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| 2005年10月24日(月) |
実は同じことをやっている? |
ナラティブ・プラクティスの主張には、専門家言説を相対化し、専門家の医療言説によってうばわれた患者の人生をとりもどそうという志向性があるように思う。アンダーソン(もはやナラティブという言葉自体を捨ててしまったが)にしろ、ホワイトにしろ、それぞれにやり方は違っても、ここだけは共通しているというのが一般的な意見である。
ところで、EBMという考え方がある。これはしばしばナラティブと対局にあるとうけとられる。でも、実際のところどうなのだろうか。
エビデンスという考え方の底には、従来の権威主義的で、実際には根拠のない医療をやめ、科学的にきちんと白黒つけられたデータでもって勝負しようという発想があるとの話を聴いたことがある。だから、エビデンスを主張する人びとは、なにより、エビデンスが逆に権威主義的に利用されることを嫌うのだとのことである。
ナラティブとエビデンスという、しばしば対局にあるとされる思想を並べて比べてみると、どうも二つは究極的には同じことをいっているのではないかという気がしてしょうがない。つまり、エビデンスもまた、専門家の権威を相対化し、診療過程に、奪われた患者の主体的判断を取り戻そうとしているのである。これは、ある意味、とてもナラティブな実践ではなかろうか。「エビデンス」を媒介とすることで、患者と医療者は、「病理」を外在化し、それを並んでながめる位置につけるようになる。
もちろん、ナラティブは社会構成主義的な認識論を背景としており、論理実証主義的な認識論を背景とするエビデンスの考え方とは、そもそも相容れないのだという意見は知っているつもりである。 でも、そのことがナラティブな実践とエビデンスな実践の性質を異なるものにしてしまうわけではないように思える。
思うに、もうひとつの軸を導入しなければならないのではないだろうか。さしあたって思いつくのは、オハンロンがエプストンへのコメンタリーとして言っているように、エンパワーを志向するのか、ディスパワーを志向するのかという、研究者/実践者自身のポジショニングの問題である。
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