たりたの日記
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2004年06月19日(土) 朗読会の帰り道

朗読会の帰り道、強い午後の日差しの中、帽子を深めにかぶり、駅に向かって早足で歩きながら、心はふつふつとし、胸の真ん中のところからしきりに熱いものが突き上げてきていた。

目は花壇の花や行き交う人々を映しているのに、頭の中では、さっき聞いたばかりの物語の情景がくっきりと浮かんでいるのだ。
夜の闇の中、古びた銭湯の脇に浮かび上がる深紅の姫椿が見えている。
姫椿の側には、銭湯から出てきた中年の男がいて、まるで探し物を見つけたような晴れ晴れとした顔で、我が家へと向かって歩きだした。

板さんの朗読する「姫椿/浅田次郎・作」を聴きながら、わたしはすっかりその48歳の男になっていたのだろう。男の発見が、その生まれ変わったような新しさが自分のことのように感じられた。

男が失っていたのは冨ではなく、もっと大切な物だったのだ。そうして、何にもなくなり命を捨てようとしたその時に、失くしていたものを拾った。男をそこへと導いたのは、彼の妻の愛だったり、タクシーの運転手や銭湯の番台にいるおじいさんだったりするのだが、人が人と向き合い、そこから流れ出す愛情によって人間はまた「ほんとうのもの」を取り戻すことができる。そうそう、人間って捨てたもんじゃない。
駅へ向かう、わたしの足取りの軽いこと。
それにしても、これは朗読を超えていた。それぞれのキャラクターがしっかり演じ分けられていて、芝居を見ているようだったのだ。
それゆえ、映像が目に浮かび、時間や空間の広がりさえそこに作り出していた。



「与野朗読の会・第19回朗読発表会」はどの朗読も、磨かれていて、映像が浮かび、こころに沁みこんでくるものだった。2時間はあっという間に過ぎ、
終わってしまうのが残念な気がした。人の声が伝えるものは、文字から伝わってくるものとまた味わいが違う。朗読するひとりひとりの持ち味や感動がそこに加わるからなのだろう。

ところで、前半のプログラム一番目の「めっきらもっきらどおんどん/長谷川摂子・作」は、何と、長男が3歳の時、一番好きだった絵本で、わたしはこの本を100回以上は読まされた。そのうち本人はすっかり覚えてしまい、わたしが読み間違えると訂正するのだった。
朗読を聴きながら、わたしは19年前のわたしに戻り、髭づらのむさくるしい22歳は3歳のかわいらしい男の子に戻っていた。そして、どのフレーズもわたしの脳はまだしっかり覚えていて、わたしは朗読者といっしょに心の中で読んでいた。

帰り、同居人へあげる父の日のプレゼントの本と、長男の誕生日のプレゼントの図書券を買うために本屋へ寄ったのだが、わたしは絵本のコーナーへゆき、「めっきらもっきらどおんどん」の絵本を見つけて買った。我が家の本棚にもまだあったと思うが、ペーパーバックの本で、もうぼろぼろになっている。ハードカバーになっているこの本を、Hに図書券に添えてプレゼントしようと思いついたのだ。
Hはその昔、夢中になっていたこの物語をどんな風に思うのだろうか。
懐かしがるには、ちょっと若すぎるとは分かっているが・・・



たりたくみ |MAILHomePage

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