が気に入らないか言ってほしいといわれましたが、わたくしどもではとてもいえません。B殿は父及び二人の兄達も、この話はしたこともなく、兄達は知らないと言っております。
今は手塩にかけた娘は口もきかず、親子断絶のため家中重苦しい毎日です。
わたくしは(富山県出身)小学校の頃にクラスに部落出身の子が五名ほどおりましたが、口もきかず手もつながずという事ですごしてまいりました。
もし娘がB殿と家を出る事になりますと、A殿は義父となりますので知りたいと思います。
つたない文ではありますが、よろしくお願いいたします。
                    父 Y夫五十四歳、母 Y妻五十一歳
田辺市長 水野忠晴殿」
 
 氷山の一角の差別
 調査は万一の親心?
田辺市は部落解放運動が活発に行われており、市当局の対応も積極的で、事態を重視した田辺市は総務部長以下五人がY宅を訪問すべく上京したが、Y宅がわからず品川区に連絡した。品川区では助役以下同和対策の関係職員が積極的に対応、五月二十四日(土)田辺市の職員と品川区同和対策室副主幹が立ちあってY宅での話し合いとなったが、その時のY妻の話した内容は、
「わたしたち(祖母、母)は富山県能登半島の氷見の出身で、幼少の頃から部落差別を知っていた。学校の頃には、部落出身の生徒に対して差別待遇が行われていた。部落は二百戸位あって、近隣の交流はなかった。結婚に興信所を依頼するのは当然でしょう。先日は田辺市に行って見てきましたが、若い者がぶらぶらしていた。大阪の生野区もみてきたが、あの土地は生活が低いと感じた。調査をわたくしどもがしようとするのは、万一にでもという親心からでむしろ親切だと思います。B君のためにも・・・。長女がそういうことになったら、二女や三女の結婚にも支障ができる。万一、娘がB君と一緒になっても、わたしたちは絶対に認めません。親子の関係を絶ちます。子どもができても抱きません」などという差別的なものだった。

 差別の自覚がない
田辺市ではこの事件を結婚差別事件と断定して、品川区と共に行政による啓蒙が半年余り続いたが、解放同盟品川支部の知るところとなり、地元の運動体ぬきにやるのはおかしいと抗議して、以後、ともにこの問題を考えるようになったという。
品川区役所同和対策担当の島田職員は「わたしがこの問題で強く感じたことは、Y夫妻に自分たちが重大な差別をしているのだという事を納得させるのが、いかに大変かということでした。本人は、B君がどんなに金持ちでも学歴があっても部落だったら絶対に許しませんとのっけからいっておいて、なぜわたしが差別してるのですか、B君が家へきたとき、ケーキを出しお茶を入れて接待しました。差別なんかしていないですよといいはるんです。差別している方がそれが差別であるということを自覚していない。この間一年近く、部落の歴史や基本的人権の問題などで話をしてきましたが、差別をみぬく力をつけるという事は大変な事です。そしてひびを入れられた二人の若者の幸福は元に戻ることができませんでした。解決したのではなく、終わってしまったんです」と語る。
確認会(差別した本人と、解放同盟側と関係行政が入ってやる)でも何回も話し合いが持たれたが、高橋篤子さんは若い頬を紅潮させて「確認会で、部落出身から行政のワクをはずれた具体的な差別についての怒りをぶつける、そういう中ではじめて分かってくるんです。これからも寝た子を起こすな式の考えでなく、差別と対決しうる意識と姿勢で不当な差別を糾弾したい」と語る。

 解放には百年かかる
大田区役所の同和対策室であった大田区在住の浦口守一さんは、「結婚と職業の差別は、まだまだ根深いです。部落民が、あいつはチョウリンボじゃないかと部落民を差別することもしばしばです。部落の娘さんは部落外の男の人との結婚を望み、結婚した人は優越感を抱いて差別する。差別が差別を生むんです。わたくしも子供の頃から悪口を言われて育ってきました。解放同盟の仕事はやりがいがあると思い、今は生活相談員をしています。よく仲間と話し合うんですが、まだまだ解放には百年はかかる。肌で感じる差別の実態は長いと思います」と語り、柔和な顔をむけて「貴女ももし結婚相手が部落の青年だったら躊躇なく結婚できますか」と問い掛けた。

 氷山の一角の差別 大田差別事件(昭和五十年)
 糾弾要綱より(部落解放同盟品川支部・南部地区共闘発行)
「・・・いいようのない怒りや苦しみを味わいながらも東京には誰も知った人がなく、どこへいっていいかもわからず、どこかに差別と闘う組織がないかと思っていた時に、たまたま新聞を読んで部落解放同盟東京都連に連絡することができたのです。・・・今妥協したら差別は拡大するだろうし、周囲の人間も差別したってたいした事ではないということになるので、最後まではっきりさせていく必要があります。・・・わたしも表立ってこのように大げさになっても、闘っている人は別として知らない人には自分が部落出身だということはあえていいません。・・・身にふりかかった火の粉は払うが、知られないでいたいというのが偽らぬ気持ちです。だから部落の問題は自分がそうだという形ではなく、そういう差別はいけないんだというふうに一般の人には啓蒙しているんです。・・・今ではどんな差別にも敏感になり、しょうがい者の人が白い杖を持って歩いていたりするとハッとします。まあわたしの事は氷山の一角で、その下に数知れない差別の事実が明るみに出ないままうずまいているのです。・・・人の意識はなかなか変わるものではありませんが、痛みを感じる者たちでコツコツとやるよりほかはありません」(今村辰蔵さん 昭和四年 滋賀県河瀬村)


(to be continued)


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