たりたの日記
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2018年08月20日(月) いのちの糧


イグナチオ教会のミサにわたしは出席することはできないが、幸いな事に、英神父のブログ「福音お休み処」に、英神父の説教ライブがその日の内にアップされるので、わたしもこうして聴くことができ、いのちの糧をいただくことができる。

この日曜日は幼児洗礼の主日だったので、それに相応しく、教会という共同体の中で、家庭という共同体の中で、幼児の時から、信仰が養われていくというお話だった。

生まれて一ヶ月になるかならないかの赤ん坊をベビーカーに寝かせ、夫と3人で、夏の炎天下の石ころだらけの道をゴトゴト音をさせながら、教会まで30分ほどの道を歩いている様子が思い出された。

教会の方々が、みなで喜んでくれ、「こんなに小さいときからこうやって外に連れ出していれば、丈夫な子に育つわよ」と、当時、幼稚園の先生をしていたA さんが言った言葉と表情を思い出す。
教会のメンバーのUさんは看護婦さんで、福音診療所というクリスチャンの4人の医師達が立ち上げた、診療所の看護師をされていた。わたしが、切迫早産になり、4月から6月までその診療所に入院していた時に、毎朝のように病室に立ち寄っては手作りのお弁当を届けて下さった。
家に訪ねて来て下さり、わたし達が必死な面持ちで、赤ちゃんを沐浴させるのを「まるでおままごとのようだね」と笑いながら、何枚も写真を撮って下さったAさんの笑い声もそのまま耳に残っている。

故郷から遠く離れ、親も親戚も近くにはいない私たちにとって、子ども達が生まれた時から、私たち親子を見守ってくれた共同体がどれほど心強い存在であったか、今さらながら思い出す。

アメリカ滞在中に通っていたルーテル派の教会でも、帰国後通い始めたルーテル派の教会でも、教会学校や英語学校で、我が家の子供達は霊的に育てられて来たことも思い出し、感謝の気持ちで一杯になった。

説教の中に出てくる 陶芸家( 河井寛次郎)の「この世は自分を探しに来たところ」「この世は自分を見に来たところ」という言葉にも心惹かれるものがあり、後で、彼の作品や、随筆集を調べ、青空文庫で読めるものは読んでみたが、その作品はほんとうに伸びやかで自由で、心を高めてくれるものだったし、随筆も素晴らしく様々な事を思い返すきっかけを作ってくれた。

子どもとしてのわたしを見、親としてのわたしを見、教師としてのわたしを見、祖母としてのわたしを見、今は病気をして、その人生の終わりのところを見ているのだなぁと思った。痛みや苦しさもひっくるめて、それを見るためにこの世に来たんだなぁと。

説教のテキスト版の方もアップされていたので、ここに載せておこう。


2018 年 8 月 19 日(日)10 時ミサ
年間 第 20 主日〈白〉B 年 幼児洗礼式
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記


ヨハネによる福音書 6章51-58節 (そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。)「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」十

 

