非日記
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| 2022年05月09日(月) |
だから川柳って何さ。 |
長年「川柳ってなんだよ?俳句と何が違うんだよ?」という気持ちがずっと胸にあるので、図書館で川柳の定義っぽい何かについて書かれた文章があると「お?」とついて目に留まるんだけど、RHブライスという人の「TheWayofSenryu(川柳の道)」の訳に「俳句は自然を詠んだ詩で短い(イノシシを以外動物は出ない)」と書いてあった。 ※イノシシについてはほんと?って思う。
ちなみに、この人は検索すればわかるんだけど第二次世界大戦後大々的に西洋に俳句を紹介した英国人の日本文学者らしいです。(それだけの人じゃないんだけど。戦中から日本にいたので「へえ!」って感じの事を色々している。)女性蔑視的な視点から女流俳句に否定的だったりも含めて、俳句への理解が一面的だと評される部分もあるだけあって、大分色々偏見が強いのだが、その分!日本人の学者による深く理解されている川柳と俳句の定義よりも浅学な私には「だよね!?そう見えるよね!」と共感しやすい感じだった。
で、「俳句は自然を詠んだ詩で短い」問題。
そういえば…結局業界のスタンダードになった高浜虚子の定義は、なんか「絶対に季語をいれて美しくかっこよく自然をよまないけん!」みたいな感じだったような…と思い出した。キ〇ストとパ〇ロばりに師匠の目指してたところと後継者のつくったルールがズレてない?と思った事を思い出しました。
「だから俳句は人間をよんだらいけなくて、だから福祉川柳は福祉俳句にできないってこと?」
いや、たわらまちとかめっちゃ人間よんでたよな? でもしかしこのブライスの随筆が1950年代後半から1960年代初頭に発表されたやつだし、サラダ記念日は「すっごい斬新!新鮮!」だという売り出しだったので、前はやっぱり自然中心だったけど今はそうでもないのかな?どちらにしても結局自然に限らず人間を対象としてよんでもいいなら、「福祉俳句」でいいだろうし、むしろそうしておけよと癪に障る。やっぱり。
この「川柳の道」の前半が「なぜ川柳は人気がないのか」なんだけど、そう、ここに書いてある理解や定義が私の心にぴったり合っていて、だから福祉川柳はやめろ感が激しいのです。つまりこう↓
「(略)なぜなら俳句や禅は無害で善人ぶれるが川柳は違う。マゾにだって限度があるから」。
この章の最後のところがすごくおかしくって。
「川柳は私たちの最も感じやすい部分に触れてくる。知りたくもなく、知るぐらいなら死んだほうがましだと思っていることを詠む。したがって川柳を読んで楽しめるのは川柳の作者だけである。(中略)川柳を一句読むたびに、神は私を見捨てる。(RHブライス「ほんとうの日本」P.32)」
ほらぁ、やっぱり川柳の真髄ってそんな感じに見えるのよ。川柳の目指すところは福祉の現場自体にはあってると思う。しかし
「川柳は人間の実態を描いている。(中略)川柳は、嘘や誇張や感傷、偽善、自己欺瞞を攻撃するというよりむしろ、そのことでまわりから非難される人間の真実を弁護しているのである。(P.29)」
↑こういう事だったら、やっぱり非難を恐れるべき場所で詠むものじゃないのよ。怒ってくるのは検察側の証人だから。
それにしても32ページの「川柳を一句読むたびに、神は私を見捨てる。」がとってもジワジワ笑わせに来ます。寡聞にして今まで知りませんでしたがブライスさんのいい人ぶりがしのばれます。女性に対して上から目線すぎる人ですが、今は知らんが私が本で読んだりテレビや映画で見るちょっと昔の英国人は大体皆そうなので、そんなもんだよな感あって気になりません。ナチュラルに芯から上から目線だからレディに紳士的なわけです。文化的な偏見はその人の本質的な善良さとは関係ないわけで。むしろ善良であるほど帰属する所属する集団における文化的社会的差別意識を抵抗なく獲得するであろう感。
この本は前書きからいきなり「この本を手に取った人はブライスさんを当然知っていると思いますが」という感じでスタートするので、「ちょっと待ってそれ誰やねん」と思った私は大変ゴメンナサイ気分になります。グラバーさんちは近所だったし、三浦按針も近所の人だったけど、ブライスさんは遠かったので知らなかった。私が手に取ったのはサブタイトルに「芭蕉に恋した」の一文があり(それで「俳句が出てくる本だ」とわかる)、目次を見たら「川柳の道」と書いてたからです。出版年見たら割と新しい。
前回の日記から丸一年もたっているのに、おまへはいつまで福祉川柳に文句を言っているのかと思われるかもしれませんが、別に年がら年中文句を言ってるわけではありません。ただ「川柳」と文字を見るたびに「…だからさあ、何度も言うけど…」と律儀に思い出すだけです。だって福祉が川柳を提出するように、しかも誇張と感傷と偽善と自己欺瞞を一人一句は必ず詠うようにってすぐパワハラするので。
普段は微笑んで無言で生きていても、一旦「私、太宰あんま好きじゃないんだよね…」と小さな声で言い始めたらだんだん大きな声になってノンストップになるのに似ています。てゆうか基本的に無頼派の人間性が概ね全力で苦手というか…。だから「(佐藤)春夫…!」という気持ちになる。
無頼派を思うたびにいつも「春夫…!」なりつつ、そうはいっても佐藤春夫の本全然読んだことないんだよなーと思ってたら、知らぬ間に持っていた事に数年前に気がついた。昔昔100円で買ったらしき「紫の雲」という本が本棚に刺さっていた。あと私が持ってる徒然草の訳者も、よく見たら春夫だった。 文学史で田園のナントカを書いたことぐらいしか知らん、文豪たちの中でも地味な男と思っていたのに知らない間にジワジワ侵入されていたので、春夫結構すごいなと思います。
いやいや春夫が結構すごいことは間違いないんだけど、人生的、人間的にじゃなくて書いたもの的に。中学校を卒業して太宰治や大谷崎やらが何書いたかって聞かれたら答えられない人はあんまりいないと思うけど、春夫が何を書いたか言えない人はいるかもって感じだろ?私だって「田園ときたら春夫」セットしか覚えてなかった。
あれ。 例として太宰をあげた次の瞬間にそのまま春夫の話に滑っていた。 いや、だいぶ前から紫の雲も徒然草も並んであったんだけど、文アルで「あー、そういえば佐藤春夫って作家文学史の年表で出てきた気がするな。読んだことないけど」と認知して数年経ってから気がつき、「これ佐藤春夫じゃん!」と物凄くびっくりしたので。いつか「あのさ…うちに佐藤春夫がいたんだよね。知らない間に…」と誰かに言いたい気持ちがずっとあったからでしょう、きっと。
まあ、明らかに私の佐藤春夫に対する評価とか好意とか親近感は、太宰に関する佐藤への労いの気持ちからきていますよ。それは確か。
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