たりたの日記
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2003年05月18日(日) 「わたしはまことのぶどうの木」 を描く

今日の教会学校のお話のテーマは「わたしはまことのぶどうの木」、(ヨハネ15章1〜10)だった。イエスは様々な教えを抽象的な言葉に寄らず、当時の人々の暮らしの中にころがっている事象を借りて、視覚的なたとえで話した。そのみごとなメタファーは、子ども達にとっても忘れられない映像となってその心のスクリーンに映し出されるに違いない。わたしの場合がそうであった。

小さい頃、教会学校で聞いた「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」という言葉はひとつの消えない絵になって心に焼き付いた。そして豊かに実を結ぶという言葉がいつの間にか言葉を越えて、自分を前へと進めていく力にさえなっていった。


教会学校の礼拝の後の分級、私の担当は幼児と小学校低学年だ。礼拝で聞いたお話を別な形でもう少し身近に引き寄せるのが分級の役割と心得ている。まずホワイトボードぶどうとその枝の絵を描く。数年前、友人と山梨でぶどう狩りをした時に聖書のぶどうの木のたとえを初めてのように理解したが、その時に見たぶどうの木を思い出していた。そのぶどうの木は、一本の木から無数の枝がどこまでも伸び、その枝、枝にはみずみずしく実ったぶどうがぎっしりとついていた。あの時枝からもぎとっては口にふくんだ甘いぶどうの味。木が根から吸い上げる養分と水が枝枝に送られ、その実にまでゆきわたっているという話しをする。また植物をうまく育てられる人のことを「緑の指を持つ人」っていうんだよなどと脱線もした。

それから子ども達に一枚づつ紙を渡し、ぶどうの木を描かせる。子ども達は思い思いに木やたくさんの枝やぶどうの実を描いていく。雨や太陽を描く子どももいる。木の下にはちゃんと自分を描いている子もいる。描いた絵をみんな披露し合っている時、ひとりの女の子が「ほら、緑の指」と言って親指を高く差し出した。かわいい親指の真ん中は緑色のマーカーで染められていた。
「ほんとうだ。Tちゃん、きっとうまくお花が育てられるよ」と私が言うと、
そばで見ていたTちゃんのお母さんがすかさず
「それじゃ、今日、ミニトマト植えようよ、指が緑色のうちに。」と持ちかける。

うんと考え込んでしまってとうとう何も描けずじまいだったK君は私が描いたぶどうの木の絵を喜んで持って帰った。彼だって心の中では描いているのだ。そばで見ていたお母さんとお父さんは気がかり立ったかもしれないが、無理に絵にする必要もない。

さて、遠い昔、小さかった私の心に焼きついたぶどうの木が今日、子ども達の心にも留まっただろうか。


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ヨハネ15章1〜10    (新共同約聖書)

◆イエスはまことのぶどうの木
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。





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