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教育心理学会2日目
午前のセッションは『教師の実践知を描きだす試み』ということで、九州のある小学校で教鞭をとられている山本先生と、その先生の実践を分析したtoma先生の発表。
山本先生の実践は素晴らしく、途中で一瞬目頭が熱くなるような場面もあるものであったが、toma先生の語りもまたよかった。聞きながら、はたして自分の授業実践はどうかとボーッと考えてしまった。
さて、フロアからは、どのような契機でこうした素晴らしい実践が編み上げられていったのかといったことが疑問としてあがっていた。が、山本先生は「偶然のかさなりによって」とあまりそういうことはどうでもよさそうでポツリポツリとしゃべられる。しかし、自分の実践のなかでこの1時間の授業がどのような学校全体の歴史性に埋め込まれているのかとか、こだわりをもっている授業観の話になるととたんに嬉々としてしゃべりはじめる。あんまり心理学的にどうこうということに(良い意味で)価値をおいていないように見える方であった。
なんというか、うまくいえないが、こういう先生だから、共同研究もうまくいくのではないかなどと少し思った。
午後からは解釈研究会の「問題」という言葉をめぐるシンポ。自分がこれまでやってきたテーマととても重なるもので興味深く聞いた。
一見、自明な「問題」「問題児」という言葉が、本当のところ実践者と研究者で共有できるものだろうかというようなことが最初の問い。自分がこれまでみてきたことと重ねていずれの研究もとてもおもしろかった。おもしろかったしか言えないのがもどかしい。頭のなかでいいたいことはたくさんあったが、グルグル回ってしまって発言することができず残念だった。
なんというか、「分かりあう/分かり合えない」という言葉(つまり、理解するということ)は達成動詞である。だから、それは個人の内面のこととして考えるのではなく、そのような理解/あるいは誤解を可視化するような実践があるだけなのだと考えた方が僕にはしっくりくる。
誤解や理解というのは、常に過去形でしかとらえられないものだ。とすれば、理解を可視化する実践、あるいは、とりわけ誤解をよりマイルドな形で可視化する実践を考えることが、役にたつ研究の条件ではないか。
例えば、更生保護施設ではしばしば指導員は非行少年を「普通の子」という。しかし、これには実は「だけど、やっぱり怖い子」という言葉が暗黙のうちに含んでいることに気づかねばならない。さもないと、普通の子だからと少年になれなれしくつきあったあるボランティアは、この施設から追い出されてしまったりする。このような形で可視化された誤解は、なにも生み出さない。
誤解を生産的な形で可視化する条件を考えるべきではないかと思う。そのためにはどんな条件があればいいのか?。『ボトムアップ』で考えている学融とも重なるテーマであり、今かいている本にも関連する問題だ。
じっくり考えたい。
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hideaki
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