■日々由無し言■

2004年03月16日(火) シブヤから遠く離れて

【シブヤから遠く離れて】
シアターコクーン(2004 3/13 19:00〜・3/14 14:00〜)

2公演見たのですが、結末を知る前と後では、まったく見るポイントが違いました。ラストを
知っているので、2回目の公演では、話の筋やセリフの理解度が高まって良かったのですが
やはり1回目、まっさらの状態で見るラスト。全ての時間が最後の一瞬に向かって突き進んで
頂点に上りつめて最後のナオヤの姿に集約、昇華される。
その瞬間の為にこの芝居はあるのかとさえ思えました。一回一回が真剣勝負だから怖い、
だけど日常では決して与えられることのない感覚を味わえる世界。
やはり舞台は生ものですね。


以下はわたくし個人の感想、というか解釈に近い内容の覚書です。あちこちで聞く通り、見た人全て受け取り方が違う舞台だと思います。

以下ネタバレ↓(反転)

まるで墓場のような廃墟は、過去に囚われ、こだわり続けるナオヤの世界そのものと言える
のではないか。死んだ親友はずっとそこで自分を殺したナオヤを待ち続けていた。ケンイチ
の「証拠が残るのは嫌だ」という言葉は、自らの死に場所に縛りつけられている苦しみを
訴えているように聞こえてならない。そしてもう一度落として殺せとほかならぬ自分を
殺したナオヤに迫る。しかしケンイチは亡霊にも、虚言で固められたナオヤ自身の反面の
ようにも見え、その区切りは曖昧である。

誰もが持ち合わせる狡さ。他人を不幸にしてなお譲ろうとしない独占欲。ナオヤは人間の
エゴと脆さの象徴ではないか。愛情に飢え貪欲にそれを求めるナオヤに対し喪失を恐れる
が故に愛情を自覚することを拒んでいるマリー。
「明日嫌いになるかもしれない」「嫌いになれば誰かに引き渡すことが出来る」ナオヤとの会話
の中に、そういって諦めなければいけなかった、裏切られ続け、失い続けてきたマリーの
これまでが表れている気がしてならない。既に彼女は疲れきっていたのではないか。
狙われているにも関わらず、外へ出たマリーの行動は自殺行為にも等しい。自らを愛し、
信じることを捨て身で教えようとするアオヤギに感謝しつつも、既に彼女は全てを諦めて
いたのではないか。アオヤギの夢に同調する彼女は楽しそうにしているが、ふっきれたよう
なその姿は現実みを欠いている。

灰色一色の世界に、常につきまとう黒い服の人々の話、喪服の男達はマリーとアオヤギの
命を奪う死神。全編に漂う「死」のイメージ。死の誘惑が甘美なものとは限らない。あえなく
終焉を向えたマリーが解放する為に戻ったのはナオヤなのか、それともウェルテルなのか。
劇中最も美しい朗読の場面の後、フナキによって現実に引き戻されたナオヤが腕時計を差したのは、ケンイチとその母親から解放された証なのか。
舞台は赤い花の色だけを残して私達の前から消失する。



弱くて、卑怯で、被害者を無意識に装う加害者、そういった弱くてどうしようもない人間の
マイナス面を演じるのに、二宮和也ほどリアリティを持って出来る役者さんはいないのでは
ないでしょうか(欲目抜きで)。

物語のほとんどにおいて、意味の明言を避け、判断を観客に委ねている。どっかで書かれて
たかと思いますが、ほんとに見た人がどちらにも受け取れるように書かれた脚本ですね。
岩松了さん天才です…忍くん(@マンハッタンラブストーリー)のお母さんて凄い人だったのね。。。
前の日記にも書きましたが、演出も脚本も役者さんも素晴らしい。良いとか悪いとか、そんな
言葉では表現できない。この舞台を評価出来る言葉は私にはありません。


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カナ