非日記
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今日は人様のお誕生日でーす。 おめでとーう!おめでとーう! お姐さん今何歳?私と同い年だ!私は自分の年齢が危ないよ!かなりうろ覚えになってるよ!
そう思うと、自分トシ食ったなぁという気がしみじみとします。 若い頃は、たとえ自分の顔や名前を忘れても自分が今何歳かを忘れる事など無かったというのに。加齢おそるべし。 確か認知症の診断で自分が誰か、今何歳かという質問がありましたよね。今も同じのがあるのか知らないけど。私はとっても危ないです。何年生まれかは覚えてるので計算させて欲しい。
先頃、自分がどうやら多くの顧客から「敬礼をする眼鏡の人」という覚え方をされているらしい事を知りました次第です。 敬礼してたんか、私? 「ほらそれ!」と指されるまで全く気づきませんでした。 そう言われてみると、私が立ち去る時に敬礼してくれる人がたまにいた。つまり敬礼を返してくれていたらしい。
てゆうか、その敬礼は私の中では当初「さよならの合図」だったのだと思われます。「用事が以上で完了ならば、私はこれで撤収いたします」という意味だった。昔から別れの挨拶で手をあげるだけで振らないのです。 だって手を振るなんて、なんか恥ずかしい。 まず私は別れの挨拶にバイバイなんて英語は言いません。 だってバイバイなんて、なんか恥ずかしい。 だから途中までは、別れの挨拶は延々とさよならだった。
おぼろな記憶だが、さよならと言うなと叱られたような気もうっすらしないでもない。それで、私がなんでさよならと言うのかこいつわかるんかすげえなあなどれないわと思って、人類に敬意を表した気がする。敬意を表して「じゃあね」に変わった気がする。今はまんべんなく「じゃあね」になってる気がする。
てゆうか、手を振るのはさ、「私はここよー?」という意味でしょう。 遠方にいる赤ちゃんとがっつり目があったら手を振ったりするだろ。あれは「へい!私はここよ。あなたを見てるわよ。あなたが私を見てる事を私は気がついてるわよ」という意味だ。しかしそれは赤ん坊だから彼および彼女の将来をおもんぱかって手を振ってみせるのであって(「人間は見つめられると気になるものなのだよ?嫌ならむやみに他人を凝視するものではないぞ」という事をお知らせするため)、普通は、見知らぬ他人と目があっただけで別れの挨拶などしない。普通は、そのままさりげなく目を逸らす。「我々の目は合わなかった、よな?俺はそのつもりだ。おまえもそうだろう。そう期待している」という意味だ。 だから、個人的に、手を振るという行為は、どう考えてもさよならの合図じゃない気がするわけよ。気を引いてる感じがする。
そういう気持ちが根っこにあるのだと思われる。
……でももっともっと正直に告白するなら、 たぶん単純に内心でおもっくそ遊んでました。 めっちゃ「隊長!」って気分でいました。 「了解、ボス!」とか、 「任務完了です!」みたいな気分でいましたよ。 ダダ漏れていましたね。
……だから言ったじゃん。仕事割と楽しいって。そら半分以上遊んでたら楽しかろうともよ。 家に帰っても勿論遊んでますけどね。主にまんじゅうちゃんで。 虎と兎は珍しくちゃんと最後まで見たんですが、割と面白かったのですが、今なんだか知らないけど同人界で物凄くフィーバーしてるみたいなんですが、どうした事かびっくりするほど萌えなかったのです。何故だろう。悲しいです。もったいない。
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