今日の福音書ではヨハネの6章、最近読まれてるところですが、イエス様自身が生きたパンであるとおっしゃっていて、イエス様の肉を食べ、その血をわたしたちは飲むことができる。それによって永遠の命を得ることができる。イエス様こそわたしたちの命の糧であるということをおっしゃっています。わたしたちは人間として生きる以上、やはり糧を得て成長していく、あるいは命を繋いでいくものだと思います。特に幼児洗礼を受けられる小さなお子さんの親御さんが一番気を配ることの一つは、子供が健康で成長するように、どういう食べ物を栄養があるものを子供に与えようとしておられるかと思います。やはり体が健康に育つには、本当の意味で栄養があるものをしっかりと吸収され大きくなるように心がけておられるように思われます。洗礼を受けるにあたって子供の成長のために単に体と心の成長だけではなしに、信仰の成長といいますか、霊的な成長といえるかもしれない。そのための糧が必要だということも心にとめておいてくださってもいいのではないかと思います。というのはこの幼児洗礼をするということは、カトリック教会の長い長い伝統の中で、このような儀式をしているわけです。大人の場合だったら信仰というのは自分の意志の表明によって、自分が神を信じるという表明によって洗礼を受ける。でも子供の場合は自分の意志の表明がないわけです。ないのになぜ洗礼式をするかというと、共同体の信仰があるからです。信仰というのは個人の事であるけれども、小さな子供に洗礼を授けるという恵みを共同体である教会が見守りずっと大事にしてきているわけです。ということは小さな子供に洗礼を授けてそれで終わりということはない。むしろ信仰教育のスタートだといえると思います。小さな子供に本当に栄養のある食事を与えるように、子供にも信仰というか心というか、霊的な成長のためにどういう恵みをどういう糧を与えるかということも 考えてくださったらいいと思います。信仰というのは共同体の中で育つものだからです。あるいは家庭の中でこそ育つものです。つまりそのような養分を吸収しない限り、子供の信仰は成長しない養われない体と同じです。だからイエス様が命の糧で命のパンであって糧だということは、この小さな子供たちにもこの信仰である小さな糧があるような工夫を、親御さんは心がけてくださったらいいと思います。そしてわたしたちは一生ごはんを食べないと生きられないように、信仰の糧は大人もみんな必要なんです。わたしたちが信仰を養っていくためには、一生恵みをいただいたり、御言葉で養われたり祈りで神様に触れたりしながらいつも歩んでいくということ。イエス様が命の糧だとおっしゃった時に、わたしたちはその糧をいつもいただくように心がけたいと思います。わたしは親ではないですけれども、特に思うのはやはり親になるということは少しずつではないかと思います。子供が一歳になったら親の経験も一歳だし、子供が二歳になったら親の経験も二歳として成長してしていく。急に立派なお父さんお母さんにはなれないんです。みんな子供の成長と共に良いお父さんお母さんになるように少しずつ成長していくんです。だからこの少しずつ成長していく糧をいただきながら、子供の信仰の成長は親の信仰の成長と繋がっています。親が成長していくに伴って子供も成長していく。だから信仰というのは共同体的な側面がいつもあります。お互いの関係の中で信仰というのは成長していくようになっています。お子さんも親御さんも 代父代母の方も、ここに集まっている全ての人もそうですが、信仰の糧を得ていつも信仰を少しずつ成長させていくように自分自身もそうだし周りの人とも信仰を深めていけるように心がけましょう。神の恵みの中でそれは少しずつだされるものだと思います。  わたしは美術展を見るのが好きで、最近は陶芸展を見ました。その陶芸家が造っている壺とかは本当に人間の心が出ますから、自由で捕われのない大らかな良い感じの作品が多いんです。見ているだけで心が洗われるような。その陶芸家が言っている言葉があって、名言を残されてますが「この世は自分を探しに来たところ」「この世は自分を見に来たところ」があります。わたしたちは絶えず自分を探しながら生きている。若い時は若い時なりに自分は何をしようかということを探していました。でも結婚したら夫になり妻になるというのも新しい自分を探してきた。そしてお子さんが生まれたら親になるという自分を探していく、育てていかなければならない。そしておじいちゃんおばあちゃんになったらどう生きていくか、新たな自分自身を探さなければならないでしょう。あるいは病気になったら病気の自分を探さなければならない。それを受け入れてそれを生きなければならない。わたしたちは絶えず自分探しでしょう。自分探しというのは人との関わりの中でしか自分を確認できないし、人との関わりの中で自分をもっと自分らしくいろんな形で成長もするでしょう。年をとったら衰えていく自分も自分として受けとめなければならない。わたしたちは絶えず自分探しをしているともいえると思います。そのためには神様がイエス様がいつもわたしたちに命の糧を与え続けてくださる。その命の糧を頂いていつもその時その時の自分を精一杯生きていけるように。そして今日洗礼を受けられるお子さんたち。そして青年の方。本当に自分らしい生き方をこれからも歩んでいけるように、その恵みの一つとしてこの洗礼の恵みを受けて、神様と共に成長していかれるように、心から祈りを捧げましょう十



第一朗読  箴言 9章1-6節
知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。獣を屠り、酒を調合し、食卓を整えはしためを町の高い所に遣わして呼びかけさせた。「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」意志の弱い者にはこう言った。「わたしのパンを食べわたしが調合した酒を飲むがよい浅はかさを捨て、命を得るために分別の道を進むために。」

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 5章15-20節
 (皆さん、)愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい十



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