たりたの日記
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| 2005年01月25日(火) |
聖書の風景 ♯2 「さあ、わたしの後ろへ」 |
ここのところ、気持ちはラテンのことと、義父の病気のこととの間を行ったり来たりしており、その上それぞれのクラスの準備やイベントの計画と頭の中は混沌としていて、自分の心の底に降りていって物を書くというモードが作れませんでした。
そういうわけで、毎月25日がわたしの担当となっている心太日記も、いつものように数日前に書き上げて送るということができず、25日の深夜にようやく書き上げたことでした。
心太日記、2年目は、聖書の風景というシリーズで書いています。今回は2回目。イエスが湖で漁をしている二人の兄弟に声をかけ弟子にしたという場面を題材に取りました。今回も書きながら発見とか出会いがあり、すでに知っていた風景がまた新しいものになった思いがします。
聖書の風景 �◆ 屬気◆△錣燭靴慮紊蹐悄�
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。
<マタイによる福音者 4:18−2>
イエスは伝道に先駆けて、十二人の弟子をこのように集められ、弟子たちはこのようにイエスに従っていった。キリスト教に縁がない人はこの記事を読んで、まず拒否反応を持つのではないだろうか。ああ、宗教は恐ろしい、人間を現実の場からつまみ出し、あやしいところへ連れて行くと。そういう誘いに乗ってはいけないと身を固くするだろうし、オウム真理教や、統一教会の忌まわしい事件やスキャンダルが頭をよぎるかもしれない。
そういう反応は充分理解できるものの、わたしはいつ読んでも、このあきれるくらい単純なストーリーの前で静止してしまう。イエスが二人の男を呼び止めるや男たちが即ついて行ったという出来事にはっとさせられ続けてきたのだ。なぜ二人の漁師はイエスについて行ったのだろう。その瞬間にイエスと彼らの中で行き交った想いはどういうものだろう。そして、もし、呼びかけられたのがわたしだったら、わたしは、イエスについていっただろうかと考えを巡らす。そう、これは、わたしの心に深く食い込んでいる聖書の風景なのだ。
先日の礼拝説教のテキストはこの箇所だった。その説教の中で新しく知ったことだったが、この「わたしについて来なさい」という言葉は新約聖書の原書であるギリシャ語から直訳すると、「さあ、わたしの後ろへ」という意味になるのだという。この言葉を聞いた時、さっと視界が開けるような感覚を覚えた。この直訳の言葉でなら、その情景をもっと活き活きと描くことができる。イエスの声の調子も、弟子たちの胸の高鳴りも伝わって来て、思わず笑みがこぼれてしまった。
「さあ、わたしの後ろへ」と呼びかけるイエスの顔は喜びに満ちてはいなかっただろうか。「ようやくあなたがたに出会いました。ここがあなたがたの住むべき場所です。さあ、わたしのところへ。」そんなイエスの高揚した思いが伝わってくる。イエスにはこの二人を選び出す、あるいはこの二人に頼む、という意識などなかっただろう。自分と共に歩むのはこの男たちだということが瞬時にして分かったと思うのだ。
一方、イエスに呼びかけられた男たちも「さあ、わたしの後ろへ」という呼びかけを聞くや、その顔を輝かせたに違いない。日々漁師として暮らしを立てていたシモンとアンデレは、しかしその暮らしの中だけに埋没しているのではなかったはずだ。自分に与えられている使命を、出会うべき何かをいつも神に問うていたのだと思う。魂の深いところで、この出会いの瞬間を予期し、それがいつであってもよいように準備しつつ待っていたのだろう。だからこそ、目の前に現れたイエスが出会うべき人であることが、瞬時にして分かったのだ。そうした決定的な出会いを前にすれば、湖に打ったままの網を引き上げることなど、どれほどの意味があろうか。二人が喜びに満たされ、網を捨てイエスにかけよったその足取りさえ、はっきりと見えてくる。
これはイエスと弟子達との出会いの場面だが、わたしはこの記事から、わたしたちが生きている間に起こるさまざまな出会いのことをまた思った。人生において要をなす出会いというものがある。そういう出会いは、わたしたちが生れ落ちたその時からすでに始まっており、そこへと向かって時が熟していくのではないだろうか。すべてが偶然ではなく、ひとつの意図と配慮の下で動かされまた動いて行くとすれば、その出会いも必然。神から与えられるもの。
そうした出会いを逃したくないと思う。そのためには日常に、自身の思いだけに埋没してはならないのだろう。イエスが言うところの、何を着ようか、何を食べようかという日常の思い煩いで心を塞いでしまってはいけないのだ。呼びかけの声がかすかにでも聞こえるほどには耳をすませておかなければならないし、呼びかける人の姿を遠くからでもキャッチできるよう、目の曇りを拭っておかなければならない。ある意味、詩も音楽も絵画も、またダンスや瞑想、呼吸法やヒーリングと言われるものも、そういう心の目や耳をクリアにするためのものかもしれないとわたしは思う。
ガリラヤ湖畔でイエスが弟子たちに「さあ、わたしの後ろへ」と呼びかけたその出来事は、様々な事や人にかたちを変えて、日々わたしたちの生活の中に生起している。問題はそれを掴むかどうか。
* これまでに掲載された心太日記のバックナンバーは↓より
心太日記バックナンバー
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