徒然ハトニッキ
(映画編)

はとの不定期映画鑑賞日記。

2006年12月08日(金) エコール

ルシール・アザリロヴィック監督

とてもとても汚れなのない綺麗な映画。
そして不可解さに底知れぬ不安を感じる物語。
この作品を語る上で「少女達の無垢さによるエロス」というような発言をよく目にするが、そもそもエロス、エロティシズムとは性愛を伴う恋愛を意味するものらしいのでそれは全くの見当違いの発言だと思う。
確かにある種の性的嗜好を持つ者を挑発するカメラワークではあるが。
少女性の終わりと月経の始まりについて論じる男性もいるようだが、それもあるけどそれだけの作品ではないだろうが。
(女の少女性が初潮で終焉を迎えるなんたぁ男の勝手な幻想である。)

パンフレットの塚本晋也の発言が一番的を得ていると思う。

”エロティシズムというよりはかわいらしい優しさに満ちてる。
 映画のどこをとってもルシールの少女性があると感じた ”


邦題”エコール”は「学校」を意味する。
原作「ミネ・ハハ」の副題は「女子の身体的な教育について」

閉ざされた森の中で誰と接触することなく規律に守られ共同生活をする…
非常に社会主義や共産主義国家を連想した。
一昔前のソ連や東欧諸国の体操やスケート選手の少女達はまさにエコールに登場する少女達のように細く長い手足を持ったしなやかな美しい少女達だった。
きっと「エコール」のような選りすぐりの少女達を集めていた英才教育の場が実際あったに違いない。
原作を書いたフランク・ヴェデキントはドイツ表現主義の先駆けと言われた不条理劇作家だ。

ノイローゼ気味のバレエ教師は早く外界に出たがっている少し高慢な少女の自信を煽る。
垢抜けない真面目そうな女教師に「私たちと同類にするつもりか?」と非難される。
"脱走を図ると一生この学校から出られない”という噂。
「服従こそが幸福の道」と教え込まれる。
それでも塀の外に出て行こうとするのは外界への郷愁、好奇心ではなく自由への渇望なのだろう。
しかしながらこの学校の中できちんと段階を踏んで然るべき場所へと送り出されることは決して自由を意味してはいない。
学校から卒業することは決して幸福へとはイコールしないのではないか?
バレエ教師のアリスに対する行為は彼女の持つ高慢さ思い上がりに対する意地悪なのかと思ったけれども、反対に特別に彼女に愛情を持っていたために外界へと行かせたくなかったのではないか?
少女達との会食の席で感極まって泣き出したのも最初は彼女自身が永遠に学校から出られないことの苦痛からなのかと思ったが、よく考えてみると純真無垢な少女達を恐ろしい外界へと送り出すという自分の仕事に苦痛を覚えていたのではないか?
それを知ってか知らずか外界への旅立ちを示唆する自分の体の変化に不安を覚える年長の少女。
生物を教える教師は子供達の目の前で孵化させた蝶を淡々とピンセットで開いて標本にしていく。
標本の蝶々は少女達の未来を連想させる。

「蝶はその時がきたら蛹から飛び立ち交わり種を残すのです。」

森の中の学校から送り出された少女達が最初に出会う者は同じ年頃の少年達である。
それは一体何を意味するのか?
噴出する水に開放感を感じつつ結局何の力によって何処に連れて行かれ、これから何が待っているのかわからない…そして初めて対峙する異性に対して無邪気に微笑む少女のイノセンス。
描かれない少女達の未来に言い知れぬ怖さを感じる。

お話的には疑問符だらけ。
もう少しヒントが欲しいという方には原作を読むことをお勧めする。
が、原作を読んでも謎は謎のままですが。
バレエ劇の内容が面白い。
まさに内容がエロティック。
原作の方が全体的になまめかしい。
割と重要な部分が大きくカットされている。

多少不穏な部分も撮られてはいるけれども
基本的に監督はそういった性的なこと、社会的なことに重きを置いてはいないと思う。
原作の持つ美しさ―――森の木々や流れる水、太陽の光や夜の闇、巡る季節、その中で動き回る少女達―――自分の中に沸き出るイメージを一番に表現したかったのではないかと推測する。

ビアンカ役の少女がとても良かった。




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