たりたの日記
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2001年10月29日(月) 原爆展

北九州で小学校の教師をしている義姉から東京で原爆展が開かれるというメールが届き、掲示板にも書き込みがあった。それによると10月28日から11月4日まで、横浜、府中、町田と開かれるということだった。今週は土日も含めて丸一日空くという日がなく、見ることはできても手伝うことは無理だと残念だった。
ところが昨夜、原爆展の主催者で、義姉の友人のMさんに問い合わせると、なんと明日は大宮で行う予定だという。大宮であれば、今日は夕方のクラスだけだから朝から3時まで手伝うことができる。どなたとも会ったことはないが、平和を創るために労している人たちであればそれだけでいっしょに働けるという気がした。私は一足先に大宮へ行き、車を待った。駅の前の大型歩道橋。いつも通っているものの、立ち止まったり、そこにあるベンチに座ったりすることはなかった。ここは駅から次ぎの場所に向かうために足早に移動する所以上の何物でもなかった。ところが他に何も目的がなくて、車の到着を待ちながらそこに座っている何かその場所がまるで違った場所になるのが不思議だった。人がよく見えるのである。通り過ぎて行く人も、となりでコンタクトレンズのちらしを配ってる人もティッシュを配っている人も、ゴミを集めたり、その近辺の掃除をしている人も、今までは目に映っていなかったことがわかる。何も見ないで、ここをただ移動していたのだ。

歩道橋の上から下を見下ろしていると、原爆展と書いた、黄色い看板が目に入り、みなさんがいらしたことが分かった。原爆展をやっている人達は、パネルなどの展示物を車に積んで下関からはるばる来ていらっしゃるのである。Mさんにも初めてお目にかかったが暖かい包容力のある女性だった。また他の方々も呼び止められたら、話しを聞いてみようかという気にさせるようなゆったりとした時間を持っている方々だった。自己紹介もそこそこに、大宮駅西口のコンコースのところにブロックとプラスチックのポールを組み立てパネルを通し、かなりインパクトのある野外展示会場ができた。折り畳み式のテーブルには署名用紙、書籍などが並べられた。風が強いのが気になるが、空は高く晴れわたり、気持ちのいい秋の陽射しだ。

パネルは「原爆と峠三吉の詩」と題された55枚のパネルで、これまでに見たことのある写真もあったが、初めて見るショッキングなものもあった。峠三吉の詩も知らないものがほとんどだった。
「原爆手展をやっています。」と言いながら駅から出て来る人にちらしを手渡すのだが実に様々な人々、様々な反応だった。一番多いのが目を合わせようとせず、何も聞かなかったかのごとく、誰もいないかのように無視するタイプ、このタイプにとってはわれわれは透明人間でしかない。一応ちらしを配る人を認識はするが、関係ないですというサインを出すタイプがそれに続く。チラシを受け取る人は思ったよりも少ない。ゆっくりと独りで歩いている人、年輩の人は比較的ちらしを受け取ってくれ、パネルの前に立ち止まって見ていた。ちらしを受け取る、受け取らないは別として、パネルの前は多い時には10人以上の人が見ており、話しかけてきたり、署名やカンパに協力してくれる人も少なからずいるようだった。金髪の若者たちがかなり長いことパネルを見ていると思ったら、Mさんと何やら話しているようだった。私は見るからに飛び入りと分るのかあまり話しかけられなかったが、他の方はちらしを配りながら、あるいはパネルを見ている人たちと話をしている姿が見られた。

戦争がどんなに非人間的なものか、日本に投下された原爆は何よりもそのことをはっきり示しているように思う。被害者意識だけを強調したくないし、アメリカを責めるということも本質をそれてしまうような気がする。原爆のことがらは人類全体の過ちであると認識したい。そのような過ちを再び私たちが犯すことがないように、私たちは繰り返し原爆のことがらを思い起こし、今の時代で原爆の問題を新しく読み解かなければならないのではないかと思う。原爆のことは米国多発テロの後、また新しい意味が加わったという気がする。原爆の間違いを私たちははっきり追求することをしないまま、アメリカから援助だけを受け取り「友好」な関係を築いてきた。そして今だにその関係は尾を引いている。日本のどこかきっぱりとした態度が取れずに、アメリカの顔色を伺うといった有り様が今回のことでも露になった。ここにも解さなければならない絡まった糸がある。



たりたくみ |MAILHomePage

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