非日記
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| 2021年06月06日(日) |
半年ほど前に以下のような日記を書いていたの。 |
「アルゼンチン/に渡った/俳句」をパラパラ読んでたんだけど、正岡子規はえらいってことがわかった。
私、俳諧と俳句と短歌と連歌と長歌と和歌とかの関係性がよくわかってなかったんだけど、連衆をなんと読めばいいのかわからなくてちょっと検索したら、各々のなんとなくの関係と正岡子規がえらかったことと、西洋かぶれの友達はやっぱりなんだかんだ言って西洋かぶれだったらしいことがわかったよ。
川柳と俳句が違うというのも微妙で、最近は短歌や川柳が俳句によってきているというんだけど、個人的には川柳の特徴はやっぱり風刺だと思ってしまって、皮肉やブラックユーモアやらがないと自由律とか無季語の俳句じゃねえのって気がしてしまう。だから福祉系で川柳やるのはやめときなよっていうんだよ。絶対問題になるんだから!外部に漏れた時にクレームが入って炎上しないような川柳は川柳じゃありませんから。初めから福祉系俳句とかにしておけばいいのに、何しに川柳にこだわるのか理解に苦しみます。実は炎上ぎりぎりをすり抜け駆け抜ける、そこにスリルとサスペンスを求めてんの? 今はそういうキレイな川柳が好まれるような時代で、つまり温かくて穏やかで優しさに満ちたものがすべからく好まれて、つまりブラックな冗談や皮肉な笑いや心の自由や規律のゆるみや遊びがゼロだから人はすぐ死ぬのだな…と個人的には思います。
あと文豪と/アルケミストをちょこっとやってて(ほぼさぼってるけど)、なぜか奇跡的に虚子と碧梧桐がそろっていたので子規周辺を読んでると「へきごとう!なんか知ってる!」という喜びがありますね。
まあ私が好きなのは山頭火と放哉なんですけど。自由律なら断然放哉。もうすごく晩年の放哉にシンパシーを感じる。俳句は短すぎて「だから?え、何?どういうこと?解説プリーズ!」になりがちなんだけど、晩年の放哉は握りこぶしで「わっかるわぁ〜!」という気持ちになる。あるあるそういうことある!おまえの言葉にならない気持ち、すごく迫ってくるよ!隣にいるがごとく感じるよ!
しかし放哉出ないな。文アルは横溝先生と放哉君をずっと待っています。カップリング的にちょっと乱歩と安吾が好きなんですけど、でもしかし乱歩に関しては横溝先生、絶対外せないだろ!と思ってしまう。この複雑な気持ち。来い来いと思うけど、来たら構築されてきた世界が変わるかもしれない、いや変わるだろう期待と不安と畏れ。つまり、大包/平と大典/太をカップリングしながら童子/切をハアハアしながら待つ心地に似たり。
まあそういいながら意外と影響受けなかったりするかもしれんけど。なぜかというと刀らぶで大包平と鶯〇をカップリングしなかったり、文アルで実篤と直哉さんをカップリングしない性癖だからである。まあ、タブーの少ない古の腐女子なので読むだけなら割となんでも読めるが、昔からズッ友と兄弟姉妹関係には萌えない性質なのです。兄弟姉妹や親子、家族にはなんか萌えないんですよね。あと義理も。根本的に、ハナから仲良しだとか、最初からセットみたいなのあまり萌えない。だから横溝先生と乱歩のところは大丈夫だと思うんだけど、大包/平と童/子切は微妙。ただ刀らぶの公式はもとから捏造なので、文アルの史実的リアリティから響いてくる影響力と違うから大丈夫な気もする。「おまえが捏造していいなら、おれも捏造していいはずだな!」という気持ち。
それはともかく、くだんの本において 日本文学/研究者のハル/オシ/ラネ「越境/する日本/文学研究」から引用してる、日本の文学活動について「きわめて共同体的で参加型であり定型ならびにカノン的テクストからの引用や間テクスト性に大きく依存している」とか「〜などは、いずれも参加型の、集団型ジャンルであって、そこでは生産者が消費者であり、消費者が生産者なのである」とあって、ここの展開は、世界一とされるほど短い詩形によって可能となる伝統的な創作形態、文学としての特徴と、それによって韻律や季語や語数が違ったとしても世界にハイクとして広がった俳句の本質が定義されうるのでは?って感じなんだけど。 そんでここは代表的に詩について書いてあるんだけど。 しかし、もうここ読んだら現代の同人活動の真髄にしか思えなくて、つい笑ってしまった。
これに加えて、昔何かで読んだ欧米のものまねは本来は風刺であるのに対して、日本におけるものまね、パロディ、引用文化の動機的本質はリスペクトであるってのを思い出した。
現代のおいても日本の伝統的な創作様式は脈々と受け継がれているわよね。 ツィッターでもすぐやるじゃん。お題を決めて、ワンドロとか、「共同体的に参加型で、短い形態で各人で持ち寄ったり、即興的にその場で創作し、しかも定型ならびにカノン的テクストからの引用や間テクスト性に大きく依存しながら」、で、批評とかはしないけど、すぐリツィートしたりとかさ。
薄い本は薄い本である事に日本の伝統的な文学性があるっちゅうか。 短いからすぐ作れるし、すぐ読める。(このすぐってのは簡単にという意味じゃなくて、通常の書籍とかと違って制作にン年単位がかからないってことよ)「失われた時を求めて」とか現代用語の基礎知識みたいな厚さの超大作を書いてたら次のコミケに間に合わないし、「書いたから読んで」って言われても、そう簡単に読めないじゃん。 小説だったら150〜200P、長くても5、600Pぐらいまでが普通だから、数日あれば読めて、「あそこがすごくよかったですー!」とかすぐ言いに行けるわけだし。 そんで同人誌即売会では同人誌は販売されるのではなく頒布されるわけで。
そういえば図書館で、なぜ日本はすぐにメディアミックスするのかみたいな本があったことを思い出しました。それを読んだら、何故実写映画の作品を元手に漫画や小説や3Dモデルやグッズつくったりと、同人ファン活動があっという間に多岐にわたってしまうのかの秘密ものぞき見できるかもしれない。
インターネットでの同人活動がぴくしぶやぴくぶらやツィやらのSNS中心になってから最近はあんまりみないけど、個人サイトやブログが中心だった一昔前はアニメや漫画や小説のファン創作活動で腐的な短歌を詠むとかも結構あったものよ。なかなか趣深くて好きだったわ。
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