1日雑記

2007年08月04日(土)

例えばの話なんだけど、綺麗なものとか、感動するものとか
その「もの」ってのは単体だと
影響があまり大きくないんじゃないかな?

花火が上がっている。
確かに、綺麗だと思う。
だが、それを見に行きたいとは別に思わない。

が、花火大会といえばいつだって人は多い。
川原で開催されるなら、川には人がたくさん。
家で見ている人だってたくさん。

ここで区分する。
私は感動できない、あるいは楽しめない人間で
感動できる、楽しめる人間が花火を見ている。

これは正しいのだろうか?


電車の中でもいいし、街中でもいい。
楽しげに話している人たちを見かける。
時々、そんな人たちの会話が耳に飛び込んでくる。
他愛もない馬鹿話。
そして、楽しそうに笑っているのをなんとなく、眺める。

そのときは私は傍観者で
そんな内容でよく笑えるな、と冷めた目で見たことが。
次の瞬間、私も馬鹿話で笑っていることがあるのを思い出す。

多分しゃべっている内容は、彼らも私も
あまり変わらないのだろう。
笑ってるか冷めた目で見ているかは
当事者か傍観者かの違いだ。

当事者で笑い、傍観者で冷める要因を考えれば
話し合っている誰かがいるかいないか、という点だ。


花火でもそうなのだが、一人で行く人は少ないのではないか。
家族連れだったり、恋人と一緒だったり、あるいは友達と。

そのとき、花火は同じであってもすばらしく、
花火を見て、よかったなと強く思えるのは
やっぱり共有する誰かが一緒だからなのかな、と。

誰かと一緒に花火を見ていた人が
一人で花火を見ていたら、それは誰かと見ていた花火と
同じくらい、すばらしいと思えるのだろうか?

あるいは一人で花火を見て退屈だと思っていた人が
ほかの誰かとその時間を共有できたのなら
それは本当にそれほど退屈なものであったのだろうか?


誰かと時間を共有するための何かは
きっかけではあっても結果ではない。

ふと、そんなことを考える。


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