たりたの日記
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| 2004年07月02日(金) |
「家族狩り」に見る光と闇 |
昨日の内に「家族狩り」第二部「遭難者の夢」を読み終え、これで一部から五部まですべて読んだことになる。 今日は、読んでしまったこと、物語の外へ出てしまったことが、何か残念だった。別の本へと気持ちを移すこともできないので、第5部をもう一度読み始めた。
予想した通り、物語の中の登場人物が様々にわたしに働きかけてくる。 今日は、16歳の少女、芳沢亜衣の声がしきりに聞こえた。 亜衣は、生きていたくないと思う。自分を自分で傷つけたいという衝動、両親も含めて自分を取り巻く世界への、命そのものへの嫌悪がそこにある。しかし、心の底では、そこでもがいているのである。光りを探しているのだと感じる。
そして、亜衣と同じその年頃、それと良く似た暗い衝動や虚無感にわたしもまた支配されていたことを思い起こす。 わたしはその気分を人前ではうまく隠しているつもりでいたが、ある時、同級生の男の子から、「オマエ、いつ飛び降りるかわからないような顔してるな」と言われて、どきりとした。 日々、生きることがつらかった。呼吸が苦しいのだが、どうすれば楽になるか分からず、自分の行く先に光を見出せないでいた。
亜衣に象徴されているものは、思春期の時を生きる子ども達に等しく訪れる危機だと思った。親の育て方や、社会のあり方の影響ももちろんあるだろう。しかし、亜衣の、また登校拒否や家庭内暴力の渦中にある子供たちの生きづらさは、ひとりひとりの内の起こる負のエネルギーの影響なのだと私は思う。 負のエネルギー、光りに背を向け、闇の中に身を置こうとするエネルギー、悪魔的なものと言ってもいいかもしれない。
思春期の子どもとは限らない。人間の内面では光へと向かうエネルギーと闇へと向かうエネルギーが絶え間なく拮抗している。それはそのまま、聖なるもの、命の源(わたしはそれを神、またイエス・キリストと呼ぶが)と、悪魔との熾烈な戦いでもある。
この「家族狩り」の中で、登場人物それぞれの光へ向かう心と闇へ向かう心とのせめぎあいがたくみに描き出されている。それぞれが、自分の内なる闇をどう受け止めるか、そもそもそれが闇であることに気づき、そこから離れようとするのかどうか、その人の心の動きや行動に固唾を飲む。そして、登場人物の葛藤に読者自身の過去の、現在の葛藤が重なり、その世界を私のこととして読み進めて行く。
物語を読み終えた後、残酷で悪寒の走るような光景を潜り抜けてはきたものの、そこにトンネルを貫けて、光りを浴びたような感覚が起こるのは、登場人物達が、ぎりぎりのところで、闇を払いのけ、光の中に身を投じたと感じたからなのだろう。そして悪魔の支配に甘んじた者は闇へと向かうが、闇は光に勝たなかったということも、深いところで知る。 そしてそのことが、生きることの励ましのように静かな光となってはらはらと降りてくるのだった。
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