たりたの日記
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| 2004年10月27日(水) |
再び 「エマオの途上」 |
小学校2年生の時、友だちに誘われて、教会学校に通うようになり、他の習い事は止めてもこれは不思議なように続きました。 そこで聞く聖書の話しや紙芝居はおもしろかったのです。
今でも、その時に聞いた話しが頭に描いた絵と共に思いだされます。よくよく心を探ってみれば、聖書の広々とした世界が、心象風景となってわたしの内に存在しているのが分かります。 その風景が他のそれと少し違うのは、その風景の色やディティールが、年月と共に、あるいは様々なものからインスパイアーされて、少しづつ変化してゆくことでしょうか。近頃もそんなことがありました。
最近、画家でかつゴザンス(りとろぐ)ライターの榎並和春さんのサイトで一つの絵を見て、その絵がわたしの心に描いていたエマオの途上の場面と強く響くのを感じました。というより、どこかで忘れてしまっていたその風景の気分が蘇ってきて、わたしが心に描いていた以上にその世界に近いと感じました。その絵を描かれた方が、エマオの途上を意識されて描いたとは思いませんが、そこからやってくるものによってわたし自身の心の目が開いたのでしょう。不思議な気持ちがしました。
そういえば、以前、この「エマオの途上」の話を文章に書いたことがあったと思い出し、今記事を取り出してみました。それを読んでいるうちに今度は今朝読んだ、やはりゴザンス(りとろぐ)ライター西原正さんの日記のことが思い出されました。
西原さんの昨日の日記には大江健三郎氏が著書 「『新しい人』の方へ」を読んで共感されたことが書かれていて、わたしはその本のことは知らないまでも、西原さんの日記にとても共感を覚えたのです。大江健三郎氏が子ども達、また若い人たちに対して、<「新しい人」になってもらいたい、「新しい人」になることをめざしてもらいたい。子供の時そうしてみるのとそんなことはしないというのでは、私たちの生き方はまるっきり違います。>と語っている部分が引用されていました。
この大江氏の言葉を読んだ時、「ああ、そうだった、わたしもそのことを思い、そのことを願ってきたのだった」と、はっと我に帰るような気持ちになりました。もう長いこと教会学校で子供たちにかかわってきたけれども、ここのところそれが義務的になっていたな。毎週、日曜日の朝出かけていくのはきついと思っていたな。「魂のこと」をする場所なのに、「新しい人」としてではなく「古い人」にすり替ってしまっていたなと気づかされたのです。
日々、こころを燃やすこと、「新しい人」の方へ向かうことを、こうして仲間の絵や文章で知らされ、軌道修正できることを在り難く思います。 心を新たに子供達に向かうのでなければと、かつて書いた「エマオの途上」の話をもう一度、自分の内に呼び起こしました。
<教会学校の礼拝で子ども達に話した「エマオの途上」のおはなし>
目でははっきり見ているのに見えないということがあります。 体の目は見ることができても、こころの目が塞がっていると目に映っていることがほんとうには分からないのです。 ところが体の目は見えなくても、そこでおこったことが生き生きと見えることがあります。それは心の目が見えているからです。 これからお話する二人の男の人は、ちゃんと目は見えていたのです。それなのに心の目が開いていなかったから見えていなかったのです。 さてどんなお話なのでしょう。
イエス様が十字架に架かって死んで3日たった日のことです。 二人の男の人が、エルサレムからエマオという所に向かって歩いていました。二人は暗い顔をしてなにやら深刻そうに話をしながら歩いていました。しばらくすると、別のひとりの男の人が二人の男の人達と並んで歩き始めました。その男の人は二人の男の人に尋ねました。 「何をそんなに深刻そうに話しているのですか。」 「あなたは、エルサレムに泊まっていたのに、近頃エルサレムで起こったことを知らない というのですか。みんながそのことで大騒ぎしているのですよ。」 「知りません、教えてください。」 「イエスという人のことです。その人は行いにも言葉にも力のある預言者、神様のお使いでした。ところが祭司長や議院たちはその人を十字架に架けて死刑にしてしまったのです。わたしたちはみなその方こそ、私たちを救うものだと期待していたのです。それから3日経ったのですが、今朝女たちがイエスの墓に行ってみると、墓はもぬけの殻、そこに天使が現れて、『イエスは生きておられる』と言ったというのです。」
その男は二人の男にこれまでその預言者がしてきたこと、聖書に書いてあることを詳しく話しはじめました。 さて2人はエマオに着きましたがその男の人はまだ先に行こうとするので、もう遅いので、家にお泊まりくださいと二人の男はさそいました。 その夜、いっしょに夕食をしようとした時、お客となった男の人が、食卓のパンを取ってお祈りをし、そのパンを裂きました。その時、二人の男の人たちは、そのお客がイエスさまだということが突然分かったのです。心の目が開いたのですね。けれども、その瞬間イエスさまの姿は消えました。
二人の男の人たちはいっしょにエマオまでの道を歩きながらイエス様と話したことを思い出しました。 「あの時、あの方が誰だかは分からなかったけれど、あの方が聖書のことを話すのを聞いて心が燃えたではないか。イエスさまといっしょに歩き、イエス様の話しを聞いていたのだよ。」と感激しながら話し合いました。
さて、二人の男の人たちは「心が燃えた」と言っています。 「心が燃える」というのはどういうことなのでしょうか。 みなさんは「心が燃える」という気持ちになったことがありますか。 わたしは心が燃えるというのは、心が、まきをたくさん入れられた暖炉のように、また燃料をたくさん補給された機械のように、元気に燃えはじめ、元気に働き始めるようになることではないかと思います。またうれしい気持ちでいっぱいになったり、心が熱くなることだと思います。 私たちの体は食べ物や飲み物を取らないと、元気がなくなって、最後は死んでしまうっていうことは知っていますね。でも心はどうなんだろう。心だって同じようにエネルギーをもらわなければ、元気がなくなって、心の病気にだってなるんじゃないかしら。 みなさんが毎週教会学校にやってくるのは、イエスさまのお話を聞き、お祈りをし、讃美歌を歌うことで、心にエネルギーを補給するためなのです。お母さんが作ってくれる体のためのご飯をみなさんがいただくように、ここへ魂の御飯を食べるために来るのです。 日曜日の朝ごとにここへ来て、魂の御飯をいただいて、心を燃やしていましょう。
(たりたの日記を初めから読んで下さっている方はお気づきでしょうが、この日記は3年前に書いた「エマオの途上」のリライトです。りとろぐに載せるつもりで朝書いたのですが、日記に記しておきたくなりました)
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